グランドジパング平安草子〜慈雨篇〜 −二十−
智弥 様
押し黙ってしまったゾロの態度に、サンジは嫌な予感を覚えた。
「まさか・・・」
「その、まさか、だ」
重々しくゾロは頷いた。
「嘘、だろ?なあ、冗談だよなぁ!」
ほとんど泣きそうになりながら、サンジはゾロに縋るように手を伸ばし、胸元を掴んで揺さぶった。
ゾロはその腕を軽く押さえそっと胸元から外させると、癇癪をおこした子供に言い聞かせるように静かに言った。
「あの日、おまえが『珱花』と名付けた木霊は、確かに甦った。だがそれは」
ゾロは一瞬、躊躇した。しかしサンジの、瞬くことも忘れたかのようにゾロを見つめてくる隻眼に圧され、続きを口にした。
「それは・・・それまでに培ったおまえとの記憶も思いも何もかもを失くして、まったく新しい、まっさらな魂で再生したんだ」
だから、甦った桜の精霊はもう、サンジの知っている『珱花』では、ない。
サンジは言葉もなく拳を握り締め、肩を震わせながらうなだれた。そしてそのまま、黙り込んでしまう。
サンジの心中を思い、それに対してゾロはかける言葉が見つからず、ただ黙って庭へと視線を向けた。
無言のまま時が過ぎた。二人の間を、湿った冷たい風が吹き抜けていく。
「・・・あのあと、さ。ナミさんに言われたよ」
先に沈黙を破ったのはサンジだった。ゾロは口を挟むことなく続きを待った。
「うらやましい、ってさ」
「・・・うらやましい?」
聞き返したゾロに、サンジは頷く。
「想いが叶って、一番綺麗な姿を見てもらえて、一番愛されてる時に、一番好きな人から見守られて死ねるなんて、うらやましいって。自分はきっと望むべくもないから、だってさ」
ナミが何を、そして誰をさしてそう言ったのかサンジにはわかってしまった。だが隣にいるこいつに、大切な幼馴染みの心を捉えた奴になど、面と向かってそんなことを言ってやるものか。
そのかわりに、サンジは懐に入れていたものを取り出し、ゾロの眼前に突きつけた。
ゾロは脈絡のないサンジの行動に一瞬面食らってしまい、サンジの手にあるものを思わず見つめてしまった。
なかなか受け取らないゾロに焦れたのか、サンジはやや乱暴にそれをゾロの手に押しつけた。ゾロは慌ててそれを受け取ると、食い入るように見つめた。
ゾロの手に押し付けられたもの―それはあの日、護身の術をかけサンジの懐に忍ばせた、ナミから貰った匂い袋だった。
「それ、確かに返したぜ」
「あ、ああ・・・ありがとう」
呆然として礼を言うゾロに、サンジはふんっと鼻を鳴らした。
このひと月の間、サンジはつねに匂い袋を持ち歩いていた。いつでもゾロに返せるように。
しかしゾロはこのひと月の間、体調不良で出仕を休んでしまった。
最初は気まずさもあって見舞いにも来れなかったサンジだったが、ナミの先のひと言で何かが吹っ切れたような気がして、今日ようやく見舞いに来れたのだ。
ゾロの話を聞いたいま、来てよかったと素直に思う。
今日までは心のどこかで、彼女は精霊なのだから、もしかしたら生きているのではないかと、期待していた。
そして、彼女は生きていた。サンジの知らない、新たな命を得た神の眷属として。
それでいい、とサンジは思う。自分が意図せずして乱してしまったものが、収まるべきところに収まった、と本心からそう感じた。
ゾロからは恨んでも赦さなくてもいいと言われたが、そんな気は起きなかった。ゾロがどれだけ自分たちのために、心を砕き、力を尽くしていたかを目の当たりにしているのだ。
これでゾロを恨もうものなら自分は、自分の思い通りにならないからといって駄々をこねて周りに八つ当たりをする餓鬼と、何らかわらなくなってしまう。何よりそんなことをしたら、ナミから叱られてしまうことは必定だ。
しばらくはまだ珱花を思い出し揺れ惑うだろうが、たぶんそれでもゾロを恨むことだけはないんだろうな、とサンジは他人事のようにそう断じた。
いまだに呆然として手の中に収まっているものを見ているゾロを斜に見て、サンジはやれやれと息を吐いた。
