Now Or Never!
りうりん 様
Act1
昨夜までの雨は暑気をも流してしまったらしく夏らしい突き抜けた青空には、清々しい爽快感が広がっており、今日もきっといい一日になるに違いないと予感させるものがあった。
生きとし生けるものの常として、安眠の扉を開ける瞬間というものは勇気がいるものである。少しでも長くヒュプノスの翼に包まれていたいと願うことも無理もないことであるが、文明人として生きている限りヒュプノスよりも三姉妹の女神たちの支配から逃れる事のほうが困難だろう。特に学生という身分に囚われているロロノア・ゾロにとっては。
PPP…!
PPP…!
PPP…!
PPP…!
時と運命を司る三姉妹の眷族ともいうべき鳴き声を止めるべく長い腕を伸ばしたはずの手のひらが無機質で無粋な目覚まし時計にたどり着く前に、引き締まった頬が暖かい有機物と思われるものに行き当たった。心地良い弾力性と甘い芳香はいっそ残酷なくらい極上なものだった。
「…」
普段は時間差で複数の目覚ましを鳴らし、揺り動かしても、弟が飛び乗っても、かたくなまでに目覚めることのない彼であるが、今朝のこの状態に関しては第六感的に感じるものがあったのだろう。ほとんど覚醒していない状態であっても、確実に覚えのある感触に印象深い瞳がゆっくりと開くと同時に大きくため息をついた。嫌というほど見慣れていると言えば呪詛の声が上がることは間違いない。好みの差はあっても大きさも形も完璧であり、姿勢によって崩れることもない様子に造形めいたものを感じるが100%天然であり、本人の努力の賜物である。ムッツリと不機嫌に眉を寄せたまま起きて翡翠色の髪をガシガシとかくと、再び大きくため息をついて傍らに眠る半裸の女性を見下ろした。
「おい」
身を覆うほどの豊かな漆黒の髪に白磁の肌。伏せられた濃い睫毛が開けば黒曜石のごとく煌めくことも知っている。
「起きろよ」
シルクのナイティに包まれた肢体は年齢と重力に反比例し、悩ましげな曲線を描いていた。誘惑的で魅惑的であり、蠱惑的な肢体が簡単に触れることができる距離にあった。
「ったく、いい加減かんべんしてくれよ」
本能と理性が激しくせめぎ合うことは想像に難くない芸術的に模られた唇から漏れる穏やかな呼吸音を止めることは忍びないが、このままの状態でいいわけがない。
細い肩を揺り動かしても目覚める気配はなく、自分の眠りに対してのDNAの根源を実感すると同時に足元から「いって〜!」という悲鳴があがった。
「なんで、ここで寝てんだよ」
年の離れた弟のチョッパーがエッエッエッと不思議な笑い声をあげながら
「ゾロと一緒に寝ると気持ちがいいんだ」
「だからって、二人して入ってくんなよ」
もう何度繰り返したかわからない嘆願は、きっと今回もスルーされるだろう。不機嫌に眉を寄せたまま大きく叫んだ。
「いいかげん起きろよ!おふくろ!!」
****
「ゾロ坊ちゃま、おはようございます」
「坊ちゃまっていうな」
「おはよう、ニョン婆」
「はい、おはようございます。チョッパー坊ちゃま」
家族の人数とバランスがとれていない広さのダイニングでニョン婆によって嗅覚を心地よく刺激する朝食が用意されていた。グロリオーサという本名があるにもかかわらず、なぜかニョン婆と呼ばれている彼女の家事能力は完ぺきであり、その孫のマーガレットのサポートもあって、この家は心地よい住宅環境を保っていた。
「ハンコックさまは今朝も野菜ジュースでよろしかったニョか?」
ゾロの母親であるハンコックが生まれる以前から勤めていると聞いたとこがあるが、高校生の息子がいるとは思えないハンコックも外見年齢が不詳であるが、それ以上にニョン婆の実際の年齢は不明である。孫がいるという事は子どももいると思うのだが、なぜかその話はきいたことがなく専らハンコックが娘替わりになっているようであり、その甲斐甲斐しい世話ぶりには頭が下がる。
「またゾロ坊ちゃまと一緒にお目覚めされて、仲のよろしいことだ」
「頼むからそこは問題にしろよ」
いつまでも自分を子ども扱いするニョン婆だが、この家では数少ない良識派だとゾロは信じている。
「もうお年頃じゃて、ハンコックさまもちょっとはご遠慮なされ」
「何を言うのじゃ、ニョン婆!わが子とはいつも一緒にいたいと思うのは母として当然のことじゃろう?」
