魔女の瞳はにゃんこの目  −12−

びょり 様




崖から飛んで行く事数百m…メアリの沈んだ沼は、暗い針葉樹の森の中に在りました。
芯まで凍る冷気に震えながら、沼の近くに降り立った4人。

草むらに降りた霜が、踏まれる度にジャリジャリと音を立てます。
目の前に広がる沼は、立ち込めた乳白色の靄で覆われ、朧げでした。


「……こんな寂しい場所に、メアリは沈んだのか…。」


1人、白い息を吐く事も無く、ぽつりとヘンリーが呟きます。


「…けど死体はもう引上げられたんだろ?此処にはもう居ないんじゃねェの?」
「でもよー…ふっっ…ぶえっっくしょん!!!…ズズッ…!!自殺じだだまじいばぞの場に残っぢまうっで、ナミが言っだじゃねーがゾロ!」
「500年も経ってんだろ?いいかげん、待ちくたびれて成仏しちまってんじゃねェの?」


歯をガチガチ鳴らしたり、鼻水ズルズル啜ったり、足を踏鳴らしたりしながら、ルフィとゾロが言い合います。
通気性に優れた穴開き服は、冬の朝に着こなすには具合が悪いようでした。


「……居るわ!」


靄で水面の様子すら知れぬ沼を、じぃっと見据えていたナミがきっぱりと告げます。


「メアリは……此処に居る!500年間……ずっと、ずっと、此処に居たんだ…!」


見詰るナミの金の瞳に、透明な涙の膜が張りました。


ヘンリーが1歩、前へ踏み出します。

堪え切れずに、2歩、3歩、4歩、5歩と……

ジャリン、ジャリンと、踏鳴らされる霜柱。
骨だけの体には、冷たさ等感じられません。

靄の中へと入り、沼に張った氷の上で、ヘンリーは精一杯声を張上げました。


「メアリ!!メアリ!!俺だ!!ヘンリーだ!!…500年も待たせて御免…!!今更だけど…俺は…君に謝りたい…!!お願いだ!!居るのなら、どうか顔を見せてくれ…!!」


静寂に響き渡る、ヘンリーのしわがれた声。

刹那――水面を覆っていた靄がユラユラと波打ち、スゥ…と陽炎の様な像が浮び上がりました。

煙の様に白くぼんやりとした、若い女の姿。


「………メアリ!!」


2つに束ねた髪、痩せ細った体、穏やかな顔…

500年前見た姿そのままで、メアリはヘンリーの前に立っていました。


「……ヘンリー…?本当に…会いに来てくれたの…?」


メアリのか細い声が、辺りの空気を震わします。
指を無くしたヘンリーの手を、透ける手でそっと包み込みました。


「……解る…?俺だって…。もう、500年前の面影なんて…欠片も無いだろ…?」


照れ臭そうに笑いながら、ヘンリーが返します。


「…解るわよ。幼い頃からずっと傍に居て…大好きだった人だもの…!」


骨張った手を握り、メアリが優しく微笑みました。


「……君は…あの頃とちっとも変ってないね…。」

「…私だって…随分変ってしまったわ。貴方以上に、生前の姿は跡形も無い。」


皮肉っぽく笑い、メアリが肩に手を回して来ます。


「……恨んでないの?俺の事…君との約束を破ったのに…。」

「………恨んだわ…恨んで、憎んで…貴方を…貴方を奪った女を……皆、皆、無くなっちゃえば良いと呪った…。」


顔を伏せ、視線を逸らし、メアリは低く呟きました。




…そう…地上で生きる人全てを…憎んだ、恨んだ。

死んで貴方を呪い殺してやろうと、私は沼に身を投げた。
絶対に、幸せになんかさせてやりたくなかった。
不幸にして…あの女と仲違いさせて…何で私を選ばなかったんだろうって…後悔させてやりたかった…。

冷たく暗い沼底に身を沈めて……どうして私ばかり、こんな不幸な目に遭うんだろうって…
何故……私だけ、独りで居なくちゃならないんだろうって…

きっと…貴方は今頃…私を忘れて、仲睦まじく、あの女と笑い合ってる…

誰も彼も皆…幸福な毎日を送ってる…

私独りを……此処に置き去りにして…

考えれば考える程…許せなくて…何もかも恨んで…憎んで…沼の底の泥が、私の体内に溜って…どんどん真っ黒く汚れて行く様感じて…!


――沼に身を投げたのは……私自身なのにね。


そう気が付いたのは…私の体が引上げられた時だった。

あの時…必死になってナミや、私の両親や、近所の人が、私の体を深い沼底から引上げてくれた。

そうして……ナミが、私の耳元で、泣きながら教えてくれたの。


『ヘンリーが、彼女に殺されてしまったよ』って…


………私の、せいだと思ったわ。

私が…貴方を、呪い殺してしまったんだって…。

後悔したわ…済まなくて…出来る事なら…謝りたくて。

小さい頃から…何時か……一緒に、幸せになろうって…言ってくれてたのに…!




