この船に乗り込んできたばかりの頃、チョッパーはゾロが怖かった。
 
彼の身体からは血の匂いがして、いつも殺気をはらんでおり、不吉の塊のような人間だと思ったから・・・。

人の命を救う医者である自分と、人の命を奪う剣士であるゾロが、海賊船とはいえ同じ船に乗っていること自体が不自然なような気がした。

それに、この男は自分の夢のことを『野望』と呼ぶのだ。

他の仲間は高らかに胸を張って夢を語るのに、この男は厳しい顔をしながらも、
ポツリと自分の夢のことを『野望』と言うのだ。

その言葉の持つ不吉な響きに、チョッパーは心がザワリと撫でられたような気がして、思わずゾロに聞いた。

「・・・・夢なんだろ・・・?」

「いや、そんなきれいな言葉じゃ語れんだろ・・・」

ゾロはどこも見てない目をして答えた。

「・・・なぜ?」

「俺の望みを叶えるためには沢山の人を斬らなきゃならねぇ。
・・・・・そういうのは『夢』とは言わない」



「・・・・・言っちゃあいけない・・・」



(あぁ・・・)


チョッパーはその言葉でこの男の本質を見抜いてしまう。



チョッパーはよくドクトリーヌにこう言われた。



「分をわきまえてる人間を信用するんだっ!!チョッパー!」



「人を殺しといて『正義のためだ』とか、『夢のためだ』とか、四の五の言って、理屈つけて自分を正当化している奴はろくでなしだよッ!!」



「ちゃんと自分のやっていることをわかってて・・・・



・・・・・・泣いてる奴を、助けてやるんだ。」


チョッパーはその時決意する。


ゾロを助けてやろう、と・・・。



(ゾロ・・・お前気づいてるか?お前自分の夢を『野望』って言う時、口元はニヤリと笑っているけど・・・)



(・・・・・・目は泣いているんだぞ・・・・・)




あれから、どれくらい月日が流れたんだろう・・・。

チョッパーは思う。


俺はゾロを助けてやってるのだろうか・・・・?





〜  黒く飛ぶもの  〜


それが自分の鼻先に突然現れたのは、チョッパーが昼食のおかずを釣り上げようと、
船のへりから釣り糸を垂らした直後だった。

それは、何の前触れもなく目の前に突然現れ、黒いレースのような美しい羽をはためかせながら、上になり、下になりゆっくりと飛び回り、最後にチョッパーの青い鼻先をかすめると、後方に飛んでいったしまった。


チョッパーは口をポカンとあけたままの状態で、それがひらひらと舞って行く姿を目で追った。

ドラムは雪の国なので、昆虫はほとんどいない。ましてや今、自分の目の前を風に漂うにして飛んでいった虫は図鑑でしか見たことがなかった。


(・・・・・蝶だ・・・・)


チョッパーは心の中で呟き、その後姿をただじっと見送った。

そしてハッとなって気づく。

この大海原の中、あの蝶はどこからやってきたのだろう?



サンジは朝から不機嫌だった。それでなくてもその存在自体がムカつく緑髪の剣士がよりによって、今日の朝食にほとんど手をつけず、無言のまま食堂を立ち去ったからだ。

サンジは文句の一つでも言って、蹴りの一発でも入れてやろうとその後を追おうとしたが、

「朝からドタバタはごめんよ!」

とのナミの一声で、ゾロの後を追うのを止めた。

そして、後片付けを終え、さぁ これから青空の下、ゾロに説教でもたれてやろうと、甲板に出てきたのだが、いつもこの時間にはトレーニング二励んでいるはずの剣豪は、なぜか既に睡眠中で・・・・・。

サンジはとりあえず一服してから、踵落としで目覚めさせてやろうなどと思い、タバコを手にとる。

フゥーと紫煙を吹き出した時、それは彼の吹き出した煙の中から、ひらひらとその姿を現した。

美しい大きな墨色の羽をゆっくりとはためかせ、それをサンジの金髪にかすめるようにして横切っていく。

(・・・蝶か・・・・。)

サンジはひらひらと舞い去っていく蝶の後姿にわざとタバコを吹きかけ口元をほころばせた。

そして、その時にハタと気づく・・・・。

この大海原の中、あの蝶はどこからやってきたのだろう?



