眠れる森の姫君 −2−
roki 様
厚く覆ったツタを剥がし、閉じられた扉を押し開ける。
だが長いあいだ閉じられた蝶番は、固く軋んでなかなか開こうとしない。
強引にぶち壊そうかと思ったが、この姫はそれが嫌いなんだっけと思い直した。
そこで鞄から出した油を蝶番にたっぷりと差してみる。
やっとで滑りがよくなり、扉は軋みながらも開いてくれた。
潤滑油がないとなかなか開いてくれない辺り女と一緒だ。と思わず下品な事を考えて恥ずかしくなった。
だいたい力づくで開けるのが本来の自分のやり方なのに、この対応はどうしたことか。
初っぱなからどうもペースが狂う。
(だいたい、囚われの姫を助けるなんざ俺に向いてねぇっつーの)
立派な石の廊下を歩いていくと、巨大なエントランスに出た。
かっては大勢の人間が通ったであろうそこは、今はがらんとした空間になっている。
左右と両奥に別の部屋へと続くのだろうアーチがあり、中央には大きな階段があった。
不思議なことに、その階段だけ天井から水が滴り落ちている。
いや、むしろそこだけ雨が降っていると言った方がいいだろう。
見事な装飾が施された手摺りにも、階段に掛けられた赤い絨毯にも雨が降っている。
だが奇っ怪な事に、それ以外の場所は少しも濡れていない。
蜘蛛の巣が張った巨大なシャンデリアにも、変色し埃まみれになった階段へと続く絨毯にも、苔で覆われた石の壁にも古い時代を感じさせるのに、その階段だけが奇妙に‘生きている’。
(雨は降ってなかったがな……)
それが怪異である証拠に、降り続く雨は溜まる様子もなく何処かに流れていく。
「面白い」
階段を上がってこいといわんばかりだ。ゾロは不適に笑って足を進めた。
もう一歩で階段というところで、どこからともなく美しい声が朗々と響いてきた。
若い女の、何処か試すような声。
『ここから先は【真実の雨】雨は人の心を暴く』
「誰だ!?」
驚いて辺りを見渡すも、誰の姿も見えない。声はゾロの問いを無視して、先を続ける。
『暴かれるのが嫌なら、立ち去るがいい』
そう言ってふっつりと声は止んだ。
どうやら階段に誰かが近づくと、聞こえるようになっているらしい。
もちろん立ち去るつもりなどない。そうなら、最初からここに来てはいないのだ。
足を階段に踏み出すと、途端に頭から雨が降り注ぎ、あっという間に濡れそぼっていく。
それと同時に、小さい頃からの記憶がドッと甦ってきた。
「!?」
思わず立ち止まりそうになる。
視界は確かに上階へと続く階段を見ているのに、それにかぶさるように過去の思い出が次々と甦っていく。手が触れそうな程リアルな思い出。
ゾロが忘れ去った物、幼すぎて覚えていない事までが、足を進めるにつれてコマ回しのように再現されていく。
小さな悪戯や小さな喜び、親しい人との別れ、幼い恋、厳しかった剣の修行、初めて殺した男の顔、顔も忘れていた一夜だけの女、壮絶な決闘。
裏切り、落胆、怒り、絶望、歓喜。
懐かしい思い出もあったが、中には二度と思い出したくない胸をえぐられるような悲しみもあった。己の至らなさに舌を噛みたくなった事実も、容赦なく目の前に突きつけられていく。
恐らく、普段から自分と向かい合うことを避ける人間には、ほんの数段も進む事は出来なかったろう。自己否定の強い人間なら、その場で悲鳴を上げたかも知れない。
だがゾロは耐えた。
己の生き方と死に方を常に意識し続ける男は、過去の悲しみや苦しみ、痛みを正面から乗り越える力を持っていた。
煙る雨の向こうに、幼かった自分がいる。
生意気で世間知らずの子ども。
この後、世界で一番という剣の使い手に殺されかかることも知らない。
だが、そういう自分がいて今がある。だから今の自分も未来の自分への糧になっているのだ。
己を試しているだけの雨に逆に今の立ち位置を教えてもらえたような気がして感謝の念すら湧いてくる。
そう思った時、雨の向こうに朧に浮かぶ人影を感じた。
柔らかく、明るい色に包まれた華奢な形。
気のせいかとも思えるような、うっすらとした気配。
(女?)
