グランドジパング平安草子〜鎮魂篇〜  −二−
            

智弥 様




 琴を調べたその後、ナミと一緒に夕餉を食べ、琴についてのひとまずのゾロの見解や、そのほかの他愛のない話をしてゾロとナミは過ごしていた。チョッパーはそれを静かに笑顔で見守っている。
 それまでナミと談笑していたゾロが、ふと眉を寄せて視線をめぐらせた。
「ゾロ?どうかしたの?」
「いや・・・」
 ゾロの目の向く先を追ったナミだが、なんなのかはわからず首を傾げる。
 ゾロが見ているのは、西の方角だった。
「いま、何か音がしなかったか?」
 寂しげな、いつまでも余韻が残るような、震えを帯びた、聞き覚えのある音だ。よく似た音を自分は知っているはずだ。
「・・・ああ、鳴弦か。弦を打ち鳴らす音だ。聞こえなかったか?」
 確認してみるが、ナミは首を振った。目線だけでチョッパーを見やるが、チョッパーも同様のようだ。
「でも、ゾロが言うのなら響いたのかもしれないよ。気のせいで片付けないほうがいいかも」
 チョッパーが思慮深げに言う。直後、頭に直接響いた声にゾロは目をしばたたかせた。
『不思議なことに、時として、私たちより人間の見鬼のほうが、鋭敏に妖を察することがあるわね』
 ゾロは陰陽師だ。彼の言葉は力を持っているし、彼が感じたというのならそれは信ずるに値するものだ。彼女―コウシロウの式神であるロビンは、言外にそう言ってくる。
 チョッパーがロビンがいるであろう場所を見ながら話しかける。
「あれ?ロビンも来てたのか」
『ええ。なんとなくおもしろそうだったから、ついて来てしまったわ』
 少しばかり神気を強め、姿を現さずに声だけで答える。
「もしかして、朝からずっと俺たちといたのか?」
『ええ、いたわよ。気づかなかったかしら?』
「うん、全然わかんなかったよ俺。やっぱり、ロビンたちはすごいなぁ」
 わかるわけねぇだろ、とナミの手前声に出すわけにはいかず、内心でつっこむゾロ。
 なんせ『神』と名がついているくらいだから、式神たちが本気で気配も神気も消して隠形してしまうと、もうゾロや、コウシロウでさえもその存在を見つけ出すことは敵わないのだ。ちなみにチョッパーは、神に近い精霊とはいえ彼らとは実力に差があるため、隠形を見破るにはいたらない。
 それをわかっていてわざわざ訊いてくるのだから、本当に、いい性格をしている。
 チョッパーの声が聞こえないナミは、急にゾロが黙りこくったことで怪訝そうに名を呼んでくる。
「ああ、悪い。気のせいですめばいいが、なにかあってからじゃ遅いしな」
「大丈夫よ。ゾロがいるんだし」
 あっけらかんと言ってのけるナミに、ゾロは複雑そうな顔をした。いまのナミの言葉は、ルフィがよく言う台詞だ。なんだか、ナミの言動がだんだんとルフィ化しているような気がするのは、自分だけだろうかとゾロは頭を抱えそうになった。
「・・・もう一度、琴を見てみるか」
「え、今から?もう夜よ?」
「こういう場合は、昼より夜のほうが顕著になる時があるんだよ」
「そういうものなの?」
「ああ、そういうもんだ」
 不思議そうに首を傾げるナミに、きっぱりと答えるゾロ。それを聞いて、なにやら真剣に考え込むナミを、ゾロが怪訝そうに見やる。
「ん〜、今日はもういいわ、明日にしましょう。また今日も夢を見るとは限らないし」
「連日見ていたのにか?」
「うん。だめ、かな?」
「・・・まあ、おまえがそう言うんならかまわんが」
 どこか納得いかなそうなゾロだが、ナミが強気にでると大抵はひいてくれる。
 そうこうしているうちに夜も更けていき、ゾロは自分に用意された主屋の部屋のひとつへと引き上げていった。一番広い部屋はそのままナミが使用することになる。
 簀子に出たゾロは、何気なく月が出ている空を見上げた。
「明日は望月か・・・」
 そう呟いたとき、再び微かな絃の音を聞いた気がした。
「・・・いま、何か音が・・・」
「ゾロ?」
 しばらく視線を彷徨わせていたゾロは、視界のすみに動くものを捉えた。
 敷地を取り囲む板塀が見えるその向こうに、透きとおった人影が、ゆっくりゆっくり足を運んでいる様が、見えた。
 ゾロは静かに息をひそめた。彼の眼にはこの世ならざるものを映す力がある。
 距離があるため顔立ちはほとんど見えないのだが、烏帽子をかぶった青年だと思った。ゾロと同じくらいか少しだけ背が高いくらいの。背筋はまっすぐで、歩きながらこの邸を遠慮がちに見ているのがわかった。
 ふと、青年が歩みを止め、こちらをまっすぐに見ている。いや、見ているのは、ここではない別の場所。
 ゾロの耳に、再び絃の物悲しい、震える音色が掠めて消えた。
 青年はしばらく邸を見ていたが、落胆したように肩を落とし、うつむいて歩き出す。そして、数歩進んだところでふつりと姿を消した。
 青年はゾロに気づくことなくそこにいた。そして、明らかに生者ではない彼は、恐ろしさを感じさせなかった。
「悪いものではないみたいだが・・・。しばらく様子をみるか」
 ゾロはしばらくその場で、青年が消えた先を見つめていた。


