「・・・998、999、1000! うし、今日の素振り終わり!」
綺麗に整えられた芝の庭に裸足で下り、そこで毎晩竹刀を振るう。
毎日学校の部活や、それがない時でも父の道場に通って修練しているゾロの、毎晩の日課となっているのがこれだった。
ナミはその様子を縁側に座って眺め、汗に光る横顔を眺めるのが好きだった。
(この年頃の男の子って汗臭いだけだと思ってたけど・・・)
半月を過ぎたぼんやりとした月明かりに照らされるゾロの姿は、どこか侵し難い凛とした清廉さを持っていた。
(何か、綺麗・・・)
もちろんそれは、惚れた弱みと恋する者特有のフィルターを通しているせいもあっただろうが。
「おぅナミ、少し待ってろな。今風呂に入って来ちまうからよ」
「みゃおう(うん、行ってらっしゃい)」
そうして半分うたた寝していると不意に身体が浮き、しなやかな筋肉に包まれた腕で運ばれていることに気づく。
もぞりと動いたことに気づき、ゾロは苦笑してナミの頭を撫でた。
「悪ィ、起こしちまったか? もう布団に入るからよ、そのまま寝てくれよな」
そう言って片腕を惜しげもなくナミの枕に差し出し、ゾロはふんわりとした毛に包まれた額に軽く唇を寄せると翡翠色の目を閉じた。
やがて規則正しい寝息が聞こえ、ナミはカーテンの隙間から差し込む淡い月明かりに切り取られたゾロのあどけない顔を見つめた。
いつもナミを抱きしめてくれる、適度に日焼けした筋肉のついた腕。
すらりとした長身に、翡翠色の髪と瞳。鋭い面差しは、笑うと意外に幼い印象を垣間見せる。
対する自分は、全身をオレンジ色の体毛に包まれた生後1年にも満たない仔猫。
つい半月ほど前ゾロに拾われ、この家に住むようになった。
お転婆盛りの伸びやかな四肢は、まだまだまろみを帯びて変化していきそうだ。
そう――変化はするが、決して接点のない成長。
しっかりした感触のゾロの二の腕に触れながら、ナミはいつしか思うようになる。
抱きしめられるだけではなく――ゾロを、この腕に抱きしめてみたい、と・・・。
星に願いを 月に祈りを ―前編―
真牙 様
「ゾロ、朝だよ。今日も部活なんだろ? 遅れるよ」
毎度の母親の呆れたような口調に起こされ、ゾロは半ば寝ぼけながらも身体を起こした。
「あ〜、畜生。ナミ抱えて寝てると寝心地良過ぎて起きらんねぇ・・・くそ、忌々しい」
(――ちょっと、それ褒めてんの?)
思わずツッコみたくなる。
今の言い方だと、ナミが来る以前は普通に起きていたのに、ナミが来てからは寝過ごしやすくなったように聞こえる。
確かに記憶の糸を辿ってみれば、半月前にナミがこの家にやって来てからというもの、ナミの寝床は当然のようにゾロの部屋だった。
もちろんゾロは、そうすることが当たり前のようにナミをすっぽりと抱いて眠る。
半ノラで過ごしていたナミにとって、こそばゆくも幸せな瞬間だった。
初めてそうされた晩など、緊張してなかなか眠れなかったほどだ。
(一日の3分の2を眠って過ごす猫を寝不足にするなんて、この男侮れないわッ!)
軽い応酬とばかりに眠ったゾロに猫パンチや尻尾アタックを喰らわせてはみたが、一度眠ると地震が起きても起きない体質ゆえに作戦はまんまと失敗に終わった。
寝間着にしているTシャツにハーフパンツ姿のまま1階に下り、顔を洗ってキッチンへ入る。
「うっす」
「まったくあんたってば、ナミが来てからだらけたんじゃないのかい? まだナミの方が規則正しい生活してるよ」
「しゃーねぇだろ? こいつ、抱き心地がいいんだからよ」
(だ・・・ッ!)
一切隠そうともせず豪快に言い放ってくれるので、ナミは貰って飲みかけていたミルクの更に顔を突っ込んでしまい、思い切り噎せてしまった。
「あーあ、何やってんだよ、ドジ」
ゾロは軽快に笑ってナミを自分の膝へと上げた。
ミルク浸しの顔を正面に眺め、ゾロはさり気なくナミの口許をペロリと舐めた。
「にゃ――ッ!(ちょっとゾロー!)」
「何やってんだい。いやがってるだろうが」
「いやがってんじゃねーよ。これは照れてんだ」
(て、照れてるかもしれないけど、あんたは人間でしょ!? 慎みってものを知りなさいよッ!)
