漢・ウソップ 恋の手助け百戦錬磨 〜涙〜
ソイ 様
船が、揺れる。
小さな小波に船体がきしむギイギイと言う音が、船底に近い女部屋の中にひっきりなしに響いていた。
月が美しく輝く夜は、どんなに静かな海であっても何の落ち度もなく沈んでしまう船が後を絶たないという。それは船乗りの間では「泡沫の妖精」の仕業だと言われていて、いつもは波の狭間でのみしか存在しえない彼らが月光を受けて命を持ち、一夜で消える寂しさを言い訳にして、道連れとして波行く船を海底に引きずりこむのだ。
この伝説は俺の未来の代表作となる「偉大なる海の戦士ウソップが綴る 世界の不思議大全」の巻の六に掲載する予定だが、まだまだ世間には広まっていない。ルフィはさすがに海賊王の器と言う奴か、俺のこの話に目を輝かせて感心し「じゃあ、そいつらもメリーに乗ればいいんだ。寂しくねえぞ!」と意気揚々に叫んでくれたが、他のクルーは「また嘘かよ」と冷たい目で俺を見ているだけだった。
どうせすぐバレるんだから、喋ってくるらいいいじゃねえかとは思うんだが。
でもさすがに、こんな俺でも口を噤む時だってある。
ただでさえ、現実と迷信が混在する海の上では不吉な話はタブー視されていて、海で育ったサンジ辺りに聞きつけられればに即座に膝蹴りを喰らっていたのだが、そのたびに「私の操船で、妖精ごときに沈められるわけがないじゃない」と俺を庇ってくれた、優秀な航海士は。
今。
「・・・・おい、ビビ」
床に腰を下ろし、ベッドにすがるように顔を伏せていたビビの肩を、小さく叩く。
はっとなって飛び起きたその身体に、そっと毛布をかけてやった。
「あ、・・・・ありがとう。ウソップさん」
「気をつけろ。どんどん気温が落ちてるから、眠っちまうようならちゃんと毛布かカルーに包まっとけよ。お前まで倒れちゃ、それこそサンジの涙でスープが塩辛くなっちまうぜ」
にっと口の端を上げると、ビビも力のない笑顔を返す。
「・・・・大丈夫よ。ごめんなさい」
「あやまるこっちゃねえよ。ほら、今夜はもう俺が代わる。お前は寝ておけ」
「大丈夫。平気よ」
笑いながら、ちらりと送った視線の先。ベッドに横たわるナミのその苦しそうな寝顔を、俺達は少しの間無言で見つめていた。
「・・・・平気。辛いのはナミさんだもの」
「熱は?」
「さっき測った時は、まだ下がってなかったわ。ああ、タオルを変えなくちゃ」
「ああいい。俺がやるよ。水を取り替えてきたんだ。お前は・・・・やっぱりもう眠れ。ゾロがさっき見張りに立ったからカルーが空いてる。あったかくして、明日また看病変わってくれ」
立ち上がろうとするビビを制して、新しい水に変えたばかりの洗面器にタオルを浸した。
「ううん。大丈夫だって・・・・」
けなげに微笑むくせに、疲労による青白い表情は隠せていない。
「バカ。そんな顔で何言ってんだ。いいから寝てろ」
「だって、女の私じゃないとできないこともあるでしょう? 着替えとか、身体を拭いてあげるとか・・・・」
怪訝そうな顔をビビが向ける。まあ確かにそりゃそうなんだけど、な。
「その時はきちんとお前を起こしてやってもらうさ。そんなことを俺達が気を利かせてやったりしたら、治った時にナミから殺されちまうぜ」
そしてにやりと笑った。
ギイギイと、不吉な音はまだ続いている。
大人しくカルーに包まるビビを見届けてから、冷たく冷やしたタオルをナミの頭に乗せてやった。
熱なんて出したことのない俺にとっては、今のナミがどれだけ辛いのか、その表情から察してやることしかできない。赤く染まった頬は小さなランプの灯りしかない夜の女部屋でもはっきりと見て取れた。呼吸音も荒くて、時々なにかに耐えられないかのように、ひっきりなしに寝返りを打つ。どこか痛いのか聞こうとしても、高熱のあまり意識はずっと混濁したままだ。
ナミが倒れてから丸一日はとうに経過している。俺達はまだ医者のいる島を見つけられずにいた。