ウソップは甲板でチョッパーのための薬箱を製作中だった。コンパクトで持ち運びやすく、しかも収納力のあるものなどと、チョッパーは好き勝手に注文を並べた。

「ったくリクエストが多すぎるぜ」

と苦笑しながらも、ウソップの頭の中ではだいたいの設計図ができあがりつつある。
頭の中に設計図を思い浮かべながら、その片隅に気がかりなことがあったことを思い出す。

ゾロの様子が昨日からおかしい・・・・。

普段から口数は少ない方だが、昨日は一言も喋らなかった。彼の口から漏れる言葉は
「あぁ」とか「おぉ」とか、それだけで・・・。

「体調が悪いのか?」

とウソップが尋ねても、横目でジロっとウソップを睨んで何も答えず立ち去ってしまった。
他の連中は気づいてねぇみたいだが・・・・。
そう言えば、朝食も食べてなかったし・・・・。

(これが終わったらそれとなくチョッパーに言っておこう・・・)

細やかなフォローを欠かさないウソップはそう決めてから、頭の中の設計図を図面に起こそうと、ペンをとった。

その時自分の目の前に、黒い蝶がひらひらと現れた。
まだ何も書いていない甲板の上に置いた白い紙の上に、ぼんやりとした影を落としながら、その蝶はウソップの目の前をゆっくりと横切っていく。

(・・・黒アゲハだ・・・)

ウソップはよく虫取りをした子供の頃を思い出し、思わず顔をほころばせ、その蝶が後方に飛び去っていくのを見送った。

そしてその時になって気づく。

この大海原の中、あの蝶はどこからやってきたのだろう?  




ルフィは自分の目の前に黒い大きなアゲハ蝶が現れたとき、

「おぉ〜!」

と思わず声を出した。

彼の指定場所である船首に、何をするでもなく座っていると、それは突然やってきたのだ。

(捕まえてチョッパーに見せてやろう!)

ルフィは被っている麦藁帽子を掴むと、ひらひら上下に舞っているアゲハ蝶の上にそっとかざし、

そして・・・・・

「えいっ!!」

と叫んで、それを帽子の中に収めてしまった。  

「ニシシシシ」

ルフィは満面の笑みを浮かべ、中の蝶を確かめるべく帽子のつばをほんの少し持ち上げてみた。
確かに捕らえたはずの蝶はしかし・・・、


そこにはいなかった・・・・。


「あっ!」

その時ルフィは目的の蝶の姿を目の端で捉えた。
いつの間にか、それは自分の後方に飛び去ってしまっていたのだ。

(捕まえたと思ったのになぁ・・・・。)

ルフィは小首をかしげてその後姿を見送った。

そしてそこでやっと気づく。

この大海原の中、あの蝶はどこからやってきたのだろう?




ロビンが甲板の上で、航海士愛用で今やほとんど持ち主から取り上げてしまった感のある長いすに腰掛けて、最近出版されたばかりの考古学に関する論文を読んでいた時、それはいきなり現れた。

ページをめくる美しい指先に触れて、ひらひらと飛んでいく美しい蝶・・・・・。

(黒アゲハ・・?。渡りはしない蝶のはずだけど・・・)

ロビンは思わず本から目線を蝶に移し、みかん畑の方に飛び去っていくその蝶を見つめた。

ロビンはその時改めて思う。

この大海原の中、あの蝶はどこからやってきたのだろう?




