君に贈るは愛の詩
糸 様
1,Nami 〜蝶の唄〜
ゆけ ゆけ 空へ
白い雲を目指せ
舞え 舞え もっと高く
私の願いを乗せてゆけ
「なあナミ,その歌,何ていう歌なんだ?」
いつもと同じように全員揃って昼食をとった後,そう尋ねたのはチョッパーだった。
食事が済んだ後も何となく全員がダイニングに残っていたのは,憂鬱な天気のせいである。
麦わら一味の新海賊船,サウザンドサニー号は今雨の中を航海していた。
5日前から振り出した雨は,土砂降りというほどの勢いではないが,しとしとと断続的に降り続いていた。最初の3日間は甲板でびしょ濡れになって遊んでいた船長も,いい加減この湿っぽい天気には飽きたようで,「いつになったら晴れるんだー?」と昨日から何度も航海士に尋ねている。
読書をしていたチョッパーが,隣で同じように本を広げていたナミに質問を投げかけたのは,そんな時だった。
え?と本から顔を上げて聞き返したナミに,チョッパーはもう一度尋ねる。
「今の歌,いつも歌ってるだろ?なんていう歌なのかなって,いつも気になってたんだ。」
「ナミ,なんか歌ってたのかっ?!」
ナミが口を開く前に,床にへばりついて「退屈」という言葉を体現していたルフィが食いついてくる。
海賊は歌うものだ,と認識しているルフィは歌が大好きなのだ。
おれも聞きたいぞ,もっかい歌え!と体を乗り出すルフィを手で押し返しながら,ナミは好奇心旺盛なトナカイに笑った。
「いつもって・・・やあね,チョッパー,聞いてたの?」
「うん,本読んでる時によく歌ってたからさ。なあロビン?」
「ふふ,そうね。口笛だったり,今みたいにハミングだったり,ね。」
でも確かにいつも同じメロディーね,とロビンも本から顔を上げて笑う。
「ロビンまで知ってたなんて・・・そんなによく歌ってたかしら?」
「なあなあナミ,なんて歌なんだ?教えてくれよ。」
チョッパーが目をきらきらさせてせがむ。ロビンまでが私もぜひ知りたいわ,と微笑んだので,ナミは少し肩をすくめて答えた。
「・・・“蝶の唄”よ。」
「え,チョウって・・・あの蝶か?」
目を瞬かせるチョッパー。
ナミは頷いて微笑み,目を閉じる。そして,澄んだ声で歌い始めた。
春一番の 吹く空に
一羽の蝶が飛んでいる
儚い羽根を 揺らしては
光求めてはばたいてゆく
ゆけ ゆけ 空へ
白い雲を目指せ
舞え 舞え もっと高く
私の願いを乗せてゆけ
少し哀しげなその旋律に,クルー全員が思わず聞き入った。ウソップとフランキーは作業の手を止めて,サンジは洗いかけの皿を持ったまま,ゾロは閉じていた目を薄く開けて。
歌い終えたナミが目を開けると,さすがナミさん,声もお美しい!とハートを飛ばすサンジを除いて,皆何とも言えない複雑な顔をしている。
そんな仲間たちに思わず苦笑すると,ナミはゆっくりと話し始めた。
「やだ,みんなしてそんな顔しないでよ。この歌はね,私のお母さんが教えてくれた思い出の歌なの。今のが一番で,まだ続きがあるんだけどね。」
故郷の蜜柑畑は,春になると無数の蝶が飛び回った。
手伝いをしながらノジコと一緒に蝶を追い回すナミに,ベルメールが教えてくれた歌。
「その時はあまり好きじゃなかったのよ。だって,ちょっと物悲しいメロディーでしょう?でもね,気づいたらよく口ずさんでて。」
数年後に,アーロンが島にやってきて,銃声と共に崩れ落ちた幸せな日々。
ベルメールは殺されて,幼いナミは孤独な戦いを強いられた。
そんな中,よく歌っていたのがこの“蝶の唄”。
「自分を歌に重ねてたのよ。すっごい女々しいわよね,嫌になっちゃう。他にも色々教えてもらったはずなのに,こればっかり歌ってたせいで忘れちゃったし。だから,今でもついこの歌が出てきちゃうのよ。」
そういうわけ,はいこの話は終わり!と努めて明るくナミは言った。微妙な空気を払拭しようとするように。