この様子だと、戻って来ないことを前提にサンジに持たせたようだ。ちゃんと返せてよかったと、ナミの気持ちが無駄にならなくてよかったと、サンジはほっと胸を撫で下ろした。
「匂い、雨にうたれたり何だりで、だいぶ飛んじまったみたいだからな。復調したらナミさんとこにいって、新しく調合してもらえ。大事にしてたんだろ?」
新しくしてからまだひと月ほどだし、雨にうたれたりしたからといってそう簡単に消えるとも思えないが、サンジのその言葉に自由に出歩けないナミへの気遣いを感じとり、ゾロは匂い袋を大事にぎゅっと握り締め、照れ臭そうに笑って頷いた。
その滅多に見せないどころか、サンジが初めて見るその表情が多くを雄弁に語っていて、サンジはその物珍しさに目を瞠った。
(・・・なんだ、ナミさんの想いはちゃんと、報われているんじゃないか)
ずっと、ナミからの一方通行なのだとばかり、サンジは思っていたのだ。
どうやらゾロが寡黙なせいなのと、身分の差故に互いに遠慮があり、なかなか気づけないでいるだけのようだ。これならば、二人が結ばれるのは時間の問題か、とサンジは我がことのように考えた。
それに際して、ナミの養父たるシャンクスは何の問題もない。なぜなら、ナミを帝の妃にするつもりなど端からないのだから。これは上流貴族、しかも右大臣にまで上り詰め、次は左大臣かと噂されている者の考えではない。この時代、娘は政治の道具と公言して憚らない者もいるくらいなのだから。
こうなったら自分の精神衛生上、適度に邪魔をしつつ、二人をくっつけてしまおう、と目論むサンジだった。もちろん、それにルフィとウソップを巻き込むことは忘れていない。
やはり、大切な妹のようにも思っている幼馴染みには、自分と珱花のようにはなってほしくないし、何より誰よりも幸せになってほしいではないか。
その相手が、自分とはとことん馬が合わないこいつでも、ナミが幸せになれるのならば、自分はいくらでも心を砕こう。
サンジはひそかに、そう決心した。
長いこと冷たい風にあたって体が冷えてしまったゾロを、サンジは無理矢理茵へと押し込み寝かしつけると、満足げに帰っていった。ゾロはしかたなく、茵の上からサンジの帰りを見送った。
サンジが門の外に出たことを式たちから教えられたゾロは、茵から抜け出し、袿を肩にかけると簀子へと出た。
「これで、よかったのか?」
ゾロは誰もいない庭へと声をかける。すると。
『はい。ありがとうございます』
どこからともなく、それに答える声が聞こえてきた。
ゾロの前にすうっと、花の香りをまとって人影が現れる。
「まあこれで、あいつも踏ん切りがつくだろうが・・・本当によかったのか?」
「はい。人外の者のことなど、いつまでも覚えているものではありません。サンジ様にはもっと、サンジ様に相応しい方がいらっしゃるはずですから」
晴れやかな笑顔で彼女はそう言った。それを見たゾロは、感心したように息を吐いた。
「あんたは本当に、未練も何もなくなったんだな」
「はい。それもすべて、ゾロ様のおかげにございます。こうして、新たな命を得られたことも」
「神の助力があったればこそ、だがな。しかし、あんたが現れたときには本当に驚いた」
「それも、神の恩情かと」
軽く目を伏せ、彼女は頭を下げた。
彼女―かつて『珱花』と呼ばれた桜の木霊は、半月前、サンジとの記憶も思いも何一つ失くさずに、僅かに姿だけを変え、ゾロの前に現れたのだ。
なぜ、と訝しみながらもゾロは彼女と相対した。
彼女は桜色の長い髪に白皙の顔、薄紅の唇と僅かに姿が変わっていた。だが何よりも、まとう雰囲気が全然違う。
以前は桜の儚さだけを身にまとっていたが、いまはその儚さはまったくなく、むしろ生命力に溢れた力強さを感じた。だが、それも当然といえば当然だ。彼女は末席とはいえ、神の眷属となったのだから。
最初ゾロは、彼女が『珱花』だとはわからなかった。だが自分の名を呼ばれ、あの日のことを聞かされて初めて彼女が『珱花』であり、記憶を失っていないこともわかった。
