それはひどく優しくて、とてもほろ苦い。




柔らかい痛みは近すぎて見えにくいものなのだと知った。






ひび割れたTriangle  −3−
            

十飛 様



全く知らない淡い疼きが胸の奥底に突如として現れたあの夜から数日が経っていた。
未だ消える事の無いそれに小さく微弱に続いている苛立ちもまた、ゾロから消える事はなかった。


焦がすような日差しが降り注ぐこの暑さに活動する気も失せる程。
エアコンの故障で部屋には熱が篭り充満している状態で暑苦しさに拍車をかける。
上半身裸とパンツ一丁でベッドに寝転がるゾロは、こういう時に一番働くはずなのにそれを放棄した、もはや粗大ごみと化したエアコンに恨めしげに舌打ちをしてやった。


夏の風物詩の一つである蝉時雨も、今のゾロには耳障りにしか感じず更に不快感が増してきた頃。


着信を知らせる音が熱気と苛立ちが飽和した中、降り注ぐ蝉時雨を覆うように鳴り響いた。


ゾロは鳴り続けるベッド下にあるであろうそれを手探りで見つける。
ようやく手に取った携帯の待受画面には知った名前が表示されており、面倒だと感じながらも後が煩いのでゾロは通話ボタンを押した。

「…何だよ…」
機嫌の悪さを隠しもせずに呟くように言えば。
「あんた今どうせ暇でしょ?」
当然の如く言ってくるから、暑苦しさも足されて余計に不機嫌になり黙るゾロにナミは続ける。

「宿題やっちゃわない?」
宿題という単語にゾロは自然にゲッと明らかに嫌そうな声を出した。
極楽と言ってもいいぐらいの夏休み。
誰もが浮かれ誰もが喜びを表す。
だがそんな夏休みにはご丁寧にも宿題というものが学校から突き付けられる。

“夏休みの友”
何が友だとゾロは文句を垂れる。
友を通り越してもはや敵なんじゃねェのかと敵対視。

去年は夏休み最後の日にルフィとゾロ、二人で死に物狂いで問題を解きまくったが、怒涛の勢いで襲い掛かってくる睡魔に勝てるはずもなく、結局中途半端な状態の“友達”を提出した。

もちろん担任にこっぴどく叱られた。
ナミに頭を下げてまで宿題を見せてくれと頼んだのだのだが、あんたらが悪いんでしょと一蹴された。

ナミの薄情者ー!鬼ー!とルフィが叫べば誰が鬼よっ!とまさに鬼の如く形相で二人同時に部屋から追い出された。

そういえば担任に叱られてる時にナミは笑っていた。

「…笑えなくなっちまうけどいいのかよ」
当時を思い出して、どういう風の吹き回しなのかと訝しみながらゾロは訊く。

「あれはあんた達が宿題やってないから悪いんじゃない。でも笑わせてもらったなーあの時はー」
記憶を引っ張りだしたのか、ぷぷっとナミは笑う。
思い出したナミのトーンが電話の向こうで上がったのがわかったゾロは、うるせェと絞り出した。

「で、宿題やるの?やらないの?こっちクーラー効いてて涼しいんだけど」

「やる」

こんな超が付く程不愉快な暑苦しい部屋にそろそろ限界を感じていたゾロは、ナミが放ったある言葉に過敏に反応した。
そして明らかな敗北を期しているここから抜け出すには、やりたくもない宿題をやらなければいけないが、この際そんなことは言ってもいられないとゾロはその質問に即答した。

「じゃあテキスト持ってき…」
そう言い終わる前に電話を切られたナミは何なのあいつ、と呟いた。


「あらゾロ、いらっしゃい」
チャイムを鳴らせば、扉が開いた途端そう言い迎えられ、やっぱり来たのと続けて笑ったナミの顔に、ゾロは顔を顰めた。
早く入れろと促したゾロに、ハイハイと返事をしてナミはリビングに向かう。

「おばさんとノジコは」
冷蔵庫から麦茶を取り出すナミにそう訊けば。
二つのグラスを手に取ったナミは二人揃って留守だと伝えた。

「大体あんたね、ベルメールさんにおばさんって言ったらぶっ飛ばされるからね」
自身の質問の答えに生返事を返したゾロと、グラスと麦茶を持って二階へ向かうナミは、この場には居ない憤怒の表情の母親を想像して冷たい震えが身体を走った。

「…気ィ付ける…」



クーラーが抜群に効いて涼しい空気のナミの部屋と、それが必要な季節にその機能を最大限に発揮するべきなのに、その意味すら失ったただの飾りと化したクーラーがあるゾロの部屋とでは天と地程の差がある。
まさに天国と地獄とはこの事だとゾロは苦笑する。


部屋に入るなりテーブルに自身の夏休みの友を放り投げて、ゾロは自分の部屋だと言わんばかりに寝転がる。
自身の部屋とは比べモノにならないくらい快適な部屋にゾロは目を閉じた。

「ちょっとゾロ何寝てんのよ!ていうかちょっと!何にも手付けてないじゃないあんたっ!」
ゾロの友をめくって一気に捲し立てるナミの声にゾロはうるせェなと低くボソっと呟いた。

「ほらやるのよ!その為に来たんでしょ!?ま、何なら帰ってもらってもいいんだけどね私としては」

ナミの機嫌を損ねればあの焦熱地獄と言ってもいいぐらいの部屋に戻らなければならない。
宿題なんぞやる気はなかったがナミの機嫌が斜めになる前にと、ゾロは仕方ないと舌打ちをして起き上がった。




