Ding Dong!   前編

            

瞬斎 様





 妖しくネオンが誘う夜の街。
 夜の繁華街はネオンを煌めかせ、妖しく華々しく今夜もその幕を明ける。
 ここは桃源郷。
 彼女は女神。
 今宵も彼女を求めて、男達が胸を躍らす。



 クラブ・グランドラインは今日も盛況。
 席は満席。
 酒に顔を赤く染めた男達が、全てを忘れて享楽する、そこは理想郷。
「ナミさん、御指名です」
「はい」
 眩いドレス、高価なアクセサリー、細い体のライン、オレンジの髪。それはまさに女神そのもの。ここは舞台、彼女は女神。
「クリケットさん、お待ちしてましたわ。ちっとも来てくださらないんですもの」
「仕事が忙しくてね」
「ウイスキーの水割りでよろしかったかしら」
 クラブ・グランドライン。そこはイースト区では名の通ったクラブ。彼女は、そこのナンバー1。彼女を一目見、彼女と一言、彼女の酌を求めて、今宵も男達が集う。
「いや、今日は仕事が上手くいってね。その祝いだ」
「あら、おめでとうございます」
「ドンペリを頼む。ピンクでな」
「ありがとうございます。クリケットさん、いつも嬉しいわ」
 ナミは近くのボーイを手招きすると、背の高い、がっしりとしたボーイが小走りに走ってくる。左耳に3つのピアス。高級クラブに不似合いな碧色の髪。
「ロロノア君、クリケットさんにピンドンをお願い」
「はい」
 ボーイの青年は無愛想に返事をする。
「クリケット様、ピンドン入ります」
 店内の客が、ホステスがその声に顔を上げ、惜しみない拍手を送る。
「クリケット様、ありがとうございます」
 店の奥から支配人のベックマンが優雅にドンペリを手にして登場すると、店中から見えるように、その栓を開ける。
 さぁ、宴はこれから。
 ナミはクラブ・グランドラインのナンバー1。彼女は羨望と憧憬.の眼差しを一身に受ける。
 ここは、桃源郷。
 彼女は永遠の女神。