熟したみかんを選別し、はさみを使って枝から切り離し、慣れた手つきで足元に置いてあるカゴの中に次々と入れていく。

ナミはみかんの収穫に忙しかった。

額に浮き出てくる汗を手の甲で拭い、「あとひといき!」と自分に言い聞かせるように呟くと、また一つ大きく実ったみかんを枝から切り離す。

チョキン・・・・。

その時、手に取ったみかんの陰から黒くて大きなアゲハ蝶が飛び出してきた。

「うわっ」

ナミは思わずそう声にだして、2、3歩後ず去った。
蝶はそんなナミの鼻先をかすめて、ひらひらと飛び去ろうとする。
ナミは思わず手を伸ばした。そしてハッとなる。

「・・・・・・・。」

飛んでいる蝶を手で捕まえようなんて・・・・。

ナミはどうしてそんなことをしてしまったのかわからないにという風に首を左右にゆっくり振った。
そして、のばしてしまった手をひっこめ、その手のひらをじっと見た。

「・・・・・・・・。」

ナミはまた目線を上げた。
もう小さくなってしまった蝶の姿を見つめながらフと思う。

この大海原の中、あの蝶はどこからやってきたのだろう?




最後に・・・・。


蝶は眠っているゾロの所に音もなく飛んできた。
そしてゆっくりと上下する彼の胸の上にフワリととまった。

「・・・・・・・・・・・・。」

その瞬間、普段は一度眠ったら叩いても、蹴っても起きないゾロが、まるで蝶の重さに気づいたように、ゆっくりと目を開けた。

そして、そのまま自分の胸の上にとまって、ゆっくり羽を閉じたり開いたりしている黒いアゲハ蝶に視線を向ける。



頭の中がボンヤリする。目の前に霞がかかっているようだ。身体の中が熱い。
ひどい頭痛がする。耳鳴りで頭が割れそうだ。



―― そうゾロが感じた瞬間。


蝶がフッと羽を広げて自分の胸から飛び去った。




飛び去り際に、蝶はゾロにこう告げた・・・・。




(セ・・・・ガユ・・デイ・・ノハ、オ・・ノセ・・ダ)




(!!!)


ゾロは驚きのあまり、反射的に上半身を起こした。

グラァ・・・・。

自分の見ている風景がグニャリと歪む。
天地が逆さまになる。
吐き気がして思わず手で口を押さえた。

しかしゾロはあの蝶が飛び去ろうとしているのに気づき、慌てて立ち上がって追おうとした。

(今・・・今・・・何て言った?)

ゾロは立ち上がった瞬間目の前が暗くなった。
心臓が鷲掴みにされたように痛む。骨が軋み、激痛が身体を駆け巡る。
立っていることができない。

意識が遠のく・・・・。

ゾロはゆっくりと自分が倒れていくのを感じた。

かすれていく視界の中で、さっきの蝶が軽やかに飛び去ろうとしているのが見えた。


(・・・・お前・・・今・・・なんて・・・・言ったんだ・・・)


