ナミと連れ立って、退官記念講演の後の懇親会に出席した。
学生食堂で行われるそれは、格式ばったものではなく、和気あいあいとした和やかな雰囲気に包まれていた。最初に懇親会のスタートを告げる司会の声と、退官する教授のあいさつが、唯一形式ばったものだった。
長テーブルの上のいくつかの大皿に料理が並べられ、それらを囲むように皆は立っている。
取り皿でそれぞれに勝手に料理をよそっていく。
飲み物はペットボトルのお茶やジュースを学食のコップで。
酒はなかった。
ココヤシ医院の事情3 −6−
四条
懇親会には、退官する教授の同僚、かつての教え子、現在の教え子、研究でつき合いのあった関係者達が集っている。
俺は教授とは違うゼミ生であったし、直接の教え子ではなかったので、少し遠巻きに眺めていた。ナミにいたっては他大学生であるし、専門も違う。本来ならここに来る理由もない。高校3年の秋の、ほんのひと時のみのつながりであったので、俺と並んで壁際に控えていた。
しばらくすると、教授の方からナミの存在を認めて、破顔してそばまでやって来た。慌てて二人して頭を下げる。教授は俺とナミとの組合せに特に疑問を感じてないようだった。ナミがイースト大学に通っていた頃、最初はともかく最後の方は、“プジョーの男”ではなく俺が、ナミの送り迎えをしていたことをしっかり覚えてくれていたようだ。
「先生、その節はお世話になりました。」
笑顔のナミが懐かしそうな目を教授に向ける。
「いやぁ、貴女との出会いは私にとっても刺激的だったよ。」
教授もまた嬉しそうな顔をする。
ナミと教授がどうやって知り合ったのか、俺は詳しく知らない。ただ、高3の夏に第一志望校であるイースト大の見学に行った時に知り合ったとだけ聞いている。
それがきっかけとなって、測量への夢が絶ち難くなった高3のナミの秘密のイースト大通いが始まったのだった。
「結局、こんなに貴重な才能を都市工学分野に引き入れることはできなかったなぁ。ま、ナミはココヤシ医院の跡取り娘だから仕方ないか。」
そのとき、同意を求めるように教授は俺を見た。
跡取り娘。その通りだ。ナミはココヤシ医院を、ベルメールの跡を継ぐために夢を諦めて医学部に進学したのだ。
「・・・・先生、お疲れなのでは。」
不意にナミが心配そうにそう指摘するので、俺も意識を向けると、確かに教授の顔色はあまりよくない。
それに対し教授は苦笑いする。
「この頃にわかに忙しくなってね。月末の退官までは予定が目白押しだ。だが、これくらいは大丈夫。退官してしまったらその先は、それこそ時間が有り余るワケだから、最後のお勤めだと思ってせいぜいがんばるよ。」
その後、俺の同期連中や、ナミが通っていた都市工学科の連中と話したりして時間を過ごした。テーブルの上の料理もあらかたなくなってきても、なおも人々はあちこちで小グループを作りながら談笑している。
壁にかかった時計を見る。もう午後3時。教授との挨拶も済ませたことだし、頃合いかと俺は思った。
「そろそろ抜けるか?」
「うん・・・。」
そう尋ねるも、ナミはどこか浮かない表情をしてあいまいな返事をしてくる。
「どうした?」
何か気になることでもあるのだろうか。ナミはしきりに教授の周りに集うグループに目をやっている。
その中にあの“プジョーの男”もいるのを見つけて、思わず眉間にしわが寄る。
まさか、あの男のことを気にしているのではあるまいな。
「ううん、気のせいね。行こう。」
「なんだよ。はっきり言え。」
ここはもうハッキリさせておくべきだろう。
もう二度とあの男のことで煩わせられるのはゴメンだ。
しかし、ナミが気にしていたのは“プジョーの男”のことではなかった。
「教授のことか?」
「うん、なんか・・・イヤな予感がするの・・・。」
その言葉に、俺は片眉を跳ね上げた。ナミがこういう言い方をする時は注意が必要だということを、経験上知っていたからだ。
ナミは元々勘が鋭い。いろいろ察知して、だいたいその通りになる。
典型例が天候だ。子供の頃から、ナミの天候察知能力はすごかった。はっきり言って、ずば抜けている。たとえば、快晴だという天気予報が出ていて、現に今現在ピーカンの空模様でも、「もうすぐ嵐がくる」と突然言い出したかと思うと、実際にそうなるのだ。
土地勘についてもそうで、初めて訪れたところでも、何がどこにあるのか、だいたいの場所を言い当ててしまう。「あの辺にあるような気がする」、そんな言葉で導いていく。
