ロングナイト  -後編-

                                せん松 様



 駅へ続く道は混み合っていた。
 だいたいどの路線も終電が間近の時間だ。ナミは駅まで送ると言ったゾロの傍らを歩いていたが、人混みに押されしばしば歩みが遅れ、そのたび、立ち止まったり数歩戻ったりしてゾロがその腕を引く。ナミは腕を取られる度に、ゾロの顔を無言で見上げた。
「なんだ?」
「ううん、なんでも」
 ここでいい、とナミが呟いたのは駅の改札前だった。片手でゾロの二の腕をぽんと叩くと、そのままICカードを出して改札を潜っていく。一度だけ振り向いて「またね」と口の動きだけでゾロに伝えると、ゾロの口元がわずかに動いた。だが声までは聴き取れず、そのまま長身のその姿は人混みの中に消えていった。

 階段を上がってホーム上で目にしたのは、終電間近というだけでは説明のつかないような人混みだった。文字通り人があふれそうなホームの電光掲示板を見上げると、事故のためダイヤが乱れている、と赤い文字が流れている。ついてない、とナミはわずかに眉根をしかめた。
 駅員が出てきて大声で説明をはじめるが、次の電車がいつとの明確な情報は無いようだ。まだまだ増え続けるホーム上の乗客に息苦しさも覚える。何度か人の流れに背中を押され、ヒールの靴で立ち尽くしているのも辛くなって、ナミはそのまま階段を降り、再び改札口から外に出た。
 タクシーを捕まえようにも、すでに事態を知った乗客でタクシー乗り場には長い行列が出来ている。スマートフォンを取り出して時刻を確認すると、0時30分。他の路線で帰るのは遠回りのうえ、もうその終電にも間に合わないかもしれない。幸い明日は会社は休みだけど――。そう思いながら、少し考え、ためらいながら、ナミはスマートフォンのメッセージアプリを起動させた。

 アプリの送受信履歴の一番上に、ゾロの名前がある。
 「今夜、会える?」と昼過ぎに送ったメッセージに、20分後に届いたゾロからの返信は、「会える」。
 「仕事が終わるのが夜9時ぐらいなんだけど」には「分かった」の四文字だけ。
 あとは待ち合わせの場所を指定した、いつもの事務的なゾロとのやりとりだけが続いていた。

 このまま帰れないならと、ナミは送信欄に指先を置いて、表示されたキーボードに何度か指先を滑らせた。
 が、どの言葉も三文字ほど書いたところで、全て送信することなく削除する。画面を凝視しながら、ふと、息を細く詰めていたことに気付いて、大きく溜息を吐いた。同時に、スマートフォンの画面をロックしてハンドバックの中に滑り込ませる。
 ホームからさらに降りてきた乗客達に押され、ナミはその勢いに乗るように、足の向くままにそのまま駅の反対へ続く、小さな路地へと踏み入れていた。



 ――なんだ? やけにざわついてんな。
 客の見送りに表に出ていたサンジは素早く周囲を見やった。
 金曜の夜とはいえ、日付が変わればそれなりに人の流れも途絶えがちになる店の前の通りだが、今夜は空気そのものがまだ騒がしい。ちらほらと辺りを歩く酔客の姿も、いつもより目につく気がする。と、今し方熱いラブコールと共に見送った女性客の一人が、通りの先でスマートフォンを見ながら困ったような声を上げていた。
「電車、止まってるかも」
「うそー」
 なるほど。帰れない乗客が再び夜の街に溢れ出してるのか。そう見て取ったサンジは、取り急ぎその女性客たちに声をかけようとしたが、「あ、でも大丈夫、大丈夫そう」という仲間内の会話とともに、客達はそのまま薄暗い通りの先に消えていく。遅延は一部のみで、彼女たちが使う路線には影響が無かったようだ。
 その後ろ姿が道の角に消えるのを確認してから、一度唇を指先でなぶり、サンジはビルの外壁にかけた「今日のおすすめ」と書かれたボードに手を伸ばそうと振り返った。

