日に何度も往来する電車から吐き出される人込みに紛れ、今日も行き交う流れにその人影を探す。


電車からホームに出て階段を上ること35段、右折して売店を4つ通り越し、左折してもう一度階段を上がること10段。
ようやく改札を抜け、駐輪場の右から5番目がかの人の指定席だ。

シルバーフレームに黒のアクセントを効かせた大型のマウンテンバイク。

行きは朝の6時半、帰りは夜の9時。
規則正しいその往来に胸の高鳴りを抑え、人込みの中にその人の姿を探す。


(あ・・・来た)


黒だかりの雑踏の中、一際背の高いその姿は遠目にもすぐ判る。
まるでモノクロの景色にあって、そこだけがフルカラーの鮮やかさを保っているかのような鮮烈さだ。

翡翠色の髪と瞳、しなやかに伸びる筋肉質の身体、左の耳元に揺れる三連の装飾品はシャラシャラと小気味良い音をたて、聡い耳へとその音を届ける。

季節柄夏服に変わったのか、ついこの間まで着ていた学ランが取り去られ、涼しげな開襟シャツへと衣替えして久しかった。



そう――未だ名前すら知らない彼は、現役の高校生なのだ。






Pussy Cat’s Monologue   ―前編―

            

真牙 様



彼女がそうして彼を見つめるようになって、どのくらいの時がたっただろう。

初めて出会ったのは春先だった。
重い扉に挟まれてもがいていたところを、偶然通り掛った彼に助けられたのが最初だった。

無愛想とも思える面差しは、笑うといきなり歳相応のあどけなさを覗かせ、警戒しかけていた彼女の心の砦をあっさりと突き崩した。


(顔を見るだけでもいい。彼に会いたい・・・)


切ない想いは日毎膨らみ、以来彼女は毎日のように時間になると駅周辺で彼の通りかかるのを待つようになった。



――最初は、駐輪場の端から遠目に。

もちろん彼が気づくはずもない。



――その状況に慣れてきたので少し大胆になり、次は足元に延々と伸びる縁石の端に座って。

たまに視線を振ったような気もするが、これも偶然の域を出ることはない。



――声が聞けないだろうかと思い立ち、意を決して駐輪場に一番近い縁石の上まで移動して彼の姿を追う。

(どうせ気づいていないんだろうけど)

だが、それは杞憂に過ぎず――彼は、今度ははっきりと気づいた。
偶然かと思った視線はそのまま彼女で止まり、ややあってくしゃりと歳相応の明るい笑みを見せた。

どきりと一際高く心臓が跳ね上がる。

(い、いきなり心臓に悪いことしないでよッッ!!)

慌てて顔を背けるが、その小さな背中に向けられている柔らかな翡翠色の視線はひしひしと感じることができた。
嬉しくて頬が緩んでしまいそうになるのを、どうしても止められない。


「じゃあな」

(――じゃあな?)

錆を含んだ大人びた声に一瞬反応しそびれ、彼の声だと気づいた時にはもう遅く――。

振り返った時には、マウンテンバイクに跨った彼の背中は、既に駅前に伸びる大通りの街路樹の角に消えるところだった。

(ああもう、私ってばこんなチャンスをみすみす棒に振るなんて! 何て間抜けなの〜〜ッ!)

思わず地団駄を踏むがもう遅い。皓々と無駄に明るい街灯の中、もう彼の姿を見出すことなどできはしない。

肩を落としつつも、小さく溜息を漏らした表情は意外にも明るい。

(気づいてくれた。しかも、『じゃあな』って声を掛けてくれた)

たったそれだけのことではあったが、彼女の胸に温かな灯を灯すには充分だった。





それからというもの、彼の視線は朝も夕も彼女を素通りすることはなかった。

ちらりと一瞬の出来事ではあるが、鋭さの中に優しさの込められた視線は、「今日もいるな」と確認するかように向けられるようになった。

それだけで舞い上がりたくなるくらい嬉しくて、彼女は精一杯愛らしく小首を傾げて見せた。

「お、今日はご機嫌だな?」

(今日も、よ!)