甲板の木目が目の前に迫ってくる、もう全く身体に力が入らない。
瞼がゆっくりと、本当にゆっくりと閉じられていく。


パタン・・・・。


自分でも呆れるくらい軽い音がしてゾロは甲板の上にうつぶせに倒れこんだ。

瞼が完全に閉じられる刹那・・・・。

その時になってゾロはやっと思い出す。



さっきの蝶はゾロにこう言ったのだ。





――― セカイガ ユガンデイルノハ・・・・―――




――― ・・・・・・・オマエノセイダ ―――








蝶はどこへいった   −1−
            

ててこ 様






パタン・・・・。

聞きなれない音がしたので、サンジは反射的に後ろを振り返った。

ゾロが甲板にうつぶせに倒れているのが見えた。

「・・・・・・・・。」

サンジは無言のままゾロに歩み寄る。
いやな予感がしたが、とりあえず憎まれ口の方が先に口をついてしまう。

「おい!新しい寝方でも考案したのか?クソマリモ」

サンジは自分の靴のつま先でゾロの肩辺りをこついた。

「・・・・・・・・・。」

何の反応もない。

―― いや反応はある。

ゾロはゼェゼェと肩で荒い呼吸を繰り返し、顔色は真っ青で、額には脂汗を浮かべ、時々苦しいのか歯を食いしばって無意識のうちに痛みを堪えていた。

「おいッ!!!」

サンジは吸っていたタバコを勢いよく海に向かって放り投げ、倒れているゾロのかたわらに跪いた。

「ゾロッ!おい!どうした!」

肩を揺らしてみる。
ゾロは苦痛で顔を歪めた。
肩に手を置いただけでゾロの身体が熱を持っているのがわかる。

「クソッ!!」

サンジはそう苦々しく言い放つと、ゾロの腕をとり自分の首にまわして、脱力しているゾロの身体を無理矢理立たせた。

―― そして叫ぶ。

「チョッパーッ!!ゾロが倒れた!!ルフィ!食堂まで運ぶ!!手伝えッ!!」

その叫び声に甲板に出ていたクルー全員が固まった。しかし、それも一瞬でチョッパーは持っていた釣竿を甲板に放り投げ、駆け足でキャビンに戻った。

ルフィは文字通り飛ぶようにやってきて、サンジとは反対の腕をとり、2人は引きずるようにしてゾロを抱えて食堂に連れて行った。





ぐったりと意識のないゾロを食堂に置かれているソファの上にそっと寝かせる。

ハァ ハァと荒い息をしているゾロの身体がソファの中に沈みこむ。

その時チョッパーが医療キットの入った愛用のリュックを持って食堂に駆け込んできた。

心配げなクルーが見守る中、素早くゾロの脈をとり体温計をわきの下に滑り込ませる。

「・・・早いな・・・」

と独り言を言い、苦しそうに上下する胸元のボタンを外して、呼吸しやすくしてやる。
その後血圧を測り、それを終えると体温計を取り出し、チョッパーはギョッとなった。

「ここじゃ駄目だッ!女部屋借りるぞッ!」

チョッパーはナミとロビンを見て言った。
2人は同時に頷き、素早く行動に移った。

ナミは飛ぶようにして部屋に戻ると、ドアを大きく開けたままの状態にして、自分のベッドのシーツをもどかしそうに剥ぎ取った。たんすから真新しいシーツを取り出し、素早くベッドの上を覆う。

ロビンは床から特大の手の花を咲かせ、ゾロを女部屋までゆっくりと運んでやった。

全員がそれに続く。

ナミが用意したベッドの上にゾロを寝かせると、ルフィは少しためらってから、
腰の3本の刀を抜き取って、ベッドの脇に立てかけてやった。
ウソップがブーツを脱がしてやる。

その時チョッパーが、心配げなクルーに向かって言った。

「もういいぞ。全員部屋から出て行ってくれ」

「でも・・・」

ナミがそう言いかけた時、チョッパーは厳しい顔つきになって言った。

「何の病気かわからない。伝染る病気かもしれない。俺が良いというまで誰も入っちゃ駄目だ!」

「・・・・・・・・・・・。」

クルーはしばしお互いを見つめあったが、無言のまま頷いた。そしてベッドの中のゾロを振り返りながら女部屋を後にした。

パタン・・・。

ドアが静かに閉まる音がして、チョッパーはゾロに向き直った。

息が荒い。意識もない。それにものすごい高熱だ。
こんな状態になるまで、気が付かなかったなんて・・・・。
ゾロが朝食を食べなかった時点で気づくべきだった。
チョッパーは自分の蹄で自分のこめかみのあたりをコツンと音がするほど、叩いた。

(ゾロは怪我はするけど、病気にはなんないなんて勝手に決め付けてたんだ!医者失格だ!)

チョッパーは泣けてくるのを必死にこらえて、ゾロの診察にとりかかった。




〜  チョッパーの疑問  〜



とにかく何の病気かを突き止めなくてはならない。
さっき自分でも言っていたが、伝染するような病気だとしたら、大変だ。
洋上の小さな船の中では、病気はあっという間に蔓延してしまい、それはこの船の命取りにもなりかねない。

チョッパーはリュックから素早く採血用の注射器セットを取り出した。

チョッパーがゴム状のひもでゾロの左上腕部をきつく縛っている時、ゾロのかすれたような声が聞こえてきた。

「・・・・・チョッ・・パー・・・か・・・?」

荒い呼吸の中、聞いたこともないような消え入りそうなゾロの声にチョッパーは思わず涙が出そうになる。

「うん、そうだ。俺だ。ゾロ倒れたんだ。・・・覚えてるか?」

「・・・・・あぁ・・・・」

ゾロはうっすらと目を開けて、それでも横にいるチョッパーを見ることはなく、
ただボンヤリと天井を見つめながら、吐息とともに返事をした。

チョッパーは消毒液を脱脂綿に含ませながら、少しホッとした。

(意識の混濁はない・・・ちょっと安心だ・・・)