 ベランダで雀が2羽、戯れるように鳴いている。冬の遅い朝。部屋の扉が乱暴に叩かれ、彼女は渋々、重い瞼を開ける。
 高級マンションの一室。ナミの寝室に、乱暴にドアを叩く音が響く。
「いいかげん、起きろ!」
 ドア越しの声に、ナミは渋々と身体を起こす。部屋の鏡には、寝癖の付いたボサボサの髪、Tシャツ、ジャージ姿、寝ぼけた顔。
 夜の女神の朝は、こうして始まる。
「飯だぞ、起きろ!」
 欠伸を一つして、ベッドから這い出して、ドアを開けると、背の高い、碧色の髪をした青年が立っている。
「昨夜、クリケットさんのアフターで遅かったのよ」
「何でもいいから、顔洗って来いよ」
「俺だって、支配人に説教されて遅かったんだ」
「あんたと一緒にしないで」
 起きたばかりの掠れた声でナミは抗議をすると、洗面所に身体を引きずるようにして向かい、歯ブラシを取った。
 夜の桃源郷の女神の朝は、毎度毎度、こうして始まる。
 歳は23。グランドラインのトップになったのは、21の時。それからずっと、クラブ・グランドラインの栄誉あるナンバーワンに君臨している。
 店の客はナミを指名できることに名誉を感じ、プレゼントを受け取ってもらえる事に至福を覚える。彼女のこんな姿は、想像どころか、見たところで信じることもしないだろう。なぜなら、彼女は夜の女神だからだ。
 まさか、4つ下の男と「同居」しているとは思いも寄るまい。
 今、キッチンでナミのために朝食を用意している彼は、ただのペットに過ぎない。そう、昨夜、ナミの客にピンクのドンペリを用意したボーイである。
 名をロロノア・ゾロという。
 ナミは彼を行き掛かり上、拾ったに過ぎない。彼は今時珍しくも、道路端に倒れていた。訊けば、借金取り追われ、家も追い出され、1週間、飲まず食わずだという。ただ、野生の狼のように目をぎらつかせた青年を、ナミは興味本位で拾ったに過ぎなかった。
 余りある客からの貢金でゾロの借金を肩代わりし、職まで探してやった。住む場所が無いというので、見つかるまで、これも客からの贈り物である自宅の高級マンションに置いてやっているのだ。人が聞けば美談だろう。
 無愛想で不器用な男だったが、一緒に暮らしてみれば、ナミには従順だといってよい。何だかんだと言いながらも、ゾロはナミに対しては牙をむけない。まるで、主人に忠誠を誓う犬のように、彼はナミに逆らうことなく、付き従っている。給料の殆どをナミへの借金返済に充て、ナミのために上手くもない料理をつくり、足が疲れたと言えば、マッサージをする。
 「下僕」とも「ペット」とも言える、そんなゾロの存在に、ナミは心の中で満悦していた。そんな生活も、早いもので1年経つが、ゾロが出て行く気配は未だ訪れない。
「今日は、サンジくんと同伴だったわ」
 朝食の席で、ナミは少し味の薄い味噌汁を啜りながら、今日の予定を考える。
 その前にネイルサロンへ行って、それから美容院へ行かなくては。
 夜の女神に変身するにはそれなりに手間がかかるのだ。
「サンジって、あのクソコックか?」
「あぁ、ゾロはサンジくん嫌いだもんね」
「ただのエロコックだろ。口の軽い」
「いいお客さんよ。羽振りもいいしね。あの若さでレストランを切り盛りしてるんだから。あんないい男、滅多にいないわよ。結婚するならああいう甲斐性のある男よ。何と言っても、お金持ち出しね」
「結局金かよ。でも、気に食わないものは気に食わない」
 サンジというのは、ナミの上客だった。25になるというが、親の経営している高級イタリア料理店の次期オーナーである。流れるような金髪に、徹底したジェントルマン振りが有名で、テレビや雑誌でも度々取り上げられる有名店の御曹司。
「気に入らなくてもいいけど、くれぐれも失礼なことはしないでね」
 ナミは最後に茶を啜って、席を立った。
「さぁて、あんたは仕事までどうするのよ?」
「用がある」
「いつもそれね。別にいいけど」
 ゾロの用なんて、興味がない。ナミが彼に興味を持つのは、彼女の下僕でいる時間だけだ。外で何をしていようが、知った事ではない。
「おまえも程ほどにしろよ」
「あんたに言われたくないわね」
 ナミは遠慮もせずに大きな欠伸を一つし、出かけるまでの間、テレビを見て、大笑いし、午後になるとそそくさと準備をし、家を出た。ゾロが呆れた顔で眺めているのは知っているが、今やそれも日常の風景である。
 夜の女神も、昼はただの人である。
 そんなことでも、彼は思っているのかも知れないが、それもどうでもよいことであった。



 上客であるサンジが同伴の待ち合わせに指定する店は、いつもセンスが良い。今日もイースト区目抜き通りの洒落たカフェで5時の待ち合わせだった。
「今日は、ナミさんに大事なお話があるんです」
 待ち合わせの時間に行くと、サンジはすでに待っており、ナミが席につくなり神妙な顔をして切り出した。
「俺と、結婚を前提にお付き合いしていただけませんか」
 ナミは、思わずポカンと口を開けた。まさに晴天の霹靂とはこのことである。目の前のサンジは青い瞳で真摯にナミを見詰めているので、これは冗談ではない。客からプロポーズなど何度もされたことがある。だから、珍しいことではなかった。しかし、プレイボーイで通っているサンジから言われるとは。
「また、サンジくんったら。お上手ね」
「俺は、真剣ですよ。貴女にとっては急な話かも知れない。でも俺はずっと真剣に考えてました。いいかげん、客とホステスという関係から一歩進みたい」
 サンジは紫煙を揺らめかせ、柔らかく微笑んだ。
「驚かれるのも無理はない。俺だって、今すぐ答えをもらおうなんて思ってませんよ。ただ、貴女に真剣に考えて欲しい。俺との結婚を」
「でも、他に素敵な女性がいるんじゃないかしら。だって、サンジくんは、レストラン・バラティエの跡を継ぐんでしょ?あたしなんかより、ほら」
「ナミさんからそんな言葉が出てくるなんて意外だな。俺は構わない。もし、仮に、良いお返事が貰えたとして。文句を言うヤツがいるなら、俺が全力で守る。それは誓って言います。貴女に決して不自由な思いはさせません」
 サンジは短くなった煙草を灰皿に消すと、テーブルに頬を付く。一度も、ナミから視線を逸らさない。
 困った。
 ナミはサンジのあまりに真剣な眼差しから逃れる事が出来ないと悟ると、さて、いつものように軽くあしらうわけにもいかず、どうしたものかと考えた。動揺を悟られないように、水を飲んでみるが、とても隠しおおせたものではない。
「考えておいてくれませんか」
 サンジは、口調はあくまで軽く滑らかに、ウエイターを呼んだ。
 そして、まるで何事もなかったようにオーダーをし、いつものように他愛もない話をする。ナミは、表面上は上手く繕いながら、内心穏やかではなかった。
 この話、受ければ、またとない玉の輿である。
 有名レストランの次期社長。その上容姿端麗。育ちも文句無い。名の知れたプレイボーイで通っているところが少し気になるが、結婚するのに悪い相手ではない。悪いどころか、極上の相手であることは間違いないだろう。
 ナミは、人生の岐路に、それも飛びっきり上等なペルシアの絨毯を敷き詰めた道が続く岐路の前に立ったのだ。