「……サンジ君」

 ためらいがちな小さな声が耳に届くやいなや、サンジの脳に突然の落雷のような衝撃が走った。目の色をピンクに変え、滑るようにその麗しい美声の元へ一目散に駆けつけ、サンジは強引に、しかし優しくその手を取った。

「んナミさああああーーーん! いらっしゃい!」

 いきなり右手を強く握られた声の主――ナミは、その勢いに押されて背後の壁に軽く押しつけられた。が、声と口元を引きつらせながらも、軽く笑みを浮かべてサンジと目を合わせた。
「こ、こんばんは。久しぶりね」
「もう、とうとう見限られたかと思ったよ。前に来てくれたのいつだっけ?」
「ロビンと一緒に来たのが最後? じゃあ、二週間くらい前かな」
「二週間! ああこの二週間、おれの世界は闇に閉ざされ、希望は失せ、まさに地獄のような月日……」
「はい、はい。分かったから」
 芝居がかった台詞もナミには聞き飽きられているようで、気付けば握りしめた手も振り解かれている。
 だがそんな冷たいあしらいもサンジは意に介した様子もなく、ナミを見つめる視線にはピンクのハートが所々に紛れ込んだままだ。請うてもいないのに、さあ胸に飛び込んでおいでとばかりに両手を広げたサンジに、ナミは苦笑しつつも問いかけた。
「今日はまだやってる?」
 ナミがちらりと二階のバーへと続く階段を見やる。もちろん、とサンジが微笑むと、ナミは安堵の溜息を漏らした。
「良かった。帰ろうとしたら電車が止まっちゃって」
「ああ、そうみたいだね。うちは毎日朝までやってるから、ゆっくりしていって。さ、どうぞ、どうぞ。にしても今日は遅いんだね」
「え? あ、うん。ちょっと……ね」
 か細い返事に何か含んだものを感じ、おや、とサンジは瞬きをしたが、表情には出さなかった。二階へと続く階段を手で指し示すと、ナミはチーク材の扉にじっと目をやった後、やがて一段一段ゆっくりとその階段を上っていった。

 扉を開けると店内は無人だった。他に客がいないことにナミの足が一瞬止まりかけたが、後ろから上ってきたサンジが促すとカウンターの真ん中の椅子に腰掛ける。
「さあて、何にする? ナミさん」
 カウンターごしに向き合って、サンジが小さな声で問いかけた。ナミはすこし思案するように顎に指を当てた。
「どうしようかな……。じゃあ、ジントニックをお願い」
 了解、ちょっと待ってねと言いながら、サンジは後ろの棚からジンの瓶を手に取った。ナミはカウンターに置いてあるマッチを一つ手に取り、刻まれた「オールブルー」という青い文字を意味も無く指でなぞった。
「今夜は他にお客さん、いないんだ」
「ああ、ナミさんはいつも終電の時間には帰っちゃうからね。日によるけど、やっぱりこの時間は一瞬はけちゃうんだよ。もう少ししたら朝まで飲むって奴らが来たりもするけど」
 言いながら、サンジは片目を瞑る。
「なんなら、今日はもうナミさんの貸し切りにしちゃってもいいけど。店も、もちろん、おれも」
「何で。結構よ」
 ぴしゃりと言い切るが、冗談と受け取ったのかナミの声は明るい。サンジは小さく肩をすくめ、ライムを飾ったジントニックと、オリーブの小皿をナミの前にそっと置いた。

 ただの常連客、というには、サンジがナミを見つめる視線は熱い。
 ナミがこの店を訪れるようになったのは二ヶ月ほど前のことである。以前からの常連客であるロビンが会社の同僚だと言って連れてきたのだが、その一夜からサンジの魂はナミという名の太陽の熱にあてられてしまったらしい。
 賢さを感じさせる小気味のいい会話や、かえって色気を強調するような少しだけハスキーな声。何杯飲んでもほろ酔いの域を出ない薔薇色に染まった頬や、ボーイッシュさを感じさせる大きな瞳の煌めきが、一瞬のうちにサンジの心をすっかりと奪い、以来、ナミに対する熱烈な求愛は来店の数を重ねる度に激しくなっている。
 だが当のナミは最初から相手にしていないのか、それとも多少は悪い気はしないと思ってくれているのか、うまくサンジの誘いをあしらいながら客とバーテンダーの関係を保ち続けている。それでも顔をあわせる度に互いに口調も砕け、「マスター」から「サンジ君」と呼んでくれるようにもなり、少しずつ仲は進展している、はず。というのがサンジの見たてであった。端から見れば、かなりの希望的観測であることも否めなかったが。

