その凛とした顔を、翠色の髪を、目にした瞬間。
あ、美しい、と思った。







夜、夢照らされ・・・   前編

            

高木樹里 様


ドボンという深い音。
続いて、水面より落下してくる千の粒のあぶく、大小様々な気泡に包まれ、沈んできた人間。

海に落ちるなんてドジな水夫ねぇ、とナミは呑気にそれを見上げた。

そのまま溺れさせておいても一向に構わなかったのだが、たまたま通りかかっただけとは言え、人を見殺しにするのは翌朝の目覚めが悪いだろうと、とりあえず近寄って抱きかかえる。

“その瞬間”は、ナミが人間の顔を真正面から見た時だった。


閉じた瞼は柔らかな曲線を描きながらも、その奥の強い志をしかと閉じ込め。
すっと伸びた眉と鼻筋が、不屈の精神を象徴している。
峻厳な顔立ちは、そのまま己への厳しさを示しており。
短い髪は、彼が生まれた大地と同じ色だった。


何故そのように捉えたのか、自分でも分からない。
ただその時、ナミは確かに、美しい、と感じた。

柔らかに煌く彼女と同類の美ではない。
己の信ずるところひたむきに生きる、凛然とした輝きだった。


・・・あ、なに考えてるんだろ、人間相手に。

はっとしたナミは、慌てて首を横に振って心中の感情を振り切り、腕の中の男を改めて眺める。


意識は無い。生きてはいる。恐らく、何かの弾みで頭でもぶつけて、そのまま海に落ちてきたのだろう。
ならばとにかく、海上に戻してやらねば。


ナミは男の薄い唇に自分のそれを押し当て、空気を分け与えてから、オレンジ色の尾ひれを大きく蹴って水面を目指した。















・・・どこだ、ここ。
ぼんやりと開いた目に一面の青空を映して、ゾロはぼーっと考えた。

突如現れた巨大な魚に、昼寝の邪魔をされたところまでは覚えている。すぐさま一刀両断にしてやったのだが、乗っていた小船を引っくり返され、腹をむき出しにした船底になんとか着地したものの、ずるりと滑って後頭部をしたたかに打ちつけ、そのまま海面に転がり落ちて・・・。

あぁそうだ、大方こんなところだ。
まったく阿呆なことをした。

しかしそれでは、どうして海岸に寝転がっているのだろう。運良く打ち上げられたのだろうか。
状況を把握する為ゆっくりと起き上がってみると、頭がズキズキと痛んだ。ぶつけた箇所に手を伸ばせば、なるほど見事に膨れ上がっている。


「あら、目、覚ました?」

突然、あらぬ方向から声が飛んできた。反射的に腰の得物に手を伸ばし、低く構える。頭のコブが鈍く唸ったが、そんな素振りも見せずに、ゾロは「・・・どこにいる」と低い声で問い返した。

「やぁね、そんな恐い声出さないでよ。これでも私、あんたの命の恩人なのよ?」

野生の獣のような警戒心を耳に肌に感じて、それはクスクスと笑った。

「あんたの目の前の、波際の岩の影にいるわ。あいにく、姿を見せられないの。悪いけど声だけで相手してくれない?」

心地良いソプラノの声音。間違いない。

女の声だ。

「・・・ちょっと待て。命の恩人ってことは、俺を助けたのはお前か?」
「そうよ。溺れてるとこに遭遇したから、岸まで運んであげたの」
「そんで、姿を見せられねぇってのは、俺を助けたせいで怪我を負って動けなくなったとか、そういうことか?」
「ちょ、違うわよ!」

自分を救助してくれた人が動けずに海に留まっているのかと、岩場に駆け寄ろうとしたゾロを察し、彼女は慌てて否定した。

「無傷よ。でも姿は見せられないの!頼むからそこにいてったら」
「何だそりゃ。どういうこった」
「こっちの事情よ。あんたには関係ないから追及しないで。恩人の要望が聞けないの?」