速攻繰り出された猫パンチには、出すつもりもなかった爪がしっかり仕込まれていた。
「いて―――ッ!!」
(まったくもう、ゾロったら私が猫だからってやりたい放題なんだから)
綺麗に刈り込まれた芝を渡り、風通しのいい木陰を選んで腰を下ろす。
まだ午前中なので湿度も割と低く、食休みをするには最適な環境が整っていた。
組んだ前足の上に何気なく顔を乗せ、ふっと溜息を漏らしながら母屋の方を見つめる。
ゾロは部活へ行くために、今頃せっせと身支度を整えていることだろう。
学校でもダントツの剣士らしく、ゾロは大会に出れば上位入賞は必至の剣豪と呼ばれているのだ。
(当然よ。あれだけ鍛錬してるんだもの)
ナミは我がことのように誇らしく思った。
毎晩庭先で稽古する姿を眺めながら、その切り取られた時間をひとり占めできるのがナミは何より嬉かった。
まるで、密やかな逢瀬を楽しむかのように。
(あああ、違うのよ。私は猫なんだから、そんなこと考えたって叶うわけないんだから・・・)
自分で否定しておきながら、何だか余計に落ち込んでしまう。
それが乙女の恋心のなせる業なのだと、ナミは未だ自覚が薄かったのだが。
そんなことをつらつらと考えていると、不意に隣家との境にある紅カナメの生垣が激しく鳴った。
ナミがぎょっとして身構えるのと同時に、そこから茶色の大きな塊が飛び出して来て一気にナミへと圧し掛かった。
「きゃ―――ッ! 何すんのよ―――ッッ!!」
「おはようナミ! 今日も元気だね、美人だね、天気がいいね!」
(いや、最後のトコは関係ないでしょ!?)
思わず心の中でツッコミを入れるが、実際はそこまで余裕があったわけではなかった。
何せナミの10倍以上はある大型の犬が、喜色満面でナミの顔を思い切り舐め回してくれているのだから。
「こらー、チョッパー! まぁた鎖外して脱走して来たなー!!」
「わふ!(おはよう、ゾロ!)」
ゾロは裸足のまま庭へ飛び降り、慌ててチョッパーの太い首を羽交い絞めにする。
チョッパーは遊んでもらっているものと即断し、ゾロの顔までをも大きな舌で舐め始めた。
「こらー、俺はこれから部活なんだ! お前と遊んでる暇はねぇッ!」
「くう〜ん(そんなぁ〜)」
チョッパーは目に見えて尻尾を垂れ、がっくりとうなだれた。
生垣を挟んだ隣の家で飼われているチョッパーは、茶色のゴールデンレトリバーだ。
大型犬の名に恥じない見事な体格は体重で悠に60キロを越えており、毛がある分下手をすればゾロよりも一回り大きく見える。
そのチョッパーは困ったことに鎖外しの名人で、しかも大の猫好きと来ている。
初めてナミと出会った時、あまりの愛らしさに感動したチョッパーは猛然とナミに突進し、ゾロの蹴りを真正面から喰らった前歴を持っていた。
「おまけに、ナミと遊びてぇんならもっと加減してやれよ! ナミはちっこいんだぞ!? てか、そもそも犬のくせに猫と遊ぼうとすんな! そんなに遊びてぇなら、自分とこにグレーの古猫がいるだろうが!」
(ロビンは歳だから、もうオレとは遊んでくれないんだよ〜。ゾロ、ナミ、遊んでよ〜)
(ちょっとチョッパー、それはロビン姐さんに失礼でしょ。そんな歳でもないでしょうに)
いつも窓辺でゆったり飾り物のように座っているロシアン・ブルーの雌猫は、瞳の色が左右違うオッド・アイだ。
どこか不思議な雰囲気を持っているので、ナミは彼女と話す時は妙にどきどきしてしまう。
(誰が、歳ですって?)
生垣の葉が軽い音をたて、そこから艶やかなグレーの猫が顔を出す。チョッパーは目に見えて狼狽した。
(ああっ、ごめんよロビン! 悪気はないんだ、オレついホントのこと――)
(チョッパー? 後で少し話があるのだけれど、いいかしら?)