 ナミは出されたジントニックを、一口、二口と味わうようにゆっくりと飲みはじめた。こくん、と小さく喉が鳴る。他に客のいない中、聞こえるのはスピーカーから流れるジャズのかすかな旋律に、ナミが時折グラスを置くコースター越しの音だけだ。
 いつもははじけるような笑顔を見せてくれるナミだったが、カウンターの向こうの今夜のナミは、少し遅い時間のせいかどことなくアンニュイな雰囲気を漂わせていた。両肘をついて手の甲に顎をのせたその仕草や、気だるげな表情を飾る伏せがちな長いまつげが、そんなサンジの男心を激しく、そそる。うるさくするのも気が咎めるので黙っていたが、たまらず、サンジはナミに身を寄せて語りかけた。

「ナミさん。おれ知ってるんだけど」
 一杯目のジントニックがちょうど空になったタイミングだ。ナミがゆっくりと顔を上げて「何を?」とサンジを見つめた。
「今日――あ、もう日が変わったから、昨日だな。七月三日。誕生日でしょ」
 目を見開いたナミに、サンジは満面の笑顔を向けた。
「ハッピバースデイ、ナミさん!」
「……なんで、知ってるの?」
「こないだロビンちゃんに教えてもらった。カクテル一杯で」
「もう、ロビンたら」
 呆れたようなナミの口調が、次第に苦笑に変わる。
「お祝いさせてよ。おれからのプレゼントにスペシャルカクテルを作らせて?」
 サンジが顔を寄せると、ナミは少しの沈黙の後に「嬉しい」と一言呟いた。

 しばらく後に出されたジンとウオッカをカカオのリキュールで包んだカクテルは、ナミの口に合ったようだ。一口飲み干して、ナミは挑戦的な笑顔でサンジを見上げた。
「甘くて美味しい。でも、すごく強い。なあに企んでるの?って感じのお酒ね」
「なにってそりゃあ、一つしか無いでしょ」
 続けて、サンジはフルーツを盛り合わせた皿を出した。ナミのあっさりしたものが食べたいというリクエストに応えたもので、イチゴ、マスカット、ブルーベリーが数粒ずつに、カットしたメロンとイチジクが二切れずつ。そして生ハム。量は少ないが、小さな生花まで添えられた美しい一皿だった。ナミはそれらを一つ一つフォークで口に運び、味わう度にたまらないという風に頬を緩ませた。
「美味しーい、幸せ。ありがとうサンジ君。これホントに、サービスしてもらっていいの?」
「サービスじゃなくて、プレゼント。いいんだよ。そんな顔を見せてもらうだけで、おれも幸せ」
「下心も感じるけど?」
「こんなキュートな女性を前にして何も感じない奴の方が、罪深いと思わない?」
 互いの内心を探るような軽口のやりとりは、徐々に二人の間の緊張を緩ませはじめていた。ナミは一口味わうごとに、その表情が穏やかに、蕩けるようなものに変わっていく。それは一概に強いアルコールのせいばかりでもなかっただろう。
「ふふ。もう飲んじゃった。おかわり、貰える?」
「喜んで」
 そんなナミの顔を見つめながら、サンジは二杯目のカクテルを用意してナミの前に置くと、カウンター内部に置いてある作業用のスツールを引き寄せてひっかけるように腰を乗せた。

