……………バカ。
ちっとも分かってない!
…………何でよ?
約束したじゃないっ!
バカ、バカ、バカ……
ホント、馬鹿なんだから。
誰が?
…………………私か。
嘘つきは泥棒の始まり 前編
CAO 様
車窓から見える風景は、キラキラ光る夏の陽射しを受け、山の緑を鮮やかに煌めかせている。
愚かな私を嘲笑っている様で。
少し、悔しくなった。
嘘つき……
外はこんなに明るくて、眩しいくらいなのに。
どうして私はこんなに沈鬱な気持ちでなきゃならないの?
全部アンタのせいよ……ゾロ。
あの時、アンタがあんな事言わなきゃ、こんなに腹立たしい思いしなくて済んだのよっ!
そうよ、絶対アンタが悪いっ!
私をこんなに…………
夏が終わりを迎える日、ナミは郊外へ向かう電車の中にいた。
取るものも取り敢えずボストンバッグに詰め込んで、目的地までは日に三本しか運行していないこの特急列車に飛び乗ったのだ。
夏休みも最後の一日とあって、観光客もまばらな車内では、四人掛けのボックス席を占領する事が出来た。
進行方向に向かって座るナミは、発車のベルが鳴り響いたと同時に、長年自分の暮らした都会に背を向ける。ルフィとゾロと共に3人で過ごした街に。微塵の後悔も無く、少しも後ろ髪引かれる事無く。
ただ、前だけを見据え、目的地を目指して。
発車して暫くすると、今朝まで自分が寝起きしていたアパートのある最寄り駅を、ナミの乗る特急列車が通過した。もう少ししたら、ルフィとビビの夫妻が暮らすマンションも見える。
そういえば、手前にある私鉄の高架橋の所で、ゾロは何時も道を間違えたと思いつく。ルフィを車で送り、ナミを乗せアパートまで送り届ける時、彼女がその前からシツコク言わねば、必ず逆方向にハンドルを切り、一方通行だらけの迷路に迷い込む。何時も、何時も。
唯一、ナミがナビをしなくても辿り着けたのは、あの日だけ。
…………私に約束をくれた、あの日。
「…ずっと隣にいてやるよ…」
初めて人前で泣いた。
涙を流した事はある。
でも、心の奥を晒け出し、声を出して泣いたのは……アレが初めてだった。
ずっと好きで、何時でも一番近くにいて、何時までも一緒にいられると信じていたルフィが、私から離れて行くんだと知ったあの日。
「俺たち一緒に、ここで暮らしてるんだ!」
何もかもが嘘に思え、現実を認めるのが怖くて、自分が自分である事を忘れてしまいたくて……
「8月に結婚するからな。」
後先考えず、其処にいたゾロの胸に飛込んだ。
彼を傷付けるなど思いもしないで、ただ其処にいるという事だけで、罪になる等思いもしなかった、あの日。
アンタは受け入れてくれた。
でも、抱いてはくれなかった。
抱く事で何かを得ようとせず、抱く事で何かを喪うと知っていたから。
……賢い男よ、アンタは。
そんなところが、憎らしくて仕方ない。
そして、許せない。
嘘つき。
ルフィのマンションを横目に、特急列車は川を渡る。河岸の堤防には一車線道路が走り、朝早くからジョギングや散歩を楽しむ人々が行き交っている。
鉄橋に平行して2キロ程離れた場所に、幹線道路もまた川を越えている。都市部から延びた道は、川向こうの住宅地域を横切り、街と町を繋ぐ。ナミの生まれ育った実家も、その道沿いの一画にあった。
そういえば、母に連絡していなかった。仕方ない、自分自身こんな事になるなんて、昨日まで予想もしていなかったんだから。
結局、昨夜は一睡も出来なかった。今日の為の荷造りや、勤務先への連絡や、アパートの管理会社への手配やら……興奮した気持ちで床に就いたって、眠れやしない。睡眠不足は、お肌の大敵なのに。
全部、アンタのせいよ、ゾロ!絶対、許してやらない。
「………ずっとだろ。何があろうと、俺達は俺達のままだ。」
その日は、ゾロの誕生日だった。
