「先生さよーならー」
「また明日もお願いしまーす」
「はい、気をつけてお帰り」

西日が山の峰を朱色に染める頃合になると、ふもとの村から剣術修行に通っている子供達も帰路に着く。振り返りながら発するおのおのの挨拶の言葉に手を振って返していると、その子供達の向こうから見慣れた坊主頭の青年が大股で走りながらこちらに向かっていた。
墨色の作務衣に身を包んだその男は子供達の脇をすり抜け、手にした一枚の紙片を振りかざしながら、まだ話し掛ける距離でもないのに大声で叫んだ。
「先生、コウシロウ先生。大変ですよ!」
「どうしましたご住職。そんなに慌てられて」
訝しげに彼の横を通っていく子供にもう一度手を振って帰宅を促し、自分の下まであと三歩という距離で立ち止まり、ぜえぜえと息を次ぐシバという名の住職にそう聞いた。そう、彼は若いながらもふもとの村の寺を預かる僧侶である。昔はたいそうなやんちゃ坊主で、出家したあとも不良僧侶と名高く、彼がようやく心身ともに落ち着いたのは彼を育てた先の住職が亡くなった数年前からのことだ。
「い、いや。東の港に仕入れに行った雑貨屋のレイがさっき帰ってきましてね、そこで手に入れたって、こ、これを見せてくれたんですよ」
そう言って、さっきから持っていた紙をずいと差し出す。丸められた上に力強く握り締められていたのでかなりしわくちゃになっていたそれをゆっくりと開くと、まず目に飛び込んできたのは「60,000,000」という大層な数字。この時代、その数字が金額を指し示すもので、それがなにに対する報酬の額なのか、詳しい説明を聞かなくとも分かろうと言うものだ。
さらに、紙を開いていくと、『DEAD or ALIVE』と黒々と明記されたその横に、大きく表記された、この名−−。

「ゾロ・・・・」






筍の里  −1−
            

ソイ 様




道場と隣接する自宅に戻った私は、仏間に入りくいなの位牌の前にその手配書を綺麗に広げて見せた。ピントがぶれた写真に写る、血にまみれた険しい表情の男の顔。あれから7年も経ってしまって、幼い顔は精悍な青年のそれへと成長し、その鋭い視線はより剣呑さを増した気がする。
「名前だけが里帰りしてきたよ。本人は偉大なる航路で海賊をやっているらしい。なんとか迷いながらもそこまでたどり着けたんだね」
そう告げて、返答の無い位牌を見つめながらその手配書を折りたみ懐にしまった。仏壇に線香を上げて両手を合わせていると、隣の台所からシバ住職が慣れた様子で膳を運んでくる。夕食をご一緒にと誘うと、では自分が支度をと申し出てくれたのだ。
「ご住職にそのようなお手間を取らせてすみませんね」
「いや、いいんですよ。どうせいつもやっていることです。しかし先生にそう呼ばれるのはいつまでたっても慣れませんね。」
手馴れた様子で飯を盛り、生臭物を抜いた質素なおかずを並べていく。彼も昔、僧侶の身分でありながらこの道場へ剣術修行へ通っていた。稽古嫌いから剣の腕はいつまでたっても上達しなかったが、道場の飯の支度だけはつねに率先してやっていたことを思い出す。味にうるさいのか「自分の作ったものが一番美味い」といつも嘯いていた彼は、今でも寺では弟子の僧に台所を譲らないのだと聞いていた。
「これはくいなちゃんに」
小鉢に盛った若竹煮を仏前に添えた。あれはくいなの好物で、春になるとゾロと二人で竹林に入り、収穫した籠いっぱいの筍をまだ一介の僧侶だったこの住職に頼んで料理してもらっていた。それももう、十年も前の話だ。

