グランドジパング平安草子〜鎮魂篇〜 −一−
智弥 様
―――なぜ、来てくださらないのですか・・・
―――待って、おりましたのに・・・
はかなく、寂しく、震える音が、静かで物悲しい旋律を紡ぎながら、ゆるやかに木霊する。
はっと目を開けると、ナミは簀子に腰を下ろしていた。
茜色に染まった空が、藍の衣に席巻されていくのを見て、夕刻だとわかった。
(また、この夢・・・)
そう思いながら確認のために周囲を見渡した。
随分長い間無人だったはずの邸なのに、定期的に手を入れているようにこざっぱりとして、くすんだ印象がない。簀子も磨かれているし、蔀も妻戸も木目がはっきり見え、敷地を囲む板塀にも裂け目ひとつない。さすがに黒く汚れてはいるが、作られてからの歳月を感じさせるに留まっている。
その板塀の向こうに、ひとりの青年がたたずんでいる。
ゾロやサンジと同じくらいか、それより少し上に見える。精悍な風貌で、眩しいものでも見るように目を細めて、じっと視線を注いでいる。
彼の視線を追って首をめぐらせたナミは、こぎれいに手入れされた西対の蔀が上がり、御簾で隔たれた向こうに座している人影を認めた。
鮮やかな袿で、大人びた印象のナミより少し下くらいの年頃の女性だということがわかる。彼女は傍らに置かれた琴に手をのばし、爪弾き始めた。
見事な音色が紡がれて、風に乗って響いていく。
ナミは青年に視線を戻した。青年には、きっと自分の姿が見えていないのだと、いまでははっきりとわかっている。
彼はうつむいて、手に持っているものを見下ろしているようだった。塀に隠れて見えないそれが無性に気になって、ナミは毎回立ち上がってしまう。
闇が降りかかりはじめた頃に、青年は手に持っていたものを口元にあてがった。次いで、楽の音色が風を縫って響きだす。
琴の音が、ぴたりと止まった。しかし青年の奏でる横笛の音色がそれを補って、いつまでも響きつづけた。
ゾロは今、右大臣所有の別邸に来ていた。いま思い出しても、なぜ自分が、と思わずにはいられない内容だった。
つい先日、右大臣シャンクスに呼ばれ訪れてみると、なにやら企んでいるような顔で出迎えられた。そのときに、シャンクスが浮かべた人好きのする笑顔の裏になにかしらの意図を感じ、ゾロはなにやら嫌な予感がしたのだ。
シャンクス曰く、別邸をひとつ手に入れたのだが、その邸はさる豪族が所有していたもので、後ろ盾もなく零落し、ひとり残された娘も流行り病で若くして亡くなってしまい、主を失った家人が次の勤め先を決めた順に次々と去っていった。建て直してもよかったのだが、二十年ほど無人だったわりには、そんなに荒れてもいなくて、造りもしっかりしていたため、壊すにはもったいなかったので、補修や改修するだけに留めた。七日前にそこにナミと共に行き見て回ったのだが、それからナミが同じ夢を繰り返し見ると言ってきた。何が原因でそうなったのか、ちょっと行って探ってきてほしい、とのことだった。もちろん、ナミと一緒に。
ゾロは最初、返答を渋っていたのだが、帰邸してすぐにコウシロウに呼ばれてみれば、なんのことはない、シャンクスの依頼を伝えてきたのだ。しかも、すでにコウシロウを通して陰陽頭にはシャンクスの意向が伝えられ、ゾロの三日間の休日をもぎ取ってきていた。そして、休日の間にあった陰陽生が受ける講義は、コウシロウが補習することで話もついていた。第一線を退いたように見せかけて、実際はいまでも影響力大なコウシロウからの申し出に、否やの声が出るわけもなく。そのうえ、ゾロが受け持っていた雑務は、三日ほど前にコウシロウから片付けておくように言われ、ちょうどひと段落ついたところだったため、断る理由にならなかった。
そこまで考えてゾロは、まさか、と愕然とした。
(は、嵌められた・・・!)