偶々ナミは連休で、誕生パーティと言う名の飲み会を彼女のアパートで開く事になっていて、朝から掃除や買い出しやら慌ただしく過ごしていた。
仕事を終えやって来る二人を準備を済ませ待っていると、携帯電話が鳴る。遅れるという連絡かと思い、名前も確認せず通話ボタンを押す。
「ルフィ〜〜遅れるとか言うんじゃないでしょうねっ!もう、準備出来てんのよ。サッサと来ないと許さないからっ…」
「………」
「…?ルフィ?」
「…へぇ、ルフィって言うんだ……彼氏?」
「べ、ベルメールさんっ!」
「で、今日はおうちデートなんだ?」
「ち、ち、違うのよぉ〜今日はゾロの誕生日で…」
「なんだ?そっちが彼氏なのかい?」
「どっちも違うっ!」
「彼氏じゃないの?いないの?」
「いる訳ないでしょっ!いたら、チャンと紹介くらいするわよ。」
「そっ。なら………お見合いしない?」
「えっ!……な、何言ってんの?久しぶりに電話くれたと思ったら、いきなり何よっ。」
「いい話なんだ〜アンタの大好きなお金持ちだし、優しいし、見た目も真面目そうで…それに、医者よ、内科のお医者様。今度大学病院止めて開業するらしくて……」
「ち、ちょ、ちょっと待った!」
「何で〜?」
「まだ誰も見合いする、なんて言ってないでしょ!」
「彼氏いないなら、断る理由ないじゃない?」
「……そういうんじゃなくて。まだ、早い…」
「ナミ、アンタ今年で25でしょ!これから彼氏見つけて、何年か付き合って…って考えてると、あっという間に30よっ。それに、私はアンタの年には…」
「わ、分かったから、ベルメールさんの話はもういいからっ!兎に角今日は…その、予定があるし。」
「じゃ……考えておいて〜孫の顔見たいんだ、私。」
「はい、はい。」
あの日はスッゴク騒いだわね。主役そっちのけで、料理をたいらげるルフィが微笑ましくて。アイツを見てると、母に突き付けられた現実が嘘だったみたいに思えて。二十代半で岐路に立つ自分が、まだ3人が知り合った頃の中高校生に戻ったみたいで。
あんまり騒ぎ過ぎて何時もより早くルフィが撃沈して……現実が蘇った。
ゾロが静かに私の隣でグラスを空ける。
カランと氷がぶつかる音がする。
いつもそう、ゾロは私の隣にいて、視界の外から私の心を見てる。
だからつい、本音が口を吐く。
「…私達、いつまでこうしていられるのかしら…」
「………何言ってんだ?」
ルフィの寝顔があまりに無邪気で、何にも囚われないルフィが羨ましくて、自分も現実を見つめないでいられる様な気がしてた。
ルフィに自分を重ねる愚かさを知って、微笑が口許を歪めていた。
「別に……ふと、思っただけ。気にしないで。」
「………ずっとだろ。何があろうと、俺達は俺達のままだ。」
ゾロは何時でも、私が欲しい言葉をくれる。
私の想いも私達の心も何も変わらない…それで良いのよ。
例えリアルな現実に引きずられる事があったとしても、築いた関係はそう簡単に失われたりしない。
今を積み重ねる……それでいい。
ありがとう、ゾロ。
なのに、何でアンタが、そう私を諭した張本人であるアンタが変える訳?
私が感じた感謝の気持ちを、今すぐ返しなさい!
嘘つき。
列車が川を渡るとすぐに、鉄塔が視界に入った。
あの下は少し丘になっていて、こんもりとした小さな森になっている。丘を下った処に、忘れ去られた様な神社が森の入り口を塞ぐ形で建っていた。
今はもう無い神社の境内で、幼少の頃ナミは姉のノジコと共に良く遊んだものだ。かくれんぼ・おにごっこ・ままごと…遊びの数は限りなく、新たな遊びを考えだしては、泥だらけになるまで夢中になり、家へ戻れば母に叱られた。
何時まで遊んでるんだと、暗くなる前に帰って来いと、心配するじゃないかと。
「ナミはシッカリしてる様に見えるけど、ホントは甘えん坊だから、心配で堪らないんだ。母親としては。」
何時までたっても子供扱い……そんなに可愛いなら、何でお嫁にやりたがるの?