そう言われては、無理に聞き出しはできない。ゾロは仕方なく、もう一度浜にどっかりと腰を下ろした。

「・・・お前、名前は?」
「まず自分が名乗ったらいかが?」
「あァ、悪ィ・・・ロロノア・ゾロ。16だ」
「ふぅん。私はナミ」

ナミと名乗る女の音声は、やけに楽しげで。
ゾロは、顔も見ていない少女の、含み笑いする表情を想像した。

「ゾロ、あんた、どこの船の水夫なの?」
「・・・水夫?」
「船から落っこちちゃったんでしょう?あぁ、船に戻してあげられなくてごめんね、探したけど見つからなかったのよ」
「だろうな。あんな小船だ、沈没したに決まってる。それに俺は水夫じゃねぇ、ただの剣士だ」
「・・・え?」

ナミの声がきょとんとする。

「なんで、ただの剣士が船に乗ってたの?それに、船が沈むときみたいな渦は見てないわよ。大体、他の乗組員は?」
「乗組員なんかいねぇ、俺一人で乗ってた。船ったって一人用の小せぇチャチなヤツだからよ、沈没船の大渦なんか無くて当然だ」

なんとまぁ、呆れた。
彼女の暫しの無言と溜め息が、何より雄弁に語っていた。

「ってことはナニ?このだだっ広い大海原を、小船一隻で、たった一人で・・・航海してたの?」
「航海っつうか・・・どっちかってーと漂流だな。もともとアテなんかねぇんだ」

聞けば聞くほど眩暈がしてくる。
何と無謀な人間がいたことだろうか。

ナミは思わず、白い手で額を押さえた。

「・・・あんた、よく今日まで生きてこられたわね」
「おぅ、鍛えてるからな」

あべこべな返答が、今度は頭痛を連れてきた。



「日が落ちるわ。・・・あんた、そろそろ宿でも探しなさい」
「宿?金なんかねぇよ。船が引っくり返ったときに、手荷物は全部落ちたんだ」
「じゃ、どうするのよ」
「構わねぇ、野宿する。お前は?家はあんのか」
「当たり前でしょ。私ここらへんの・・・住民だもの」
「そうか」

ゾロはよっこらせと立ち上がると、海を背にして歩き出す。
3歩進んだところで、ふと足を止め、振り返った。


「そういや、礼をしてなかったな。・・・助かった、ありがとう」



その台詞に、ナミは返答しなかった。
否、できなかった。己の不注意に、すぐそこまで出かかった「人魚だもの」という言葉を、もし口を滑らせていたらと思うと、これ以上口など利けなかったのである。




















海底に戻ったナミは、人魚達の集落の間を駆け抜け、ねずみ返しのような形をした大岩の前にやって来た。
水流に削られ渦に耐え、珊瑚に隙間無く覆われた巨大な姿は、畏怖だけでなく貫禄すら感じる。

「ロビーン!いるー?」
岩の奥の、ほとんど日の光の届かない暗がりに向かって、その名を叫ぶと。

「どうぞ」
微笑を添えた答えが聞こえて、ナミはいそいそと岩の奥へと潜っていった。



「人魚姫ともあろう方が、そうも気軽に魔女を呼ぶのは問題なのではなくて?」
絹のような黒髪を流した女が、にこっと歓迎の笑顔を浮かべて尋ねる。
奥の部屋へ通されたナミは、ツンとそっぽを向いて尾ひれをバタつかせた。

「だぁから、何なのよその『人魚姫』って。私は王族みたいな仰々しいものじゃないの」



ナミは、人魚の小国の長ベルメールの末娘である。
長と言っても、特に権力があるわけではなく、むしろ皆の取りまとめ役と言った具合だったので、ナミは町長くらいのものにしか考えていなかった。
活力の塊のような母の性格はそのままに、娘のナミは、オレンジ色の髪と尾ひれをなびかせる、類まれなる美女に生まれ育った。
小ぶりな顔に大きなくりくりとした瞳、白い肌、細身の体にはアンバランスなほどの大きさの貝を使った胸当て、尾ひれには形の良い鱗が乱れることなく並んでいる。
海に住む者達にとって、その存在は、母親の地位を考えずとも『姫』と呼ぶに相応しいものだった。