俺達は日が暮れると浅瀬を見つけて、錨を降ろしていた。帆をたたみ、船が波や風に乗って動かないように固定する。航海士が熱病に浮かされている今、素人ばかりのこの船で夜の航海はあまりにも危険だからだ。
風もそうない夜なのに、ギイギイと低い唸りが部屋中に響いていた。思わず息を潜めてしまう。
このときばかりはいつもうるさい男たちのいびきが頼もしい。船の見張りを交代で務める他は、普段は男子立ち入り禁止の女部屋にほぼ全員が詰めていた。夜になればもちろん床で雑魚寝をし、交代で起きだして、誰かが必ずナミの側にいた。
誰から言い出したわけではないが。
皆が同じ不安を抱えていたのだろう。
ナミを一人にしたくない、のではない。皆がナミから離れたがらなかった。
深夜、四時を回った。
女部屋の時計の針が揺れる。
ふと、ナミが身じろぎした弾みで、額に乗せていた冷やしたタオルが顔の横にずるりと落ちた。枕もとに座っていた俺がそっと手を伸ばしてそれを取ると、その時に指先が頬に触れたのか、その感触にナミはうっすらと赤い瞼を開けた。
潤んだ瞳で俺を見上げ、掠れた声で小さくもらす。
「ゾロ・・・・?」
焦点の合わない視線で、意外な人物の名を呼んだ。
ゾロ?
「・・・・ゾロじゃねえよ。俺様だ」
「・・・・ウソップ」
吐く息すら熱そうなその呟きに、すこし残念そうな響きが含まれていた。
ゾロ?
それに気づかない振りをして、回りに寝ている皆を起こさないように小声で話し掛ける。
「ゾロなら今、見張りで外にいるぜ」
「・・・・さっきまで、ここにいなかった・・・・?」
「ああ、1時間くらい前かな。今はメインマストに上ってる。見張りの交代時間を短くしてんだよ。一晩に三交代。日が暮れてからは俺で、深夜からサンジ。んでさっきからゾロってな。冬島が近いのかもうめちゃくちゃ寒くてよ。今まで通りに一晩中外にいたら朝になって凍っちまうぜ。ま、そんな寒さなんてこのキャプテン・ウソップにはへっちゃらだがな!」
目の前にぐっと親指を立ててにっと笑うと、ナミは力なく微笑む。だがその微笑みはあまりにも寂しげで、俺の口の端が下がるのが自分でも分かった。
んな、残念そうな顔すんじゃねえよ。
俺の立場がねえだろうが。
・・・・そういうことなのか?
「でも、・・・・ゾロにはもしかして耐えられねえかもしれねえな。よし、ここは俺様が代わってやるか」
「ウソップ」
ベットを離れようと背を向けたときに小さな鋭い声に引き戻された。振り返ると、少し起き上がろうとナミが頭を上げているので慌てて飛んで戻った。
「バカ! な、なんだよ。起きなくていい、寝てろ! 水でも欲しいのか? それとも寒いのか?」
「ううん」
とりあえず毛布越しに肩を押さえて枕に頭を落させる。
「・・・・ゾロに、来て欲しいんじゃねえのか」
「・・・・ううん」
「あんな顔して名前を呼んだくせにか?」
「・・・・なによ。ウソップのくせに生意気なこと言うわね。間違えた、だけよ」
「俺とゾロを?」
そりゃ、苦しい言い逃れだろ。暗い中とはいえ、どうやったらこの俺様の美しいドレッドヘアとあのマリモを間違えるというんだ。
そう訝しんで黙り込むと、ナミは布団からゆっくり手を出して俺の左腕を取った。
「間違えたのよ・・・・。普通さ、熱測る時って、こうするでしょ?」
と、俺の手をそのまま自分の額に当てさせる。やべえ。こいつまた熱くなってやがる。
「でも、ゾロは変わってるのよ。あいつ、こうするの」
そう言って、また俺の手を持ち上げ、今度は手の甲を頬に触れさせた。次に、手のひらを同じように。
それで間違えた、というわけか。俺の指先が、ナミの頬に触れてしまったから。
て、いうか。おい。
「普通、じゃあねえな」
「・・・・でしょ?」
「・・・・違うって。普通、それくらいじゃ間違わねえだろ」
指先がちょこっと触れたくらいで。
俺の指は持ち前の器用さを象徴するごとく繊細で細いが、ゾロの指は太くて硬い。