「だからって、いきなり見合いしろは、無いんじゃない?」
「だって、孫が欲しいんだモン。」
「いい年こいて、可愛い子ぶってもダメよっ!」
「どうしても……ダメ?会うだけなら、いいでしょ。」
「い・や!」
「ナミィ〜〜私の顔立てると思って。ねっ?」
「何言っても無駄よ。」
今日ははっきりその気は無いって、伝えに来たんだから。折角ゾロが手に入れた美味しいお酒を、涙を飲んで我慢して来たんだから。絶対、2度とこんな話を持って来させ無い様に、説得に来たんだから。
「……どうして?彼もいないなら、会うくらい別に構わないでしょ?納得する理由を聞かせて。」
「理由は………」
まだ、このままでいたいの。ルフィに元気を貰って、ゾロに癒しを貰って。3人でバカやって、知り合ったあの頃から続く気のおけない関係を、もう少し楽しんでいたい。
ルフィの世話を焼いて、甘えさせてやりたい。
ゾロと喧嘩して、素直な気持ちを吐露したい。
「自分の相手は、自分で見付けるわ。」
「別に見合いでも…」
「最初からお膳立てされるんじゃ意味が無いの。私が自然に望まなきゃ。本当に大切だって、そう思える人を…自分で見極めたいの。私の為、もう少し時間を頂戴。お願い……」
「ナミ……。」
確かにあの時、私の心の中にはルフィの姿があった。母に告げた言葉の裏に、ルフィを思い描いていた。否定はしない。
私は、ルフィしか見えていなかった。
家族以外で初めて私を私として受け入れてくれた。それがルフィ……そう思い続けてた。
「お前ら、面白ぇ〜ヤツだなっ!」
中学3年、春。
私は学校ではかなり目立つ存在で、容姿端麗・成績優秀、非の打ちどころがない生徒………一見すると。
でも、違うって、私はこんなに良い子じゃない…心の中で叫んでた。綺麗ね、真面目ね、賢くて、頼りになって、優しくて…全部違う。私、そんなじゃない!
クラスメートも先生も近所の人々も、私を囲む全ての人達の前で、私は私を演じ続けてた。
その日は、ふと何時も通ってた塾をサボりたくなって、学校から離れた公園でボーっとしてた。
「なぁ、お前、コイツの家しらねぇか?」
突然掛けられた声に戸惑い顔を上げると、私と同世代の真っ黒な髪をした少年が、その髪と同じ漆黒の瞳を輝かせ満面の笑顔で立っていた。
「何でコイツに聞くんだよ?」
隣には緑の短髪で左耳に3本ものピアスをつけた、目付きの鋭い不機嫌そうな顔の男が立っている。
「だってお前ん家、俺知らねぇもん!」
「おい、待て。教えてやるっつったのは、テメェだろ?」
「あぁ、だから人に聞いてやってんじゃねぇか?」
「オメェが、知ってんじゃねーのかよっ!」
「知る訳ねーだろ?さっき会ったばっかのヤツの家なんか、分かるはずねーよ。」
「何だと〜!じゃ何で分かった様に、俺を連れ回してんだ?」
「失敬だなっ。連れ回したりしてないぞ。お前が勝手について…ところでお前なんて名前だ?」
意表を付かれ驚いたのか、緑頭が素直に答えを返す。
「俺は、ゾロだ。ロロノア・ゾロ。」
「俺は、モンキー・D・ルフィ。ルフィでいいぞっ!ヨロシク。」
「お、おぅ……ヨロシク。」
目の前で繰り広げられる、支離滅裂な会話に呆気にとられてた。すると。
「で、お前は?」
「ナミ……」
思わず攣られて返事してた。
「ヨロシクなっ。ゾロ、お前も挨拶しろよ。」
「よ、よろしく……」
「「何で挨拶しなきゃなんねーんだ(ないの)?」」
「お前ら、面白ぇ〜ヤツだなっ!」
「「面白くねぇ〜〜」」
ゾロと二人して叫んでた。その途端、私の中にあった葛藤みたいな想いが霧散して行った。
何故かしら、初めて会ったあの時から、ルフィのペースに巻き込まれてた。
何時も何時でも…目が離せない。
楽しくて、心配で…気になって仕方ない。
私を私達を…惹き付けて止まない。
その時背負ってる荷物の重さを、忘れさせてくれるルフィの力に、憧れ続けてきた。
私もゾロも。
そうでしょ?ゾロ?
