池の水面を撫でるように一陣の爽やかな風が吹き抜ける。
昨日までとは違う空気を運んできていることを敏感に感じ取り、ルフィは鼻をひくつかせる。
季節は夏から秋に移ろうとしていた。
そっと芝生を踏みしめる音が聞こえ、誰かが自分に近寄ってきたことに気づく。
顔を上げて見てみると、いつもは遠巻きにルフィを見守る侍従の一人がそばまで寄ってきて、恭しく頭を下げている。
「失礼いたします。まもなくナミ妃殿下がお越しになられます。」
王を継ぐ者 −1−
「うぃーっす。」
ルフィは顔を再び池の方に戻し、間延びした返事を返す。
ああいつものオベンキョウの時間だと思いながら。
ずっと大嫌いだった時間。
でも最近はそれも悪くないと思っている。
ナミがいるようになってからは。
「釣れる?」
唐突に声を掛けられる。
ナミだ。
あれから5分とたっていないだろうに、もうそば近くまで来ていたのだ。
「んにゃ、全然。」
ふるふると首を横に振る。
ルフィは、イースト宮殿(王太子の住居)の中庭にある池のほとりに座り込み、釣り糸を垂れていた。
手は釣竿を握ったまま目線だけ上げて、視界の端にナミを捉える。慎ましくもスラリとしたラインの薄緑色のドレスを身にまとっている。
ナミは、結婚以降はもう男のような服を着なくなった。髪も寝室以外では常にアップにまとめている。
ルフィは時々、かつて肩の辺りに切り揃えられていたオレンジ色の髪を揺らして、男の為りをして闊歩していた頃のナミを懐かしく思うことがある。
ナミは釣りを決め込んでいるルフィをしばらく見つめた後、頬に白い手を当てて、うーんと考えを巡らす。
「ねぇ、ここってプールじゃなかったっけ?」
「あ?」
プール。
夏の暑い日に水遊びに興じるための場所。
しかし、ルフィは根っからの水嫌いなので、ルフィがこの宮殿に住むようになってからは一度もそれとして使われたことがなかった。そしていつしか無用の長物となり、藻や水草が生い茂り、池と成り果てた。
元がプールなのだから、魚がいないのも道理。そんな場所で釣り糸を垂れたとしても、当然のことながら永遠に魚など釣れまい。
それを聞いて、ルフィも思い出していた。そういえば、ここで釣りをすると侍従に告げた時、怪訝な顔をされたこと。そして釣りをするなら宮殿の堀でと勧められたこと。しかし堀へ出るとなると警備が増えてしまうし、ゾロゾロとお供を連れての釣り・・・・はっきり言って萎えると、その時はそう思ったからこそ、ここでの釣りを主張したのが、実はこういう訳だったのだ。
ルフィは思わずカッとなって、侍従達に向けて大声を張り上げた。
「なんだよ!ならハッキリ言えよ!プールで釣りしてる俺が、馬鹿みてぇじゃねぇか!!」
ルフィの激昂に、瞬時にして侍従達が顔を青ざめさせ、身をこわばらせる。
「ルフィ、怒鳴らないの!普通に言いなさい!あんたが大声出すと必要以上に怖いんだから!」
間髪入れずにナミがルフィに鋭く制した。むぅと膨れはしたもののルフィは口を噤む。
「あなた達もルフィに“察し”を求めるなんて無駄なことはやめなさい!十を言ったって、一が分かるかどうかなんだから!」
今度は侍従達の方に向き直り、ナミはコンコンとルフィの扱い方について説く。
恐縮して頭を垂れる侍従達を、ルフィは少しばかり同情の篭った目で見つめた。
「ナミが一番怖ぇよ。」
「なんか言った?」
「んにゃ、なんも。」
ニッコリと恐ろしい笑顔を見せるナミの質問をかわし、話題を変える。
「で、何の用だ?」
ナミがわざわざここまできたのはルフィに用があってのことのはず。
ルフィはナミが手にしている書類に気づき、それをじっと見つめる。
「あ、そうそう、演説の草稿が出来上がってきたの。」
「そうか。じゃぁレンシュウしなくっちゃな!」
ルフィは勢いつけて飛び上がるように立ち上がると、尻の汚れをパンパンと手で払う。