触ったくらいで間違えるわけは無いと思う。それでも、無意識にその名前を口に出してしまうくらい、こいつは、待っていたんだ。
その無骨な指先を。
かさついた手のひらを。
そういう俺の言葉にナミはぷいと頬を膨らまして視線を逸らした。もごもごと口を動かして「間違えたの」と言い続けている。そんな態度を語るに落ちると言うんだ。
「お前、ゾロが好きなのか?」
少し明るい口調で、冗談めかして聞いてみた。
いつもなら「何言ってんのよ!」と怒りのパンチが飛んでくるか、「バカじゃないの」と冷たく一笑に付されるか、だが。でも今のナミは妙に強がっているがまた一方で妙に分かりやすい面を見せている。熱のせいか、心を占める男のせいか。
それとも自分の明日に不安を隠せないせいか。
ナミは視線だけをこちらに向けた。熱のある瞳はとろんとしていて、睨んでいるのだろうがまったくいつもの迫力が無い。
「・・・・」
「え? 何だ?」
小さな小さな響き。
「・・・・うん。すき」
ほとんど聞き取れないような声でそう呟いて、緩慢な動作で顔を毛布で隠そうとする。その照れたような仕草に、俺はがぼんとバカみたいに口を開けながら、笑おうか、驚こうか、それともこちらが照れた方がいいのか激しく迷った。
その赤い顔は、熱のせいだけじゃなくなっていた。いつもの魔女の表情じゃない。すこし意地っ張りな、それでも恋する乙女の表情になっちまっている。
「そりゃまた世紀の大告白だな、オイ。いいのかー? 俺になんかそんなこと言っちまって」
「うるさい。いいの。・・・・あんたは嘘つきだけど、秘密は守るでしょ?」
「なんだよ。秘密なのか。誰も知らねえのか? ゾロも?」
「・・・・知ってるわけ無いじゃない。あの朴念仁が。鈍いにもほどがあるって位よ」
「まあそりゃそうか」
「・・・・言っちゃ、ダメよ」
ナミはさらに毛布にもぐりこんでその顔を全部隠してしまう。自分でどんな顔をしているのか不安でそれを見られたくないのだろうか。意外なほどのそんな初心な様子に、俺の方が照れてしまってそろそろ笑いを堪えきれなくなった。魔女だ鬼だと思っていたが、やっぱり18歳のオンナノコだなこいつも。
「言わねえよ! やっぱりそーゆーことは自分の口で言った方がいいじゃねえか。お前が言って、そしたらゾロがどんな反応したか聞かせてくれよ! いや、そりゃ楽しみだな。きっとあいつ・・・・」
「・・・・私がこのまま死んでも、言っちゃダメよ」
毛布の下から漏れたような呟き。声のトーンが少し落ちた。
「・・・・何を・・・・」
毛布を握り締めたか細い手が少し震えていた。そのくぐもった、湿った声がナミの涙を俺に伝える。
「バ、バカ! 何ふざけたこと言ってんだよ! おめえがこんな風邪くらいで死ぬわけねーじゃねーか! あーもう、寝ろ、寝ろ! 熱で頭がバカになってんだ」
「ウソップ・・・・」
「ほら、水だ! それ飲んだら目ぇつぶって、もう喋るんじゃねえ。眠れねえんだったら、俺様の冒険談の一説を聞かせてやるよ。どれがいい? 謎の巨大遺跡の探検話か? それとも大盗賊イサック討伐の話か? あーでも、こんな心沸き立つウキウキ話を聞いたら興奮して眠れなくなっちまうか! うん、そうだな! じゃあ、海の歌姫セイレーンも聞きほれたと言うこの俺様の美声で子守唄を・・・・」
「・・・・」
「ほら、何してんだ目ぇつぶれ。・・・・なんだよ。本当にゾロを呼んでくるぞ」
「ダメよ。呼んできちゃ、ダメ」
ちらり、とナミは毛布から鼻から上だけを覗かせた。口元は見えないが、微笑を浮かべているのが目じりで分かった。少し目の端が澄んだ涙で潤んでいるが、それは見なかったことにする。
少し安堵して、スプリングを揺らさないようにナミの枕もとに腰掛けた。洗面器の冷水にタオルを浸し、絞った後にナミの額にそっと乗せる。
ゾロのように頬を触ってやろうかと思ったが、俺がやっちゃいけないことだよな。それは。
