いつだって綴るより捨てる事の方が容易くて。
想うより触れる事の方がずっと難しいんだ。
ひび割れたTriangle −2−
十飛 様
ギラギラと灼けるように嫌という程照り付けていた太陽は身を潜めたものの、熱を含んだ空気は夜になっても未だ濃く残っている。
そんな熱帯夜と呼べる程の蒸し暑さに不快感を覚え、普段なら簡単に夢の中に飛び込めるゾロは眠りに付けずにいた。
「…暑ィ」
蒸し風呂状態と言っても過言ではない部屋の温度と湿度に自分でも明らかに不機嫌丸出しの声に驚いた。
このまま目を閉じていても一向に眠気がやってくる気配はまるでないと諦めたゾロは海に向かおうと家を出た。
三人の家と海までは歩いて行ける距離で、幼い頃はいつも三人で海で遊んでいた。
夕飯時になっても帰って来ない三人を心配してそれぞれの親がよく迎えにきていた。
中でもルフィは殊更海が大好きだった。
何かにつけて海に行こうとする。
そしてそれにゾロもナミも付き合わされる。
それは現在、中学二年生になっても全く変わっていなかった。
それも今は天下の夏休みに突入したばかり。
これからはきっと毎日のように海へと誘われる。
ルフィのあの押しの強さは年々増してきている。
有無すら言わせないだろう。
自分でもわかっているルフィへの甘さにゾロはもう諦めていた。
漆黒の闇にひっそりと浮かぶ月。
その周りを小さく輝く星が散らばっている。
今宵は満月。
月明かりだけで充分に照らされた道を歩いてゾロは海岸に辿り着いた。
さすがにここまで来ると身体を通り抜けていく潮風が心地良い。
寄せては返していく波の音も耳に静かな余韻を残していった。
それを感じながらゾロは知らず口唇が緩むのがわかった。
すると波打ち際に人影が見えた。
白い服のせいか、闇の中月の光によってぼんやりとそこだけ切り取られているようだった。
白色の上にうっすらと橙色が確認できた。
ゾロは潮の匂いと滑らかな砂を感じながらその人影に歩き出した。
「おい」
橙色に近寄りながら投げ掛けた呼び声は波の音に掻き消された。
もう一度聞こえるように声を掛ければ、夜の為か少し暗い印象を受けるがそれでも鮮やかな橙の髪が潮風に靡いて振り向いた。
「ゾロ?何してんのあんた」
この暗闇の中ではぼんやりとしかナミの顔を伺えないが吐き出された言葉はゾロには幾分驚きが混じっているように聞こえた。
「別に」
ナミに並んで海を見ながらぶっきらぼうに返したゾロにナミは始めからまともな答えを期待していなかったのか、視線を再び海に向けた。
「お前は何してんだよ」
顔だけ右に向けて同様な言葉でゾロは訊いた。
「別に」
自分と同じように返されたゾロはそうか、と顔を暗い海に向けた。
「眠れねェんだろ」
ほんの少しの間を空けてゾロは嫌味ったらしく海を見つめたまま言い放った。
「あんたみたいにいつでも何処でもグーグー眠ってないわりにね」ゾロより更に嫌味たっぷりで倍に返したナミは年齢の割りに口が達者で、口では勝てないとゾロは知りつつもいつも言い合いになってしまう。
結局言い負かされる姿は誰の目にも明確に見えているのに負けん気の強いゾロは、口の強さに自信のあるナミの嫌味についつい反応してしまう。
「…ほっとけ」
皮肉ったつもりがそれ以上で跳ね返ってきた憎まれ口に、ふんと鼻を鳴らして吐き捨てた言葉は波打ち際に寄せてきた波が浚っていった。
それから二人には沈黙が流れる。
そのせいか波音がやけにでかくゾロの耳に流れ込む。
真っ青な海とはまるで違う目前の真っ黒な海に身体ごと吸い込まれそうな感覚に陥りそうなゾロは、小さく息を吐いたナミを見た。
鮮やかな橙色の髪を潮風が撫でて行く。
ふわりと舞った橙色の髪と、月の光によって暗闇に映し出された微笑むナミの横顔に、胸の奥の方で何かが動いたような気がした。
それが何なのかわからないゾロは、気のせいだと自分に言い聞かせてナミから視線を外した。
「そろそろ帰る?」
気持ち良い潮の匂いと風のおかげで眠気がやってきたゾロを見れば半分程瞼が落ちている。
ナミがもう一度繰り返せば、おう、とゾロは生返事をした。
先を歩くナミの背中を半眼状態で見ながらさっきのは一体何なのだろうと再び考えたものの一向に答えが見つからない。
ゾロはやっぱり気のせいだと忘れる事にした。
するとナミが足を止めてそう言えばとゾロに振り返った。
「ルフィがね、明日からおじさん達と旅行に行っちゃうんだって。」
寂しくなるわーとちっともそんな風に思っていないようにケラケラとナミは笑う。
月明かりに照らされてナミの髪がまたふわりと舞った。
それを耳に掛けるまでゾロはまるで縫い付けられたようにナミから目が離せなかった。
物心ついた頃には二人は口喧嘩ばかりで、ルフィはそんな二人を見て笑いいつもの仲良し三人組に戻る。
だから、こんな暗闇に綺麗に描かれたようなナミの姿はゾロの目に映るのは初めてだった。
そして胸の奥の方で忘れかけていた何かが再び動き出していた。
さっきより、ほんの少しだけ大きく。
これはきっと気のせいじゃない。
だけどそれが何なのかわからない。
だから、お土産何買ってきてもらう?というナミの声に。
「あんまり期待は出来ねェけどな」
と、得体の知れない、だけど胸の奥のモヤモヤとした微かな淡い疼きを吹き飛ばすようにゾロは足早にナミの横を通り過ぎた。
生まれてしまった形容しがたいこの疼きは全く知らない代物で、決して嫌なものではない事ぐらいはわかる。
同時にそれを知らない自分になのか、それともその代物自体になのか、どちらとも言えないもどかしさに苛付いて。
ちょっと待ってよというナミの慌て声は、クソっ、と吐き捨てたゾロには聞こえなかった。
帰り道でもその出会った事のない強敵とゾロは戦い続ける事になるのだけれど。
そんな中学二年の宵の夏。
突然に芽生えてしまったその感情の名前をゾロはまだ知らない。
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(2009.01.21)