雨が見せる思い出に包まれながら、ゾロは気配だけを追っていった。
最初、顔も名前も忘れてしまった女なのかと思ったが、その影は思い出達が見せた「確かに過去こういう人に逢った」という明確な手応えを感じなかった。
(誰だ?)
己の意識を明確にそちらに向けた瞬間、気配はサッと消えてしまった。
と同時に、降り続いていた雨が止む。
そして思い出も。
いつのまにか、ゾロは2階の大広間に上がっていた。
あれほど濡れそぼっていた身体は、今は何処も濡れていない。
「ふぅん……」
ゾロの頬がニヤリと歪む。確かに300年経っても、魔力は生きているらしい。
(それなら、お姫さんもひょっとして……)
僅かな期待が胸に膨らむ。
ゾロは再び足を進めることにした。
西日が大広間の窓から射し込み、柱の長い影を作る。
夕方になれば、暗くなるのはあっという間だ。
ゾロはランプの準備だけはしておいて、暗くなったらすぐに灯りを灯せるようにしておいた。
ふと、手元が妙に白っぽいのに気づく。
いや白っぽいのではなく、部屋の空気全体が白いのだ。
異変に気付いて部屋を見渡すと、いつの間にかうっすらと霧のようなものが発生している。
そしてまたあの声が聞こえてきた。
『ここから先は【忘却の霧】霧は人の心を奪う』
「へぇ」
また次の試練らしい。ゾロは荷物を担ぎ直して立ち上がる。
『奪われるのが嫌なら、立ち去るがいい』
「思い出させたかと思ったら、奪うのかよ」
酷えなと笑いながらも、しばし思案する。そして荷の中から、ペンとインク壺と布を取りだした。
布にまず己の名前を書く。友人の名前を数人と彼らが住んでいる場所。さらに、いつか戦いたいと願っている剣士の名前を書き留める。
そして最後に「ここに入った目的」として「眠り姫を探すこと」と大きく書いた。
忘れてはならないことを並べたにしてはあまりに最低限すぎるが、ゾロにはそれぐらいで十分だ。
布をしっかり手に握り、ランプを灯すと、霧の中に進んでいく。
すぐに視界が殆ど効かなくなる。
不思議な霧だった。
魔女が作り出したものとなれば当たり前といえばそうなのかもしれない。
だがまるで生き物のようにまとわりつく白い霧は、やがて己の中にまで静かに染みいってくるようだ。
ぼやけているのは視界なのか、思考なのか……。
ただボンヤリと手に掲げたランプだけが朧に光っている。
(いったい……どこに続いているんだ……)
何処まで行っても白い霧が延々と続く。
(この先に何があるのか……)
しんしんと積もっていくような、白い世界。
(……俺は……)
ただ真っ白の
(俺は……なぜ、こんな道を歩いているんだ?)
ピタリと足が止まった。
(……俺は、いったい誰だ?)