 ――今夜こそ、イケるか?
 内心のそんな高ぶりを、柔らかい笑顔の下に押し込める。
 ナミが店を訪れるようになって二ヶ月の間。サンジのナミに対する熱烈なアプローチは常に紙一重のところで上手くかわされていた。バーテンダーと客としてならナミはいくらでも甘い会話にも応じてくれるが、けして高いとは言えないこのカウンターを意識的に防御壁として使っていた気配があった。無理にそこを乗り越えようとして、ふわりと身を翻されたことが幾度あっただろう。デートに誘っても、直接的な愛の言葉を囁いても、ナミはけしてその一線をサンジに越えさせようとはしなかった。
 だが今夜のナミは、どことなく儚げで、物憂げで、そのまま強引にさらっていっても抗わないのではないかと、男にそんな誤解をさせそうなか弱さを感じさせていた。サンジの男としての征服欲が、じわりじわりと膨れあがる。気持ちを落ち着けるための煙草も手元にはない。が、それでもいい。高ぶったまま、ここは一気に勝負に出るべきか――。
 ぐいっとカウンターから身を乗り出そうとした、その時だった。

「ねえ、サンジ君」
「……ん! な、何?」
 出鼻をくじかれ、サンジが一瞬硬直する。カウンターに勢いよくついた腕が妙な方向に曲がり、肘がやや鈍い音をたてた。その痛みを堪えていると、やけに真っ直ぐな、しかしどこかぼんやりとしたナミからの視線を感じた。
「サンジ君は、好きな人、いる?」
 ナミの目を見返して、サンジは無言でその言葉の意味を探る。そしてはっと気付いて首を横に大きく振った。
「いやいや、何度も言ってると思うけど、おれが好きなのはナミさんだよ」
「じゃなくて、本当に好きな人」
「……じゃなくて、じゃなくて!」
 ダイレクトに打ち返されて、サンジは狼狽する。
「待って待って、なんでナミさんには伝わってねえの? おれのこの熱い想い、君への愛」
「だって、女の子にはみんなそんな態度じゃない。ロビンとか、ビビとかにも」
「いやまあ——でも、好きってのは言ったこと無いと思うんだけど」
「そうだっけ? 同じに見えるけど」
 サンジは口を閉じることも忘れて、戸惑いつつうなだれる。
「いや、全然同じじゃないんだけどなあ……」
「うーん? うん、分かった。じゃあ、まあ、それは置いておいて、ね」
「分かってない、ナミさん分かってないよ!」
 もはや涙目のサンジである。
 だがナミは反応鈍く、真顔のまま一度グラスに唇を付けた。その一口で空になったグラスに、ナミの唇のグロスが薄く跡を残した。軽く親指でそれを拭いながら、ナミは小さな溜息とともに声を漏らした。
「サンジ君は、そう、好きな人いないのね。なんだ、そういう話がしたい気分だったのにな」
「ちょ! ちょ! お願いナミさん、おれの話を聞いて……」
 呆然と狼狽の中を右往左往していたサンジだったが、ふとそこで目の前のナミの姿に意識の焦点があう。
 そこでようやく、ナミの頬が薄い薔薇色に染まり、言葉尻のキレも鈍り、瞼が重たげに下がりがちになっていることに気付いた。あっと、サンジはナミの顔を覗き込んだ。
「もしかしてナミさん、酔ってる?」
「……? 酔ってないわよー」
 本人に自覚はなさそうだが、棒読みのその台詞は間違いなく酔っ払いのものだ。
 空になったまま、ナミの手に握られているカクテルグラス。ルシアン、というそのカクテルは、アルコール度数の高さを隠すような口当たりの良さで、レディーキラーの異名があるほどだ。若干そんな目的がサンジの頭になかったとは言えないが、まさかたったの二杯でこの酒豪のナミが陥落するとは思っていなかった。
 ナミはぽつりと言葉を紡いだ。
「……酔ってないけど、なんだかすごくいい気分」
 思わずサンジは苦笑を漏らす。つられたのか、ナミもふふふと目尻を緩ませた。
「お酒って美味しい。大好き。美味しいお酒をつくってくれるサンジ君も、好きよ」
「……ありがと。じゃあついでに、世界で一番おれのこと好きになってくれる?」
「それは無理だけど」
 とろんとした瞼が重そうなナミは眠たげな子猫のような顔で、微笑んだまま口をつんと尖らせてた。じっと見つめるにつけ、そんなナミの表情には愛おしさしか感じられず、言われたことの辛辣さもサンジはさほど気にならなくなった。