「・・・・じゃ、さっさと熱下げろ。早く治さねえと、ゾロにさっきの話ばらしちまうぞ」
「ダメよ。・・・・ちょっとなによそれ。さっき言わないって言ったじゃない」
「うるさい。俺を誰だと思ってんだ? 故郷のシロップ村じゃ『嘘つきウソップ』として有名な男だぞ! あーあ、お前も可哀想に。この俺の弁舌に騙されて、そんなたいそうな秘密をうっかり喋っちまうなんてな。そしてさらに俺は『おしゃべりウソップ』としても評判が高いんだ。この秘密、明日の朝にゃみんなに喋っちまうかもな」
「・・・・そんなことしたら、借金倍増よ」
俺が差し出した水差しの水を一口飲んだナミは、赤い顔で凄んで見せた。
お、後ろのオーラに鬼が見えたな。よしよし。いつもの調子に戻ってきた。
「じゃ、俺が喋っちまう前に、お前が直接言うんだな。そっちの方が恥ずかしくないだろ?」
「・・・・なんでそんな話になるのよ」
「このままずっと黙ってるなんておめーらしくねえ。すぱっと告って、とっととくっついちまえ。なんだ、仲間のことでも気にしてんのか? 別に心配するこっちゃねえと思うぞ。まあサンジあたりは一晩号泣するだろうからメシの支度が心配だし、メシがないとなるとルフィがカルーを食っちまおうと追いまわしかねないけどな。んで怒ったビビがスラッシャー振り回して、乱闘騒ぎの中俺のウソップ工場を破壊・・・・」
脳裏の中に、無残にも破壊された俺のげーじゅつてきな作品群が一つ一つ陳列されてしまったが、ま、いい。ナミのためならもう一回作るくらいへでもねえ。
「・・・・くらいだな。なんだ、なんの問題もねえよ。まあ後はゾロがなんて応えるかだけど、人をたぶらかすのがお前の十八番だ。必殺の口説き文句の一つや二つや十や二十、余裕のよっちゃんだろ」
「・・・・ばーか。余裕なわけ、ないじゃないの」
ナミは少し頬を膨らませて俺を睨んだ。
「これでもねえ、結構長く想ってたんだから。そんな簡単なら、とっくの昔にモノにして・・・・。でも、無理だって。難しいのよ。船の上じゃ全然二人きりになんてなれないし、陸の上じゃルフィのおかげで平和な時なんてないし。そんなこと言うチャンスなんて・・・・」
小さくむせたので、俺は慌てて水を飲ませてやった。「ありがと」とナミは小さく微笑む。
「ああ・・・・、でも、前に、今だ、今言っちゃえって時は、あったわ。今なら、いいかなって。・・・・あいつが、手・・・・握ってきたことがあってね」
毛布の端から、華奢な指先がちらりと覗いた。ナミははしゃぐようにその指先を二三度握り、開いた。
「前に、上陸した港の市場で。凄い人ごみで、はぐれちゃいそうになった時に、いきなり、ね。・・・・まー、あいつにしてみれば、あそこで私に置いていかれたら多分また迷子になっちゃうって思っただけなんだろうけど」
「はは」
「でも、ビックリするじゃない。頭ん中真っ白っていうか真っ赤っていうか、もうこっちはパニックよ。市場を抜けて、港に出て、船の側に戻るまで、こっちは手、放せなくて・・・・」
その嬉しそうな微笑。
「今思えば、あの時言っちゃえば、良かったのかなあ。ゾロだって・・・・放そうとしなかったし、ね」
うっとりとした表情で、ナミはその指先を乾いた唇にそっと乗せた。
そんな様子が、可愛らしいと不覚にも思ってしまった。
だがナミはすぐに表情をくもらせた。
「でも、もうダメ。・・・・言えない」
「言えないって、どうしてだよ」
「・・・・だって」
「だって、何だ」
「言ったら、気にするから」
「・・・・何が?」
ナミの言う意味が分からず、何を聞き返しているのか自分でも分からない。
誰が、何を、どう気にする? お前の、その純粋な恋心を。
「ゾロが・・・・」
「ゾロ?」
「あいつが、私を、気にするでしょ」
「・・・・それの何が悪いんだ。いいじゃねえか。恋っつうもんはそんなもんで・・・・」