男二人、向き合って食べる夕食は自然言葉も少なくなる。黙って箸を進めていると、障子の向こうの縁側で、ニャーゴと甘えるような声が聞こえた。
「ああ、あいつに忘れてた」
住職はその声で慌てて立ち上がり、台所から古びた茶碗を持ち出してくる。即席の猫飯を作って縁側に持っていくと、ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄る影が障子に映る。
戻ってきた住職は、手のひらの小さなかすり傷を擦っていた。
「餌を忘れていたのを怒られましたよ。あいつが勝手に付いて来たくせに。寺で待ってればいいものを」
ひい、ふう、みいと指折り数える。
「あいつを拾ってから、もう七年ですよ。そろそろ大人になるんだろうと思っていても、いや、まだまだ子供ですね。身体も心もね。それとも猫科の動物ってのは、大人になっても甘えたがりなのかな」
「もう、七年ですか」
「そう、ゾロがここを出て行った時ですから。そんなもんです」
自分の膳の中にも若竹煮の椀があった。今年もこの季節を迎えたのか。





この剣術道場に子供の頃から通う子は、そのほとんどがふもとの村で生まれた子供達だ。彼らは親の手伝いの合間に山肌を駆け上ってここに通い、遊び代わりに剣術を身につける。だがゾロは違った。彼はまず、村で生まれた子ではない。彼は5歳になったばかりの秋の終わりに母親に連れられてこの村にやってきたのだ。
ゾロの母のことはよく覚えている。女手一つ、幼い息子を育てながら各地を行商している、肝っ玉の据わった婦人だった。声が大きく、恰幅もいい(と面と向かって言う勇気は無かったが)。口より先に手が出る豪胆な性格だったが、気さくでお人よしな人柄が、よそ者でありながら村人からも好意的に受け入れられていた。彼女は各地の産物を売り歩きながら旅をしていて、その時は北国の墨や筆を商品と扱っていたので、書を趣味とする私は彼女の店に足しげく通っていた。
彼女は冬の間だけこの村に滞在して春になれば出て行くと言った。今度は東の港から船で海に出ようかねえ、と息子に語りかけ、海を見たことの無いらしいゾロはその話を夢中で聞いていた。
「おかあさん、うみってどんなの?」
「海はねえ、でっかいんだよ! そしてどこにでも繋がっているんだ。船に乗って、波に乗ればどこにだって行くことができるのさ」
「そうなの? でもそんな広いところだと、ぼくまた迷子になっちゃうよ」
「迷う前からそんな心配してどうするんだい。陸の上なら歩いてりゃ、海の上なら泳いでりゃ、そのうちどこかに出ることができるさ。着いたところが目的地だって思えば良いだろう?」
「そっか、そうだね!」
素直な笑顔を見せて、ゾロは海に出る日を指折り数えていた。真っ赤な葉っぱが地面に落ちれば秋が終わる。雪が降れば冬が始まる。積もった雪が解ければ、春になって海に行ける。毎日のように母親が商いをする仮の店舗の前に座り込んで、山の季節の移り変わりを今か今かと眺めていた。
だが、そんな愛くるしい様子を見せていたのは母親の前だけだった。ゾロは人見知りが激しくて、初対面の人間を前にすると母親の後に隠れて姿すら現そうとしない。その度に母に蹴られて前に出されるのだが、か細い声でなんとか挨拶はするものの、そのまま今にも泣き出しそうな顔で逃げていく。
「そんな愛想のないことでどうするんだい! 立派な商人になれないよ!」
彼女の怒鳴り声は、ゾロが姿が見えないところまで逃げていった後に、重い溜息に変わる。
「やっぱり、こんな流れ者みたいな生活がいけないのかねえ。あの子、あの歳でまだ友達の一人もいないんだよ」
それなら、と提案したのは私の方だった。村の子供達はみな通っていることだし、春になる間だけでも、自分の道場に通わせてみたらどうか、と。
乗り気な母親とは対照的に、ゾロはあくまでも母親の側を離れるのを嫌がった。通い始める初日には家を出る時に泣き喚いて、母親から商品の包丁で「行け!」と脅され、迎えに行ったくいなに縄で縛られ引きずられてようやく道場までやってきたくらいだった。もちろん道場でもべそをかいて、同年代の子供の中にいてもしゃべることすらできなかった。あきれたくいながちょこちょことちょっかいを出して、ようやく帰るまぎわに泣き止んでくれてこちらもホッとしたものだが。
夕方になって、初日だけは、と迎えにきた母親は、瞼を赤く腫らしたゾロの顔を覗き込んだ。
「あーあ、みっともないねえ。ほら、ゾロ。あんたいい加減赤ちゃんみたいな真似はお止め。おかあさんだって、ずっと側にはいてやれないんだ。一人になったとき、そんなことじゃ困るのはあんただよ。もっと強くならなくちゃ」
「やだ! おかあさんがいなくちゃやだ!」
「でもいつかはいなくなるんだよ」
「ダメ! どっかいったらダメ!」
かたくなに首を横に振りつづけるゾロに、母親はしょうがないねえ、と乱暴に頭を撫でて、こちらを向き直り、また明日もよろしく、と頭を下げてゾロの手を引きながら帰っていった。明日も迎えに行くからねーというくいなの言葉に笑って、ありがとうと礼をする姿が、夕日の中に沈む。