サッと侍従の一人が近づいて、ルフィから釣竿を受け取り、また引き下がった。
行くぞと言って、ルフィは手を伸ばし、ナミの書類を持っていない方の手をぎゅっと握り、軽く引き寄せた。
その所作に、一瞬ナミは息を呑んで身を震わせたが、すぐに目を伏せ、何事も無かったかのようにルフィに手を引かれるまま歩き出す。
手を繋いで中庭を歩く王太子夫妻を、侍従、女官達が頭を垂れて見送っている。
***
「少しでもその国の言葉を取り入れると喜ばれるわ。親近感というのかしら、あなたの国を尊重していますっていう意思表示ね。」
「そっか、なるほどなー。」
「で、次のこの部分は・・・・。」
イースト宮殿の一室で、王太子ルフィと王太子妃ナミが、重厚な造りの木製のテーブルの上に演説原稿を開いて、しきりに話し合っている。
ルフィとナミが結婚し、ここで二人で暮らすようになってから、5ヶ月が過ぎようとしていた。
そしてルフィ曰く「オベンキョウの時間」に、こうして公務について打ち合わせる姿は、もはや珍しくなくなってきている。
元来からルフィは公式な場での振舞いを大変苦手としていて、お付の者達を散々ヒヤヒヤさせてきた。現に、その多くは不調法な結果に終わることが多かった。特に、大勢の人々が居並ぶ前での挨拶やスピーチ、演説が苦手だった。言うべきことを教えられても、覚えられないし、頭に入らない。
そういうこともあって、王太子となってからもルフィ一人での公務は極力避けられてきた。
しかし、結婚する少し前から状況が変わり、段々とそういう機会が増やされるようになった。国王が高齢であることもあり、国事行為の代行が増えてきているのだ。
そして、ナミが来てからは事前にこういう風に打ち合わせや練習をするようになり、ルフィも公務をだいぶスムーズにこなせるようになってきた。
とはいうものの、最初はこの練習さえもルフィは嫌がったのだが。
「いつまでも苦手なままでいいの?いつかはアンタが王になるのよ?そうなったら、こういう行事が目白押しなのよ。毎日毎日、来る日も来る日もこういうことをやっていかないといけないの。その度に逃げ回るつもり?それでホントにいいの?悔しくないの?どうせ毎日やるのなら、苦手なままよりも得意にした方がいいでしょ?どうせやるんなら、楽しくやりましょうよ。そうしたら、壇上だってどこへだって気軽にいけるようになるわ。」
「そんな風になれるわけねぇ。」
「それは自信がないからよ。だいじょうぶ。ちゃんと練習すれば、アンタだってやれるようになるわ。」
「こんな長い文章、覚えられねぇもん!」
「全部覚える必要ないのよ。要点を掴んでおけば、別に原稿通り全部読まなくてもいいの。それにスピーチって、そう毎回違うわけではないわ。だいたいは定型文なのよ。それさえ覚えておけば、あとはいくらでもつぶしがきくものよ。」
ナミの根気のよい、或いはしつこく畳み掛けるような説得に、ついにルフィが折れ、レンシュウを受け入れた。
そして実際に事前にそうやって練習してみると、みるみるうちに上達し効果が現れる。
初めて詰まらずに演説を終えた時は、ルフィ自身すごく嬉しかった。そして一つ上手くできると、それがまた次への励みとなる。
公務での演説の原稿案が出来上がると、まずナミに届けられる。それからナミが目を通して、ルフィが話しやすい言葉に直していく。それを実際にルフィに読ませて、ルフィの意見も聞きながら原稿案を練り直していく。そういう作業が行われるようになった。
今もまた、ルフィとナミが頭をつき合わせて演説原稿を読み合わせている。
そういう光景を、王太子付きの侍従達も温かい目で見守っている。
ナミがここイースト宮に来てからというもの、王太子は非常に扱いやすくなった、というのが彼らの実感だ。