 ああ、可愛いな。どうすっか。
 初めて見るナミの酩酊ぶりに、サンジの中に先ほどまでとは違う庇護欲が生まれていた。このまま抱き上げて、持ち帰って、自分のベッドに閉じ込めておきたい。むらむらと沸き起こるそんな欲望が理性を徐々に打ち負かそうとしている。
 だがふと気付いた時、ナミの頬から急に笑みが消えた。か細い声がサンジの耳を打った。
「だって、世界で一番好きな人はもういるの」
「……そう。好きな人いるんだ」
 言いつつも、おや、と思う。ナミは口をへの字にして、軽く目を伏せた。
「今日もね、その人と、デートしてた」
「そっか、誕生日だったしね」
「誕生日って、言ってないけど」
「なんで?」
 サンジの穏やかな問いに、ナミはじっとサンジの目を見つめて、静かに呟いた。
「恋人じゃないからね」

 ジャズの曲がよりスローなものに切り替わる。カウンターに隠したデジタル時計はすでに深夜2時を指していた。

 ふうん、としばしの沈黙の後にサンジがくぐもった声を出した。
「どんなやつ? そいつ」
「何で聞くの?」
「いや……恋人じゃなくても、おれにとっちゃ恋敵には変わらねぇでしょ。おれもちゃんと知っとかないと」
 そう言ってもナミには伝わらない気もしたが、サンジは空になったナミのグラスを今度は少しアルコール度数の低い、柑橘系のカクテルにそっと取り替えた。そしてカウンター内の椅子に深く腰をかけ、カウンターごしにナミと目線を合わせた。

 うーんとね、と、ナミは新しいカクテルを一口含んで、話し始める。
「一言で言えば……そうだなあ。無愛想。顔かたちは綺麗なんだけど目つきは怖いわね。チンピラ程度なら一睨みで追い払えるんじゃないかしら。性格もおんなじ。口は悪いし、がさつだし。あんまり優しいこと言ってくれたり、会話も弾むタイプじゃないの」
「へえ。でも、そういう奴ほどいい、っていうレディが不思議と多いんだよな」
 言いながら、似たような男がいたとサンジはふと思った。
 ふふっとナミが小さく笑う。
「そうね。私も、私から近づいたもの。最初は仕事の飲み会で一緒だったの。ちょっとクールな感じがいいなって。お酒にも強そうだったから」
「そういう男が好みなの?」
「そうよ。最後まで一緒に飲んでくれる人が好き」
「おれもけっこうイケる方だよ? 商売柄」
 ずいと身を乗り出しても、ナミは口を結んでにこりと微笑むのみである。
「あしらわれるなあ」
 サンジは笑いながら無意識に唇を指でこすった。
「それで、その夜はずっと飲んでたのよ。他の人が酔い潰れて帰っちゃった後も、二人で別のお店で飲み直して。それで……その、えっと……そのままホテルに行ったの」
 酒のせいばかりではないだろう。言いよどみつつ、ナミの頬はうっすらと赤くなった。
「すぐに、そういう関係になるって、その、軽蔑する方?」
「おれが? おれがナミさんを軽蔑する点なんてあるわけないじゃん。ま、畜生そいつ上手くやりやがったな、とは思うけど」
 にやっと笑ったサンジのその表情に、ナミもホッとした表情を見せた。酔いの後押しもあり、ここまで話せば今更と思ったのだろう。ためらいつつも話を続ける。
「でもね、そいつ普通にしてたから気付かなかったけど、その時実はお酒のせいでもう意識がなかったみたいでね。途中で……してる途中で、急に目が覚めたみたいになって」

「え?」
 ふとサンジの声音が変わり、ナミはサンジを見上げた。視線に気付き、サンジは、なんでもないという風に軽く首を横に振って微笑み返した。――どっかで聞いたような話だな。そう思ったことも表情には出さなかった。