「でも、このまま私が死んじゃって、そんな気持ちだけゾロに残していったら、重いでしょ。あいつ、傷つくわ。・・・・ダメ。そんな想い、味あわせたくないのよ」
その言葉に、もう一度、小さな震えを俺は感じ取った。
ギイギイと、船を沈める泡沫の妖精が騒いでいた。寂しい寂しいと、船を暗黒の海底へ引きずり込む、悪魔の声が響く。
「お前自分が本当に」
小さく息を飲む。
「もうすぐ死んじまうと思ってんのか」
こんな熱くらいで。
アラバスタにもたどり着けぬまま。
俺達への多額の借金を回収できないまま。
ゾロに、純粋な気持ちを打ち明けられないままに。
「死にたくは、ないわ」
掠れた響き。
「だって、やっと自由になったばかりで。あんたたちと、本当に仲間になれたばかりで。ビビを国に届けたら10億ベリーが待っていて」
ゆっくりと息を吸いこんだ。
「・・・・初めて、人を好きになれたばかりなのに」
「だったら」
「でも、怖い」
「夢を見るの。真っ暗な中で身動きが取れずに、私を下へ下へ引きずり込もうとする手に捕らわれて」
闇がナミの背後にあった。
「叫んでも叫んでも、何も見えずに何も聞こえずに何の感触もなくなって」
そこから彼女の体に伸びた黒い腕。
「自分っていう形が掻き消えてしまうの。海の底に沈んだように、光が闇に飲み込まれるように」
「こわい」
サビシイ。サビシイ。だから一緒に来てくれればいい。
ギイ、ギイ。泡沫の妖精たちが、船を引きずり込めない代わりに、俺達の守り神に目をつけたのか。
キエタクナイ。キエタクナイ。
「こわいのよ。ウソップ。しにたく、ないの」
ナミの頬に涙が一つ、二つと伝う。
「でも、もう、目を覚ますことができないんじゃないかと思うの。・・・・こんな重たい身体、自分のものだって思えなくて。夢の中に、波の狭間に、闇の向こうに、流れていってしまうんじゃないかって。もう、もどって来れないんじゃないかって」
「この船にも。あんた達のところに」
黒い、黒い、黒い影。
「ゾロのところにも」
ナミを、捕らえようと手を伸ばしてくる。いくつもいくつもいくつもいくつも。
サミシイ。サミシイ。サミシイ。サミシイ。
イッショニ。イッショニ。イッショニ。イッショニ。
「んなことあるか!!」
俺は目の前の小さな黒い手を振り払うように叫んだ。
「バカ! お前はバカだ! 魔女の癖に、何弱気になってんだ・・・・! おめえが、こんなことくらいで、死ぬなんて・・・・、んなことあるかよ・・・・!!」
ああダメだ。
こんな言葉じゃ、ナミを救ってやることができない。
俺の言葉なんて、何の役にも立ちはしない。肝心な時に、必要な一言が出てこない。
「ウソップ」
「・・・・なんだよう」
「・・・・あんた、泣いてるの?」
見下ろしたナミの顔に、ぽたり、ぽたりと雫が落ちた。
「・・・・うるせえ」
ぐしっと腕で乱暴に顔を横にこする。
音が嫌だ。
波に船がきしむ音が嫌だ。
あいつらはナミを連れて行こうとしている。
海の底に、闇の向こうに。何もない、真の孤独な世界の中に。
俺じゃ、ダメなんだ。
俺じゃ、ナミを引き止めてやることができない。
多分。
・・・・あいつにしか。
「・・・・ウソップ」
不安げなナミの声が耳に響く。だが、もう俺は自分の顔を向けることができなかった。
「・・・・約束しろよ」
「・・・・え?」
「約束しろって言ってんだよ!」
俺はそのまま一目散に女部屋を飛び出した
寝ている誰かの足だか手だかを踏んだような気がしたが、俺はもうそんなことにかまってられなかった。涙でぐしゃぐしゃになった顔をさらにぐしゃぐしゃに捏ねる。
ナミの小さな声が背中に刺さる。だがそれにすら、振り向けなかった。
お願いだよ。
ナミだけは、連れて行かないでくれ。
あいつは、ようやく幸せになれるところなんだ。
縛り付けていた鎖を外して、海に出れたんだ。もう、自由なんだ。どこにだって、誰のもとにだって、行ってもいいんだ。
なのに、暗い海の底などに、どうしてお前達が連れて行ける?