それまでのルフィは、元来から口さがない者達に「山ザル」と呼ばれているように、野生児のように扱いにくくて、手を焼かされてばかりの王子だった。その人懐っこい性格と芯のある真っ直ぐな気性を国王からことのほか愛されたが、第二王子であったことから甘やかされ、何事につけて大目に見られて育ったこともあり我が強く、わがままだった。
しかし、王太子というのはその地位と立場から、わきまえねばならぬこと、必要不可欠な振る舞いが数多くある。けれど、そのどれ一つをとってみても、ルフィは満足にこなすことができなかった。
その点、第一王子で前の王太子であったエースは、徹底的な帝王学を叩き込まれた結果、王位を継ぐ者として完璧であった。何事においてもソツなくスマートにこなし、しかも若くしてすでに威厳のある堂々とした振る舞いをする。そんなエースにイースト宮の侍従達も、それはそれは誇らしく感じていた。
しかし、そのエースが失踪してしまった。
代わって王太子となってイースト宮殿に入ってきたルフィは、あまりに破天荒であったため、イースト宮の侍従達をおおいに戸惑わせた。エースが完璧だっただけに、粗野なルフィとの落差は大きかった。
ルフィはルフィで、ノース宮(後宮のこと。ルフィは成人するまでは後宮で母や異母弟達と一緒に暮らしていた)からいきなり一人だけイースト宮に移されて、しかも見知らぬ侍従達から慇懃無礼に扱われて、完全に不貞腐れていた。
王太子としての生活は窮屈で、なかなか馴染むことができなかった。自由に外出できないのはもちろんのこと、友達と気軽に会うこともままならない。後宮にいる母や弟達にも簡単に会えない。ましてや父である国王とは。
毎日の生活自体が儀式めいていて自由がない。しかも同じことの繰り返し。息が詰まる。周囲は難しいことを毎日のように覚えさせようとする。それができないと呆れた顔をされる。何をしようとしてもダメだと言われる。あれはしてはいけない、これはしてはいけない。面と向かっては言われないが、侍従達が自分に不満を持っているのが分かる。腫れ物に触るような扱いで、全く面白くない。
だから結婚話が持ち上がった時も、特に何の感慨もなく「結婚させられる」という意識しか持てなかった。当事者意識がまるで欠落していた。
そんな時、父王がイースト宮へとやって来た。ルフィが王の元に行って会うことはあっても、国王自らがイースト宮まで出向いてきたのはこれが初めてだった。
直々のお出ましに、さすがのルフィも何事かと思った。すると、父である王は切り出した。お前の結婚相手が決まったと。
その時、相手がナミだと知らされた。もう一人は他国の王女だということも。
まず第一に感じたのは、ナミならまぁいいか、ということ。
ナミは友達だ。友達と生活するならば、少しはここでの生活も楽しくなるかもしれないと。
事実、ナミがイースト宮に来てからは、ルフィの生活は一変した。
ナミが来るまでは重苦しく沈んだような宮殿が、ナミが来てからは太陽の光が射したように明るくなった。
ナミがいるだけで、宮殿全体が活気づいた。
ルフィとナミは幼馴染として一緒に遊びながら育ち、ルフィが王太子となるまでは頻繁に会っていたから、元々仲もすこぶる良い。ナミはルフィに気軽に話しかけるし、特に外部の人間がいない限り敬語も使わない。ルフィだって、ナミに気を遣うことなんてあるはずがない。
なんでもないことで口論を始めた挙句、ナミがルフィを殴り、ルフィがペコリと謝る。次の瞬間には二人で笑い合っている。そういう何気ない二人の様子が、徐々に王太子に仕える人々を徐々に穏やかな空気で包みこんでいった。
それでも、最初は侍従達のナミへの応対は冷ややかなものだった。