とっくの昔に、シャンクスとコウシロウの間では話がついていたことにいまさらながらに気づき、してやられた感たっぷりに肩を落とすゾロだった。
こうして逃げ道を全て塞がれたゾロは、またしてもたぬき二人にしてやられ、渋々シャンクスの依頼を引き受け、別邸へナミと共に赴いたのだった。
新しく手に入れたという別邸は、コウシロウの邸より少し狭いくらいだが、それでも豪族のものというのも納得するくらいには敷地も邸も広かった。実はコウシロウの邸は、その身分から考えるとずいぶん広く大きいものだったりするのだ。
邸の構造としては、主屋を壁で三つの部屋に仕切り、西対屋がひとつあり、それぞれの区画とは外の簀子か内の板戸で移動する形になっている。西対はそれなりに広かったところをみると、そこが娘の部屋だったのだろう。
「まったく、なんで俺が・・・師匠が来ればいいじゃねぇかよ。普段は参内する必要ないんだからよ」
コウシロウは陰陽寮を引退した身のため、出仕する必要はない。だが、有事の際には真っ先に声がかかるため、あまり長く邸を開けることは出来ない。それはゾロとて承知しているのだが、やはり嵌められたという思いが強くて、どうしても文句を言わずにはいられないのだ。
そんなゾロの足元では、徒人には見えないゾロの式であるチョッパーが口元に両蹄をあて、えっえっえっと独特の笑い声をあげていた。
「いつまで笑ってる」
「だって今のゾロ、子供みたいだ。本気で怒ってないの、俺にだってわかるぞ」
「・・・一応、これでも腹は立ててるんだがな」
「全然、説得力ないぞー」
ゾロが本気で怒っているときは、妙に迫力があり、口調も言い聞かせるようなものになるうえ、めちゃくちゃ恐いことを知っているチョッパーには、ただぶつぶつと文句を並べたてている今の状況は怒っていない、ということになる。
そもそも、ゾロはかなり寛容なところがあるので、この程度のことでは本気で腹を立てることもない、ということも知っている。
珍しくチョッパーに言い負かされた形になり、ゾロは憮然としてチョッパーを小突いた。それに楽しそうに、チョッパーはさらに笑う。
「とくに問題はなさそうだが・・・あるとすりゃ、あれだな」
「うん、あれだね」
二人は揃って上を見上げる。
見上げた先にいたのは、この邸に棲みついていた姿形も大きさも様々な奇妙に愛嬌のある雑鬼たちだった。それまで息をひそめていた雑鬼たちは、梁に乗ったり、ぶら下がったり、壁にへばりついたり、天井に貼りついたりしてゾロたちを興味津々に見下ろしていた。しかし、この程度ではゾロは驚かない。
なにしろ大内裏には、小さい妖から大きい化生まで、そこら中にごろごろしているからだ。その数の多いこと多いこと。ある意味すごい光景になっている。
最初、大内裏に初めて参内したゾロはこの光景を目の当たりにして愕然としたものだった。
「な?内裏って所はすごいんだ。俺がふらふらしてても、誰も気にしないぞ」
チョッパーがつぶらな瞳で見上げ、そう説明するのに頭痛を覚えながら、ゾロはその状況に早く慣れようと思ったことを覚えている。
それにしても、長年無人の邸だったのだから、板が傷んだりしていないか危惧していたのだが、無事だったのは人外の住民がいたおかげだったようだ。
「建物は人が住まないと、なぜか傷むんだよねぇ」
チョッパーがいささか感心した風情で呟いた。そうだな、と頷いてゾロは雑鬼たちに声をかける。
「おい、おまえら」
「・・・なんだよ、別に誰にも迷惑かけてないぞ」
「こんな昼日中に、調伏にでも来たのか」
雑鬼たちの台詞に、ゾロは苦笑を浮かべる。
「いや、お望みならそうしてやってもかまわんが、話し合いをしようと思ってな」
「話し合い〜?」
「コウシロウの弟子が〜?」
ゾロの言葉に、一斉に声が上がった。
「そうだ。この邸は人手に渡った。ここ数日、人が出入りしたり、寝泊まりしているのはそのためだ」
「つまり、俺たちに余所に移れって言いたいのか」
「悪いが、そうしてくれるとありがたい」
「嫌だって言ったら?」
「後悔することになるな」
「しないね」
