a water tower −2−
CAO 様
体育倉庫は昼間だというのに薄暗く、明かり取りの窓から射し込む光だけでは、到底全てを見渡すなど不可能だ。しかも部屋の隅には何段にも重ねられた跳び箱がいくつも置かれ、マットを取り囲んでいるので、その上に人がいても一見して気付くものではない。
その時、一条の光が、そこを照らし出した。
体操服に身を包んだ少女が、うつ伏せで頭部をマットに押し付ける様に、あどけない顔を歪めている。両腕はそこに無いものを掴む為、長く伸ばされ、掌はしきりに開いたり握ったりを繰り返していた。
細かく震えていた頭部が、突然しなる形で上を向いた。真っ白な喉が露になる。
その喉から絞り出された声は、細い顎を伝い、唇をわななかせた。
「あ…あぁっ……」
と同時に、彼女の微細な振動が止まる。
「声を出すな!」
低くくぐもった男の声がする。少しだけ、怒りを滲ませていた。
彼女は頭を後ろに返し、潤んだ瞳でひとつ頷き、静かに自分の指を噛んだ。
「いい子だ…」
笑いを含んだ男の声が空気を揺らした途端、彼女の体が烈しく振動し、指を喰わえたまま瞳が大きく見開かれた。
ジュプジュプと卑猥な音が谺し、肉のぶつかる音も絶え間なく聴こえる。
徐々に大写しになる彼女の胸部には、体操服の下で別の物体が蠢き、揺れる乳房を這い回っている様だ。腰の部分から下は素肌を晒し、高く持ち上げられていて、臀部には太い腕が絡み付いていた。
揺れ続ける体の中心へ、厚い掌が動いた。
無骨そうな指先が、彼女の勃ち上がったクリトリスを捕まえる。二本の指で挟み、何度も何度も捻る。そして、押し潰す。
溢れ落ちる愛液は、膣口を塞ぐ圧倒的な塊の出し入れにより、肉の隙間を突いて飛び散った。
さらに烈しさを増す注挿で、滴る愛液が彼女の腿を濡らす。そして硬度を増して膨らみ続ける肉棒と、膣口にぶつかる陰嚢をも、グショグショに濡らしていた。
注挿のスピードが上がる。
彼女の体がこわばる。
容赦無く臀部を鷲掴かまれる。
烈しい子宮への出し入れ。
響く水音。洩れる吐息。
喰わえていない片方の手が、彼女の快楽の場所へ向かう。
自ら肉棒に侵される膣口に指を這わせる。
愛しむ様にぶつかり合う箇所を撫で、繋がっているのを確認する。
一層深く突き刺さった肉棒が、最大限に膨張した瞬間、その指がクリトリスを押し潰していた。
再度見開かれる瞳。
額に張り付く髪。
歪み震える唇。
………腰が砕け落ちた。
「…いいカラダになった。」
「……………。」
「ん?もう、指噛まなくてもいいよ。」
「はい。」
「良かっただろ?次は、もっといい事、教えてあげるからね。」
「いい事?」
「あぁ、凄くいい事だよ。」
「今よりも?」
「勿論さ。ずっと、良くなる。もっと興奮するよ。きっと、我慢してられなくなって、自分から求めるようになるさ。いや、俺を見ただけで、濡らす様になるかもな。」
「…今でも、濡れるの……先生。」
「まりあ…可愛いヤツだ。」
「ねぇ、先生。直ぐじゃ駄目?まりあ、今直ぐ教えて欲しいの。お願い先生。このままじゃ、まりあ我慢出来な………」
『ブチッ』
「ゾロ、テメェ〜何しやがるっ!」
「……飽きた。」
これから盛り上がって来るという時に、テレビ画面が突然のブラックアウトを来たしたのだから、のめり込んでDVD鑑賞を行っている者にとっては、怒って当然であろう。勿論、途中で映像を止めた相手に向かって。
その怒りを甘んじて受けるゾロ。彼にもそれなりに、言いたい事も思う所もあったのだが。
「バッカヤロー!こっからが良いとこなんだよっ。まりあちゃんが、自分から初めて先生に迫って行くんだぞ。そこをクラスメートに見られて…」
ソイツが乱入して3P状態……そんな安い話は、疾うに知っていた。
なんせ主演女優自ら脚本を解説してくれていたのだから。このアダルトアニメの主役、純粋無垢な『まりあ』後ろには、あの腹黒魔女『ナミ』が声を聞かせているのだ。
なんだかんだと理由を付けて家賃も碌に払おうとしない、色んなゴタクを並べてはゾロの酒をひったくり飲み尽し、我もの顔でゾロの生活を脅かす女。
そう最近は生活だけでなく、ゾロの心にまで踏み込んで来ている。これに関しては、ナミだけの責任とは言い切れないが。
兎にも角にもゾロにとっては、『まりあ』は『ナミ』であり、彼女の嬌声や媚態をこれ以上他人に晒しては要られない。
特にこの声は、練習した日を思い出させる。
この芝居を引き出したのはゾロがナミに行った演技指導(?)の賜物で、あれ以来互いに触れない様に努めてきた『あの行為』を甦らせるに十分過ぎた。
「……って、なる訳だ。なっ、見てぇだろ?だから、返せよリモコン。」
「俺は見ねぇぞ。も、帰るからな。」
ゾロは手にしていたリモコンを、放り投げた。
直ぐに脇に置いて合った大ぶりなスポーツバッグを肩に掛け、立ち上がりドアへ向かう。
「おい、ちょっと待て!」
忽ち慌てた声が響き、ガッとバッグを掴まれた。掴んだ声の主は、金髪から覘く片方の青い目に、必死さを蓄えていた。まさに、縋がるが如く。
だが、その物言いはかなり偉そうで、癪に障る。
「お前、公衆衛生学のレポートやるんじゃなかったか?どーすんだよ…」
「それはもう出来てる。」
「じゃあ俺はどうなんだよー!」
「知るかっ!」
「どうせ帰ったって暇なんだろ?」
「いいや、帰って、別のレポートやる。」
「そうは行かねぇ!どうしても帰るつうんなら、レポート置いてけ。」
「アホ、明日提出期限のやつ、テメェになんか預けられっか。冗談じゃねぇよ。」
いい加減この男との会話は疲れると思いながらも、こうして遠慮なく言い合える相手に感謝もしていた。
「なら、レポートごと、今日はお泊まり決定だな!なぁ、親友〜」
「何が嬉しくて、野郎と二人っきりで、一晩明かさなきゃなんねー!冗談じゃねぇ!」
「だろ?俺もその気はねぇ!」
「あったら困るってんだ!」
「だから、寂しい思いをしないように、こうやってサービスしてやってんじゃねぇか?な、まりあちゃん可愛いだろ?」
「可愛いかねぇよ……魔女だ。」
「なんだ?魔女って…」
魔女の意味、それは。
「たっだいま〜、ゾロ〜!」
「何だ?ご機嫌じゃねぇか。」
「グフフッ…あ、いいモン飲んでるじゃない。私も貰うわよっ。」
「やんねーぞ。テメェに飲ませたら、キリがねