唇 −1−
のお様
あれから数日。
航海は変わりなく続けられた。
コックは料理を作り、船長はそれを平らげ、狙撃手は七つ道具の整備に余念がなく、ちょっかいを掛けてくる小物の海賊船は返り討ちにし、食料がなくなれば寄港して、一路、グランドラインをめざしていた。
剣豪の、何かをのどに引っかけたような落ち着きのなさには、おそらく全員が気づいていたが、そのわけを知っているのは航海士だけだった。
ゾロが、他人の視線のないところで、ちょくちょく自分を見ているのは知っていた。
ナミは、自分の視線が彼の方に向くのを意識的に避けることに成功していて、二人の視線が絡み合うようなことは起こっていなかった。今は一つの大きな夢のもとに集まり、行動を共にする仲間たちの中にいる。この狭い船の中で、他の三人のクルーのことを意識しているわけではなかったが、自分の感情に振り回されることには、何となく気後れを感じているのかもしれなかった。
しかし、いつまでもこのままではいられないこともわかっている。
ナミがキッチンのテーブルで今日のログをつけ終わり、自室に引き上げようとしていたとき、日課のトレーニングを終えてシャワーを浴びたゾロとすれ違った。
「お休み」と挨拶して、何ごともなくすれ違う・・・振りをする。いつもはそれで終わるのに、今夜はとうとう彼から声を掛けてきた。
「おい」
・・・遠慮がちな声。
「何?」
ナミは足を止めて振り返る。
ゾロはわずかに言いよどんだが、すぐにはっきりと答えた。
「聞きたいことがあるんだが」
「だから何よ」
「おまえ、何でこっちをちゃんと見ないんだよ」
痛いところを突かれて、ナミはちょっとひるんだが、体ごと振り返ってしっかりとゾロの視線をとらえた。
「あんたこそ、人のことチラチラ見て何よ。もっと人目ってものを考えなさいよ」
「俺がいつおまえをこそこそ見たってんだ」
「自覚がないならよけいたち悪いわ。ふう・・・」
ナミはそのまま部屋に向かって歩き出した。
「おい!」・・・後ろから手首を掴まれる。
胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。
「まだ話は終わってねえ」
「何のこと?」
「ここじゃ言えねえな」
「手を離してくれない?」
「イヤだ」
狭い廊下では身動きがとれない。ナミはゾロの方に向き直った。
「どうしたのよ、急に」
「急じゃねえよ・・・わかってんだろうが」
ゾロのまなざしは真剣だ。
男の突然の変貌にとまどいながらも、いつかこうなることはわかっていた。でも、まだ今は、流されるわけにはいかない。自分には目標があり仲間があるのだから・・・
「静かにしないとみんなが起きるわ」
「おりゃ、構わないぜ」
「ダメ、私が構うのよ」
「じゃ、ゆっくり話せるとこに行くか?」
「待って・・・」
「もう待てねえんだよ」
ナミはすばしこく身を翻し、腕を振り払った。自室の階段を駆け下りる。男はすぐに後を追ってきた。
ドアは開け放たれたままだ。
部屋に逃げ込んでもどこにも行き場はない。ナミは息を大きく吸って冷静に考えようとした。
ゾロが目の前に立ちはだかる。頭が混乱しそうだ。
じりじりと後ろに下がり、ついに壁際まで追いつめられた。じっと見つめられている。その視線を遮った両手を取られて、壁に押しつけられた。
「離しなさいよ」
「イヤだって言ったろ・・・」
「何よ、離してったら、あんたなんか・・・」
じたばたと暴れるうちに思いがけずゾロのみぞおちにきっちりと膝が入ってしまった。
「こンの・・・」
「あっ・・・ごめ・・」
彼の額に青筋が立つのが、至近距離ではっきりと見えた。手首をつかむ手に力が込められる。
「・・・」
ナミは思わず目をつむった。男は黙ったままだ。