雑鬼の言葉に、ゾロは一度視線を床に落とす。ただ単に、上を見上げすぎて首が痛くなったから下げたにすぎないのだが、雑鬼たちにはそれが意味深な態度に見えたようだ。一気に緊張をはらんだ目でゾロを見つめてくる。
ゾロは軽く息をつくと、再び上を見上げ、口を開いた。
「この邸を手に入れた奴を教えてやる」
「えー、べっつにー」
「聞かないと後悔するって言ってんだよ。いいか、心して聞けよ」
わざと呪符をちらつかせながら言ってくるので、雑鬼たちは渋々と耳を傾けてくる。ゾロは平然と言った。
「この邸を手に入れたのは、陰陽師コウシロウが懇意にしている貴族だ。こちらの申し出をあくまでも突っぱねるというんなら、俺でなく師匠が出てくることになるんだが、返答は?」
「ぎぇっ!」
素っ頓狂な声が上から降ってくる。それと同時に、驚きのあまり固まった雑鬼たちが数匹、ぼとぼとぼとと落ちてきた。
それを見たゾロはにやりと笑い、ひとつ頷いた。
「交渉成立だな」
「・・・お見事」
なかば呆れながらチョッパーが呟いた。
その後雑鬼たちには、全員が移れるだけの広さがある無人邸を用意する、ということで話がついた。それまでは家人たちを驚かさないということで、ひとまず西対に移ってもらうことにした。
とりあえずの決着がついたゾロは、主屋で一番広い部屋へと足を運んだ。そこではナミが白湯を用意して待っていた。
「どうだった?」
「とくにいまんところ問題はねぇな。まあ、まだざっとだけしか見てねぇし、昼だからなんとも言えんが」
雑鬼たちの姿が見えないナミや家人たちに無用な心配をかけないように、ゾロはひとまず彼らたちとのやり取りを黙っておくことにした。あれだけ嚇しておけば、しばらくはおとなしくしていることだろう。
「そう・・・」
「何かしらのきっかけは、間違いなくこの邸にあるとは思うんだが。何か、心当たりはないのか?」
その時、ゾロの耳朶に微かな響きが掠めて消えた。
(なんだ・・・?)
細かく静かな震える音色。ゾロは耳をそばだててみたが、それっきり何も聞こえなかった。
「ゾロ?どうかした?」
「ああ、悪い。で、何かあったか?」
気のせいかと思い、ナミに話の先を促す。
「ん〜、心当たりといわれても・・・。あ、そういえば、琴が置いてあったのよ」
ナミは西対を指差した。
ナミの話によると、対屋の奥に横たわる細長い布があり、その布を取り払うと、古びているものの細工の美しい琴が姿を現した。それを少し爪弾いてみると、長い間放置されていたにしては、琴の絃はまったく狂っていないという。
ゾロとチョッパーは、ナミに気づかれないように顔を見合わせた。ゾロは絃楽器に明るくないのでよくわからないが、ナミの口ぶりからすると、それは随分おかしなことであるようだ。
「それでね、コウシロウ様に見てもらおうかっていうことになったんだけど」
「もしかして、その前に弾いてみろ、とか言われたのか?シャンクスに」
彼らはルフィに言われ、仲間内だけのときは、右大臣をシャンクスと呼んでいる。それはゾロとて例外ではなかった。
「うん、そう」
ナミの返答に、ゾロは額に手をあて疲れたようにうなだれる。
「おまえが同じ夢を見るのって、完璧にシャンクスのせいじゃねぇのかよ」
「あ、やっぱりゾロもそう思う?」
「長年ほったらかしにしていたにも関わらず絃が狂ってねぇなんて、何かありますって言ってるようなもんじゃねぇかよ。それを娘に弾かせるか、普通」
「おじ様に常識は通用しないわよ。面白ければそれでいいんだから」
はぁと深いため息をひとつ吐くと、ゾロはおもむろに立ち上がる。
「ひとまず、その琴とやらを見てみるか」
ナミは頷くと、先に立って西対へと向かった。
「これよ」
西対の奥には細長い布があり、ナミがかけてある布を取り去ると、その下から見事な装飾が施された琴が現れた。
ゾロはその傍らに片膝をつくと、そっと手をのばし琴に触れる。意識を研ぎ澄ますがとくには何も感じられず、なにやら思案顔になった。
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(2010.06.08)