そして、あまりに現実から架け離れたルフィを禁めるのが私の役目。
その私を包んでくれるのが、アンタの役目でしょ?
勝手に放棄するんじゃないわよっ。
冗談にしたって、笑えないわよっ………笑えない。
嘘つき。
列車は住宅街を抜け、手付かずの更地や農地が広がる、田園地帯へと入ってきた。ナミの座っている座席からは見えないが、海へと続く道が線路に並んで走っている。ゾロが免許を取って初めて3人で出掛けた、浜辺へと続く道。
あれもまた暑い夏の日だった。助手席に大喜びではしゃぐルフィと、放っておけばすぐ道に迷うゾロを、なだめすかしナビゲートしながらやっとの事で辿り着いた海岸。
レンタカーはオープンがいいぞっ!というルフィの我儘のお陰で、エアコンの効かない車内に夏の光が充満していた。お陰で散々迷った挙句、海水浴の前に日焼けをする有り様。
「海だぁ〜〜」
駐車場に到着と同時に、既に水着を着ていたルフィが海へ駆け出す。
「ルフィ〜荷物は〜」
「知るかっ!」
「もうっ、アンタ…」
「ほっとけ。荷物は俺が持ってく。お前も早く着替えて来いよ。」
「も、ルフィに甘いんだから……アンタも迷子にならないでよ。」
「なるかっ!」
好き放題のルフィと鷹揚過ぎるゾロが心許なく、急ぎ着替えを済ませ海岸へ出る。
盛りを多少過ぎたとは謂え、未だ海水浴客が尽きない浜辺で二人を見付けるのは至難の技かと思いきや……一際賑やかな一団が目に留まる。
女子大生のグループに囲まれるルフィの姿があった。
何時もと変わり無い、燦々たる『笑顔』で。
「ルフィ…………」
裸足で駆け出して来た足が止まった。砂に足が囚われてしまった様に。
モヤモヤとした、言葉で形容出来ない思いに包まれる。
夏の陽射しが痛いくらい眩しい。
目を背けたくなる程に。
初めて、『嫉妬』という感情が自分自身の中にあると知った瞬間。
「おら、行くぞっ。」
背中に受けた低く優しげな声と、ポンと頭に回されたぶ厚い掌に、我に還る。
初めて理解したドス黒い感情から、解き放たれ真夏の海岸に戻って来る感覚。
呪いを解く、魔法の声と掌という杖。
見上げれば、隣でシニカルな笑顔ともいえぬ笑みを称えたゾロがいた。口の端だけを上げた、精一杯の笑顔で。
「ゾロ……ん、行こう。」
アンタの笑顔の意味、やっと分かった。今頃になって。
私の苦痛を取り除いてくれたのは、ルフィの明るい笑顔だけじゃない。
アンタの苦悩の笑顔こそ、私を導いてくれてた。隣で私のいろんな想いを、一緒に感じてくれてた。
なのに、何で今此処にいないのよっ!
ずっとそうしていてくれるって、そう約束してくれたんじゃない?
嘘つき。
列車は冷房が利き過ぎているのか、それとも普通電車に比べスピードが速く揺れるせいなのか、窓に頭を寄せるナミの体を震わせていた。
車窓を過ぎ行く風景が、彼女の瞳に歪んで映る。
知らず溢れる透明の液体が、薔薇色に輝く頬をシットリと濡らして。
その冷たさにナミ自身驚きを隠せず、思わず触れた指先にその滴を移し、確かめる様に凝視した。
泣いてるの?……私。
「……泣きゃいいんだよ。」
恥ずかしそうにでも幸せに頬を染めたビビと、自分自身の幸福を分け与えんばかりの笑顔を見せるルフィの幻影が、ナミの心の全てを覆っていた。
自分が守り慈しみ大切にして来たルフィの存在が、遥か彼方に去って行ってしまう。そんな恐怖にさいなまれて。
どうして私じゃないの?
何時も一緒だったじゃない!
どうして彼女なの?
許して上げられるのは私だけじゃない!
どうしてこんなに早く?
まだまだ一緒に楽しみたいじゃない!
どうして、どうして、どうして……
私はダメなの?今の、今までの私じゃダメ?
……駄目だったのよね。
私が私じゃなくなれば…ううん、そんな事は無い。ルフィに限って。
もう、私……いらない?