「あら、ご機嫌を損ねてしまったかしら。ところで、今日はどういったご用件?」
「そう、本題よ。お願いがあるの、ロビン」

ナミは身を乗り出した。が、対照的にロビンは僅かにだが顔を曇らせた。

「・・・この私に『お願い』するということは、何を意味するか、分からない貴女ではないでしょう」
「分かってるわよ。その上で来たの」

ナミの口調は強い。

「・・・なるほど。では聞きましょうか、貴女の望みを」


自らを魔女と呼んだ黒髪の女は、オレンジ色の人魚の真正面のイスに腰掛けた。





「会いたい人がいるの」
「・・・まぁ」
「顔を隠して話をするんじゃない・・・“会いたい”のよ。もう一度彼の顔を見たいの」
「人魚姫、恋煩いかしら?」
「そーゆーんじゃなくてっ!!」

男にもう一度会いたいと言っているのだと察知したロビンは、笑みの消えていた表情をほんの少し綻ばせた。
人魚の頬に朱が上る。

「別に惚れてなんかいないわよ!なんか昨日いきなり海に落ちてきたと思ったら、水夫じゃなくて剣士だって言うし、第一たった一人で漂流してたなんてバカにも程があるっての!命知らずなんてもんじゃないわよ!」
「ずいぶん詳しく知っているのね」

からかうように加えたが、ロビンははたと、訝しげな面持ちを見せた。

「剣士で、漂流って・・・その『彼』は、人間なの?」
「うん」

ケロリと答えるナミに、ロビンは今度は驚きを露にする。

「人魚の貴女が人間に存在を明かすなんて・・・掟を破ればどんな災厄が降りかかると思っておいで?」
「姿は見せないまま会話だけしたのよ。私の正体はバレてないから大丈夫」

堂々と抜かす人魚。いい根性をしている、とロビンはかねてから何度か受けていた印象を、更に強くした。


「それで、その彼に会いたい・・・と」
「そう」
「けれど、人魚が人間に会うことはできないのでしょう」
「そう」
「では、どうやって会うのかしら?」
「だからこそ、ロビンの力を借りたいの」



ナミは、そこで一つ大きく息を吸って、目の前にいる女の両眼をひたと見据えた。






「私を、人間にして」




「本気なの?」
「当然」
「いいえ、本気とは思えないわ」

ロビンは決然と言い放った。


「人間になって、彼に会えたとしても、その後どのように生きていくおつもり?人魚であることを捨てたら海には帰れないわ。かと言って陸に当てなど無いでしょう。その一つの目的だけに、未来を手放すとおっしゃるの?」

「目的の後のことなんて、考えてないわ」

ナミとて断然たる態度を崩そうともしない。

「会いに行きたいの。もう一度彼の顔を見たいのよ。ただそれだけ。それだけでいいの」


何故こんなにも願うのか、自分でも分からなかった。
ただ、今この瞬間、ひたすら強烈に惹かれていた。
大きな磁石に吸い寄せられる砂鉄の如く。
あの凛とした顔立ちに、低音の声に、彼という人間が持つ美しさに。

あいたい。あいたい。あいたい。もう一度だけでも。


「お母様には、何と説明するの?」
「何も言うつもりはないわ。行く直前に手紙くらいは残していこうと思うけど」
「・・・きっと悲しまれるわよ」
「うーん、そうかもね」

人魚は岩の天井を仰いだ。

「でも、母さんに逆らってでも行きたい・・・本当に会いたいの。大事にしてもらったと思うし、正直申し訳ないけど。でも、それでも私の心は変わらない」

語るナミの瞳には、覚悟の色が映っていた。


「・・・もう、考え直してもらうことはできないようね、お姫さま」
「うん」
そう言うと、ロビンは小さく溜め息をついた。

「それでは望みを叶えてさしあげましょう。けれど私とて、タダでという訳にはいかないわ」
「・・・あら、散々『姫』って呼んだクセに、代価は要求するの?魔女さん」
「お姫さまに免じて何もいただきません、とは言えないのよ」