ウソップとフランキーは,手を止めたまま顔を見合わせる。ロビンもサンジもチョッパーも,ナミを見つめたまま黙っていた。自分のせいでこれ以上雰囲気を沈ませたくないという気持ちは分かるが,果たしてここで打ち切ってしまってよいのか。
こんな中途半端なままでは,辛いのは,むしろ・・・
その時,壁にもたれて腕を組んでいたゾロが口を開いた。
「続き,歌え。」
「は・・・?いきなり何よ。」
「さっきのが一番なんだろ,全部歌えよ。」
「・・・何でよ。もういいでしょ!」
「いいから歌えっつってんだろ,早くしろ!」
だから何で,とさらに反論しかけたナミに,ルフィの声がかぶさる。
「大丈夫だ,ナミ。歌っていいんだ。歌わなきゃ駄目だ。」
真剣なルフィの表情に,ナミは言葉が出てこなかった。この男は,全く侮れない。何も考えていないようで,どうして肝心なことが分かってしまうのか。
ルフィは,ナミを真っ直ぐに見つめたままさらに続けて言った。
「ちゃんと歌わないと,ナミはいつまでたっても『蝶』になれないだろ。」
ルフィの黒い瞳が,さあ,と促している。ナミは逡巡するように唇をぎゅっと引き結んだが,やがて掠れるような声で歌い始めた。
それはとても小さな声だったが,仲間たちは目を閉じてしっかりと聞いた。
風に流され 打たれても
お前は飛んでゆくのでしょう
自由な空を 夢に見て
私も共に飛んで行けたら
ゆけ ゆけ 空へ
光る虹を目指せ
舞え 舞え もっと高く
ひたすら上だけを向いてゆけ
ゆけ ゆけ 空へ
舞え 舞え もっと高く
私の願いを乗せてゆけ・・・
「・・・っく・・・うっ・・・」
歌い終えたナミの目からは涙が流れ落ち,嗚咽が漏れる。ルフィは無言で麦わら帽子を取り,泣いているナミの頭にぼすっと被せた。
沈黙の中,最初に口を開いたのはまたしてもゾロ。
「・・・歌えるじゃねーか,ちゃんと。」
ぶっきらぼうな声の中にいつになく優しい響きが交じっていて,ナミはますます涙が止まらなくなってしまう。
どうして,ルフィもゾロも。他のみんなも。
そう,自分は確かにこの歌の「蝶」になりたかった。自由に空を飛び回る,そんな蝶に。
楽しい思い出に上塗りされた,辛い記憶。この歌には,そんな自分の弱い部分が詰め込まれている。忘れたかったのに,忘れたつもりだったのに,気づいたら思い出して口ずさんでしまう。
見せたくなかった。哀れんでほしくなかった。可哀相なんて思わないで。これ以上,私を惨めにしないで。そう思って,強がって。
けれど,この仲間たちは。
ただ,黙って聞いてくれた。受け止めてくれた。アーロンから助けてくれた,あの時と同じように。忘れるのではなく,ちゃんと昇華させなければ前に進めないと,背中を押してくれた。
ナミは顔を隠していた麦わら帽子を上げ,照れくさそうな顔で愛すべき仲間たちに笑った。
まだ涙は乾いていなかったが,その顔はすっかりいつものナミだったので,皆はほっと息をついて微笑む。張り詰めていた空気がようやく和らいだその時,ルフィがどーんと言い放った。
「よし,それじゃ,これから1人ずつナミに歌を歌うぞ!!」
「「「「「「はあ??」」」」」」
またこの船長は突然訳の分からないことを,と残りのクルーが呆れた声を上げる。ルフィはナミの頭を叩きながら,しししっと笑った。
「そしたら,ナミの『思い出の歌』は1つじゃなくなるだろ?みんな,ちゃんと心を込めて歌うんだぞ!」
楽しい歌を忘れてしまったなら,また覚えればいい。
めでたく羽化して飛び立つことができたナミへの,皆からのプレゼントだ。
そんなルフィの言い分に,今度は誰も反対しなかった。
こうして,サニー号のダイニングでは「航海士に歌を贈る会」が盛大に(?)開かれることとなったのである。
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(2007.11.14)Copyright(C)糸,All rights reserved.