 その日は客とのアフターもなく、家に帰るといつものように先に帰ったゾロが風呂上りにリビングでビールを飲んでいた。ガサツで無愛想な同居人は日常のように見えて、今日は一層機嫌が悪いらしい。ナミが「ただいま」と言っても返事一つしないまま、テレビを見ている。
「あんたね、居候のクセに、態度がでかいわよ」
 悪態も上機嫌な口調でナミは言うと、自分も冷蔵庫からビールを出す。仕事で飲む高級な酒よりも、スーパーで安く売っている仕事の後の缶ビール一本の方がよっぽど喉越しがよく美味いのだから不思議なものである。それに加えて、今日は特別なことがあったのだからよけい美味い。
「おまえさぁ」
 ゾロが抑揚の無い声で、テレビを見たままキッチンにいるナミを呼ぶ。
「今日、何だか浮ついていたな。あの、クソコックと何かあったのか」
 ゾロは普段、何も考えていないようでいて、妙に勘の鋭いところがある。ナミはその度に驚かされるのだが、今回も例に漏れず、どきりとした。ナミは普段どおりに振舞っていたつもりだったが、ゾロには通じないようだ。
「知りたいの?」
 態ともったいつけて言うと、ゾロは「別に」と言って、それ以上は追求をしない。その声とソファに寄りかかった背中だけが、不機嫌なことを伝えている。
「いいわ、特別に教えてあげる」
 ナミはゾロの隣に座ると、彼に向かって足を投げ出す。ゾロは眉を思い切り顰めて眉間に皺を作ったが、素直にナミの疲れた脹脛をマッサージし始めた。気の無い返答のわりにやはり、知りたいのだろう。ナミは上機嫌になった。
「あのね、サンジくんから、プロポーズされちゃった。結婚前提にお付き合いしませんか、だって。信じられる?あの有名な御曹司がよ?玉の輿よ、玉の輿」
 ゾロは黙ったまま、自分の膝の上でナミの細い足を丁寧にマッサージしている。
「どのお客よりも紳士だし、お金持ちだし。センスも良いし。顔も格好良いし。文句の付け所があるとしたら、プレイボーイで名が売れてるところぐらいね」
「それで、受けたのか。プロポーズ」
 ゾロが手を止めて、チラリとナミを盗み見た。
「さぁ、ね。サンジくんは考えておいてくれ、って言ってたけど。返事はまだかな」
「そんなに“いい男”なんだろ。即答かと思ったぜ」
「だって、急だったしね。そうね・・・・・・結婚とか考えたことなかったからかな」
 ゾロは何か言いたそうに言葉を探しているらしく、滅多に動揺しない瞳が揺れているのが伺えた。
「でもねぇ、2度と無い話よ。今の仕事も好きだけどね、いつまでもってわけにもいかないし。サンジくんなら、頼めば店の一件も持たせてくれそうだしさ」
 冗談めかして言うと、ゾロは益々機嫌が悪そうに、マッサージをしていたナミの足を放り出した。
「ちょっと!」
「おまえ、金が目当てで結婚すんのかよ?ばっかみてぇ」
「あんたに言われたくないわよ!誰のお陰で日々暮らしてると思ってんの?」
 ゾロが押し黙って、グッと拳を握る。頭に血が上りそうなのを耐えているのだろう。ナミはここぞとばかりに畳み掛ける。
「大体ね、二十歳にもならないうちに借金して、あたしが拾ってあげたからいいようなものよ?その上、部屋まで提供してあげてるのよ?職まで探してあげたじゃない。そこんとこわかってる?感謝こそされ、文句もあたしの生き方にケチを付けられる立場じゃないのよ、あんたは!大人しくペットやってりゃいいんだから」
「俺はおまえのペットじゃねぇ!」
「ペットよ。犬か猫と同じよ。ご主人様の言う事を聞いてればいいの!」
 ゾロの顔が瞬間湯沸かし器の如く、カァッと赤く染まった。握った拳が小刻みに震えている。ナミはそれに気が付いたが、それでも口を閉じる事はしない。
「あんたなんて、暇つぶしよ、暇つぶし。わかる?あんたはそれで生活してるんだから。いい?あたしがサンジくんと結婚する事になったら、あんたとの暇つぶしもお終いよ。いいわね?」