すっと細められた目がまっすぐチョッパーを捉え、髭が微かに震えている。チョッパーは悲鳴を上げた。
(ロビン、オレきっと口下手なんだよ、だからつい余計なことまで言っちゃうんだよ〜)
傍で見ていると漫才のような光景にゾロは苦笑し、ナミを抱き上げて不意にその頬に唇を寄せた。
「んじゃ、行って来んな。お前らナミに変なちょっかい出すなよ?」
念を押すように隣家の2匹を指差し、ゾロは名残惜しそうにマウンテン・バイクに跨って出掛けて行った。
「ふふ、相変わらずお熱いのね」
ゾロが行ってしまうと、ロビンはふっと目を細めて尻尾で顔を扇ぐ真似をした。
「お、お熱いったって、所詮あいつは人間だし・・・私がいくら好きだってどうにも――」
「そう? ではもし、どうにかなる方法があるとしたら、あなたはどうしたいの?」
ナミは一瞬耳を疑った。
今ロビンは何と言った?
こんな一進一退の、切なく身を捩る状況がどうにかできる方法があるというのだろうか?
(だってゾロは人間で、私は猫なのよ? こんな種族の違いを超えられる手段があるとでもいうの・・・?)
そんな方法が存在するはずなどない。
御伽噺でもあるまいに、いくらナミより長く生きているからといってロビンがそう都合良くそんな方法を知っているとは思えない。
思えないのに・・・。
「教えて・・・」
ナミは吸い寄せられるようにロビンの色違いの瞳を見つめた。
ロビンは、花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。
そこには温かな空気が溢れ、いつもの揶揄するような空気は一切感じられなかった。
「世界には、不思議な力の集う霊的なスポットが存在するのをご存知?」
出し抜けのロビンの言葉に、ナミは首が取れそうになるほど横に振った。
「でしょうね。私も伝え聞いているだけだから、そう多くはないのだろうけど。この日本にも、そういった場所がいくつか存在するの。そのひとつが――この、裏山にあるのよ」
「そうなの? ・・・全然知らなかった」
「そういった情報は、本当に望む者にしか伝わらないものよ。単なる好奇心だけでは火傷するのがオチね。ここの裏山には昔お寺があって、それが廃寺になった折に失礼のないよう碑が建てられたの。今は小さな泉が湧き出している――そこがそうよ」
ナミはこくんと息を呑んだ。
自分にとってそんな都合のいい場所が、しかもこんな近くにあったなんて知らなかった。
「私、行きたい。行って、望みを叶えたい。――そこに行って、それからどうするの?」
逸る胸を抑え、ナミは落ち着くように何度も自分に言い聞かせながらロビンの言葉を促した。
ロビンはそこで何を思ったのか、不意に口を閉じてじっとナミを見つめた。
色違いの瞳に揺れる微かな想いが何を示していたのか、不安と期待で一杯になっているナミには判らなかった。
「――その前に忠告よ。この願い事は、その者の一生に一度しか叶えられない。しかも、想いが通じなかった時の反動がどう来るのか判らない。そして・・・その状態でいられる条件もまた、願い事によって変わって来るのよ? それでも良くて?」
「構わないわ。私は人間になりたいの。人間になって、同じ高さで彼を見て、抱きしめてみたいのよ。それさえ叶うなら、後のことは後で考えるわ」
「若いのね・・・」
ロビンはもう、それ以上止めようとはしなかった。
「明日の晩は満月。願を掛けられるのは今日から3日間。そのうち、願いの叶った姿でいられるのはたった一日よ。おそらくリミットは夜更けね。それまでに“条件”が満たされなければ、あなたの身に“反動”が来るわ」
ナミは無言で頷いた。
「・・・ナミ、良かったらオレが送るよ」
「いいの? また家の人に怒られるわよ?」
「慣れてるからいいんだ。それに・・・ロビンの代わりに、見届けなきゃ、ね」
苦笑し合う2匹の顔が苦笑するように顰められる。
そこにはある種不可侵めいた空気が漂っていた。
「――ロビン、ひとつ訊いてもいい?」
何か特別な事情がありそうなかれらの横顔を見ながら、ナミは散々迷った挙句にちょっとだけ勝った好奇心からおずおずと口を開いた。
「なぁに?」
「そんな昔から伝わっていた方法を、あなたは試さなかったの・・・?」
それを聞いたロビンは、苦笑を更に深くして梅雨の合間の澄んだ青空を見上げた。
ややあってナミに視線を戻し、ロビンは透明な微笑で応えた。
「ふふ・・・言わぬが華ね」
そんな、期待と不安がない交ぜになった気持ちを抱えていると自ずと緊張し、ナミはそわそわと動いてばかりいた。
それはゾロが帰ってからも同じで、いつもなら縁側で座禅を組む膝に座ったりもするのだが、今日はもうそんな気分にもなれなかった。
(だって、今夜が過ぎたら私は人間の姿になれるんだから。ゾロ、驚くだろうな)
びっくり箱を渡す直前のように、ナミは自然に浮かぶ笑みにさえ汗ばんでしまいそうになる。
心拍数ばかり上がってしまい、妙に胸が息苦しい。
「・・・お前、何か妙に落ち着かねぇな。トイレなら早めに行って来いよ?」
(も〜、デリカシーないんだからッ!)