話を聞けば、神の気まぐれか、はたまた慈悲か。どちらにせよ、かの祭神たちの思惑が、彼女を以前の彼女として甦らせたようだった。
そして何を思ったのか彼女は、いきなり自分を訪ねてきたのだ。
それからはずっとサンジの側で、サンジの様子を見守っていた。
そして先日、サンジのあまりの焦燥ぶりを見るに見兼ねて、彼女がゾロに頼み込んだのだ。珱花という存在はもうこの世にはいないと告げてほしい、と。
サンジについては、時々ロビンが近況を知らせてくれていたからゾロも知っていたし、何とかしなければとは思っていた。そんなときに彼女からの頼み。
それからあれこれと頭を悩ませていたゾロの前に今日になってサンジが現れ、ゾロは彼女の懇願通りにそれを告げた。
嘘をつくのはゾロの本意ではなかったし、上手くつける自信もなかった。だからゾロは、つい先日まで自分でもそうだと思い込んでいたことを、さも本当のことのように語って聞かせたのだ。
その際、つい本当のことを言いそうになって一瞬口ごもってしまったが、それがいい演出になったらしい。サンジは疑うことなく、ゾロが語ったことを真実として受け入れてくれた。
これで少しは前向きになってくれれば、ゾロの苦労も報われるというものだ。
ゾロは目の前にいる精霊を見つめた。
「いまの名前は?」
「はい。オカミノ神から『珱華』という名をいただきました」
「よう、か?」
「はい。何でも、サンジ様がつけた名の響きが気に入ったと。それで『紐で繋いだ玉の飾りのように美しさをたたえた華であれ』という意味を込めまして『珱華』と」
「そうか・・・よかったな」
サンジのことを思うと複雑な心境ではあるが、神とは往々にしてそういうものである、とゾロは自分を無理に納得させた。それに、ひとつでも何らかの形で二人を繋いでいたものが残るのは、正直嬉しくもあった。これも神の慈悲なのかもしれない。
「それでは、私はこれにて失礼させていただきます」
「ああ。春にはまた皆で、キブネに桜を見に行くよ」
「はい、お待ちいたしております」
優雅に一礼して立ち去りかけた珱華のその後ろ姿に、ゾロはふと思い立って声をかけた。
「櫻花、そは誰かために咲き誇る」
珱華はふわりと振り返ると、笑顔を浮かべた。
「愛しき方の御為に」
さあっと風が吹き、珱華の姿はそのままその場から掻き消えた。
ゾロは小難しい顔で頭を掻くと、ぽつりと呟いた。
「未練も何もなくなったって・・・結局、惚れてることには変わりないんじゃねぇか」
つまり、その心も引っくるめて、かの神たちは彼女を失うことを惜しんだ、ということか。
それならば、あの時の自分の苦労はいったいなんだったんだ、とゾロは少しばかり空しくなった。
神の眷属となったいまの珱華は、キブネの山全域にある桜の木を依代とすることができる。そしてもちろん、都の外れにある枝分けされたあの桜の木もそうだ。
ゾロは茵に戻ると、しっかりと大袿をかけて目を閉じた。
自分が完全に回復して、サンジの気持ちに余裕ができたら、あの桜の木がある邸を別邸にする気があるのか訊いてみようか。いやもしかしたらサンジのことだから、もうすでに、その方向で考えているかもしれない。
そうしたらそこで、昼といわず夜といわず、皆で騒ぐのもいいかもしれない。
美しく咲いたあの桜の木の下で、花を眺めながら。
心のつかえがなくなったからか、サンジが手がけたものを食したからか、起きたときよりも体が軽くなっているのがわかった。
サンジが作る料理はいつも、それを食する者に元気や力を与えてくれる。それを本人に言おうものなら絶対につけあがるに違いないし、何となく悔しいからそれを言うつもりはゾロにはない。
この調子なら、次に目覚めたときには結界を破れるくらいには回復してるなと思いながら、ゾロはまた眠りに落ちていった。
FIN
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(2011.01.04)