それを聞いたナミは、ニヤリと悪戯っ子のような笑みを見せた

わざと可愛らしく首を傾げ、相手の顔を覗き込む。
「ふーん?オルビアなら何て言ったかな?ねぇ、ロビン?」

黒髪の女はそれを聞いて、可笑しそうに笑った。
「貴女の方が、よほど魔女のようね」



ロビンの母オルビアは、長くこの海底の洞穴に住んでいた銀髪の魔女である。
彼女の亡き後、この岩窟の主はロビンとなった。
魔女とは、海に住む魚や人魚、その他様々な生き物とはまた別の次元を生きる、魔力を持った一族の名称。
全盛期より人数が減り力も弱まったと聞くが、それでもまだその不思議な能力は健在であった。



駆け引きを余裕の微笑でかわされたナミが、仕方ないわねという表情になる。
「・・・で、私は代わりに何をすればいいの?」

するとロビンは、赤く尖った爪のついた細長い人差し指で、すっとナミの顎を持ち上げた。
その顔には、悠然とした魔女の笑み。

「・・・ナミ姫。私が何を求めているか、ご存知?」
「・・・“歴史の本文(ポーネグリフ)”」
「その通り」


魔女曰く、魔力を高めることはそのまま世界の真実を知ることに繋がるらしい。
全てに通ずる真理の先にこそ、真の力はあるのだと。
だからロビンは、長年“歴史の本文”を探求していた。
過去に学ぶことで真実を知ろうと、彼女はその歴史の刻まれた石を探し続けていたのだ。

そして、この人魚の集落にも、小さなものではあるが、“歴史の本文”があった。
それはここら一帯の人魚の守り神として、代々長が受け継いできた、伝統ある物だった。


「あれは集落の宝なのよ。私が勝手に持ち出す訳にはいかないわ」
「ならば私も動くことはできない」

穏やかな口調と不動の笑顔。
睨み合うこと、30秒間。

オレンジ髪の少女は暫く迷っていたが、やがて腹をくくった。
魔女に敵う者などいまい。


「・・・分かった。盗ってくるわよ」
「まぁ、悪いお姫さまね」

白々しい感想に、ナミは大きな目でジロリと睨む。
「何よ、そうするしかないって分かってて要求したくせに」

ロビンはただ、微笑んだ。




















集落が寝静まるのを待って、ナミは小さな古城の中の自室から廊下へ出た。
美しく珊瑚で彩られた通路を音もなく走り、宝物庫へと向かう。
幼い頃から通ってきた道だ。悪戯で母の宝石を持ち出し、挙句こってりしぼられたのも一度や二度ではない。
けれど今夜ばかりは訳が違った。見つかってはならないのだ、絶対に。

「・・・大丈夫、母さんも明日早いからって寝てるし、見回りもいないわ」

自分を勇気づけるように小声で呟き、隠し扉を潜ろうとした瞬間――


「あれ?んナーミさまー!」

能天気な声が静まり返った城内に響き、ナミは飛び上がって驚いた。
心臓が口から飛び出そうになるのを、かろうじて飲み込む。


「さ・・・サンジ君、何で起きてるの・・・?」
口元に引きつった笑みを貼り付け、不自然な動きで振り返りると、目の前にいたのはコック帽を被った金色の魚。
ナミに首っ丈なことで有名な、城の料理長・サンジの姿があった。

「オレは明日の朝食の仕込みで・・・あぁ、新人が鍋引っくり返しちまって、手間取ってたんですよ」
「あ、あら、それはご苦労様」
「いやいや、ナミ様の為なら一品たりとも手は抜きませんとも!それより、ナミ様はこんな時間にどう――」
「しーっ、しーっっ!」
ごく自然な質問を口にしようとするサンジに、姫は大慌てで唇に人差し指を当てた。

「・・・サンジ君。お願い、どうかこのまま、部屋に戻ってくれない?そして、今夜のことは誰にも何も言わないで、絶対に」
「・・・へ?ナミ様、何を・・・」
「言えないの」

サンジは、今まで見たことのない、これ以上ないほど真剣なナミの表情に押されていた。

「とっても大事なことなの。バレちゃいけない――秘密なの」
「・・・しかし、プリンセス・ナミ、この先って――」
「サンジ君、お願い」

顔の前で手を組み、上目遣いで見上げる。
この表情にサンジを始めとする男達が弱いことを、ナミは熟知していた。

案の定、サンジは、訳知り顔でゴクリと生唾を呑んだ。

「プリンセスがそこまでおっしゃるのなら・・・オレなんて到底及ばないような、高貴な理由をお持ちなのでしょう。心得ました。このサンジ、今夜見聞きした全ては、オロすと言われても決して口を割りません。誓いましょう」
「ありがとう!サンジ君♪」