「…君のせいじゃないよ……きっと、約束を破った罰が当ったんだ…。」


メアリの手を握り、ヘンリーが微笑みました。


「……許して…くれるの…?」

「…俺の方こそ…。」

「…許すも何も無いわ……貴方は……私を忘れず…会いに来てくれた…!」

「……500年間…ずっと心に残っていた。もしも生れ変れるものならば…今度こそ、君と共に生きたい!生れ変って、もう1度…君の事を、抱締めたいよ…!」


身を震わす様揺らぐ影。
メアリの頬を、幾筋もの涙が伝いました。


「……嬉しい…!ずっと…ずっと…待ち続けていた甲斐が有ったわ……これで…もう、思い残す事は無い…!」


見る見る内に、メアリの姿が薄まって行きました。
ヘンリーの腕の中、まるで空気に溶ける様、霧散して行く白い影。


「……メアリ!?」

「……会いに来てくれて、本当に嬉しかった…!有難う、ヘンリー…!そして……有難う、ナミ…。」


その言葉を最後に……メアリの姿は…何処にも見えなくなりました。




「…消えちまった。」

「成仏したのか?」

「…思いが叶って、漸く成仏出来たのよ。」


振返ったヘンリーの前に、遠巻きに見守っていたナミとルフィとゾロが、幹からひょっこりと顔を覗かせました。

沼の水面を覆っていた靄は段々と迫上り、今では森全体に立ち込めています。
白く煙る闇の中、ナミはゆっくりとヘンリーに近付いて行きました。

傍に立ち、ヘンリーの窪んだ眼孔をきつく見据えます。


「ねェ…どうして…約束を破ったの?」


返答を求める顔は険しく、怒りを懸命に抑えてる風でした。


「………どうしてだろう…。」


メアリの名残を惜しむかの如く、ヘンリーは己の腕の中をじっと見詰ています。
眼球を失くした目は、洞穴に似て真っ暗でした。


「…あんなに仲良かったのに…心が離れてしまったって言うの?」

「…そうじゃない。」
「じゃあ何故!?…あんな…500年も待つ程あんたを思っていた娘を、どうしてあんたは捨てたのよ…!?」


胸に込み上がる、溶岩に似た熱い塊。
瞳を爛々と輝かせ、堰を切った様にナミが叫びます。

自分を射抜く視線から目を逸らし、ヘンリーはポツリ…ポツリ…と、語り出しました。




……メアリは医者から、何時か寝たきりになるだろうって言われてた。
治療法の見付ってない難病で、少しづつ立てなくなって、物も掴めなくなって、声も出なくなって、目も見えなくなって…まるで石みたいになって……そうして…死んでしまうだろうって…。

……それが…堪らなく、恐かったんだ…!

自分の人生を犠牲にして一緒になっても、メアリは俺を何時か独りで置いて、逝ってしまうんだよ…!?
一緒に生きられない事が解っているのに一緒になったって……意味が無いじゃないか!!




「――何が『意味が無い』よ…!!!『犠牲』!?あんた、あのコを足枷みたく考えてたって言うの!?……それで…結局…殺されちゃって…500年間も独り地下に置き去りにされて……馬鹿みたい…!あんたさえ約束を守ってれば別な道を行けたのよ!!?メアリも!!あんたも…!!!」


激しくなじりながら、ナミは泣いていました。
体を震わせ、瞳いっぱいに涙を溜めて。

溢れ出た雫が頬を伝い、顎を伝い、雨の如く地面に降り注ぎます。

ふいに、顔を背けていたヘンリーが、真正面からナミを見詰め言いました。


「……君には解らないよ、ナミ。…千年前、『絶対の生』を手に入れ、死なない道を選んだ君には解らない…!」


――!!


「死なない君なら、道を間違えても何度だってやり直せる…羨ましいよ…ナミ…。」


皮肉っぽい笑みを湛えながら、ヘンリーの体は塵に変り、崩れて行きます。

まるで500年の時の重みに、押し潰されてく様に…

ぐずぐずと…火にくべられた枯れ木が、炭と変る様に…


「……ヘンリー!?…待ってよ…まだ話は終ってないでしょう…!?」

「………メアリに会わせてくれて感謝してる……有難う。」


ナミが止めるのも聞かず、瞬く間に塵と化したヘンリーの体は、吹いた風に乗って散り散りになり……メアリ同様、消えて無くなりました。


「…ちょっと…!!散々人巻き込んどいて、勝手に成仏してんじゃないわよ!!!『君には解らない』!!?あんただってちっとも私の事解ってないじゃない!!!…500年も彷徨って死ねなかったクセに…独りにされるのが恐かったクセに…!!!何さ!!…高々数十年ぽっちの寿命しか持たない人間が甘ったれた事ぬかしてんじゃないわよっっ…!!!!」


放たれたナミの叫びに、しかしヘンリーは答えては来ず。
木霊だけが空しく返って来るばかりでした。




少しづつ晴れて行く靄。
樹々の間から聞えて来る、鳥達の囀り。

気付けば蹲る自分の左隣に、ルフィが胡坐を掻いていました。


「……良かったな…2人とも…会えて…じょうぶつ出来て…!」


にししっっと声を立てて、ルフィが笑い掛けます。


「…良くない!!ちっとも良くないわよ!!こんな寂しい沼で、メアリは独り500年も居て!!ヘンリーだって地下に独り500年も居て!!2人して500年間も無駄に独りぼっちで居たのよ!!良い事なんて何1つ無いじゃないの…!!!」

「何1つ無ェ事もないだろ。ちゃんと…最後に会えたんだから。」


右隣にルフィ同様胡坐を掻き、ゾロがナミに話し掛けます。


「…お互い、500年も待った甲斐が有ったじゃねェか。」

「そうだよな。ドクロのおっさんも、沼に居た女も……最後に、仲直り出来て良かったよな!」

「………そんなの…全然慰めになんかなってないわよ…!」


2人に言い返しながらも、ナミは袖で顔を拭い、靄が晴れて沼の氷に映った己の姿を見詰ました。

埃や土に塗れて汚れ切った形。
泣き腫らして、赤くなった瞼。
充血しては居ますが、瞳は茶色に戻っています。

…頗る酷い顔に、思わず苦笑いが零れました。


気付けば夜明け。

重なった葉の隙間から、眩しい朝の光が零れていました。




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