がむしゃらに倉庫の扉を開けて、まっすぐメインマストのロープにしがみついた。乱暴な音を立ててそれによじ登ると、上からゾロの声がする。
俺の名を呼んでいた。大きな声で、何事かといぶかしむように。
「ゾロ・・・・、ゾロぉ・・・・」
泣きながらその声にすがるように、ようやく見張り台までたどり着く。
「おい! どうした」
俺の顔を見た瞬間に、ゾロの顔からすっと血の気が引く。月の光に照らされて、本当に青く、温かみを持てぬように。
見張り台の中に転がり込んだ俺の肩を掴んだ。
「なんだ? 何があった?」
だが、俺の口からは一つの言葉しか紡ぎ出せず。
「ナ・・・・ナミ。・・・・ナミんとごろに・・・・早ぐ」
鼻水に詰まった声は、それ以上喋ることができない。
「ナミがどうした!?」
「ナミが・・・・ナ、ナビが・・・・」
連れていかれそうなんだ。可哀想なんだ。怖がってんだ。不安がってんだ。
死にたくねえって、言ってんだ。
お前を、好きだって言ってんだ。
側にいてやってくれ。
あいつらから守ってやってくれよ。
もう、言葉にはならない。俺はただ、「ナミ」と、そればかりを繰り返していた。
ゾロはそんな俺を二三度揺すぶった後早々に見切りを付け、そのまま見張り台からほとんど飛び降りるように下に下りていった。扉を壊さん勢いで女部屋に飛び込んでいく。その後姿を見送ることもできずに、俺は祈った。
願った。
月の光でやつらが命を持つと言うのなら、月ごと俺が撃ち抜いてやってもいい。
小波の白い泡に彼女が魅入られたと言うのなら、俺が世界の海の水を飲み込んでやる。
だから、死ぬな。
泣くな。
怖がるな。
生きてくれよ。
そしてまた、笑ってくれ。怒ってくれ。俺達の船を導いてくれ。
幸せに、なるんだ。
そう、約束、しろ。
******
予想と反してしんと静まり返った室内に一歩踏み込んだとき、ゾロは荒い呼吸と激しい動悸に眩暈を覚えた。いぎたないいびきの音と、すこしよどんだ空気。くらりと意識が混濁する中、それに気おされながら、ゆっくりとナミの横たわるベッドに近づいた。
心臓をわし掴みにされたように、全身の血液が凍ってしまったように感じつつ、おそるおそるその枕もとを覗き込んだ。
その静かな表情に、一瞬息を飲む。
だが、閉ざされた瞼が、小さく揺れた時。
「・・・・ゾロ?」
「・・・・ぁ」
不思議なほどに掠れた喉で、なんとか搾り出した声は自分でも聞き取れぬほどだった。
「・・・・どうしたの?」
「・・・・あ、あ・・・・ウソップが・・・・」
全身からどっと汗が噴出す。
・・・・あのやろう。
ゾロは汚らしい泣きっ面で飛び込んできた狙撃手に、心の中で小さく悪態をついた。
「・・・・ウソップ、どうしたの?」
もしや激情に駆られて、さきほど口止めした秘密を喋ってしまったのではないかとナミは震え上がったが、声だけは平静を装おうとした。もとより熱で鈍くなった感覚では、気持ちをあらわに喋ることなどもできないのであるが。
そんなナミの内心などもちろんゾロは気づくはずもなく、そっと、ナミの枕もとに近寄る。
振動に注意しながら、静かにナミの頭の横に肘をつき、ベットサイドに膝まづいた。
「・・・・びびった」
大きな溜息が、ナミの鼻もとをくすぐった。
「・・・・何?」
「・・・・ウソップが、泣き顔さらして飛び込んで来やがったから」
ゾロはそっと、大きな手でナミの頬を撫でた。びくりとナミが震えを覚える。熱のせいの悪寒ではないことは、おそらくゾロは気づかないだろうが。
「てっきり」
「・・・・死んじゃったかって、思ったの?」
沈黙は肯定の意。
眉根を寄せて黙り込んだゾロに、ナミは儚い微笑を返した。