私を助けて…
誰か………ゾロ。
冷静な表情のまま自棄になるナミに、差し延べられたゾロの腕は思いの外熱いモノだった。ナミの体を這うその手は、彼女を翻弄しルフィを失った悲しみを一時的に忘れさせる力を持っていた。
何時も酷薄そうに見えたゾロの唇が、こんなにも温かく優しげにナミの肌を這う。
傷付く心の滓を舐め取る様に、ナミの名を耳許でそっと囁かれ、感覚が感情を越えて行く。
快楽に侵され、ふと閉じていた瞳が開く。
目に飛込む、一葉の写真。
そこに釘付けられたナミに、ゾロの悲哀に満ちた声が響いた。
「……もう、止めだ。」
我に還った。また、ゾロの一言で。
「ゾロ?」
ナミに覆い被さっていた体が、離れて行く。
「何で?忘れさせてくれるんじゃないの?どうして止めるのよ…」
ナミ自身、写真に気を取られていた事さえ気付かず、遠ざかる熱に縋り付く。
「自分を誤魔化して何になる?今のお前に必要なのは、俺に抱かれる事じゃねぇだろっ……」
そう、アンタの言う通り。今を忘れたいが為に、一時凌ぎに策を労したところで、そこにある事実を変える事は出来ない。
それどころか、事実から顔を背ける為の行為が、更に自分自身を追い詰め、それを共有するゾロにも重くのしかかり、彼に背を向けざるを得なくなる。
冷静な判断を信条にしている自分が、何を血迷っていたのか……それほど迄に、自分を失うなんて……
募る痛みを飲み込もう。
それが、一番いい……
そう、思った。でも、
「……泣きゃいいんだよ。」
アンタは、言ったわ。
そして、私は泣いた。
声を上げて、その声が枯れるまで、涙も渇れるまで。アンタの腕に包まれ、優しく肩を抱かれ、父の様に兄の様に、私と共に時間を過ごして。
失われて行くモノを惜しむのは、恥ずべき事では無いと教えてくれた。
その為に、流す涙に意味はあると。
そしてその涙に押し流されてしまわない様、私の隣で手を取ってくれる筈でしょ、アンタが!
今、涙を流す私の隣に、何でアンタは居ないのよっ!
ゾロ、アンタの掌の熱を失って、涙してるのよ、私。どう責任とるつもり?このっ………
嘘つき。
「ご乗車ありがとうございます。乗車券と特急券を拝見します。」
明るい車内を前方から、殊更元気な声を張り上げて、まだ年若い車掌が着慣れない制服に身を包み入って来た。
肩肘張った身のこなしに、初めて若しくは2・3度の乗車経験しか無いのでは?と思わせる。
前方で子供のハシャグ声がする。車掌が「ありがとうございます。」とはっきりした優しい口調で語りかける。続いて、母親らしき女性の声で「上手よ。えらかったわね。」と褒める言葉が聞こえる。
足音が近付く。
声も近付く。
「…ナミ?」
どんよりとした梅雨空が続く日々。特にその日は朝から泣き出しそうな空模様。
ナミの携帯にメールの着信があったのは、昼休みでコンビニへ出かけていた時だった。
……ビビ?
『夕飯を食べに来ませんか?』
そう綴られた画面を見て、とっさにゾロの顔が思い浮かんだ。
『ゾロも誘っていい?』
自分でも気付かぬ内に、そう打刻し返信ボタンを押していた。暫くして、携帯が
ナミの手の中で震える。どうやら、送信完了の画面を見続けていた様だ。
『もちろんです。二人で来て下さいね。美味しいお酒も、沢山用意してありますから。お待ちしてます。』
……二人か?