額に暖かい風を感じて、ナミがそっと目をあけると、ゾロの顔が目の前にあった。
何も言わず、ただじっと自分を見ている。背中がゾクゾクした。体中から力が抜けていくようだ。
「な・・・何よ」
我ながらかすれた声だと思った。
「ナミ・・・」
男の声も乾いている。
「もう・・・黙れ」
なおも口を開こうとしたとき、それをふさぐように唇が降りてきた。
最初は軽く一度触れただけだった。それだけでもう、何も考えられなくなった。
すぐにもう一度、強い力で押しつけられた。
とまどうナミの唇を、からみとるように開かせると、優しく強く、誘うように重ねられる。
暖かくて柔らかい。
この無骨な男がこんなにもやさしく自分に触れることができるなんて、思いもしなかった。
背骨の下の方から熱い痺れが体を昇ってきて、酔って溶けてしまうみたいだ。
「んっっ・・・」
思わず息がもれる。
「ナミ・・・」ゾロが一瞬唇を離す。
「あふっ」大きなため息が出た。
ゾロは片方の口もとをあげてにやっと笑った。まだ額を触れあわせたままだ。
「大丈夫か。ちゃんと息しろよ」
「何、言ってんのよ・・・」
答えるのも切れ切れになる。かろうじて続ける。
「もう、ダメ。離して・・・」
「ダメだ」
最後の抵抗はあっさりと却下された。
「まだ、これからだ・・・」
両手は壁に縫いつけられたようにびくともしない。胸がドキドキと音を立てている。自分の体がかつてないほど熱くなっているというのに、もっと熱い男の体が迫ってきて、今度は下からのぞき込むようにナミの体をぎゅっと壁に押しつけた。
あのやさしい唇が、耳の下から首筋へと滑るように動いていく。
触れあっているところから、男の熱が伝わってくる。
その陶然とした甘さに酔う。
もう自分でもどうしようもない。
体の線が切れてしまったかのように、くにゃりと足が折れ、膝の力が抜けて崩れ落ちそうになる。ゾロは苦もなくそれを体で支え、膝をナミの両脚の間にわり入れると、ナミの手首の力を抜いた。
男の体の中に倒れ込む。
一瞬で、広い胸の中に包まれた。
ゾロの唇はまだナミの鎖骨のあたりから離れようとしない。
痺れるような快感と同時にわき起こってくる、圧倒的な感情の波に溺れてしまいそうだ。
ときめきといとおしさと、少しの哀しさ、そして、久しく感じたことのなかった安らぎと。
ナミは腕を抜いて、男の両脇から背中に回した。男がちょっと驚いたように動きを止めた。
そして、再びナミを抱く腕に力がこもる。
ナミがそっと顔を上げると、うつむいているゾロの顔が目の前にあった。怒ったように眉を寄せている。
ナミの胸の中に、暖かいものが溢れる。
「ゾロ・・・」
ごつごつした指が、ナミのおとがいにそっと触れ、自分の方に引き寄せた。
二人とも視線は逸らせないまま、もう一度、ゆっくりと唇を重ねる。
我知らず開いた唇の隙間からゾロの舌が無造作に入り込んできて、ナミを溶かしていく。
「ああっ・・・」
熱い吐息を漏らしながら、体はいっそう熱を帯びてきているのに、ナミの頭の中は徐々に冴えていった。
ゾロが軽々と自分を抱え上げ、ソファに横たえるのを、黙って受け入れる。
体全体にぐっと男の体重を感じた。暖かい、重みだ。
「もう・・・あんたってば、ほんとにしょうがないわね・・・」
ちょっと甘いがいつもと変わらぬ声が出た。
「仕方ねえだろう。海賊なんだからよ。欲しい物はいただく」
悪びれない答えに、思わず笑みがこぼれる。
(ほんとにそうね)
ナミは目を閉じた。自分を覆っている男の背中に腕を巻き付ける。そして、やって来たかつてない大きなうねりに、身を任せた。
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