筍の里   −2−
            

ソイ 様




「こらッ! ゾロ! まてこのクソガキ!」
「へっへーん! 油断大敵だぜ、シバ兄ィ!」
寺の厨房からいつもの掛け合いが響く。寺の給仕を一手に引き受けている、というか独占している青年僧侶のシバの傍らを、道場の押し着せの道着を着たゾロが駆けて行った。手と口には出来上がったばかりの焼き筍が垣間見える。
「そりゃご住職の昼食だぞ! この罰当たりが!」
「育ち盛りはたんと食え、とご住職がおっしゃったんだ!」
厨房の土間を出て、狭い境内を抜け出し、参道の石段まで二人の逃走劇は続く。
その様子を私は住職の居間から眺めながら、向かい合った住職と二人で苦笑を交わした。
「やれやれ、元気なのは結構じゃが、最近は知恵もついて言い訳も上手くなってきたのお」
つまみ食いの言い訳に使われた住職はどっこらしょっと立ち上がり、縁側に立った。
縁側の外でこの騒動を眺めていたくいなも、重い溜息をつく。
「住職さまが甘すぎるんじゃないですか? あれじゃゾロがどんどんつけあがりますよ」
「くいな! ご住職に失礼だぞ」
私の慌てた制止にも、くいなは肩をすくるだけだ。まったく、どんどん手におえなくなるのはゾロだけじゃない。そんな私達の様子をほっほっほと笑いながら眺めていた住職が、ついに石段の下で捕まって引きずられるように連れ戻されてきたゾロに声をかけた。
「なんじゃ、もう鬼ごっこは終わりか。今日はどこまで逃げられた? 」
「石段の下から三段目で捕まりました!」
「あと少しじゃのお」
そう言って二人は笑いあう。連れ戻したシバは舌打ちしたいものの、住職の手前我慢しているようだった。彼自身、ゾロと同じ年頃には道場で同じようにつまみ食いをしていたものだが。
苦い顔をしていたシバに住職が向き直り、ゾロが握っていたままの焼き筍を指差して、指示を出す。
「これを、小さな皿に少し盛ってきなさい」
「ご住職?」
「ゾロ、泥のついたそれはお前がちゃんと食べるのじゃぞ。母御の墓前に沿える分はちゃんと皿に盛らねばの」
「・・・・はい」
見透かされた、というようにゾロは少し頬を染めた。シバはそんなゾロを見やり、「それならそうと言えばいいのに」と言い捨てて厨房に駆け足で戻る。 ああ、そうかと、私は春霞の山々に視線をおくった。所々に紅梅の紅が山肌を彩っている。春がようやく芽生え始めたこの日、ゾロの母の命日であった。
戻ってきたシバが、ゾロの手に小さな白い椀を持たせた。綺麗に盛り付けられた焼き筍に満足したようにゾロは微笑み、礼を言い駆け足で墓地のある石段下に向かう。くいなが「私も行く」とそれを追いかけた。
「身体は大きくなっても、母恋しさは変わらぬようじゃ。変わらぬ方が、よいの。あのまままっすぐ育ってくれれば重畳」
ほっほっほ、と白い髭を揺らして住職は笑った。

ゾロは去年の秋の終わりに十歳になっていた。五歳の頃からはじめた剣術は、もとよりの才能なのか、それとも努力型の性格の故なのか、今では同年代の子供達はもちろん、剣術を生業とするために修行する大人たちにも遜色劣らぬほどの腕前になっていた。あの泣き虫が嘘みたいに、と最近くいながよく口にする。

