蝶はどこへいった   −2−
            

ててこ 様






〜 クォ・ヴァデス・ドミネ  〜


カチャリ・・・・。

静かに音がして食堂のドアがゆっくりと開いた。

チョッパーが少し疲れたような顔をして食堂に帰ってきた。

何をするでもなくその場に集まっていたクルーは、それぞれの席に座っていたが、チョッパーの姿を見ると全員弾かれたように立ち上がった。


「どうだ?ゾロの具合は!?」

ルフィがもどかしそうに尋ねた。
チョッパーはコクンと小さく頷くと、流し台の方にトコトコ歩み寄り、
石鹸で蹄を洗い始めた。

「・・・・今薬を打ったから眠った。・・・大丈夫・・・・だと思う・・・・。」

肘まで泡まみれにしながらチョッパーは自信なさげなつぶやきで答えた。

「何の病気だ?」

サンジが聞いた。

「・・・・・俺は・・・ゾロがいつの頃からあんな風に生きてきたか知らないけど・・・・」

チョッパーは水道の水で泡を流しながら答える。

「・・・・これまでの疲れが・・・・今になってまとめてでてきたって感じかな・・・・」

ギュっと蛇口を閉めて水を止める。ピッピと蹄を2、3回振って水を切ってからタオルで拭いた。

「詳しい検査をしてみないと何とも言えないけど・・・・病気とかじゃなくて・・・・・」

「・・・・疲労だな・・・・多分・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・。」

その言葉に全員が押し黙る。

ゾロの過去は誰も知らない。

でも彼がかなり以前から無茶なことをし続けてきたことはわかる。

「・・・・身体中が・・・・悲鳴を上げてるんだ。」

「もう・・・・止めてくれって・・・」

チョッパーはそう呟くように言うと、視線を天井に向けた。そしてポツリと言葉を落とした。




「・・・・・クオ・・・・ヴァディス・・・・ドミネ・・・・・」




「?????」

聞いたことのないその呪文のような言葉がチョッパーの口から漏れた時、クルーは無言のままチョッパーを見つめた。

「・・・クオ・ヴァディス・ドミネって、ゾロが言ったんだ。眠る直前に・・・・。それまでちょっと興奮状態でな、ずっと喋ってたんだ。子供の頃の話とか・・・・」

「・・・ゾロが?子供の頃の話を・・・?」

ナミが眉をしかめて尋ねた。

彼女が知る限り彼は積極的に自分の過去を話すような性質ではない。

「・・・・子供の頃は身体が弱かったことや、剣術を習い始めて、強くなったことや、その道場にすっごく強い奴がいて、どうしても勝てなかったことや・・・・」

チョッパーはそこで少し間をおいた。

「・・・・・・家の近くの朽ち果てた教会の天井画を見るのが好きだったことや・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・。」

「・・・・描かれていた絵はイエスともう一人の男で・・・その2人がどこに行くのかずっと疑問だったんだって・・・・」

「・・・・イエスと・・・もう一人の男・・・?」

ロビンが静かに確認するように聞いた。

「うん・・・。そのイエスの指先に触れたかったんだって・・・。」

「どうしてか・・・自分でもわからないって・・・・」

チョッパーはそこで一息ついて、コトリと自分の椅子に座った。



「・・・・・クオ・ヴァディス・ドミネ・・・・って言ったんだ」



そしてクルーの顔を順番に見つめて今度は逆に聞いた。

「・・・・・何のことか・・・わかるか・・・?」

「・・・・・・・・・。」

クルーは互いを見つめあい困ったように口をつぐんだ。

その時ロビンがいつものように落ち着いた声で口を開いた。

「・・・クオ・ヴァディス・ドミネ・・・ラテン語よ。その天井画の題材の名前・・・」


「ロビンわかるのか!?」

チョッパーが少し顔を明るくして聞いた。

「えぇ。イエスともう一人の男の名前はペテロ。逆さ十字のペテロ」

ロビンは軽く息をつくと自分を見つめるクルーに向かって続けて言った。

「ペテロはイエスの弟子だった人物。でも彼はイエスが捕まった時、真っ先に逃げ出し、その上法廷では自分がイエスの弟子だったことを3度も否認してしまうの・・・イエスを誰よりも愛していたペテロは心ならずもイエスを裏切ってしまう・・・。」

「でも彼はその後、数十年間に及ぶ過酷な迫害に告ぐ迫害の中での宣教活動に身を投じる。まるで裏切ってしまったイエスに許しを請うように・・・・。」



「・・・・贖罪・・・・ね」



「紀元一世紀のローマ。時の皇帝は暴君ネロ。彼の暴挙によってローマは火の海になり、それを端にキリスト教徒の大虐殺が起こり、その後生き残った信徒の懇願でペテロはローマから去ろうとする・・・。」