「笑い事じゃねえだろ! 本気で・・・・、本気でびびった・・・・。あいつ明日覚えてやがれ」
真っ赤なその頬を見つめながら、ゾロはもう一度大きな溜息をつく。ゆっくりと、頬を撫でる。その感触を、刻み込むように。確かめるように。
「・・・・また熱くなってやがんな」
「・・・・そう、かな」
「まあ・・・・冷たくなるよりかは、ずっといい」
ゾロはにやりと口の端を上げて、もう一つの頬も空いていた左手で包みこんだ。 冷え切ったその手のひらが熱を奪っていってくれる気がする。
「・・・・ウソップと何があった」
まっすぐ見つめるゾロの瞳は、おそらくナミの頬に残された涙の筋を見つけていたのだろう。指先でそれを辿りながら、ナミの耳元に囁くように話す。
普段見慣れない近距離のその表情は優しげで、ナミは不思議な安らぎを覚えた。いつもはこうはいかないのに。ドキドキして必要以上に過剰な反応を見せてしまいそうで、慌てて目をそらしてしまうのに。
包み込むようなその眼差しに、ナミは心の奥底が柔らかくほぐされ、不安に駆られるだけの先ほどとは違う、暖かな涙でじわりと瞳が潤むのを自覚した。声を出す唇が震える。
「・・・・怒らせちゃった」
「何を」
「・・・・言えない」
言えはしない。目の前にその男を前にしては。
熱のこもった大きな溜息が宙を舞う。
「・・・・でも、私が悪いの」
「そうか」
ゾロの応えは短かった。
「だったら、お前が謝りゃいいだけの話だ。・・・・んな、辛そうな顔すんな」
そのまま、小さくこつんと額を合わせた。
子供に対するようなゾロのそんな仕草も、今のナミには心地よかった。
約束をしろ、とウソップは言った。
「・・・・じゃ、俺は見張りに戻る。ビビを起こしていこうか?」
ゆっくりと頭を持ち上げ、ゾロは名残惜しげにナミから手を離した。
「・・・・ううん。大丈夫。また、眠る」
その手が離れていっただけで、またいいも知れぬ不安が襲ってくるなど、到底口には出せない。ナミは毛布の端を握り締めていた手をそっとその中に戻し、瞳を、閉じようとした。
約束をしろ、とウソップは言ったのだ。
もう一度目を見開いた時、穏やかな微笑を残しつつ背を向けようとしたゾロと、ふと目が合った。
そんなナミの様子を見やって、ゾロが改めて向き直る。
約束。
何の、などとは問わずとも分かっている。
「・・・・寝付くまで、居て?」
すぐに本当の気持ちなど伝えられないけれど。
「・・・・怖いの」
少しだけは、素直になって。
じゃあビビを、と言いそうになったゾロを、手を差し出して制止する。
「・・・・ゾロに、居て欲しいの」
ゾロは無言でその手を取った。
ためらいは、見せなかった。
− 涙 FIN −
(2005.07.03)Copyright(C)ソイ,All rights reserved.
<管理人のつぶやき>
ケスチアで苦しむナミ。病のせいかいつもより気弱で素直になっている。そこへウソップの鋭いツッコミにあい、ナミはゾロへの気持ちを認めるのでした。
ウソピのひょうひょうとした物言いに救われながらも、ナミの状況には胸を締め付けられます。
病に冒されてもゾロのことを慮るナミの気持ちがまた切ない;;。
でも、病状急変かと駆けつけたゾロを見てると、この恋には確かな未来がありそう。
投稿部屋で活躍中のソイさんがナミ誕に投稿してくださいました。
漢・ウソップが魅せてくれます、これがゾロナミのピュアラブだ!(笑)
三部作の予定で(あ、書いてよかったのカチラ)今回は「涙編」です。
ソイさん、素敵なお話をありがとうございました。
それから・・・・・がんばってください!!(力コブシ)
このお話の続きは「漢・ウソップ 恋の手助け百戦錬磨 〜告白〜」です。
恋の進展やいかに?^^