しかし、「イヤな予感がする」というあいまいな表現の時は、それが何であるのか判明するまで時間がかかる。後になって、ああアレのことかと分かることがほとんどだ。
だから今回もおそらく教授に関わることで何かが起こるのではあろうが、それが何かまでは分からない。その事態がすぐ起こるのか、しばらく経ってから起こるのかすらも読めない。
これではただ時間が過ぎるだけだと思ったのだろう、ナミもようやくこの場を去ることに同意した。ナミは尚も心配そうにたくさんの人々に囲まれている教授を見つめている。まさか「何か起こりますよ」などと妙なことも告げられないので、暇(いとま)の挨拶もせずに行くことにした。
そして、まさに出て行こうと学食の扉を押した時、事は起きた。
ガタンという音と、男女の鋭い悲鳴。
振り返ると、人々の輪の中で灰色のスーツ姿の男性が倒れているのが見えた。
「・・・先生!」
ナミが大きな茶色の瞳を見開いて叫んだ。
俺には倒れている人が誰なのかすぐには分からなかったが、ナミには分かったようだ。
すぐさま学食の中へと引き返していくナミを、俺も追いかけた。
教授のそばまで行くと、何人かが膝をついて倒れた教授に寄り添い、救急車だ!救急車を呼べ!と叫んでいる。それに呼応するように携帯を取り出し、連絡をしている人もいた。
発作か、教授は確か心臓が・・・との声も聞こえてきた。
ナミが俺を振り仰ぎ、ガシッと腕を掴んできた。
「ゾロ、AEDを探してきて!」
そう叫ぶように言うと、そのまま教授の元へ駆け寄り、教授にさかんに声をかける。
ただオロオロと教授の周りに取り巻いていた人達は、ナミの登場にすぐさまその場を空ける。
ナミは教授の口元、胸元に耳を寄せたかと思うと、人工呼吸を始めた。
そこで俺もようやく事態を把握した。
急いで学食を出て、隣の売店に駆け込み、レジにいるスタッフを一人捕まえた。
「AEDはどこにある!?」
AED―――自動体外式除細動器は、昨今の公共施設であれば備えられているのが常だ。当然、国立のイースト大学構内にも複数設置されているはず。ましてやここは学生食堂のある、人々が多く集う合同講義棟だ。設置されてないはずがない。
「じ、事務室の出入口にあります。」
「案内してくれ!学食で教授が倒れた!」
イースト大生なのに、この棟の事務室といわれても、それがどこにあるのかすぐにわからないのは情けないところだが、今はそんなこと言っている場合ではない。精通している者に案内してもらう方が確実だ。
AEDを掴んで再び学食に戻ってくると、ナミが教授に心臓マッサージを施している真っ最中であった。
目を閉じ、額に汗を浮かべ、唇をかみ締めて渾身の力を込めてマッサージをしている。
「ナミ!AEDだ!」
そう告げると、ハッとして顔を上げたナミが、心臓マッサージの手を止めてAEDを受け取った。
ナミがAEDを教授の横に置いて、蓋を開けて中から装置を取り出す。
その間に周囲の人々もこれから成されることに気が付いて、教授のシャツを開いて肌蹴させる。
ナミが準備している間にも、他の人がナミに倣って心臓マッサージを続けた。
AEDから発せられる音声メッセージに従って、ナミが電極パッドを教授の胸に貼っていった。
皆が教授の身体から離れる。
そして、電気ショック。
教授の全身が一瞬、けいれんしたように揺れた。
***
ナミは車の助手席のシートに、ぐったりとした様子で身体を預けている。
そんなナミの様子を気にしながらも、俺は隣市へ行くために車を走らせている。
次の予定の花火大会の会場に向けて。
元々今日の予定は退官記念講演と花火大会を見に行くというダブルヘッダー。
こんなことがあったので花火は取りやめようかと言ったが、ナミは見に行きたいという。なので、予定通り見に行くことにした。
あの後、まもなく教授の意識は回復した。教授が目を覚ました時は、周囲の人たちから安堵のため息が漏れた。
そして救急車が到着し、念のためにと教授は病院へと搬送されていった。
それらを全て見届けて、ナミは今までの緊張がいっぺんに解けたようで、脱力したようにその場にへたり込みそうになった。俺が腕を掴んでなんとか支えた。
「よかった・・・。」
そうつぶやいたナミは安心したような笑みを浮かべていた。身体は疲れているが、やるべきことはやったという表情だった。