女心が判ってないんだから、と言わんばかりにそっぽを向く。つんと逸らした、自慢のおすまし顔だ。

そこへ、不意にふわりとした感触が頭を包む。

(え・・・?)

驚いて視線を上げる。そこには満面の笑みで彼女の頭を撫でている彼がいた。

大きな手だった。
何かで日々鍛錬でもしているのか、無骨な掌はびっしりとタコができるほどごつごつして固い。
それでも彼女を驚かすまいと努力しているのか、その所作は信じられないくらい優しく繊細だった。

しかも。

(あったかい手・・・)

思わず、何も考える間もなく頬をそっと寄せる。ふんわりと包むような空気に、彼女はうっとりと目を閉じた。

それは、どんな小さな命も疎かにしない、生き物に触り慣れた手だった。

「・・・やっと触れた。思ってた以上にやわっこいんだな、お前」

そのままくりくりと2,3度頭を撫で、名残惜しそうに手を離す。多分に惜しいと思ったのは、何も彼に限ったことではなかった。

「っといけね、電車に乗り遅れちまう。んじゃまたな」

(うん、行ってらっしゃい)

全身全霊の想いを込めた瞳でじっと彼を見つめる。それに気づいたのか、彼は軽く右手を上げた。



「おーい、ゾロー! こらロロノア・ゾロ! ええいこのマリモ野郎! いつまで油売ってんだ、学校に遅れんぞ!!」

「悪ィ悪ィ、今行くって!」

(――――ッ!)

思い掛けないところで新たな情報が飛び込んで来た。

(ゾロ・・・? ロロノア・ゾロ・マリモ・ヤロウ? それが、彼の名前――?)

噛み締めるように心の中で何度も繰り返す。

「誰がマリモ野郎だ! 俺の名前はロロノア・ゾロだ! 人に誤解されるような言い方はやめろ!!」

友人の投げた言葉に不満たらたらに激昂し、彼は拳を振り上げて怒鳴り返した。

(あ、マリモ・ヤロウはいらないのね)

くすくすと含み笑って、たった今インプットされたばかりの脳内情報を整理する。

(ゾロ、ゾロ・・・ロロノア・ゾロ。ふふ、変だけど、素敵ないい名前)

ロロノア・ゾロ――偶然にも心を寄せる男の名を知ることができ、彼女はひとり満足げにほくそ笑んだ。

今日は大収穫だ。頭を撫でてもらえただけではなく、ずっと知りたかった彼の名を知ることができた。
ずっと見つめるだけだった彼女にとって、これらの出来事は大躍進に他ならなかった。

ふわふわ気分で嬉しくて堪らない。放っておいたら叫びだしたくなりそうだった。

「・・・ふん、えらいご機嫌じゃねぇか」

ふんわりとした柔らかな気持ちを台無しにする耳障りな声がしたのは、改札を擦り抜けたゾロが階段を駆け下りて行った直後だった。




「あんたは・・・!」

嫌な奴に会ってしまったと、彼女は露骨に表情を顰めた。

「えらくご執心じゃねぇか? そんなにあの野郎がお気に召したってわけか!?」

「――あんたにはまったく関係ないでしょ、アーロン」

彼女は嫌悪感丸出しの顔を隠そうともせず、ぱっと身を翻して駐輪場の反対側に飛び退った。

「また、この界隈で悪さしてたんでしょ。あんたの噂は嫌でも聞こえるわ」

「おお、最高の褒め言葉だぜ? 男はその力を示してなんぼのモンだろうが。力のねぇ奴は、せいぜい這いつくばって俺様に許しを乞えばいいのさ」

素面で大言を吐いているようにも聞こえるが、それはあながち嘘ではなかった。


確かに彼女よりも遥かに体格のいいアーロンは、完膚なきまでの力で訴える、この界隈の正に暴君だった。

数年前に事故に遭い、顔に――特に鼻面周辺に大きな傷をこしらえた。
それが元で顔の中心に鉤裂き状の大きな傷を持つに至り、今ではそれがアーロンのトレードマークのようになっていた。