ムズ痒い思いに捕われていた。
画面に残る『二人』の文字に、左手にあるゾロの温もりを思い出して。
左手をギュッと握り締め、右手にある携帯にゾロのアドレスを打つ。
『仕事終了次第、ルフィ邸集合!迷子厳禁……美味しいお酒が、待ってるわよv』
最初は(^з^)-☆のマークをつけてみたが、何だか自分らしくないと思い直し、vに変えてみた。
ゾロにキスを送るなんて、そんな甘い関係じゃない。
見上げた空は、やはり曇っていた。
夕刻駅に降り立ったナミは、傘を持って来たのはやはり正解だったと、ひとり樮笑んだ。電車がホームに滑り込んだ途端、空が泣き出したからだ。
傘を開こうとした時、徐に赤い傘が頭上に差し出された。その傘を持つ手を見つめると、大きいがやや骨ばった手の甲が、木製の柄を握っている。
「ルフィ?」
「ピッタリだなっ!」
「アンタどうして此処に?」
「ビビが迎えに行けって。」
「そう……でも、傘持ってるわよっ。」
「けど、ゾロも来んだろ?」
「そうよ。アイツも持ってるんじゃ……」
……持ってないわね。
ふと、笑みが溢れる。
小雨など気にもしないで、大股でドスドス歩いては道に迷い、結局ずぶ濡れになるゾロの姿が頭をよぎったからだ。
「ナミ、嬉しそうだな?」
「別に……そういうんじゃないわ。」
自然、駅の構内から歩を進め、人混みに身を寄せる様に、ゆっくり歩道に乗り出した。
何故だか、恥ずかしくて。
「俺、ナミ好きだぞ!」
「えっ……」
突然の告白に、茶褐色の瞳が見開かれ、写る黒髪の青年は満面の笑み。
驚きは喜びではなく、困るという思いに囚われた自分に、戸惑ったから。
「そやって笑ってるの、いいぞ。」
その言葉の意味に、ホッとしているナミがいた。
ほんの数ヵ月前まで、同じ傘の下にいる黒髪の悪戯小僧しか見え無かった自分が、その男に告げられた言葉の受け所を失っていて、峻巡した瞬間、言葉の真意に安堵を覚える等……想像だにしていなかった。
ルフィに笑わせて貰って、そのルフィに泣かされ続けていた…筈だった。
「笑ってる?」
「うん。いい顔だっ!」
そうかしら?なら、なんで……
「…ナミ?」
その声が、現実に引き戻す。何かを思い至る前に霧散する。
「ゾロッ!」
「何だ?傘持ってねぇのか!」
「大した雨じゃねぇしな…」
思った通り、期待を裏切らない男だ。
「こっち入んなさい。私、傘あるから。」
「いや、いい……お前の傘貸せ。」
「嫌よ。ルフィちゃんと差さないから濡れるんだもん!」
「俺だって嫌だ!男同士の相合傘なんか、気持ち悪ぃだろー!」
「んじゃ、こうする。」
ルフィは持ってた傘をゾロに手渡し、その手でナミの傘を取り上げた。自分はナ
ミの小さな傘に収まり、先に歩き始める。
残された二人は、仕方なく派手な大振りの傘に身を寄せた。
「悪りぃな、ナミ……タイミングが……すまねぇ。」
「バカ……この貸しは大きいわよっ!覚えてなさいよ。」
ゾロに悪態を吐く。
確かに、ゾロに対して吐いた悪態だが、それは何だか気恥ずかしい想いを伴っていた。それを打ち消す様に、傘を持つゾロの手を強引に取り、腕を絡めて先を促した。
ゾロが、彼女の顔を覗き込む。申し訳無さそうな顔して。
……バカ。
ナミは何ともいえぬ可愛らしい笑顔をひとつ見せていた。何故か自然と。
「ほら、ボサッとしてないで行くわよ。早くしないと、美味しいビビご飯、全部ルフィに食べられちゃう。」
「………あぁ。」
ゾロ、アンタの腕はあったかかった。あんまり暖か過ぎて、アンタの顔を見られなかった。
絡まった部分が気になって、気になって、ルフィとばかり話してしまった。
アンタは黙って私のしたい様にさせてくれたわね。
いつも、どんな時でも、そうやって私を受けいれてくれる……そうでしょ?