その母親が筍狩りの際の事故で亡くなったのは、春の息吹がかろうじて感じられるようになった頃。
ゾロが海に出れると待ち望んで、その望みが叶いかけていた時だった。




「ああ、その筍。そろそろまたそんな季節になりましたね」
じっと、箸をつけずに若竹煮の椀を見つめてた私に気づいたシバ住職が、自分も口に頬張りながらにこやかに言った。
「今年も豊作です。村人総出で、収穫におおわらわですよ」
「村の人から、私もおすそ分けをもらいました。今年も出来は良いみたいですね」




村の西には広大な竹林がある。そこで採れる筍はこの村の名産の一つだ。収穫期にはどんな生業の村人も手分けして筍を刈り、村の収入に寄与しなければならない。よそ者で、商人だったゾロの母親も、もちろん皆に混じって籠を背負い、筍狩りに参加していた。この筍狩りが終われば、店を畳んで港に行くよ、海に行こうねと息子に語りかけながら。
竹林の東には大きな川が流れている。大きなつり橋を渡って竹林に入る前に、一人の子供がその橋から落ちた。ゾロと同じくらいの年齢の子だ。すぐ側にいたゾロの母親はとっさに手を伸ばしたが、間に合わない。二人はもつれるように川に落ちて、それでも彼女はその子を抱えて岸までたどり着き、そこに駆け寄った他の村人に助けられた。子供は無事だったが、ゾロの母は岸に上げられた直後息を引き取った。雪解けの川の水は冷たすぎて、あっけなく彼女の心の臓を止めてしまったのだ。
ゾロは母親が死んでしまったということを、なかなか納得しなかった。私や村の人がどんなに説明しても、「おかあさんは帰ってくる」と店の前で待ちつづけたり、戸別に商いに行っていた村の家を一軒一軒訪ねて回っていた。幾日も幾晩もそうやって待ちつづけ、ついに帰ってこないことを悟ると、今度は「先に海に行っちゃったんだ」と泣きながら村を出ようとする。
「ゾロ、おばさんはもう亡くなっちゃったの。うちのママと一緒。天国に行っちゃったのよ」
くいながせつせつとそう説いても、ゾロはまだ首を横に振る。納得できないのではない、納得したくないのだ。しまいにはくいなまで泣き出してしまい、二人でわんわんと朝まで泣き続けていた。

ゾロの面倒は、村が総出で見ることになった。ゾロの母は村の子を守って命を落としたのだ。今度は村が彼女の子を守る番だった。ゾロは村の寺に預けられ、春までの予定だったうちの道場へも、ずっと通いつづけることになった。
あの人に懐かない子が、初めての場所でどんなに寂しい思いをしているだろうかと、私の心にはいつも影がさしていた。だがそんな私の心配をよそに、ゾロは次第に落ち着いていった。寺には、道場に通っている少年僧侶も何人かいる。その子たちがゾロの面倒をなんとはなしに見てくれるし、母親の墓が寺の墓地にあることも、ゾロを安心させた一つなのだろう。ゾロは毎朝、彼女の墓に参ることをけして欠かさなかった。

ある日の夜のことだった。夜に私が庭に立っていると、後の木陰からゾロが覗いているのに気づいた。声をかけると素直に顔を出す。手には道場で使う木刀を二本持っていた。
おや、と思う。ゾロは道場に通っているとは言っても、人に対して刀を振るような真似をひどく恐れて、まじめに稽古を行っていなかった。その度にくいなや他の門下生に馬鹿にされてはいたが、それでも人を斬り、人に斬られるのを「怖いから」とめったに木刀を持つことも無かったのだ。