道場の仏事の打ち合わせを終えて寺から帰路に着く途中、道なき道の茂みからゾロがひょっこり姿を現した。
「先生、今帰り? 俺も道場に行くよ」
藪の中を突っ切って走っていたのだろうか。顔や腕に小さな擦り傷をつけて、それでも大口を開けてにこりと笑った。道というものの定義をちゃんと教えておかなければ、とこんな時は切に思う。
「くいなはどうした?」
「村で女どもと遊んでくるって。ゾロはせいぜい私に勝てるように修行してきなさいって言いやがったんだ。最近ムカツクよ、あいつ」
はは、と私が笑うと、ゾロはさらに不機嫌な顔で眉をしかめた。くいなはゾロが勝てない、ほぼ唯一の道場の門下生だ。
「だから先生、今日は俺に特別指導つけてよ。早くあいつに一勝したいんだ!」
「さて、今日一日の指導でくいなに勝てるのかい?」
我が娘ながら、くいなの才能は舌を巻くほどだ。私でも真剣に対峙して、さて一本取れるかどうか。だが、一方でこのままではくいなのピークは今だろうという気もする。これから体つきも娘らしくなって、どうしてもかなわない男女の力の差を身にしみて感じるようになるだろう。そこを何とか跳ね除けてもらいたい、と思う。そのためには今のままではダメだと、少し厳しい指導をしなければならないかもしれない。

道場までの道すがら、こんな時ゾロはよく私に話をせがむ。若い頃に武者修行の旅に出ていた頃の、世界の広さを知りたいらしい。強い剣士の話。過酷な自然の話。山賊に襲撃された時にいかにして切り抜けたか。傷つきもうここまでかと思ったときに助けられた旅のキャラバン・・・・。ゾロは話をききながら目をきらきら輝かせている。自分の無限の未来に私の話を重ね合わせているのだろう。

海に行きたい。そのために強くなりたい。
五年前に そう願ったゾロの視線は、すでに海の向こうに飛んでいっている。成長とはこういうことをいうのだろうか?

「そうだね・・・・じゃあ今日は人喰い虎の話だ」
「虎?」
「そうだ。まだ私が若い頃、住んでいた村の近くに、大きな竹林があった・・・・」



若い頃。それはまだくいなの母親とも知り合う前の話だ。村の近くに筍が採れる大きな竹林があった。
なんだ? どこかの村に似てるって? まあいいじゃないかゾロ。話は最後まで聞きなさい。
そこには普通の虎よりも大きな種別の虎が住んでいると言う噂があった。実際のところ奥まで迷い込んだ村人のうち、何人かが帰ってこないことがよくあったんだ。
そして月日がたって、人間の骨が見つかることもよくあった。骨になってないままに見つかることもあった。その多くは大きな牙で引き裂かれたような痕があったそうだよ。
虎の姿は誰も見たことがない。正しくは、はっきりと見たことがない、ということだがね。その竹林はいつも霧が濃くて、獣の唸り声は聞こえても、霧の向こうに光る眼光は見えても、確かな虎の全身の姿は誰にも見えたことがないんだ。人間の目とは不思議なもので、見えないものを見ようとするときに、どうしても自分の想像力が介入してしまう。想像と言うものは、怖いものはより怖く、恐ろしいものはより恐ろしく膨らむものだ。そして人から人へ話が伝わるうちに、なぜか少しずつ大げさに伝わってしまう。だから最初、私もこの虎の話を聞いた時、そんな経緯で普通の虎の話が大虎の話に膨れ上がったんだろうと思ったんだよ。

その頃私は武者修行の旅に出ようとしていた。何歳だったかな。二十歳かそこらだったかな。旅立ちの準備をしている間も、ずっとこの虎の噂は気になっていた。世話になった村が、この虎を怖れているんだ。ここは私が何とかしないと、と思い上がった考えを起こした。当時の私はかなり自分の腕を過信していたんだな。そんな虎の一匹や二匹、と思ってその虎退治に志願したんだ。



「へえ、すげえ!」
ゾロは感心したように瞳を丸くした。
「で、どうなったの? 先生強いもんな。虎の一匹や二匹、簡単だったんだろ?」
「いやいや、物事はそんなにかっこよく進まなくてね」