男は、呆然と立ち止まって辺りを見渡した。
頭の芯が痺れたように麻痺している。ブルリと強く降ったが、何も変わらない。
己の名前も、ここが何処なのかも全く思い出せない。
まるでこの霧のように全ての記憶が、白い世界に包まれてしまっている。
背中がふいにゾクリとした。
(なんか……やべえな)
ふと、自分が手に持っている物を見下ろす。
右手にランプに……そして左手に1枚の布。
「なんだ?」
何故そんな物を持っているのかも、もう思い出せない。
その場に座り、布をランプの灯りを近づけてみると下手くそな字で何か書いてある。
『俺の名前 ゾロ』
「ゾロ……それが俺の名前……なのか?」
口に出してみると、ふと思い出しそうになる。
さらに見ていくと知り合いらしい名前や地名がつづられてある。
その下にもっと興味を引かれるものがあった。
『ここに入った目的 眠り姫を探すこと』
「……眠り姫……」
そう呟くと、ふいに霧の気配が変わった。
人の気配を感じてハッと振り返る。
何処まで行っても白い世界……だが、何か人のような影とも光ともつかないものがフッと隠れていく。
「待て!!」
すぐに立ち上がると、必至で後を追った。
「待てよ!お前が眠り姫か!?」
だいたい眠り姫ってなんだと思いつつ、思い出せない歯がゆさを噛みしめながら一心に走った。
かすかに感じる気配。明るいような光、または影。
ふわりと翻ったのはドレスの裾だろうか。
「待てよ!」
手を伸ばし、ようやく捕まえられそう……と思った時、急に視界が開けてゾロはその場に倒れ込んだ。
「うわっ!」
ランプを壊さなかったのは奇跡だった。ゴロゴロと勢いよく転がって壁にぶつかる。
直ぐに身体を起こし、辺りをキョロキョロと見渡した。
霧はいつの間にか晴れている。
「……思い出した……」
霧が晴れた瞬間、何もかもすっかり思い出した。頭の中もクリアになったようだ。
だが──とゾロは思う。
あの霧を抜けられなければ、記憶は戻らなかったかもしれないと。
「……そして、あの階段の雨で記憶が戻るっていう寸法なのか?」
ガシガシと頭を掻く。
やがて触れそうになった左手を開くと、ハラリと布が落ちた。
指先に何かが触れたような気がした……いや、やはり気のせいだったかもしれない。
触れてみたかったな、とそう思えた。
「面白ェ女……」
ゾロは眠り姫に改めて興味を憶えた。
雨で記憶が戻った男達は、姫の魔力に怯えて二度と戻れなかったのかもしれない。
しかしゾロには、人を拒絶しながらも最後まで相手に選択権を与えようとする事に人好きのする甘さを感じたのだ。
試練の際に、必ず「本当に試すのか?」と尋ねるあたりもそうだ。
自分は男として試されてるような気がする。
そういう真似は好きではないが、何故かこの相手には頬が緩む。
まだ試練は続くのだろう。これぐらいで終わる訳がない。
ゾロは次に備えて軽く食事を取ると、少し仮眠を取ることにした。
……薄紫の空が何処までも何処までも続いている。
ゆったりと白い雲が遠い世界へとたなびいていく。
海の中から見上げたような、柔らかな光。
彩度の低い世界。
塔の天辺に彼の人は立ち、遠くを見つめているその背中。
白いドレスと白いベールに包まれた、ほっそりとした肢体はあくまで柔らかい。
あのミカンの色に似たオレンジ色の髪。
「ここまで来た人は久しぶり……」
何処かで聞いたような声が聞こえる。
「何のよう?」
「……ミカンを預かってきた……」
「ミカン?」
頷いて、鞄から預かっていたミカンを取り出した。
「誕生日なんだろ?」
そっと差し出すと、ゆっくりと振り返る。
差し出された手に乗せる。かすかに指先が触れたような気がした。
白い美しい手がミカンを掲げて、爽やかな芳香を嗅ぐ。
「……いい匂い……」
うっとりとした声が零れる。
ベールのせいで顔がよく見えない。かすかに可憐な唇が動くのが見えた。
「誕生日なんて忘れてた……」
「そうか……」
「……嬉しい……」
ベールの向こうで頬笑んでいる。顔が見えないのが焦れったい。
それでも強引にそれをむしり取ることは我慢した。
その代わりに、一番聞きたかったことを尋ねる。
「名前を……」
「名前?」
「名前……なんて言うんだ?」
「私の名前は──」
がくんと、もたれていた壁からずり落ちてしまいゾロは目を覚ました。
キョロキョロと辺りを見渡す。何も状況は変わってない。
だいぶ寝たような気がしたが、ランプの油の量を見るとそれほど経ってないようだ。
「あーークソ!名前……」
聞いたような気がしたが、どうしても思い出せない。ベール越しにみた面影も何もかもだ。
ふと思い出して、鞄の中を覗き込む。
預かったミカンはなくなっていた。
「魔女め……」
ゾロは苦い小さな笑みを零した。
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