「その時、アッピア街道を行こうとするペテロの目の前にイエスの幻が現れるの・・・」

「ペテロはイエスの幻を見て驚きのあまり持っていた杖を落としながら、思わず尋ねる・・・・。」

ロビンは少し間をおいてから静かに言った。



「・・・・・クオ・ヴァディス・ドミネ・・・・・?」




「・・・・主よ、どこへ行かれるのですか・・・?」





「―― イエスはローマの方向を指し示しながら静かに答える。」

「『お前が私の民を捨てるなら、私はローマに行ってもう一度十字架にかかろう』」

「その言葉を聞いてペテロは踵を返しローマに戻る決心をする。それに驚いたペテロの従者が今度はペテロに尋ねる。」




「『クオ・ヴァディス・ドミネ』」


「『主よ、どこへ行かれるのですか?』」




「ペテロは答える。『ローマへ』・・・と」



ロビンはそこまで一気に喋ると吐息ともに続けた。

「彼はその後処刑される。でもイエスと同じでは恐れ多いと逆さまに十字架にかけられるの・・・」

「剣士さんが子供の頃見ていた天井画はその一場面ね。イエスの幻を見てペテロが思わず『主よどこへ?』と尋ねる場面よ。『クォ・ヴァディス・ドミネ』。宗教画では良く使われる題材よ」

ロビンは静かに話を終えた。




チョッパーがしばらくしてから沈黙を破った。

「ゾロが言ってた。イエスがどこを指していたのか、ペテロがどこに行ってしまったのか、知った後はなおさら・・・・」




「・・・・その指に・・・触れたかったって・・・・・」




「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

食堂を重い空気が支配する。

神など信じないと断言する男は子供の頃何を思って
その指先を見つめていたのだろう・・・?





―――  クォ・ヴァディス・ドミネ ―――




――  主よ、どこへ行かれるのですか? ――




――  どこへ・・・行かれるのですか? ――





〜  ロビンの手 〜



ゾロの看病を全員交代で行うことを決めた時、ロビンは珍しく動揺して軽くかぶりを振ってこう言った。

「・・・・私・・・・できないわ・・・外してくれない?」

少し困った顔をしている。

「何でだ?」

ルフィが小首をかしげて聞き返した。

「だって・・・私、看病なんてしたことないし・・・・」



「・・・・・・されたこともないから・・・・。」



ロビンは自嘲気味に口の端を上げてその問いに答えた。

ロビンは信じられないくらい幼い時から、一人ぼっちだ。

たった一人で日のあたらない道の隙間を縫うように生き抜いてきた。

病気にならないように細心の注意を払い、病気になってしまった時は胎児のように丸くなり、膝を抱えて自分を抱きしめて眠るだけだった。嵐が頭上を過ぎ去るのを
ただ黙って耐えるかのように・・・・。