ゾロの太い腕から血液を採取するのに適した血管を探すために、チョッパーは何度もゾロの腕をさする。

そうしているとまたゾロの囁くような声が聞こえてきた。

「・・・・・む・・昔を・・・思い・・・出す・・・。よく・・・医者には・・・・かよって・・・・た・・から・・・」

「そうか・・・。そういえば、前にそんなこと言ってたな。医者にはよく通ってたって・・・」

チョッパーは一番良い血管を見つけ脱脂綿で消毒しながら答えた。

「・・・ほんとに・・・小せぇガキの・・・頃は・・・あんまり・・・身体が・・つよ・・・くなくて・・・・。医者ばっか・・通って・・・・た・・・」

ゾロは懐かしそうに話を続ける。

チョッパーは少しためらう。
いつもは無口なゾロが今は饒舌だ。
しかも普段は絶対にしない自分の子供の頃の話だ・・・。

(・・・・体力が・・・・限界が近い・・・・)

人間は体力的に限界に近づくと、精神的には興奮状態となり、饒舌になる時がある。

チョッパーは心の中で舌打ちをする。
こんな時はちゃんと会話に対応してやるのが良い。
チョッパーは相槌をうった。

「そんな風に見えないけどな。ゾロは産まれた時から頑丈そうだ」

「・・・剣術を習い・・・始めて・・・からだ・・・。身体が強く・・・・なったのは・・・。家の・・・近くの・・・道場に・・・通った・・・んだ・・・」

ゾロはハァハァと息も絶え絶えなのに、会話を止めようとはしない。次から次へと言葉を紡ぎだす。

「・・・・つ・・・よい・・・奴がいて・・・どうし・・・ても・・勝てなくて・・・・。そ・・いつ・・・に勝ちたい・・・・勝ちたいって・・・ずっと思ってて・・・・」

「そうか。凄いんだな・・・そいつ。」

チョッパーは注射器の針をゆっくりと刺しながら答えた。多種にわたって検査をしなければならない。少し多めに血液がいる。少しづつ血液を吸い込んでいく。

「・・・・家の近くにな・・・小高い・・・丘があって・・・・」

話が突然変わった。
記憶が飛びと飛びになっているのだ。
会話の脈略も考えられないのだろう・・・。

チョッパーは血液を採り終わったら、軽い鎮静剤を打つことにした。

「・・・そ・・・の丘に・・・教会が・・・建ってた。・・・教会といっても・・・もう・・・何十年も・・・・使われて・・・ない・・・・廃墟で・・・・」

ゾロは天井を見つめたまま、ただ機械的に掠れた声を出し続けている。
チョッパーに話しかけてるわけでもないように、ただただ言葉だけが、間断なく彼の口から漏れてくる。

「・・・おかしいんだ・・・それは・・・説教台と・・・十字架と・・・その後ろ・・・の壁と・・・それに連なる・・・丸いドーム状の・・・天井しかない・・・建物・・・だった・・」

ゾロは少し口角を上げて、つぶやいた。しかしすぐに苦痛で顔を歪める。それでも彼は話すことを止めない。

「変・・・だろ?・・・建ってるのが不思議なんだ・・・・。一枚の・・・壁と・・・天井・・・だけだぜ?・・・だから・・・絶対・・・近づいちゃあ・・・駄目だって・・・。いつ崩れても・・・・おかしくないからって・・・よく・・・言われてて・・・・」

ゾロはそこで大きく息を吸い込んだ。
チョッパーに相槌を打たせる暇も与えず、続ける。

「・・・真っ白い壁に・・・真っ白い天井で・・・。ああいう・・・のを・・純白って・・・いうんだろうな・・・・。晴れた日なんか・・・・すごく・・・きれいだった・・・。」