「…わからねェ」
頬杖を付いて苛付き混じりの声をゾロが出せば、こんなのもわからないのとナミが呆れて小さく息を吐く。
ゾロはすぐにテキストの最終ページの解答を見ようとしてナミに力尽くで窘められる。
きっとルフィも一度も手を付けてないはず。
これでは先が思いやられるとナミは先程より大きく溜息を吐いた。

「あーーーー!!!」
珍しく集中して何とか熟していくゾロと、すらすらと滑らかにペンを動かしていたナミは、麦茶で喉を潤そうと容器に手をかけて大声を上げた。
今度は何だとナミの甲高い声が響く部屋の中、ゾロは眉を寄せてナミを睨む。

「ちょっとちょっとちょっとあんたね!!飲み過ぎよ麦茶!!見てよこれ!!!ここまであったのが何でもうこれだけしかないのっ!?バカなんじゃないのっ!?」

ナミがゾロの顔に突き付けながら指差した容器にいっぱいに入っていたはずの薄い茶色い液体は、今や容器の半分の3分の1程度しかない。
麦茶の大部分はもはやゾロの喉を存分に潤し腹の中。

「うるせェな…また作りゃいいだろ…」
小指を耳に突っ込んでぬけぬけと言ってのけるゾロにナミの怒拳が炸裂したのは言うまでもない。



残りの麦茶を問答無用で飲み干したナミは、再び宿題を進めるべくペンを取り問題を解き始める。
制裁を喰らって不機嫌に同じように問題を解き始めるゾロはしかし、集中力が欠けてしまいやる気が急速に削がれていった。


再び頬杖を付いてゾロはムスっとした表情で正面のナミを見る。
整った顔立ちに鮮やかな橙色の髪に男子からはもちろん、その飾らず男勝りな性格に女子からの人気も高い。

だがその男勝りの性格の為か、口が達者でナミと口喧嘩で勝てる人間を、それはゾロも然りで、未だかつて見た事がない。
幼い頃からの付き合いだけにそれは尚更の事。

いつか、そのギャップに惹かれるんじゃないの男はと、さも当然だと言わんばかりにフフンと笑うナミを末恐ろしいとゾロは感じたのだ。


そんな事をナミの顔を見詰めながら思い出していれば。
タンクトップでショートパンツ姿のナミに今更ながら気付いた。
確かにこのクソ暑い夏、ラフな格好を好むのも理解出来るのだが。

まだ中学生とはいえ身体的に変化していく男女。
女子の身体は女性的になる途中段階。
当然ながら丸びを帯び胸も発達してくる。
それはナミとて例外ではなくて。

谷間が覗くその胸元に自然に視線が向かうのは男の性だと陳腐な言い訳はこの際甘んじて欲しい。
同時に、女なのだと改めて気付かされたのもまた事実。
そしてそう感じた瞬間、ゾロの胸の奥で弱々しく燻り続けていた小さな淡い疼きが息を吹き返した。

「……エロゾロ…」
ゾロの視線に気付いたのか、ナミはゾロを睨む。
ナミはてっきり問題に集中していたものだと思っていたゾロは視線を外す。
「誰がだコラ」
ナミと目を合わせて苦し紛れにそう吐き出しても、胸元を見続けていたのは紛れも無い事実でこの状況では否定出来ない。

「何処見てんのあんた…」

「見えたんだよ。んな服着てっからだ」

冷静を装って反論する。
不可抗力だと思いながら。


「私の勝手でしょ。いいからさっさと解く!!」
ゾロの数学の問題のページを強く指差してナミはフンと鼻を鳴らして問題文に目を通す。
文章問題であろうか、ナミはぶつぶつと文章を読み進めていく。


今の会話の内容を別段気にする様子もなく、着替えるつもりもなく、早く捗らせたいのかナミはすらすらと解いていく。
そんなナミを上目遣いで見ながらゾロは考える。

自分を男として見ていない。
だから平気でそんな格好をする。
そうは言っても自分もナミを女として見た事はなかった。
それは、生物学的であって、異性の対象として見るなんて考えられなかったのだ。


そう、あの夜までは。
あれから自分の中の何かがじんじんと微かに熱を持ち始めた。
今まで感じた事のない、苦さを含んだ熱。
それに触れてみたくて。
だけど触れるのが怖くて。

結局それが何なのかわからなくて一人勝手に苛付いて未だ消化出来ずにいる。

ナミは女なのだと気付いてしまった今。
意識してしまう自分がいる。
平静を装っても意識せずにはいられない。

きっとナミの中では自分は未だただの幼なじみなのだ。
そう思うと、また苛付いて大きな溜息を吐いてしまう。


「……何」
それに気が散ったのか、ナミはジト目でペンを止めて低い声を出す。

「…何でもねェ」
呻くように零れた声は思っていたより大きく響いた。

「今日はここまでにする?」
初めから答えを聞く気がなかったのか、パタンと自分の夏休みの友を閉じてナミは自分のベッドに勢いよく飛び込んだ。

そんなナミの一挙一動を見て。

もしかしたらとゾロは腕を頭の後ろで組んで寝転がる。

まさかとは思う。
でも、今ナミと居るこの時間と空間。
ひどく心地がよくて安堵する。

勘違いかもしれない。
出来ればそうであってくれと願う。
でもこの燻る熱は冷めない事ぐらいは自分でもわかる。

今までずっと三人でいたのに。

もっと離れていればわかったのに。
幼なじみでなければ気付いたのに。
近すぎて見つける事が出来なかった。



生まれてから一度も持った事などなかったけれど。
それがまさか幼なじみの一人に抱いてしまうなんて驚いているけれど。



この感情の名前を自分は知っているのかもしれない。



ゾロは諦めたように小さく笑って目を閉じた。




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(2009.02.25)



 

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