ナミが歴史の浅い新興貴族出身で、伯爵という従来の第一王太子妃にしては低い身分が、周囲の者をそうさせた。どうしてよりによって、こんな身分の者が第一王太子妃に選ばれたのだろうかという思いが侍従達の心を占めていた。また、エースと同様完璧であった前の王太子妃(エースの妻)への遠慮もあったのだろう。
けれど、そんなナミの言うことだけは、散々手を焼かされてきたルフィには面白いほどに効くのだ。あのルフィが、ナミに怒鳴られただけでシュンと沈んだりしている。
そんなルフィを見て、イースト宮の侍従達は一様に驚愕した。この王太子を従えさせるなんて!と。
とにかくルフィにそんなことをできる人間は、イースト宮の中では王太子妃となったナミだけだったので、侍従達はナミのルフィへの影響力にすがるようになる。例えばナミを介してルフィに公務の依頼をすると、侍従達が説明するよりもルフィの飲み込みは早く、実際のところ、ルフィは以前よりも格段にスムーズにそれらをこなせるようになった。そして、いつしかそういう手順を踏むことが侍従達の間で慣例となっていく。
そういう風に段々と、ナミはイースト宮に仕える者達の信頼を得るに至った。
ふと、演説原稿に目を落としたまま、ナミが尋ねる。
「ねぇ、シャンクス大主教ってどんな方?」
「えーと?・・・・・・・・すんごく、イイ奴!」
「それだけじゃ分からないわ。」
ナミは困ったように苦笑いを漏らす。
ナミはシャンクスを見かけたことはあるが、その人となりまでは知らない。
シャンクス大主教は、とある国が国教と定める宗教の最高位の聖職者で、ルフィとはルフィの幼い頃から親交がある。
まだ彼が司祭の頃に、大本山グランフェイトよりとある国へ派遣され、生まれて間もないルフィに洗礼に立ち会った。後年は主教としてとある国に赴任し、その在籍期間中は王室の重要な儀式を取り仕切ってきた。エースとルフィの立太子の礼や結婚式の執行役を務めたのもシャンクスだ。ルフィというよりもむしろ、とある国との関係が非常に深い主教だった。
そして、前の大主教の死去を受けてシャンクスは大本山に呼び戻され、この夏に大主教に昇格した。
その就位式には各国の国家主席が参列し、とある国からはルフィの父が出席したのだが、それから1ヶ月を経て、シャンクスの方から直々に王太子夫妻を招待したいという旨がとある国に伝えられてきた。
というわけで、とある国から王太子夫妻が総本山へ表敬訪問することとなった。今、ルフィとナミが頭を捻らせている演説は、つまりはその訪問の際に行われるものだ。
グランフェイトは、とある国の西部で国境が接しているものの、日帰りできるような場所ではない。だから行くとなると、1週間がかりの旅となる。
実は、ルフィとナミが結婚してから旅をするのは初めて。
大本山行きは、王太子夫妻の新婚旅行とも言える。
普段は宮殿内に閉じこもりがちなこともあって、初めての旅行に二人とも心を浮き立たせていた。そしてそうなると、自然と演説の練習にも熱が入ってくるというものだ。
しかもナミにとっては初めての国外旅行。今までとある国から一歩も外に出たことがなく、一時は父と賭けまでして国外留学を切望したほどである。それだけに今回の旅への期待は大きかった。
ルフィにしても、シャンクスと久しぶりに会えるのを楽しみにしていた。それに、とある国にいるよりも外国にいる時の方が、ずっと生活の締め付けが緩やかになり、自由であることを、何度かの外国旅行の経験から知っていた。
ナミは頬に落ちかかる一房の髪を耳にかけ直し、演説原稿に落としていた視線を上げて、真っ直ぐルフィを見た。
「あともうひとがんばりしましょ。もう一度、最初から通しで読んでみて。」
「おう!」
ルフィもナミの視線をしっかりと受け止め、大きく頷いた。
グランフェイト訪問まで、あと一週間を待つばかりとなっていた。
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