虎退治に竹林に入って三日間、私はその虎を探しつづけた。ところがその三日目の夜、運悪く、私は十メートルくらいの崖から転落してしまった。足を捻ってね、どうにもこうにも動けなくなってしまったんだ。季節はまだこんな冬の名残が残っているような頃だ。さらに追い討ちをかけるように、その冬最後の雪まで降り出した。動けないし、凍えるように寒いし、こりゃやばい、流石に死んでしまうかもしれないと思った。
と、その時だよ。暗い闇の向こうから、グルル・・・・と地を這うようなうめき声が聞こえてきた。

虎だ、と思ったね。あの例の大虎だ、と。

村人の想像を馬鹿にした私だったが、このときばかりは本当に巨大な虎がそこに見えた。月も星も厚い雪雲に隠れていて、あたりは雪明りのうっすらとしたおぼろげな灯りしかない。その光に映った黄金の虎の、そりゃあ恐ろしかったこと。歯の根ががたがたと震え、腰に差した刀にも手が行かなかった。金縛りにあったように、動けなくなってしまったよ。
ゆっくりと、虎は近づいてくる。 闇の中に光る瞳が、私を見据えているんだ。
ああ、ダメだ。私も食べられてしまう、とそう思ったその時。

飛び掛ってきたその虎は、私の足元に這いつくばった。
そして地面に落としていた私の荷物を漁り始めたんだ。

呆然となってそれを見ていると、その虎は私の荷からサルナシの実を取り出した。サルナシって知っているかい? あの緑色の果物だ。皮の産毛がちくちくする? ああそれだ。私はあれが好物でね。あの時は食料としていっぱい持っていたんだよ。
その虎は、私には目もくれずそのサルナシに一心不乱にしゃぶりついている。
サルナシにはマタタビの成分が含まれているから、まあ虎にしてみれば嬉しいものだよ。
そのうちその虎は満足したのか、酔っ払ったようにゴロゴロとそこに寝転がり出した。ようやくそんな段階になって、私は落ち着いてその虎を見ることが出来んだ。
さっきまでの恐怖はなんだったのか、とてもそいつは大虎とはいえなかった。普通、虎というものは体長が二、三メートルくらいなんだが、その虎は一メートルに満たないくらいだったよ。しかもなんだか挙動が子供っぽい。目の前にこんな私と言うご馳走があるのに・・・・なんだい、今はそりゃ枯れススキみたいだけど、その頃は身体もがっちりして今よりみずみずしかったんだからね・・・・、いや、美味しそうな肉があるのに、もうサルナシだけで満足したのか、そのままハイになって楽しそうに浮かれている。
脱力したよ。そりゃね。本気で自分の人生これまでかと思ったからね。それと同時に、どうも一人楽しそうなこの虎に無性に腹が立って、分からないだろうとは思ったがちょっと怒りをぶつけてみたんだ。畜生、とか、こっちは凍えそうに寒いっていうのに、とかね。
ぶつぶつとそうやって文句を言っていると、こんどはいきなりその虎がすくっと立ち上がった。いや、これも肝が冷えたな。気が変わってやっぱり私を食べる気になったのか、酔っ払いの千鳥足で近づいてくる。顔面間近に虎の口が近づいてきたときに、もうダメだ! と歯を食いしばって目を瞑った。すると、するとだよ、その虎は私の顔をぺろぺろと舐め始めたんだ。
酔っ払ってやたら口付けを迫る人がいるじゃないか。ちょうどあんな感じだ。そのうち歌でも歌いそうな陽気な顔をして、私に擦り寄ってくる。その毛皮は、ひどく暖かかった。ふかふかで、毛並みも良かった。私がそっと首筋を撫でると、ごろごろと甘えた声を出す。 もう寒さにも我慢できなくなっていた時だった。私は覚悟を決めて、その虎にお願いしたんだよ。

" 一晩毛布代わりになってくれないかい。その代わり残りのサルナシは全部あげるよ"

