Now Or Never!
りうりん 様
Act3
人間が生きていく上で実感する感情のすべてを凝縮した場所だと思う。喜びも悲しみも、ここで始まり、すべてを絡げたまま、こちらの事情もお構いなしに烏兎匆々に押し流していく。清潔さや純粋さ、崇高さを表し、生まれ変わる浄化の意味もある色に塗りあげられた建物と、非常を知らせるその音は忘れていたと思っていた傷口を疼かせるのだ。
「聞いているのかい?ゾロ」
燃えるような赤い髪は生き生きと瞳を輝かせる彼女によく合っていた。個性的な彼女の髪形は「女は度胸」という髪形らしいが、そんな表現方法を取らなくても、何事も恐れることない真っ直ぐな瞳には心に影を感じている人間には目を伏せてしまうだけの力があった。横目でちらりと見上げただけで口を開こうとしないゾロの顎をつかむと、ぐいと力任せに振り向かせた。
「!」
あまりの力の入れように首の筋がおかしくなりそうだった。眉間を深くするばかりのゾロを「おやおや」とばかりに眉を上げる。
小さいころから病院は嫌いだった。病気よりもケガとは縁が切れない生活のせいもあって、ポイントカードがあればすぐにいっぱいになるくらい病院とは縁が切れなかった。痛いは我慢できたし、痛み止めの注射も怖くなかった。それよりもケガによる発熱や骨折など治療に長い時間がかかり、剣道が出来ないことの方が怖かった。そんなに心配ならケガをしないようにすればいいのにと言われるのだが、ゾロとしてもケガをするために剣道をやっているわけではないのだ。
「で?今回の原因は?」
「剣道にはつきものの踏み込みよる疲労骨折か、捻挫だと思うんですけど」
赤毛の看護師はすでに馴染みだ。ベルメールと書かれた職員証をつけた彼女の腕は若手の医者よりもいいのは知っているが、ゾロに関しては容赦のないものがあった。最新設備の整った総合病院よりも、野戦病院向きだと密かに思っていたが、防医大出身と聞いて納得である。患部をじっくり眺めながら「踏み込みねえ…」と付き添いのコーザの言葉を疑うわけではないが、信じるには根拠薄弱な説明を訝しむ口ぶりだった。たしかに嘘ではないが、真実のすべてではない。
夏の合宿中、風呂場のシャンプーをカルピスに変えただの、アーモンドチョコがいつの間にかドングリに変えられていたとか、携帯のアドレスが本人の知らないうちに歴史上の人物にされてただの。半端ない練習量にも関わらず、どこかイベント的な高揚感が部員たちの間にあった。剣道バカたちであっても厳しい練習の合間に一息つきたくなるものだ。そんな折、ジョニーがコビーにメントス入りのコーラをコビーに渡した。危険な爆弾コーラになっているとは夢にも思っていなかったコビーは先輩の好意に素直に感謝した瞬間、コーラが暴発した。いきなりのことに想像以上に慌てふためいて驚く後輩を助けようとしたヨサクが食べ散らかしていたバナナの皮に見事に滑った先にゾロがいた。…不幸と不運の絶妙なコンビネーションの成果だった。
「修業がたりねえ」
こんなくだらない理由などプライドにかけて言う訳にはいかないし、言いたくなかった。もちろん諸悪の根源のヨサクとジョニーには鉄拳をお見舞いしてやったが、軽くひねっただけだと過信をしすぎたかもしれない。
経験上知っている今後行われる処置の煩わしさにテーピングだけでも誤魔化せるだろうと思い「寝れば治るから」と処置を断った。
「寝れば治るだって?野生の動物じゃあるまいし、今どき犬猫だって病院の意味を知っているよ!」
毎度毎度繰り返されるゾロとのやりとりに埒があかないとイライラとしたベルメールの赤毛が炎のように逆立つのが見えるようだった。
「身動きできないように手足の関節をはずしてやるよ。クソガキ」
「クソガキじゃねえ」
「専門家の指示を素直に受け入れられないはクソガキだけだよ!」
漫画か特撮だと、ここでお互いの火花がバチバチとさく裂し、背景には竜虎図が浮かび上がる場面だろう。
患者が多く出入りする総合病院だ。一癖のある超リピート患者としてブラックリストに入っている(かもしれない)ゾロはベルメールが担当のようになっているが、師長としての仕事もあるため駄々っ子のようなゾロにいつまでも付き合っているわけにはいかない。時計へちらりと視線を走らせ
「ちょっと席を外すけど、そいつが脱走しないように注意しておいてね」
「脱走って、動物かよ」