アンタの掌の中には、私が………
嘘つき。
「…あのぅ〜切符拝見していいですか?」
「あっ…ごめんなさい。こ、これ。」
慌ててバッグを探ると、一緒に中身の幾つかが散乱した。隣の座席には、手帳や財布ハンカチ……バラバラと現れたそれら。
「あ、慌てなくていいですよ。」
そう話す車掌の方が、かなり慌てていて、真っ赤な顔をして散らかった物に、手を出し掛けては引っ込め、アタフタしている。
カラクリ人形みたいな動きが、ナミを苦笑させた。
ナミの上がった口角の端に、しょっぱい液体が集まる。左の親指を当てがうと、指の腹に滲んだ口紅が薄く濡れていた。
「だだだだだ大丈夫ですか?ごごご気分でも…」
「平気です。」
精一杯笑顔を作ろうと努力したものの、口角はあまり良い角度にはならなかった。
まるで初めてルフィとビビと一緒に飲んだ、あの日みたいに。
遅れてやって来たゾロが、ナミの隣に腰掛けるまでの様に。
「悪りぃ……遅れたか?」
婚約祝いの話を切り出したのは、ナミだった。よく食べるルフィの事を考えて、安くて旨い居酒屋を見付けてきたのも彼女自身。
皆の都合を取り纏め、曜日や時間を設定したのも。
何かに踏ん切りをつける為、遮二無二立ち振る舞っていた様な気さえする。
ルフィを祝うという行為をする事で、自分の心を無理矢理納得させようとしていたのかもしれない。
「おーいナミっ!ここだっ!」
居酒屋の片隅のボックス席から、ルフィの大声が張り上がった。
「ん、もう。デッカイ声で叫ぶんじゃないわよっ!恥ずかしいでしょ?」
近付くと黒い頭を、ポカリと殴る。その手でナミの名前を大声で呼んだ口の端を抓み、グイグイ引っ張って。
「いでで〜ひゃめろ〜」
「あのぅ、今日はお招きありがとうございます…」
ルフィの隣に青い髪の可愛らしい女性の姿を見付け、抓んだ指先を慌てて離す。
小首を傾げつつ、とても嬉しそうな蒼い瞳がナミを見つめていた。
「ご、ゴメン…つい。」
彼女の存在を全身で感じた瞬間、ルフィへの想いを全て捨て去った訳では無かったと実感した。ゾロの胸で泣き明かしたあの夜に、涙で流し切ったと思っていた。
改めて、ルフィとそこにいるビビの姿を見ると、未だ忸怩たる思いが胸の奥を揺るがしていた。そんな脛に傷を持つ自分が、ビビに頭を下げさせた。
「なんで、ビビに謝るんだ?痛かったのは、俺だぞっ!ナミ、俺に謝れっ。」
「ゴメン……」
普段、ルフィに謝る事など有り得ない。どんなに自分に否があっても、謝ったりしない……そういう関係だった。それを良しとする雰囲気が、私達にはあった。……永い友人。
「ナミさんが謝る事ないわー。ルフィさんが悪いんです。」
直ぐにビビが反応を見せる。ナミを擁護する。
ルフィとその友人の関係を、一瞬で看破した。頭の良い女性だ。
「えーっ、だって痛てぇのに…」
「ルフィさんっ。女性が人前で、しかも大声で自分の名前を呼ばれるなんて、とても恥ずかしい事ナンですよ。」
ただ守られてるだけじゃない、ちゃんとルフィを諭す事も忘れない。
「そうか?でも、呼ばねぇと分かんねぇだろ?」
「分かります。ここ予約して下さったのは、誰ですか?」
天真爛漫なルフィを御す力もある。
「んと……ナミだ。」
「なら、分かるでしょ?ねっ、ナミさん。」
二人っきりの会話にならないように、周りを慮る優しさも持ち合わせている。
けれども正直、コチラに振らないで欲しかった。
「え、ええ。」
そうやって、ルフィとゾロを操縦して来たのは、他ならぬナミだったから。
居場所を失った様な焦りが、ナミをテーブルの前に立ち尽させていた。
「ほら、ごらんなさい。」
「そだなっ!ゾロじゃあるまいし…ナミが分かんねぇ筈ねぇもんなっ。」
見交わす瞳がいやに眩しく、ナミを居た堪れない気持ちにさせる。
……そうよ、ゾロよ。早く、早く来て、ゾロ。
「また、すぐそういう事……ルフィさん……」
ポンと、オレンジの頭の上に掌が乗った。
「悪りぃ……遅れたか?」
私が不安や戸惑いを覚えると、必ず現れる大きな掌。私が口ごもり、言葉を出せ無くなると、必ず響いてくる低い声。
散らかったバッグの中身に、うろたえる私がいるのに……
アンタは何をしてんのよっ!
私、今、困ってんのっ!
助けなさいよ……………バカ。
ちっとも分かってない!
…………何でよ?
約束したじゃないっ!
バカ、バカ、バカ……
ホント、馬鹿なんだから。
誰が?
…………………私か。
後編へ→
(2006.07.15)