「酩酊してたってことか。そいつ」
「うん、そう。最初は、どうしたのって思ったのよ。急に動くのを止めて、私をじっと見てるんだもん。でも……でもね、言わないのよ。お前誰だ、とかそういうこと。しかもそこから急に……人が変わったみたいに激しくなってね。それで、あ、こいつ、今までのセックスは寝ぼけてたんだなって分かったんだけど」
 ナミはそこからその時を思い出したように、こみ上げる笑いに任せてくっくと頬を緩ませた。
「それが、すごく、おかしくて」
「おかしい?」
「終わった後も、いかにも最初から正気でしたって振りしてて。多分今でもその時のこと私に気付かれてないと思ってるわ。上手くごまかせた、って。そういうところがすごくね……おかしくて。なんだか、可愛いかったの」

 そこから――。
 無口で無表情な男の、表に出そうとしない可愛らしさに気付いたその時から、坂を転げ落ちるように夢中になった。ナミはうっとりとそう呟いた。
 反応を引き出したくて、連絡をしたり、わざとしてみなかったり。自分から誘いながらベッドの手前で拒絶したり、あえて大胆に跨がってみたり。
 話の間、その男の面影がナミの視界には浮かんでいたのだろう。酒で上気したものとはまるで違う頬の紅潮にサンジは目を奪われていたが、ナミの唇を潤す言葉が少なくなると同時に、ナミの表情は笑顔を保ちつつも冷めたものになっていく。やがてゼンマイの切れたオルゴールのように、声をか細くした先に沈黙が訪れた。

 サンジの声が、低くナミの耳元に囁かれる。
「そんなに好きなのに、なんで『恋人じゃない』なんて言うの」
「……私だけ好きでもね」
「言わねえの?」
「無理。嫌。終わりになっちゃう」
「なんで」
「だって……向こうはきっと、セックスだけの関係でいいと思ってる」

 俯いてしまったナミの表情を、サンジはじっと見つめた。
 その陰った視線で、サンジには見えない面影を見るその姿。ほんの数時間前にあの男の中にも見た。

 サンジはしばし無言でいたが、ナミのグラスが再び空になったのを見やって立ち上がり、後ろの棚から酒瓶を手に取った。そしてナミに背を向けたまま、問う。
「そいつ、幾つくらい?」
「年齢? 多分私やサンジ君と同じくらいだけど、ちょっと……」
「老けてる?」
「そうね。十歳くらい上だって言われても違和感ないかも」
「仕事は?」
「フリーでいろいろやってるみたいだけど、スポーツ関係の仕事が多いのかな。インストラクターとか、コーチとか」
「ならガタイも良さそうだね」
「うん、すごく鍛えてる。筋肉とかちょっと見惚れちゃうレベル」
「……マジで、ビンゴか」
「え?」
「いいや、なんでもない」

 サンジはカクテルシェーカーを手に取り、ドライ・ジンとウオッカ、そしてカカオのリキュールをシェイクする。先ほどナミを酔わせたそのルシアンというカクテルをグラスに注ぐと、明るめの琥珀色が光量を落としたカウンター上の照明の光を受けて燦めいた。
「……また、強いお酒。酔っ払っちゃう」
「酔ってたって分かるくらい、醒めてきた?」
「なんか、ちょっと恥ずかしい話をした気がする」
 ナミは恥じらうように指先で軽く頬を押さえた。
「そんなナミさんも可愛くて好きだよ。おれだけが、そんな顔を見ていたいけど、ね」
 サンジはズボンの後ろポケットに手をやり、中の携帯電話をさりげなく取り出した。仕事中に予約の受付や業者との連絡に使っているものだ。ちょっと失礼、とカウンターの隅に移動してナミに背を向けてキーを操作する。

 一度、携帯電話から顔を上げた。あー…と、わずかに声を出してしまった気もする。
 横目でちらりとナミを見ると、カウンターでカクテルグラスを指に挟み、ルシアンをゆっくりと口に含んでいる。その横顔は星の粒子が燦めいて輝かせているように美しく、サンジはまぶしさに思わず目を細めてしまった。