「だから動物だってちゃんと治療を…ああもう!とにかく!わたしが戻ってくるまで絶ッ対、1ミリも動くんじゃないよ!呼吸も禁止だからね!」
ゾロに突き付けられた指はビシッ!と音が聞こえるようだった。言いつけられた看護師は生真面目にうなずいていたが、小児科ではないここでデカい図体の高校生を見張るというのもおかしな話である。ただでさえ忙しい業務に取り紛れ、早々にゾロのことは看護師たちの意識から追い出されてしまった。急いた様子を見せれば、すぐに感づかれてしまう。いかにも処置の終わったというような取り澄ました横顔を見せて歩き去るゾロには意外に演劇の才能があるのかもしれない。うまく出し抜けたと思ったが、曲がった先に気難しげに眼鏡を光らせた年配のドクターがいた。頭につけられた大きくな髪飾りは見様によってドクターの名前を彷彿させる花のようにも見える。
「またベルメールの目を盗んで逃亡してきたのか」
この廊下を選んだ自分の間抜けさを心底呪いながら天井を仰いだ。
「もともとたいしたケガじゃないんだ。過剰医療で医療費を圧迫させるわけにはいかねえだろ?」
初めて会ったときは肩ほどにしかなかった。しかし今は強い意志を感じさせる緑の瞳が見下ろしてくることにクロッカスは目を細め
「剣道で腕をあげたそうだが、やめておけ…ケガ人が出るぞ」
「ヘエ…誰がケガをするんだよ」
「私だ」
「あんたかよ!!!」
「ここで見逃せば私がベルメールにボコられてしまう」
看護師が高齢のドクターに手をあげるだろうか。いや、あのベルメールならやりかねない。
「ここはひとつ、人助けだと思って診察室に戻ってくれんか」
今度このドクターに会ったとき、包帯でもしていたら目覚めが悪いことになることは確実だった。舌を盛大に鳴らして踵を返すゾロの背に
「左耳につけておるのか」
クロッカスの言葉に足を止めると、視線だけ後ろに送った。何のことだとは言わない。
「…どっちでも構わねえだろ」
「そうだな。ただ、心臓に近いと思っただけだ」
追い抜きざま、鍛えられた背を年齢とは不相応な勢いで叩いた。「バンッ!」という乾いた音に悲鳴が重なる。
「くそジジイ!患部を増やす気かよ!」
抗議の声に老医師は不思議そうに眉をあげ
「たいしたケガなどないのだろ?」
どこから文句をつけていいのか、酸欠の金魚のようにパクパクさせるゾロにクロッカスは高らかに笑った。
***
普段からのカルシウムを過剰摂取しているためか、診察の結果、患部はそれほど重症ではなかった。ハードな練習メニューをこなしたあとに、自足で逃亡としていたのだ。腫れ上がった様子ほど酷くはなかったのだろう。「ほれ見ろ」というゾロの頭にベルメールの肘が垂直に落ちた。
「何しやがんだ、くそババア!」
「肘が当たっただけじゃないか。大げさだね。なんだったら一晩入院して、詳しく診ようか?」
ここはたしか病院だったはずなのだが、滞在時間が長引くにつれて患部も増えていきそうな予感がよぎる。不愉快も不機嫌も平常値を大きく上回るゾロの様子に、気の弱い看護師など近づくことも出来ないだろう。
「こっちだって言う事をきかないクソガキの相手なんてしている暇はないんだ。さっさとお帰り」
動物を追い払うように手を振るベルメールの背後に閉められていたアイボリーのカーテンが、軽い音を立てて引かれた。
「ベルメール、こいつはおれが責任もって連れて帰ろう」
背の高い男の気楽な口調はピエロのようなメイクと相まって、初対面でも緊張感を解かせるものがあった。
「ロシナンテ。今日はもうあがりかい?」
「夜勤が終わったついでに、このやんちゃ坊主も回収していくよ。面倒をかけたね」
「全く甥っ子の躾がなってないよ。まだまだ剣道を続けるのなら指示があるまで包帯を解かずに、痛み止めもちゃんと飲むようにしておいておくれよ。」
ベルメールの気遣いに叔父と甥は同時に
「こいつ相手にそれは確約しかねるなあ」
「練習の邪魔になるから包帯とるぞ」
ベルメールの整った顔立ちがひくついたかと思ったら、
「さっさと帰りなっ!!」
通入院の患者をはじめ来院者の心を癒し、近隣の住民からも隠れたパワースポットと親しまれている中庭をうつす窓ガラスがその瞬間大きく震えた。
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