 止めとばかりにナミは言い放った。
「そう、かよ」
 ゾロが、俯いて拳を震わせながら押し殺したような声でそう言った。ナミが尚もゾロを追い詰めようと口を開きかけたその瞬間。
「きゃぁ!」
 息を吸うほどの間に、ナミはソファに組み敷かれていた。一瞬、自分の身に何が起きたのか、理解ができなかった。ゾロの大きな手はナミの両腕をしっかりと押さえ込み、猛禽類が獲物を狙うような目でナミを間近で見下ろしていた。
「何するのよ!」
「おまえが、あの男と結婚したいなら、すればいい。ただな、おまえの言う“ペット”だって男だってことを忘れるな」
 ナミは息を詰めた。この男、本気である。背中にじっとりとした脂汗が張り付いた。心の何処かでまだ十代の青臭い少年だと舐めきっていたゾロが、正真正銘の「男」だったとナミは始めて気が付いた。
 ナミが掴まれた腕を何とか振り解こうとするが、そんなものは暖簾に腕押しである。どう頑張っても拘束されたそれは解けそうになかった。
「退いて!」
 ゾロの右手がナミのシャツにかかる。ナミは戦慄した。冗談ではない。飼い犬に手を噛まれてしまうわけにはいかない。
「離しなさい!」
 構わずナミに挑みかかるゾロの腹を思い切り蹴飛ばした。ゾロが呻いて、力が少し緩んだ。それを逃さず、ナミは拘束されていた腕を振り解くと、間髪入れずにゾロの頬を思い切り張った。
「何考えてるのよ!冗談じゃないわ。調子に乗るんじゃないわよ」
 ゾロがナミに牙を向いたのは、これが初めてだ。これは裏切りだ。ナミのショックはゾロが襲いかかってきたことよりもそのことの方が大きい。張り付いていた背中の汗が、急激に流れ出す。
「出てって」
 震える声で、ナミは告げた。放心したように呆けているゾロを、目が切り裂けんばかりに睨みつける。
「出ていけ、って言ったのよ。聞こえないの」
 氷のような声で、ナミが告げると、ゾロは一転して怯えた子犬のような目をして、うな垂れた。自分の行動が信じられないのか、戸惑いを隠さない顔をしている。しかし、彼に同情の余地はない。ナミはそう思う。
「悪かった」
 萎むようにゾロは言うと静かに立ち上がった。ナミに背を向け、頭を垂れて、足を引き摺るように歩く。その広く逞しい背中が、酷く小さく、寂しそうだった。自業自得だ。ナミは動かず、その背中を見詰めていたが、やがてゾロが自分にあてがわれた部屋に引っ込むと、ナミは途端に肩の力が抜けた。同時に、恐怖が足先から震えとなってナミの全身に広がっていく。
 ナミは自分の肩を抱くと、ソファに身を埋めた。こんなつもりでゾロを飼っていたわけではない。ゾロを拾ってから1年。ようやく、今、自分が何をしていたのかわかった。ゾロは可愛い子犬などではない。獰猛な猛獣だったのだ。冷静に考えてみれば、いつこんな事が起きても不思議ではなかった。そのことに気付いていなかったのは、やはり自分が軽率だったのか、それとも他に理由があったのか。
 扉が開く音がして、顔を上げると荷物を鞄一つに押し込んだゾロがリビングの入り口で気まずそうにナミを見ていた。ナミは反射的に身を竦める。
「借金は、必ず返す。恩は忘れない。仇で返すつもりはなかった」
 ボソボソとくぐもった声が、リビングに響く。空々しいことを言うな、と言ってやりたかったが、声が出てこない。ナミは睨みつける事で答えるしかなかった。
「幸せにな。あの男と」
 ゾロが踵を返した。ゾロは振り返ることもなく、玄関を出て行く。
 ナミの心に大きな風穴が開けたまま、ゾロは主人の言う事に従ってマンションを出て行った。



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