ナミは手を叩いて、魚の頬に口付ける。
両目をハート型にした料理長は、クネクネした泳ぎで寝床へと戻っていった。


「・・・ふぅ。伏兵、退治」

真顔に戻ったナミは、鼻息も荒く今一度向き直り、隠し扉の奥へと消えた。




















翌朝、ナミは再び洞窟の奥のロビンの前にいた。

「これでしょ?“歴史の本文”」
白い手が差し出したのは、一辺が15cmほどの、キューブ型の石。
その正面には、古代文字と思しきものがびっしりと彫られている。

ロビンは石を手に取り、うっとりと眺めた。
「・・・ありがとう。素敵ね・・・早速解読にかかりたい」
「そ・の・ま・え・に!契約でしょう。私の望みを叶えて」
むっとするナミに、ロビンは「もちろんよ」と微笑んだ。

「けれど、もう一度だけ確認させてちょうだいね。何せ、魔女の呪いは魔女でも解くことはできないの――貴女は、人魚であることを永遠に捨てるのね?」
「えぇ」
「人間として一生を生きるのね?」
「えぇ」
「海での生活と、これからも海で生きる全ての人たちを捨てる・・・それでいいのね?」
「・・・えぇ」

後戻りはできない。
何もかも覚悟の上で、ナミは一度大きく息を吸ってから、うなずいた。


「人間になる為なら、惜しくはないわ」


全ては彼にもう一度会う為――


「その決断力は、さすが王女と言うべきかしら」
黒髪の魔女は感心したように小さく笑った。



ロビンは不意に立ち上がると、ナミの横に膝立ちになった。
傷一つない雪肌をなぞり、肩付近でその手が止まる。
長い指の関節が曲がり、尖った赤い魔女の爪が皮膚に食い込んだ。

「汝、空気と光の統べる処に立たんことを・・・Pierna Fleur」

薄い唇が呪文を囁く。

爪が模様を描くと、血が浮き上がり黒く固まり、やがて肩に紋様が彫られた。
S字を2つ、十の字に組み合わせたような刺青。その上部には、葉の付いた果実が1つ実っている。

「・・・はい、おしまい。薬師さんに調合を頼んであるから、その秘薬を飲めば貴女の身体は完全に人間になるわ」
「あれ、薬がいるの?ロビンの呪文でたちまち人間になっちゃうのかと思ったのに」
「ふふ、そんなことしたら、貴女はこの場で溺れ死んでしまうでしょう?・・・かつてオハラにいた全盛期より、魔女の力は衰えているのよ」

あとそれから、と、ロビンは立ち上がりながら人差し指をピッと立てた。

「この呪いは、貴女が『彼』に会う為だけのものであって、それ以外の目的は果たせないの。つまり、貴女のその心は『彼』と共になければならない。もしも『彼』が貴女から離れていくようなことがあれば・・・貴女は、自らの身体も命も保つことはできないわ。勿論、逆も然り。覚えておいて」

突然の重要な忠告に、ナミは驚きつつもこくりとうなずく。
ロビンが自分のイスに腰かけたちょうどそのとき、コンコンとドアをノックする音が響いた。

「ロビン?依頼人はいるか?」
「えぇ、どうぞ」

その招きにドアを開け入ってきたのは、背丈の低い二足歩行のトナカイ。

「久しぶりだね、チョッパー」
「おう、ナミ、薬できたよ」

青鼻の可愛らしい薬師が、ビーカーに入った桜色の液体を差し出す。
しかし、その表情は、どちらかと言うと受け取ってほしくなさそうだった。

「・・・何があったのか知らないけど・・・ナミが人魚じゃなくなっちゃうなんて、寂しいぞ、おれ」
「ごめんね、チョッパー」

ナミも悲しそうに笑った。










薬の入ったビーカーの他は何も持たず、ナミは海面に顔を出した。
目の前には、島の海岸が横に広がっている。


この向こうに、彼がいる。


ナミは目を瞑って、ヌルリと喉に残る苦い液体を、一気に飲み干した。




















町をブラブラと歩いていたゾロは、いつの間にか中心街を抜け、人気のない場所に出ていた。

「あ・・・?聞き込みしようにも、通行人がいなきゃ仕方ねぇじゃねぇか」
自分の足で歩いてきたというのに、今いる場所に人間がいないことにぼやく。

すると――一人、“人間”が視界の端に現れた。

少女だった。
オレンジ色の髪をした、自分と同じくらいの年と思われる美少女。
だが、容姿よりも目を見張るのは、その歩き方だ。生まれたての子鹿のように、おぼつかなくフラフラとしている。