「よく行ってたのか?」

チョッパーはようやく口を挟んだ。

血液はあと少し要る。ゾロの腕を縛っていたゴムをパチンとはずす。

「・・・あぁ・・・黙ってよく・・・行ってた・・・。天井に・・・フラスコ画が・・・描いてあって・・・それを・・・見に・・・よく・・・・行ってた・・・」

彼の心はもうここにはない・・・。

幼い頃、大人には内緒で足繁く通った朽ちた教会に行ってしまっているのだ。

ゾロは目を細めて呟くように言った。
一瞬、不思議と苦痛から開放されたような顔になった。

「・・・・あの男が・・・指差してるんだ・・・・。すっと腕を・・・上げて・・・指差してるんだ・・・・どこかを・・・」

「あの男?・・・イエスのことか?」

チョッパーは血液でもう一杯になった注射器をゾロの腕から抜き取りながら尋ねた。

「・・・あぁ・・・そうだ・・・。あの男は・・・・どこかを・・・見つめて・・・指差してるんだ・・・。そういう・・・画だった・・・。それを・・寝っころがって・・・見るのが・・・好きで・・・・・」

そう言うと、ゾロは震える右腕をノロノロと天井に向けてもち上げた。多分子供の頃もそうしたであろう動作で、ゆっくりと天井を人差し指でさす。

女部屋の天井に彼は今、幼い頃見ていたフラスコ画を映している・・・。

そしてポツリとつぶやく・・・。ひどく寂しげに・・・・。



「・・・・・あの指に・・・・・触れてみたかった・・・・・」




「・・・・・・ゾロ・・・・・」

チョッパーは注射器をトレイに戻しながら、思わず声に出してその男の名を呼んだ。
それ程、ゾロの声は寂しげだったのだ。

「あの・・・男がどこ・・・を指差しているのか・・・その・・・横にいる・・・驚いた・・・顔をしている・・・別の男も・・・結局・・・・どこへ・・・行ってしまったのか・・・知りたくて・・・・」

疲れたのだろう。そう言うとゾロの上げていた右腕がまるで糸が切れた操り人形のようにパタリと落ちた。

「・・・・あの2人が・・・どこを指差して・・・どこに行ったのか・・・・知った後は・・・なおさら・・・・・」



「・・・・・・あの指に・・・・触れてみたかった・・・・」



チョッパーは返す言葉がなく、ただ鎮静剤の注射器を取り出し、ゾロの左肩の部分を消毒してからそれを打った。

ゾロはただじっと天井を見つめ続けている。

しばらくゾロの荒い呼吸音しか聞こえなかった。



「・・・・どうしたかったんだろう・・・・俺は・・・・」


ゾロはまた口を開いた。

自分に尋ねるように・・・・・。



「・・・・・あの男の・・・指に触れて・・・どうしたかったんだろう・・・・・」



囁くような声で自問自答する。

そのうちゾロの瞼がごくゆっくりとおりてきた。
それを認めるとチョッパーはゾロに優しく静かな声で言った。

「・・・・少し落ち着いてくる・・・。眠ればいい・・・ゾロ」

「・・・・あぁ・・・・・」

ゾロはそう呟くように答えるとフッと目を閉じた。
目を閉じる瞬間・・・ゾロの乾いた唇から本当に小さい声が漏れた。

耳のいいチョッパーだから聞き取れたであろうその言葉は、本当に小さい囁きだった。




「・・・・クォ・・・・ワディス・・・・ドミネ・・・・」




「・・・・?・・・・」


ゆっくりと立ち去ろうとしていたチョッパーはその聞いたことのない言葉を耳にして思わずゾロの方を振り返った。


ゾロはもう眠ってしまっていた。


「・・・・・・・・・・・・。」

チョッパーは銀色のトレイを持ったまま、その言葉の真意を問いただすことも
できず、ただ黙ってその場に立ちつくした。


チョッパーの疑問がゾロのいるこの部屋にヒラヒラと舞い降りた。
それは黒い蝶の形となりゾロの周りを飛び回る・・・。




「・・・・セカイガ ユガンデイルノハ オマエノセイダ・・・」



(あぁ・・・そうだ・・・俺のせいだ・・・・)





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