こんな奴の顔など見たくもないので、本来ならばとっとと引っ越してしまいたいが、今はそういうわけにもいかないのが悔しかった。

(だって、そんなことしたらゾロに会えなくなっちゃう・・・)


せっかく名前まで覚えたのに。

彼が自ら歩み寄り、頭まで撫でてくれたというのに。


せっかく訪れた願ってもない好機を、こんな奴ひとりのために棒に振りたくはない。
切ない乙女心に懸けて、ここは絶対に譲れないのだ。

「それに――言ってんだろ? あんな奴に懸想してねぇで、さっさと俺のモンになっちまえってよ。この俺様が優しく言ってるうちに、さっさと決めちまっといた方がいいんじゃねぇか? あぁ? これは親切で言ってんだぜ!?」

「絶対、お・こ・と・わ・りッッ!!」

彼女は全身の毛を逆立てながら、脱兎の勢いでその場を逃げ出した。いつものことながら、アーロンは追っては来なかった。

(あんな奴、あんな奴、絶対お断りだわ! 誰が何と言ったって願い下げに決まってんだからッ!!)

あんな奴に触れられたりしたらと、想像するだけで身の毛もよだつ。





ようやく人気のない公園まで走り、ベンチに座って乱れた呼吸を整える。


“・・・やっと触れた。思ってた以上にやわっこいんだな、お前。”


優しい言葉と温かだった手を必死に思い出す。アーロンの軟体動物じみた不気味さを掻き消すのは、なかなか骨の折れる作業だった。

それでも――今日は、温かな大収穫がふたつもある。
生半なことでは手折ることのできない、確実な想いだった。

(ゾロ、会いたいよ・・・)

たった今別れたばかりだというのに、想いばかりが後から後から溢れて仕方がない。

彼女は自らの気持ちを持て余し、そっと溜息をつくしかできなかった。





そうした逢瀬が幾度となく続き、彼女は自然有頂天になっていた。

日曜以外は必ず駅を利用するゾロは、かの小さな頭に触れて以来決まって彼女に声を掛けて行くようになっていた。


だから、ゾロにばかり意識を取られ気づかなかった。

いつも陰湿な空気をまとっていたが、口先だけで決定的な行動に出なかったから、尚更油断していたのかもしれない。

そう――アーロンも、いつまでも黙って見てはいなかったのだ。





(・・・? 今日は遅いなぁ)

7月に入ったある日の朝、彼女はいつもの時間にゾロが現れないことを不思議に思った。

通常ならば「朝練」とやらがあるので、どうしても6時半の電車に乗らねばならないと言っていた。
なのに、今日はその時間になってもゾロが現れる気配は一向にない。

行き交う人並みがやけに味気なく見え、彼女は大きく溜息を漏らした。

(どうしたんだろう、風邪でも引いたのかな? こんなこと今まで一度もなかったのに・・・)

顔を見に行きたい気持ちは大いにあったが、彼女は肝心のゾロの家がどこにあるのかを知らない。
この駅前でのみの逢瀬を繰り返していたのだから当然だった。



朝の7時を過ぎるとどっと通勤者の数が増える。が、その中にも未だゾロの姿はなかった。

「・・・よーう、待ち人来たらずってトコかい?」

そんな不安を抱えているところへ、ますます不快感を煽る者が登場する。彼女はあからさまに表情を顰めて見せた。

「――アーロン、何の用よ? あんたの顔なんて見たくないんだけど!?」

「そうつれねぇコト言うんじゃねぇよ。今日は記念日なんだぜ?」

「記念日・・・? 一体何のよ!?」

アーロンがくいっと顎をしゃくる。それに合わせたかのように、茂みの中から三つの陰が現れた。

それはアーロンといつもつるんでいるクロオビ、チュウ、ハチの三大無頼漢たちだった。

「な・・・何のつもりよ!」

「別に、おとなしくしてりゃ手荒な真似はしねぇさ。まったくお前ェもガキだガキだと思ってたが、いつの間にやらいっぱしの“メス”の顔になってやがるじゃねぇか。この俺様自らが、その“女”を磨いてやるってんだ、ありがてぇだろうが?」