どうしたのだろうと感じつつ、とりあえず声をかけてみた。

「おい、お前――」

しかし、ゾロの言葉が終わる前に、こちらに気づいた少女がぱぁっと顔を綻ばせた。
輝くような笑顔で、よたよたと駆け寄ってくる。

「ゾロ?ゾロでしょ?!うわぁ、こんな早く会えるなんて!!」

飛びついたつもりだったのだろう、少なくとも本人は。
しかし、彼まであと1歩というところで少女の足首はぐにゃりと折れ曲がり、結果、ゾロの臍のあたりに腕でしがみついてぶら下がるという、なんとも不恰好な形になっていた。


それでもオレンジの髪の下の表情は、至極嬉しそうに破顔している。

対するゾロは、見知らぬ女に突然名を呼ばれ、更には抱きつかれ、硬直していた。

「・・・オイ、てめぇ、何者だ」
「え、分かんない?」
「てめぇみてぇな女は知らねぇ。何なんだ!何で俺の名前を知ってんだ!」

先日岩越しに聞いた通りの、警戒心剥き出しの声。
それをより至近距離で直に浴びせられ、ナミはびくりと怯んだ。

「べ・・・つに、怪しい者じゃないわ。ナミよ、覚えてないの?」

ナミ。
その名を聞いて、彼は目を見開いた。


先日海岸で話した、姿を見ることは叶わなかった『命の恩人』。
澄んだソプラノの声音。クスクスと楽しそうな含み笑い。

あの女か。

「・・・言われてみれば、声が同じだな。お前が・・・ナミ、なのか」
「うん」
「あのときは声だけで相手しろっつってて・・・今日は、出てこれるのか」
「う、ん・・・まぁね」
「そうか。・・・何にしても」



「会えて、良かった」


予想だにしない言葉が、男の口からナミの耳に滑り込んだ。



「・・・え?」

赤面してその顔を見上げる。
人魚の身体を捨ててでも、両度目にしたいと焦がれた凛々しい表情が、そこにあった。


「いろいろ聞きてぇこともあるが・・・とりあえず、結局怪我してんじゃねぇか、お前」
「怪我?」
「足、どうしたんだ。何にやられた」
「えっ・・・と、これは・・・」

ぐらぐらと危なっかしく揺れる両足を見下ろすナミ。

当然だろう、生まれてからこの方、ずっとこの下肢は髪と同じ色の尾ひれだったのだ。
歩き方など知るよしもない。
更に、秘薬の副作用か、裸足の足の裏が地面につく度に、突き刺すような鋭い痛みが走っていた。
こんなもの何でもないと、ナミは気張っていたのだが。

「怪我じゃなくって・・・まぁ、言ってみれば病気、みたいな」
「病気?」
「うん。でも、大丈夫だから」
「そうかよ」

生返事もそこそこに、じっと見つめられる。
前回は意識を失ったところに遭遇したので分からなかったが、瞳も髪と同じ翠色なのだと気付いたナミは、目を逸らせなかった。
視線に射抜かれ、胸の奥まで見透かされているような気になって、心臓が落ち着かない。