ナミは半ば本気でゾロの腕に噛みついた。
「いででででッ! ナミ、俺は食っても美味かねぇっつーの!」
(後で吠え面かくんじゃないわよ! とびっきりの女の子に化けてみせるんだからねッ!)
最後にもう一度力を入れてから口を離す。
ゾロの腕には、くっきりと4本の犬歯の痕が刻みつけられていた・・・。
そして、夜更け――。
ナミはゾロの腕からそっと抜け出し、窓から屋根、屋根から隣の木へと飛び移って庭へと降り立った。
「ナミ、こっちだよ」
生垣をそっと押し分けるようにチョッパーが顔を出す。こちらはもう大分前から準備を整えていたらしい。
「こんな夜更けにごめんね。じゃ、行きましょ」
「判った。急いで行くから、オレの背に乗ってくれるか? 振り落とされないように掴まっててな」
そう言うとチョッパーはナミを背に乗せ、夜の町を滑るように走って行った。
途中家路を急ぐ人に何度か出会ったが、皆一様に何が通り過ぎたのか判らないうちにふたりの姿は消えていた。
そうして町を抜け、丘を登り、林に分け入って走り続けること30分――ふたりは、ようやく目的の場所に辿り着いた。
森閑とした深い木々の隙間に、そこだけがぽっかりと空に向かって開けている。
苔生した石碑の傍らには、銀盤を映したかのような泉が静謐な水を湛えてそこにあった。
「ここね・・・」
ナミはチョッパーの背から下り、何気なく空を見上げた。
中天に差し掛かろうという月は青白く輝き、いつもの柔らかな乳白色の印象からは程遠い冷然とした光を放っている。
チョッパーは静かに茂みの中へと姿を消し、ナミはひとりその場に残された。
(落ち着いて・・・)
ナミは大きく深呼吸し、ロビンに言われたことを心の中で反芻しながら手順をなぞった。
そうは言っても難しいことではない。
要は、月と星の輝き具合と高められた場の空気、そして――何より『望む者の想いの強さ』だ。
ナミは泉に前足を浸した。触れた瞬間、えも言われぬ感覚に全身の毛が逆立ち、思わず何も考えずに逃げ出したくなる。
理屈ではなかった。
本能に近い薄い恐怖感がひたひたと心に押し迫ったが、辛うじて自らの想う気持ちが勝り、ナミは何とか踏み止まった。
(お月様、お星様、ナミの一生一度のお願いです。どうか私を人間の姿にして下さい・・・!)
震える手を必死に留め、心の中でそう3度繰り返す。
“――――――――・・・。”
何かが奇妙な音が聞こえたような気がした瞬間――不意に、世界から一切の音が消えた。
耳が痛くなるほどの静寂に、ナミはそれでも必死に耐えた。
どうしても譲れない強い望みと、こんなチャンスはもう2度と訪れないだろうと本能が告げていたから。
そうして、どのくらいの時がたっただろうか。
ナミは、ふと辺りの虫の声と草木のざわめきに我に返った。
(・・・嘘。どうして何も起こらないの・・・?)
ロビンに聞いて来た手順はこれで全部だ。ひとつたりとも間違えたりなどしていない。
(お月様、私の願いは聞くまでもないって・・・そういうこと?)
目尻に涙が浮かぶ。
思っていた以上に膨らんでいた希望はいつしかナミの全身から溢れんばかりになっていた。
結果、零れるはずのない大粒の涙がいくつも大地に吸い込まれた。
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(2004.06.14)Copyright(C)真牙,All rights reserved.