さすがに返事は期待してなかったんだが、驚いたことに虎はじっと私の顔を見つめた後、座ったまま動けない私の周囲をぐるりと回って、その毛皮で囲んでくれたんだ。
本当に人の言葉が分かるのか、それともただ偶然にそうなっただけなのか分からないが、とにかく私にとって大変幸運な出来事だ。とても暖かい毛皮に包まれて、涙が出そうなくらいホッとしたよ。夜が明けて、酔いが覚めたこの虎に食い殺されるかもしれなかったが、それはそれで仕方がないと思った。もう正直どうにでもなれと、その暖かさに包まれて私は眠ってしまったんだ。夢の中でも幸せだった。時折ゴロゴロという喉を鳴らす音と、どくどくと流れるその虎の血潮の音を聞いていたような気がするね。

そして朝がやってきた。目を覚ますと、その虎はもういなかったよ。一瞬全ては夢だったのかと思ったが、荷物の中から全てのサルナシが消えていた。約束の報酬としてあいつが持っていってしまったんだ、と思う。
雪は思ったより積もらなかった。でも私一人だったら間違いなく凍死していたと思うよ。私は捻った足に添え木を沿えて、何とか一度村まで戻ることが出来た。その虎に、私は命を救われたんだ。



「・・・・結局、人喰い虎じゃなかったの?」
黙って話を聞いていたゾロが、少々不平そうな声を上げる。もっと冒険活劇を期待していたのだろう。そんな様子に、私は苦笑を漏らそうとして、出来なかった。
「まあ、まだ続きがある。・・・・一度戻った村で足を治した後、私は出会った虎に、なんの危害も加えられなかったことを村人に説明したんだ」



だが村人はなかなか納得しなかった。現に人的被害も出ているのだ。単にたまたま私が襲われなかっただけだろうと言われたが、それには私の方が納得できなかった。あの虎は、人を喰うような獰猛さを持っているように見えなかった。サルナシに酔っていなくても、あの虎は困っている私を助けてくれたのではないかと言う妙な確信も持っていた。
話し合いは、だがすぐに結論が出た。この間に筍狩りに出た村人が、また襲われてしまったんだ。しかも今度は命からがら逃げ出してきた村人の1人が証言した。確かに巨大な大虎に襲われた。体長は五メートルくらいの、本当に巨大な大虎だったと。
その村人は背中に酷い怪我をしていて、その牙の痕の大きさからも、彼の証言は間違いでないことが分かった。もう一匹、本当に危険な虎がいたのだ。私が出会った虎でない奴が。

私は足の怪我が回復すると同時にもう一度竹林に入った。 今度の捜索は難航したよ。何日も何日も竹林の中を彷徨っても、奴は姿どころか気配一つ見せはしない。いや、ある程度奥に進んだ時、何度か気配は感じた。うっすらと広がる霧の、さらにその向こう。こちらに敵意を持った生臭い気配がびりびりと私の方に向けられている、という感触をね。しかし私がそちらに向かうと、とたんにその気配は逃げてしまう。
今思えば、あいつは私の殺気を感じ取っていたんだ。頭のいい奴だ。
私は何日も根気強くその気配を追った。罠をつくって待ち構えたり、刀だけじゃなく弓矢や槍も使って追い続けた。そして、かれこれ二十日くらいたったある朝、ついに私は奴を追い詰めた。私の作った罠に足を負傷していたらしい。いつもなら霧に溶けるように逃げてしまう奴の、その足が鈍っていた。

初めてそいつの姿を近くで見たよ。これがまあ、なんというか。本当の、大虎だ。毛皮は黄色を通り越した金色で、その体躯は5メートルなんてものじゃない。もっと大きかった。巨大な牙と、獰猛な爪を持っていた。奴は私に姿を見つけられた、と悟るとその瞬間に襲い掛かってきた。
そこから私と大虎の本当の死闘が始まった。私の右の脇腹に大きなかぎ裂き傷があるのを知っているかい? あれはその時出来たものだ。左ひざの下の傷もそうだな。あれは本気で足を持っていかれたと思った。大虎の牙と爪は、隙なく私に襲い掛かっている。だが私も黙ってやられる訳にはいかない。竹林の中の私たち1人と1匹の死闘は夜がふけて朝になるまで続いた。
力の差は、さほどなかった。一瞬の隙が命を持っていかれるぎりぎりの際で、だがやはり私のほうがわずかながらに勝っていたのだろう。ほとんど捨て身で飛び込んだときの一撃が、奴の息の根を止めた。大虎はその傷の痛みに一度大きく悶えて、そして地面に倒れ動かなくなった。
こちらも半死半生だ。だが私はまだ立っていることが出来た。立ったまま、掴んだ勝利に信じられない心地で、じっとその大虎の亡骸を見つめていた。と、その時だ。