「どうしたね、ゾロ」
「先生、ぼく剣士になりたいんです」
そう言って、二本の木刀を差し出す。

「怖い、と言ってなかったかな? ゾロ。君は鍛錬の走りこみやトレーニングはよくするけど、刀を持とうとはしなかっただろう?」
「でも、強くならなくちゃ。ここは剣術道場だから、一番強くなるのは、剣士になるのがいいでしょ?」
「どうしてだい。なぜ、強くなろうとする?」

「海に行きたいんです」

あの時の、ゾロのまっすぐな目は生涯忘れることは無いだろうと思う。

「おかあさんと、春になったら海に行こうって約束しました。でもぼく一人じゃ行けないから、おかあさんみたいに強くなったら行けるかなって」
目の端に浮かんだ潤みを、ゾロは自分でも認めないと言う風に激しくその小さな手でこする。
「・・・・お母さんは強かった?」
「うん。重たいものとかいっぱい持って、すごく遠くまでどこまで歩いても疲れたりしなかった。けんかも強かったよ。盗賊におそわれそうになったときも三人くらいぶんなぐって気絶させてたし。それから、ぼくがいたずらするとすごく怒って、おしりもいっぱい叩かれたけど・・・・。でも、約束を守るとすごくほめてくれるの。『よくできた!』って」

だから、海に行きたいのだ、と。母親との最後の約束を守りたいのだと。

話している内に、耐えられないようにゾロの大きな瞳からぽたぽたと涙がこぼれてくる。慌てて手の甲でそれを引っかくように拭いても、間に合わなくてゾロの頬は涙に濡れた。
私は手ぬぐいを取り出して、ゆっくりとゾロの顔を拭いてやった。くすぐったそうに表情をゆがめたゾロは、それでも止まらない涙に苦戦しているようだった。泣き止まなくてもいいのだ、好きなだけ泣きなさいと言うと、さらに恥ずかしそうに首を振る。「泣いたらまたおかあさんに怒られる」とか細い声で呟くものの、ついには口をゆがめて声を上げだしてしまった。
ゾロが泣き止むまでの長い長い時間、彼の後ろには大きな月が輝いて、彼の珍しい若草色の頭髪を優しい光に染めていた。彼女の手が、ゾロの頭を乱暴に撫でていたのを思い出す。女性には珍しいくらいの大きな手で、わしゃわしゃと彼の短い髪をかき混ぜて、ゾロはたまに嫌がりながらも幸せそうに笑っていた。
もう、その手は無い。無いけれど、きっと、ゾロは忘れることは無い。

強くなろうか、ゾロ。

腰を屈め、溢れる涙を拭いつづけながら、私は何度もそう呟いていた。

強くなって、海に行こう。お母さんと一緒に。今度は君がお母さんを連れて行く番だよ。

「春はいつでも来る。いつの春でもいいから、春になったら海に行こう」
私の言葉に、ゾロは何度も何度も頷いた。「強くなる、強くなる」と呟きながら。

ようやく泣き止んだ時、真っ赤に腫らした目は、初めてこの道場に来た時の顔とよく似ていたが、その瞳の光はすでに力を灯していた。ぐしゃぐしゃと一度顔をこすって、恥ずかしそうに笑う。
「私は厳しいからね、ゾロ。君がいったんそう決めたからには、なまじっかな鍛え方はしないよ。目指すところは世界一の大剣豪だ。いいね」
「はい!」
元気のいい返事は、思えば初めて聞いたような気もする。その時、ゾロははっと何かを思い出したかのように、腰にくくっていた風呂敷を広げ始めた。
「じゃあこれ授業料。こういうことはちゃんとしとけって、おかあさんが言ってた」
差し出したのは、小さな両手で抱えるほどの大きな採りたての筍。今日くいなと一緒に採りに行ったのだと言う。

驚いた。母親の死の原因がこの筍だと、ゾロは分かっているだろうに。・・・・いや、直接の原因でない、と分かっているのだ。ゾロの母親が死んだのは筍狩りに行かせた村のせいでも、川に落ちた子供のせいでもない。ただ少し、川の水が冷たすぎたせいなのだ、と。
目の前の素直な瞳がまぶしいくらいだった。この光を、ゆがむことなく育てなければ、と思う。

ゾロはその日を境に、めったに涙をみせることはなくなった。




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(2005.05.11)

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