 ――てめえのため、じゃねえぞ。
 ゆっくり、発音をひとつひとつ区切るように心の中でそう自分に言い聞かす。
 ――ナミさんのためだ。

 だが、あの一杯をナミが飲み終わったらもう遠慮はしない。寝てたり、気付かなかったり、意味が分からなかったら、それはてめえが悪いってことだからな。と。
 サンジの指先が、手早くメッセージを入力する。宛先は、ゾロ。

『おれはナミさんを帰さねえよ』

 送信ボタンを押し、もう携帯電話は電源を切ってポケットに放り込む。
 ナミの元にゆっくりと戻ると、再び頬を赤く染めてナミがにこりと微笑んだ。ああ、やっぱり可愛い。ゾロになんか渡したくねえな――。カクテル一杯分は待ってやる、という先ほどの決意は一瞬でどこかに吹き飛ばされ、サンジの指先がナミに触れようと伸ばされた。

 その時だった。

 静かな店内に、電子音の柔らかなリズムとメロディが響く。音量自体はさほどではないが、ナミも、そしてサンジもびくりと身体を震わせた。ナミが慌て気味にハンドバックの中からスマートフォンを取り出す。電話の着信画面に表示された「ゾロ」という文字が、一瞬サンジの目を掠めた。
「……早すぎだろ」
 唸るように呟く。ナミがサンジの顔を見やるが、奥歯を噛みしめつつ、サンジはどうぞと促した。
 ナミはサンジから身体を背け、応答ボタンを押す。突然のゾロから着信に驚いているのは、第一声を詰まらせた所から察せられた。
「も、もしもし」
 くぐもった声がスマートフォンの向こうから聞こえた。サンジはわざと距離をあける。
「え、今……飲んでるの。そう、一人よ? どこって……言って分かるの? 駅の北側の『オールブルー』っていうバーで……」
『……!!』
「ちょ、ちょっと! 声大きいんだけど! 何を怒鳴ってんのよ? はあ? 行くって、え? 知ってるの? このお店……あ、待って………ゾ、ゾロ!?」
 呆然と顔を上げたナミは、「切れちゃった」と一言呟いた。サンジに向き直り、尋ねる。
「ね、ねえ、『グル眉』がどうのって言ってたけど、それ、サンジ君のこと? もしかして、知り合い?」
 ははっと吹き出し、何と答えたものかとサンジが表情に困っていると、外へ続く扉の外から乱暴な足音が響いてきた。ガタン、と乱暴にチークの扉が開かれる。その向こうから現れた人影に、ナミは勢いカウンターの椅子から立ち上がった。
「……ゾロ!」
 ナミの驚きの表情は、一瞬でサンジの視界から消えた。不意に現れたゾロはそのままナミの二の腕を乱暴に掴み、強引に店外へ連れ出してしまう。サンジには、止める間も、声をかける間もなかった。ナミのゾロの名を呼ぶ声だけが響き、それもやがて遠くに消えた。

 沈黙がカウンターの向こうから染み渡り、ようやくサンジは大きく息を吐いた。
「あのクソマリモ。おれの顔すら見やがらねえ」
 うつむき、後頭部を乱暴にガリガリと指で掻いたサンジは、そのまま奥の休憩室へと足を向け、積んである煙草の箱とライターを一つ手に取った。一本咥えたところで、ふと思いついて店内へ戻る。唯一外へと開かれた小さな窓を斜めに滑らせて覗くと、人気の無い通りに、人影が二つあった。声までは聞こえないが、ゾロがナミの腕を掴んだまま、向き合って何かを言い争っている。が、それも数秒の後に、ゾロがナミを強引にその胸に抱き寄せる。

 そこで、サンジはそっと窓を閉めた。

 咥えていた煙草に火を付け、しばらく煙を吸い込むことに集中する。ふうと長い紫煙を細く吐いたあとに、低く重い声で呟いた。

「……ああー……、美味え」




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