「怪我だろうが病気だろうが、つまりは歩けねぇんだろ?」
「や、頑張ればどうにか歩けるわよ」
「いや、その必要はねぇ、ここでいい」

そう言ってゾロは、その場にどっかりと腰を下ろした。
地べたに胡坐をかいて、ナミにも座るよう促す。


「お前、ここらへんの住民だって言ってたよな。教えてくれねぇか、“鷹の目”って男が、最近この町にいたか?」


唐突な質問に、ナミは呆然としてしまった。
『住民』と言っても、ついさっきまで海で暮らしていたのだ。
陸に誰がいて誰が来たかなど、彼女に分かる筈もない。

「たかのめ?誰それ」
「・・・いや、知らねぇんならいい」

返すゾロの言葉には、はっきりと失望の色が見えた。
正直に答えただけなのに、なんだかナミは悪いことをしたような気分になる。


「ゾロは、その人に会いたいの?」

ソプラノの声が問い返す。

ナミが何もかも捨てて彼を追い求めたように、ゾロにも探している人がいるのだろうか。
そう思うと、手を伸ばせば触れられる距離にいる彼が、急に遠のいたような気がした。

ナミの質問に、ゾロはぼりぼりと頭を掻く。

「会いたいってか・・・挑みたいんだ」
「挑む?」
「あぁ。・・・剣で、勝負したい」

呟きながら、ゾロは腰の3本の刀を手で示す。


「世界一の大剣豪になる為には、世界一だっつぅ奴を倒さなき
ゃならねぇだろ」

『世界一』の言葉を発するとき、彼の手は白い鞘の刀をぐっと
握り締めた。

「倒すって・・・これ真剣でしょう?それで勝負するの?」
「当たり前ぇだろ。あっちも真剣だ、木刀なんかじゃねぇよ」
「負けたら死んじゃうわよ?!」
「だろうな」
「だろうなって・・・」

怯えたような表情で見上げるナミに、ゾロは苦笑した。


「そりゃ負けたら死ぬさ。この道に生きると決めた時点で、いつ死んだっておかしくねぇんだよ」
「だって、いきなり死んじゃったら・・・!」
「別に困らねぇ。・・・守るもんとか、ねぇからな」



この瞬間。
16歳の少年の双眼に、年相応の一抹の寂しさがよぎった。



(ゾロ・・・?)

刹那吹いた木枯らしは、ナミの心にダイレクトに届く。




「果たすと誓った約束ならある。それだけだ」
「それだけ?他に大事なもの、ないの?」
「・・・ねぇな。あったかもしれねぇけど、全部置いてきた」

全ては、親友との約束を果たす為。

剣以外の全部をかなぐり捨てて生きるゾロの姿に、ナミは、薄く自分を重ねた。



「ゾロってさ、この町の人じゃないのよね?」
「あ?・・・そうだな」
「どこから来たの?」
「シモツキ村ってとこだ」
「遠いの?」
「あー・・・まぁ、村出てからかなり経ってっからな・・・分かんねぇ」
「『約束』って何?」
「さっきから言ってんだろ、世界一の大剣豪になることだ」
「誰と約束したの?」
「村の親友だよ。・・・もうずいぶん前に死んだけどな」
「ふぅん・・・その人も、剣術が使えたの?」
「あぁ。俺より強かった」
「へぇっ!『たかのめ』よりも?」
「いや、そりゃ知らねぇよ。“鷹の目”は今世界で一番強ぇ剣豪だ」
「じゃ、そいつ倒せばゾロが一番じゃない」
「だからそいつを追ってんだよ」
「で、たった一人でぶらぶら漂流して、挙句の果てに海に落ちて溺れて?」
「・・・ッ!うっせぇっ!」

首から上がかっと熱くなって、ゾロは咄嗟に手で隠した。
分かりやすい反応に、ナミはころころと笑う。

「あそこに私がいなかったら、あんた『たかのめ』に会うどころじゃなくなってたわね」
「・・・だから礼は言っただろうが」
「そうだっけ?」

むすっとした顔でナミを見下ろすゾロ。
だが、3つのピアスで飾られた耳がまだ赤い。

「・・・お前こそ、何で俺が溺れたとこに遭遇したんだよ」
「どういう意味よ?」
「かなり沖合いだっただろうが、あれ。船底に頭打つ直前まで、周りに他の船なんか一隻も見てねぇんだから、お前は俺が沈んでから現場に来たんだろ?どうやって海中の俺を見つけたんだ?」