霧の向こうの茂みが、がさりと動いた。そこから姿を現したのは、あのサルナシの実を持っていった子虎だよ。

子虎はじっと私をその黒い瞳で見つめ、しかし私のほうではなく、倒れていた大虎の亡骸に近づき、血に濡れたの鼻先を、ぺろぺろと舐め始めた。
子虎は私のほうなど向き直りもせず、ずっと大虎の側から離れずに、その顔に擦り寄って、小さく鳴いていた。

・・・・大虎はおそらくその子虎の母親だったのだろう。
私は、私の命を救ってくれた子虎の、親の命を奪ってしまったんだ。



「あの切ない鳴き声を、私は一生忘れないかもしれない。子虎は私に対する怒りや恨みをまったく持っていなかった。ただ、目の前で冷たくなっていく親への悲しみの為に鳴いていたんだ。鼻面をすり合わせ、甘えるようにその背を撫でて、それでも動かない大虎にむかって寂しそうに鳴いていた。・・・・耐えられなかったな。私はそのまま逃げ出すように、その場を後にした」
ゾロは無言だった。蒼白な顔色で、口を一文字に瞑ってしまった。 当たり前だ、と思う。この話を始めた時に、私はこのようなゾロの反応を予感していた。

自分の母親の命日に、子がいる母の命を獲った話など、誰が聞きたいものか。

「・・・・ゾロ」
「・・・・はい」
呼びかけると、殊勝な返事が返ってくる。

ゾロは素直な子だ。母親の絶対的な愛を忘れないまま、村の皆からも可愛がられてそのまままっすぐに育った。だが、本当に強くなると言うことはどういうことなのか、そろそろ真剣に考える時期がきていると思う。
ゾロは剣士になることを誓った。その夢は揺るがず、そのための鍛錬を怠ることはない。だが剣士とは、刀を振るって人を傷つける者。傷つけるというのは、そのまま命を奪うことにもつながるのだ。幼い頃の彼はそれを「怖い」と言った。そのために木刀を持つことも怖れていた。本能的に、彼はそれを分かっている。
そう、だからこそ。
「君が求める強さは、そのまま相手を傷つける強さにつながるのだということを、覚えておきなさいね。君は聡い。物事の本質を見抜けることが出来る。だからこそ、本当に強いというのはどういうことなのか、分かっていて欲しいんだ」
ゾロは何も答えなかった。昔から、理解できないことに対しその場しのぎに分かったふりなどしない子だ。それでいい、と思う。私は何も伝えきれていない。こんな言葉一つで伝わるような、そんな簡単なことを私は言いたいんじゃない。
だが、やがて無意識にうつむいていたゾロの顔がぱっと上がった。
「・・・・先生! 俺、昨日道場の掃除さぼったんだ。先に行ってやってくるよ!」
言うや否や、風のように再び道なき道を駆けて行ってしまった。ゾロ、と慌てて呼びそうになって、黙り込む。声の端が震えていたのが分かった。一瞬で茂みの向こうに消えた後姿に、満月の光に照らされた5年前の泣き顔が重なった。
伸ばした手を、重い溜息とともにゆっくりと下ろす。

・・・・やれやれ、私は本当に「先生」などと呼ばれる資格があるのだろうか?
言葉を間違えたか。時期を見誤ったか。・・・・人に心を教えることはなんと難しいことなのだろう。
見えなかったゾロの涙が、私の奥底に深く残った。



私とゾロの関係の中には、常に生と死の影が付きまとっているようだった。
半月後、ようやく春が本番になりかけた時、あまりにも突然に、くいなが、死んだ。




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(2005.05.11)

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