看病をされたことがないので、仕方がわからない




――― 彼女はそう言ったのだ。




「私が看病なんてしたら、かえって剣士さんに悪いわ・・・」

ロビンがそう言って少し俯いた時、ルフィがいつも通り言った。

「駄目だっ!仲間なんだから、全員でゾロを看てやるんだっ!」

子供のような言い方をする。

「・・・・でもっ」

ロビンが反論しかけた時、ルフィはそれを遮り、断言した。

「看病なんて簡単さ!要はゾロのことを想ってやればいい!」

ニコッと屈託のない笑顔をロビンに向ける。

「・・・・・・・・・・・・・。」

今だとまどうロビンを尻目にルフィは続けた。

「一番最初、ロビンからな!」

「・・・・・わかったわ。キャプテン」

ロビンは軽くため息をついてから、降参したかのように両手を挙げて、そう答えた。







翡翠色の髪と瞳を持つ少年が、縁側に座って庭に着かない両足をブラブラさせながら、自分が手に持っている物をじっと見ている。

時刻は夕暮れ。ヒグラシが寂しげな鳴き声をあげ、一日の終わりを告げている。
昼間とは違う涼しい風が縁側から道場に向けて吹き込んでいった。

少年は短い小枝を持っていた。

そこには葉っぱが一枚・・・。

そして、その葉っぱにはアゲハチョウの幼虫が一匹
一心不乱に葉っぱを食べている姿があった。

少年は思っていた疑問をつい口に出して言った。

「なぁ、くいな・・・。本当にこれが蝶々になるのかな?」

それを聞いて少年の隣で半月状のスイカを食べていた黒髪の少女は思わずむせてしまった。

「うっ・・ぐっ・・なっなに?ゾロ?そんなことも知らないの?」

手の甲で口からこぼれてしまったスイカの汁を拭いながら、くいなと呼ばれた少女はバカにしたように答えた。

「しっ知ってらぁ!!そんなことぐらいっ!!」

ゾロは顔を真っ赤にして慌てて反論する。

「俺はただこの青い虫と、蝶々がどうしても同じ生き物には見えないってことが言いたかっただけだっ!!」

ゾロは口をとんがらせて説明しだした。

「おたまじゃくしは手が出て、足が出て、尻尾がなくなって、かえるになってって成長のしていくから、具体的にわかるけど・・・・。こいつは・・・・」

するとゾロは首をかしげて、また自分の持っている小枝の先の青虫を見つめた。

「これと蝶々は全く違う生き物だろ・・・。どうしたらこのツルツルうねってる細長い青虫が、毛が生えてるみたいな羽を持つ蝶になるんだ?」


くいなは皮だけになったスイカを、横においてあったお盆の上に乗せるとまた呆れた顔をして答えた。

「サナギになるからに決ってるでしょ!」

ゾロはなおも食い下がる。

「だからぁ!サナギになったからって何でこんなに姿が変わるんだよ!サナギの中でどうなっちまうっていうんだ?!」

「・・・・・・・・・・・・・・・。」

その瞬間、それまで2人をやさしく撫で付けていた風がピタリとおさまった。

ヒグラシが鳴くのをやめ、世界が沈黙に包まれる。

くいなが怖いくらい真面目な顔をしてゾロの瞳を見つめる。
子供から少女へ変わりかけているくいなの薄紅色をした唇がゆっくりと開く。

ゾロはまばたきもできずにその唇の動きをじっとみつめる。

くいなの声が静かに聞こえてきた・・・。




―――― サナギの中ではね・・・ゾロ・・・・ ―――

 
      ・・・・・青虫は一度・・・・・






―――  ドロドロニ、トケテシマウノヨ  ―――





「うわッッ!!!」

それまで肩で息をする他はピクリとも動かなかったゾロが突然叫んで上半身を起こし
たので、ロビンは思わず自分も叫びそうになるくらい驚いた。

ゾロは瞬間、苦痛に顔を歪め、またゆっくりと後ろに倒れこむ。

「!!」

ロビンは咄嗟に両手を差し出した。
ゾロの脱力した上半身は思っていた以上に重く、ロビンはしこたまベッドの角に両肘をぶつけた。
しかしそのおかげでゾロはゆっくりとまたベッドの海に沈むことが出来た。

ロビンはゾロの額から崩れ落ちたタオルを床から拾い上げ、ベッドサイドボードの上に置いてあった氷の張った桶のの中に浸した。軽く絞りまた額の上に置いてやる。



―― 時刻は真夜中 ――



寝ずの番が続く。



ランプのはかなげな光が一つあるだけの部屋でロビンはゾロのかたわらに座りずっと看病を続けていた。

ルフィが言った
「ゾロのことを想ってやればいい」
という言葉でロビンは少し肩の荷が下りたような気がした。


ずっと暗闇の中で生きてきた自分がこの船に乗り込んできた時、ここの連中はあまりにも眩しくて直視できなかった。

しかし、しだいに打ち解けてくるとそれぞれのメンバーの人となりが少しずつだかわかるようになってきた。

それは自分もこの光の中の生活に馴染んできたという証拠なのだろう・・・。

今自分のわきで眠っている青年は今だ心を許してくれてはいないようだ・・・。
自分のことを『あいつ』だの『あの女』だのと言い、決して名前で呼ばない・・・。

それでも・・・・とロビンは思う。

彼の愛刀の刃先が自分に向けられることは決してないことも
ロビンにはわかっていた。



彼はそういう男だ ―――



船長が太陽なら、彼は月で、船医が春なら、コックは秋だ。狙撃手が木陰なら、航海士は陽だまりで・・・。




―――  この船はなんて心地良い ―――




(彼のことを考えてあげよう)


ロビンは考えをめぐらし、一つの結論に達した。
それが正しいのか間違ってるのかわからない。
でもロビンはそうしなければならないような気がしていた。

ロビンはゾロを看病する時は、自分の能力を決して使うまいと決心する。

大きな氷の塊をアイスピックで細かく刻むのも
手が真っ赤になるほどの冷たい水をタオルに含ませて何度もゾロの額に乗せてやる
のも、苦痛にゆがむ顔から吹き出る汗を丁寧の拭いてやるのも・・・・


すべてこのもってうまれた2本の手だけでやってあげよう・・・。

能力を使った方が効率的に看病はできるだろう。

でもロビンはこの船に乗って初めて知ったのだ。

人を思いやるのは効率ではないことを・・・・。

ロビンはすぐに熱がこもってしまうゾロの額のタオルをまた冷たい氷水に浸す。
何度もやっているのでロビンの美しくて白かった手は痛々しいほど真っ赤に染まっていた。

それでもロビンは続ける。
この痛みは彼と自分をつなぐ仲間であることの証だ。

(早く良くなるのよ・・・。剣士さん)

ロビンの手から彼女のいたわりがひらひらと舞い降りた。
それは黒い蝶となって、ゾロの身体のまわりを飛び回る。


「・・・・セカイガ ユガンデイルノハ おまえのせいだ・・・」



(あぁ そうだ。俺のせいかもしれない・・・・)






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