ズバリ痛いところを突く鋭い質問に、ナミはうっと喉を詰まらせた。

「・・・だから、たまたまあそこにいたんだったら」
「どうやって?」
「どうって・・・潜ってたから?」
「素潜りでもしてたのか」
「うん、まぁそんなとこ」

明後日の方向に視線を泳がせながら、弁明になっていない言い訳をするナミを、ゾロは怪しむような視線で眺める。
まぁいい、と追求を取りやめた呟きに、少女は心からほっとした。


「・・・んじゃ、もうちっと聞き込みでもすっか」
おもむろに、ゾロが立ち上がる。
ナミも慌てて立ち上がり、よろりとよろけてゾロに倒れ掛かった。

「ゾロ、どっか行くの?」
「“鷹の目”の情報集めだ。まぁ、あんま期待はしてねぇがな」

首をコキコキと鳴らして、瞬きする。
その仕草は、どことなく眠たそうでもあった。

「ねぇ、私も行っていい?」
思わずナミはそう言った。

ゾロは少しの間ナミを凝視していたが、やがて好きにしろと言った具合に、
「あぁ」
と答えた。





それからナミとゾロは、昼間いっぱいを町で共に過ごした。
相変わらず歩き方のおぼつかないナミに合わせて、ゆっくり歩きながら。
道行く人々に“鷹の目”について何か知らないかと尋ね倒したが、収穫はゼロだった。
どうもこの町には近づいていないらしい。少なくともここ数年は。
ナミが、ゾロががっかりしているのではないかと彼の顔を見上げると、ゾロはこんな日も珍しくないさと肩をすくめた。










夕暮れ。
大きなオレンジ色の夕日が、水平線へと消えていく時分。

「あ〜あ!手がかりナシかよ」
ゾロは、初めてナミと会った浜辺に来た途端、ゴロンと大の字になって寝転がっていた。

「ゾロ、どうするの?」
そんな彼の横にちょこんと腰を下ろして、ナミは問う。

少年は、う〜んと唸りながら赤く染まった空を見上げて呟いた。

「ここにいてもしょうがねぇみてぇだからな・・・明日、船を工面して、別の島へ行く」


ナミはドキリとした。

ゾロが、もう島から出て行くと言う。
会ったばかりなのに。
ナミは、彼から離れることはできないのに・・・。

ゾロは、この場所から、島から、ナミから、離れようとしている――。


「ねぇ、ゾロ・・・」
「あ?」

少女は、手のひらに汗が滲むのを感じた。
彼は是と言うだろうか。
これは自分の我侭だ。



「連れて行ってくれない?」



「・・・はぁ?!」


素っ頓狂な声を上げてゾロが起き上がった。
オレンジ色に照らされた顔をまじまじと見る。

「何言ってんだお前」
「だから、連れて行って」
「何の為に」
「・・・私、」

続ける言葉が見つからずに、ついと目を逸らした。
何と言えば彼は納得する?

「私・・・もうこの島から出たいの。でもアテがないの。ゾロ、別の島に行くったって、どうせ漂流して流れ着くの待つだけなんでしょ?私、海の上ならナビゲーターみたいなこともできるし、『たかのめ』を探す手伝いだってするわ。だから・・・」


「ダメだ」

厳しい声がにべもなく言った。


ナミはパッと振り向いて見つめる。
その先には、あれほど欲した、眼前に広がる海を捨ててでも求めた、今は少女を拒否し咎めるその表情があった。

胸の奥、一番柔らかい部分にツキンと針のような感覚が走る。


「分かんだろーが、危険なんだ。女なんか連れて行けねぇ。これは俺一人の旅だ。俺の野望だ、俺の約束だ。会ったばっかのお前には関係ねぇ。
大体、お前はこの島のモンだろ?家族もあんじゃねぇのか?一時の感情で生活をあっさり捨てんなよ」

そして、くるりと背を向け、吐き捨てた。



「ふざけんな」


ゾロは立ち上がり、内陸の方へ歩き出す。
何も言えなくなったナミに向かって、背いたまま更に言葉を投げつけた。


「オラ、お前も家帰れよ。足休めて、ついでに頭も冷やせ。そうすりゃ、バカな考えだったと嫌でも気付くだろ」








オレンジ色の夕日が、海に溺れていく。




暗くなった空は、彼女の視界から緑の色を消した。




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(2008.09.04)





 

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