「つか、もうおれんとこじゃなく、チョッパーと一緒にいてやれよ。まだ小せえんだからよ」
未成年とはいえ、高校生である。いつまでも庇護が必要なわけではない。気持ちはありがたいが、自分よりも幼いチョッパーを優先させるべきだ。
「おれだって子どもじゃないぞ!」
「自分は子どもじゃないって言う奴ほど子どもなんだ」
天然出汁で取られた味噌汁の椀を手にして言った。日本人離れした容姿のハンコックだが、彼女の好みもありこの家でのメニューは和食が中心だ。
「女も金もゾロに教えてもらったから、知っているんだぞ!」
「!!!!」
吹き出すことはなかったが、弟の爆弾発言に含んでいた味噌汁が気管に入り激しく暴れ「な、チョ…ゲホゲホゲホ」と兄は窒息寸前である。
「ゾロ、そなた!」
「おれは何にもしてねえ!!」
「食事のマナーがなっておらぬ!」
「そこかい!」
ハンコックは意外にマナーに厳しく、粗雑な印象のあるゾロもその躾のため公の場で戸惑うことはなかった。が、問題はそこではなく
「チョッパーさま。ゾロさまはどんなことを教えてくださったのですか?」
チョッパー用に甘めに仕上げたアイスミルクを給仕するマーガレットの質問に
「うん。ゾロがな、漢字が使えなければ大人じゃないぞって、この間教えてくれたんだ!」
「それはよろしゅうございましたね」
「うん!」
漢字の話かよ…。
「ゾロ坊ちゃまも大人と言ってもよいお年頃。早くニョン婆の冥途の土産に好ましく思われている娘をお連れくだされ」
頻繁に「冥途の土産」を持ち出すニョン婆は、まだまだ100年くらいは軽く余裕で長生きしそうである。
「さればこのニョン婆が腕によりをかけておもてなしいたしますぞ」
「そうじゃのう。わらわより美しい娘とは言わぬ。せめて対等に話すくらいはしてもらいたいものじゃ」
ヘタに返事をしない方がいいことは生まれた時から実感している。それぞれの思い胸の内に秘めて黙ってコーヒーを飲んだ。
学校祭の打ち合わせにゾロのクラスメイトたちが集まったとき、偶然居合わせたハンコックに全員色めきだったのだが、そのときの冷ややかとは言わないが礼儀という盾をまえに、友好という空気は1ミクロンもなかった。クラスメイト達はそれをハンコックの世間でのイメージ通りの印象として受け取っていたが、ゾロだけはハンコックの「却下!!!!」とのオーラを敏感に感じ取っていたのだ。
身支度を整え、大きなスポーツバッグを肩越しに担ぎ玄関ホールへ向かうゾロの背に
「ゾロ、出ていくのか」
子ども特有の高い声に振り向くと、目を潤ませた弟が見上げていた。
「学校だ」
「でも制服じゃないぞ」
「部活だから私服でいいんだ」
「でも竹刀とか持ってないじゃないか」
「部室に置いてある」
「母ちゃんたちに負けたから、荷物まとめて出ていくのか?」
「あのなあ。そもそも勝負もしてねえだろうが」
「でも荷物をまとめて出ていくんだろ?」
「今日から部活の合宿なんだっつったろ」
平均身長より高いゾロと平均身長より低いチョッパーでは会話をしていると首が痛くなってしまう。チョッパーの前にしゃがむと、くせの強い栗色の頭に手を置いた。
「じゃあ、じゃあ。ちゃんと帰ってくるんだな!」
「ったりまえだろ?」
「帰ってきたら遊んでくれ」と目をキラキラさせる弟の頭をわしゃわしゃとなでると家を出た。
人生はいつだって唐突でいきなりで、予告もなく場面転回をする。ゾロの場合、父親が帰らぬ人となった。あの日のことは明瞭に覚えている。いつもどおりに出て行ったあの日の朝は、特殊で独特であり異様な一日の始まりだった。呆然とする大人たちに、小さなチョッパーを抱いて泣き崩れる母。事務的なことを他人に頼むことは出来ても家族の代わりはいない。その時からだろうか。ゾロのベッドに母たちが潜り込むようになったのは。気丈にしていても世間ではまだ子どもと言われる年齢だったゾロも突然の喪失感は埋めようがなく、それはそれで精神安定剤にはなっていたのだが。
バス停に向かう道すがら何軒かならぶ店先のショーウィンドウに貼られたポスターを見上げた。
文字どおり身を張ってゾロたちを育てたハンコックに反抗期らしい反発心はあっても、尊敬する気持ちに偽りはない。
「おふくろと対等にやりあえる女なんているのかよ」
そうつぶやくとタイミングよく視界を横切ったバスに向かって軽快に走り出した。
Act2→
|