 用意された部屋に入ったゾロは、すぐさまロビンを召喚し、邸全体と、それとは別にナミの部屋と女房たちがいる部屋へ結界を張らせ、そのままナミについているように言った。
 そこまでしてようやく、ゾロは烏帽子を取り、髷を解き、単衣一枚になると、畳の上に敷かれた茵に横になった。本来なら髷も烏帽子もそのままの状態で寝るのだが、ゾロは寝づらいからという理由で髷を解いている。寝づらくて眠れないくらいなら、朝に髷を結うという煩わしさのほうがまだましだ、というのがゾロの持論だ。
 だが、ゾロはそこそこに不器用なので、髷を結うといっても頭の上のほうでひとつに括り、尻尾のように垂らすだけなのだが。しかし、時にはちゃんとしないといけない時もあるわけで。そんなときは、ゾロよりもずっと手先が器用なチョッパーが人型になって、ちゃんと髷を結ってやったりしている。
 横にはなったものの、やはりさきほど聞こえた音が気になり、ゾロはなかなか寝つけなかった。
 取り留めのないことを考えているうちに、次第にうつらうつらとし始めたとき、唐突に昔のことが思い出された。
 幼い頃の自分が母や姉の隣に座り、二人の手元をじっと不思議そうに覗き込む。二人が爪弾くたびに、音を紡ぎだす琴を飽きることなく見つめている自分。
 そこでゾロは目を瞠り、唐突に起き上がる。
「ゾ、ゾロ!?どうしたんだ?」
 いきなり起き上がったゾロに驚いたのか、チョッパーは几帳の影に頭を半分隠しただけの、おそらく本人としては隠れているつもりの姿勢で問いかけてくる。それに、ゾロは半ば茫然と呟いた。
「・・・違う、鳴弦じゃねぇ」
「え、なに?」
 ゾロは西の方に目をやりながら、緊張をはらんだ目をした。
 さきほど自分にだけ聞こえた、音。同じ音が、かつて聞き覚えた記憶から響く。
「あれは、絃の音だ・・・」
 この邸を見たときに、もやもやとした形のないものが胸中で泡のように弾けた。特に危機感を煽るようなものではなかったし、戦慄を伴うような切迫したものでもなかったため、気のせいで片付けてしまった。
 ときどきひどく痛感する。予感と予言は、陰陽師の専売特許だと。――そこに、ごく一部の、という枕詞がつくのだが。陰陽師の皆がみな、予感と予言と見鬼と調伏が専売特許というわけではないのだから。
 ゾロだけが聞いた絃の音。あれは予感か、予言の類ではなかったのだろうか。それを気のせいで片付けてしまった。
「まだまだ、修行がたりねぇ」
 手のひらで顔を覆って、ゾロはひとしきり唸った。
「ナミにはロビンをつけてあるから、大丈夫だと思うが・・・」
 ナミがいる部屋のほうへ顔を向け目を細めた瞬間、ゾロの背筋を氷塊が滑り落ちた。金緑の双眸が凍りつき、心臓が不自然に跳ね上がって、頭の奥で警鐘が鳴り響いた。
 見開かれた瞳に、唐突に浮かんだ光景が焼きつく。
 眠る少女に、覆いかぶさるように手を伸ばす、青白い影。
 幽玄な音色がする。震えを帯びて、いつまでも消えない余韻を残す絃の響き。
「ゾロ、どうしたんだ」
 ただならぬ様子に気づいたチョッパーが、ゾロに近づいて顔を覗き込んでくる。
 早鐘を打つ心臓は速度をゆるめず、なのに胸の奥が冷たく凍えていく。
「・・・絃の、音が」
 それだけ呟くと、ゾロは万が一のためにと枕元に用意しておいた呪符を鷲掴むと立ち上がり、身を翻した。
 咄嗟に避けたチョッパーが、足をもつれさせ床にころんと転がる。だが、すぐに起き上がりゾロの後を追うチョッパーの瞳は、珍しく剣呑にきらめいていた。
「絃・・・?」