彼女はぎくりとし、全身総毛立つのを止められなかった。

冗談ではない。こんなところでこんな輩にどうこうされたくなどなかった。

咄嗟に視線で退路を探る。小柄なので持久力はないが、瞬発力にはなかなか自信があるのだ。

(・・・・ッ、もう囲まれちゃってる!? ヤバ、どうにかしないと・・・)

「おっと、逃げようなんて思うなよ? 余計な傷を作るだけだぜ。俺様ァ平和主義だからな、わざわざその綺麗な毛並みに傷をつけようなんざこれっぽっちも思っちゃいねぇが・・・抵抗だけはしてくれんなよな?」

「冗談じゃないわよ!!」

そう、冗談ではない。こんな輩にいいようにされるために、今日までここに留まっていたのではない。

それは彼女の中の、たったひとつの確固たる想いだ。

きらきらと激しい光を宿すヘイゼルの瞳に力を込め、4人の無頼漢たちを睨みつける。
そんなものなど痛くも痒くもないと、アーロンの表情は余裕綽々だ。

「アーロンさんも物好きですね。何もこんな子供でなくとも、あなたならもっといい女が選り取りみどりでしょうに」

「グルメばかりでも飽きるってモンさ。それに、これはこれで磨きゃあ大層な女に化けるタイプだぜ?」

下劣な会話を浴びせられ、思わず背筋に悪寒が走る。


するなと言われたところで、抵抗など死ぬほどしてやるつもりだった。
こんな輩の言いなりになる義理はないし、何より生理的嫌悪の方が遥かに勝っていたのだから。

「・・・・ッ!」

フェイントを掛け、丁度背中の位置にいたハチに体当たりを喰らわせる。
虚を突かれてハチはたたらを踏んだが、そこからの遁走は一瞬早く手を伸ばしたクロオビの手によって阻まれた。

「お嬢ちゃん、痛い目に遭いたくないだろう? アーロンさんだって鬼じゃない、おとなしくしていればいい目も見れるぞ?」

「絶対いやッ! あんたなんかに触られるくらいなら、その辺の野良犬にでも咬まれた方が何百倍もましよッッ!!」

「人がおとなしくしてるからってつけあがるんじゃねぇぞ!」

不意に手首に激しい痛みが走り、ぷつりと血玉ができる。逆上したアーロンが手を伸ばし、いきなりその鋭い爪を彼女の手に食い込ませたからだった。

「・・・・ッッ!!」

痛みに声が漏れそうになるのを必死に堪える。

こうなったら意地でも叫び声など聞かせるもんかと、彼女は半ば捨て鉢な気持ちで唇を噛んだ。

「・・・どうだ? 少しは考え直したか?」

間近にアーロンの顔が迫る。彼女は精一杯の抵抗の意思表示として、磨き抜いた真珠色の爪でその顔を一閃した。

「っのアマぁ!!」

流れ出す自らの血に逆上したアーロンは、懲らしめの意味も兼ねてその鋭い犬歯でもって彼女の肩口に咬みついた。

「――――――ッッ!!」

ひりつくような悲鳴が零れそうになり、彼女は痛みで気の遠くなりそうな意識を必死の思いで奮い起こした。

(駄目、ここで気を失ったりしちゃ駄目・・・!)

もしそんなことになったら、そこからの結末は火を見るより明らかだ。
もっとも意識があろうとなかろうと、彼女の辿るだろう結末が何ら変わるわけではないのだろうが。

肩口が妙に生温かい。容赦なく突き立てられたアーロンの犬歯によって流された、彼女を生かす赤い血潮だった。


(助けて・・・助けて、ゾロ――ッ!!)



その時――不意に、影が過ぎった。




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(2004.05.04)

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