実際、本当によかった。教授は一命を取り留めたのだから。ナミがいなかったらどうなっていたか分からない。あの場にいた者達の大半は建築や土木関係者で、医療関係者は皆無。知識として蘇生術について知っている者がいたとしても、実際に目の前で起こると気が動転して動けなかった。せいぜい救急車を呼ぶのが関の山で。後はいたずらに時間だけを過ごし、何もできなかったかもしれない。
でも、今日はナミがその場にいた。
医学部に在籍しているとはいえ、ナミはまだ2回生で専門教育を受けているわけではないいはずだ。だが、さすが医者の子というべきか、心構えがどこか違うのだろうか、とにかくナミはあの場でも動けた。ナミの指示のおかげで、その後はなんとかみんなも冷静に対処ができたのだと思う。
そして、きょうの出来事でほんの少し、俺はナミの未来を垣間見たような気がした。
命の行方を左右する、時には一瞬の判断が迫られる医療の世界。
これからナミは、そんな世界に身を置くのだ。
信号を待つ間、またもナミに目をやる。ナミは、気だるげに外の景色を眺めている。
教授が救急車で運ばれていった後すぐに、ナミは身体を鍛えると言い出した。心臓マッサージが、あんなに大変だとは思わなかった、とナミはこぼしていた。もっと体力つけなくちゃと。
「やっぱ高速、使おう。」
「え?別にいいよ?」
お金かかるしと、守銭奴らしいナミの意見。
しかし、ナミは充実感をにじませた表情をしてはいたが、疲れの色も濃かった。
花火大会の会場は隣市の海岸。地道でももちろん行けるが、高速道路を使うと早い。
ナミの体調を思えば、高速で早めに行った方が身体にも楽だろう。そう判断して有無をいわせず、高速のインターチェンジに向けてハンドルを切った。
そういえば、まだ着替えもしていない。
ナミは退官記念講演のためにフォーマルな格好をしていたが、花火大会へ行く時はラフな格好に着替えたいと言っていたのに。あの騒ぎのどさくさに紛れてそれも忘れてしまっていた。
「どこかで・・・休んでいくか?」
先に休憩をとって、着替えもして。ちょっと早めだが夕食もとって。
それから改めて出発してはどうかと、何げなく言った言葉だった。
しかし、ナミはビックリしたように目を丸くして顔をこちらに向ける。
何をそんなに驚くのかと疑問に思って周りに目をやると。
今、車が走っているのは見事なラブホテル街だった。
途端に、今朝見た夢を思い出した。
高速道路のインターチェンジ付近には、ネオンがまばゆいホテルが立ち並ぶ。
街の外れや境界部分にはこの手のホテルがたくさん建っているものだ。
こういうものはできるだけ街の中心からは遠く離れた場所に建てたい―――そういう社会全体の総意がこの立地を選ばせているのだと思う。
それはともかく、俺はそういう辺りで車を走らせていた。
隣にナミを乗せて。
そして、ナミに問いかけたのだ。
“休んでいくか?”と。
ナミはハッと驚いた顔をしてこちらを見て―――
「いや違う!そういう意味で言ったんじゃねぇ!!」
たいそう慌てた俺は思わず怒鳴った。
その剣幕にナミはおびえたように身をすくめる。
「あ、悪ぃ・・・。いや、でもそんなつもりじゃなくて、ただ純粋に心配して・・・。」
しかし、言い募れば言い募るほど、そのことを俺が意識していることを晒すことになる。言い訳じみて、ドツボにハマった。
本当にそんな意味で言ったのではないのだ。その誤解だけは解きたかった。
だがしかし、その夢を見た後、どうやって女、つまりナミをそういうところに誘い込めばいいのか悩みもしたのも事実。
運転をしている手前、前方注意を怠るわけにはいかず、ナミの顔を見ることができないが、ナミが今どんな表情をしているのか気になって仕方がなかった。
すると、
「それなら私、ゾロの部屋がいいな。」
ポツリとナミがつぶやいた。
咄嗟に横目でナミの方を見やる。
ナミはほんのりと頬を染めて恥ずかしそうに笑ってこっちを見ている。
(・・・・・・・・)
これは・・・・・そういう意味と受け取っていいのだろうか?
俺はもう何も言わず、前方に向き直ると、ぐっとハンドルを握りしめた。
車をゆるやかにUターンさせ、スピードを上げて今来た道を引き返していく。
俺が一人暮らしをしているアパートに向かって。
おそらく、もう花火大会には行けないだろうと思った。
FIN
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