 ゾロを見送ったあと、とくにすることもなくなり、早々に床についたナミは唐突に眠りの淵から引き上げられた。
 燈台の炎は眠る前に消したため、部屋の中は真っ暗闇だ。
 急激に気温が下がり、袿の下で指先が驚くほど冷たくなっていくのが感じられた。
 なんともいえない悪寒が背筋に生じ、見えない重しで押さえつけられてしまったかのように、どんなに力を込めても指一本動かない。
 ナミはおかしいと思いつつ、目だけであたりの様子を窺った。
『・・・・・・』
 耳のそばで、微かにささやく声がした。はっと目をやると、長い髪をたらした女の影が、ごく近くにあった。
 女はゆっくりと上体を起こすと、髪に隠れた両の目でナミをじっと見下ろすと、髪の間からかろうじて覗く口元が、僅かに動いて何かを呟く。
「下がりなさい」
 ロビンが顕現し、通力の波動が清冽な気流を生み出した。ロビンの髪が気に煽られてゆらりと翻る。
 ゾロからナミを守れと言われているのだ。情け容赦は必要ない。
 女がついと身を引く。顔を覆う髪が乱されて、俯いた顔が垣間見えたとき、ナミは目を見開いた。
 女の目が湛えている、その色はなんという―――。
 ロビンはなおも、鋭利な眼光を女に向けていた。
 ナミの耳に、微かな弦の音色が届いた。はかなく響くその音は、西対から発されている。
「あの、琴・・・!?」
 ロビンに気圧されながらも、女が懸命に手をのばして袿の袂を掴む。その瞬間、冷気が強さを増した。外気にさらされているナミの肌が、あまりの寒さで痛みを感じるが、体は氷の中に閉じ込められたように動かない。
 ナミは心の中で懸命に叫んだ。
 ――・・・・・・!
 その時。
 妻戸が乱暴に開かれた。
「ナミ!」
 飛び込んできた影の後ろから茶色いもの飛び出して、女とナミの間に滑り込んだ。茶色い毛並みがざわりと逆立ち、低い唸りが放たれる。
 次いで、ゾロが女の前に立ちはだかった。
 外気が流れ込み、ナミを圧迫していた念がすうっと消えて、体が楽になった。何度も深呼吸をしていたナミは、懸命に起き上がる。
「どうやって侵入したかは知らねぇが、容赦はしねぇ」
 ゾロは死霊を凝視し、呪符をひらめかせ、怒気もあらわに真言を唱える。
「オン、アビラウンキャン・・・」
「ゾロ、待って!」
 ふいに、ナミがゾロの足を掴む。驚いたゾロは術を中断させて顧みる。
「ナミ?」
「お願い、その人の話を聞いてやって」
 思いがけない展開に、ゾロだけでなくチョッパーやロビンも呆気に取られる。
「おま・・・!」
「祓わないでやって、だって・・・」
 女を見やって、ナミは顔を歪めた。
「その人、ずっと泣いてるのよ」
「は・・・?」
 ゾロたちは女を見つめた。
 長い黒髪が白い面を覆っていて表情は見えない。が、女が僅かに首を傾けたとき、髪がはらりとこぼれて、合間に覗いた頬を透明な雫が滑り落ちた。
『・・・・・・を・・』
 色を失った唇が、か細い声をつむぐ。その声に、弦の響きが重なった。
 ゾロは音のするほうに耳を澄ませた。ほんの微かな響きだった音は、やがて物悲しい旋律を形作る。
 女はしばらく立ちすくんでいたが、ついと西対屋に顔を向けると、そのまま音もなく消えた。
 ゾロはふうと息をつき、ナミを顧みた。
「大丈夫か?」
「う、うん、平気。ありがとう、ゾロ」
 ほっとしたナミは傍らにいるゾロを見上げて、思わず固まってしまった。




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(2010.06.08)


 

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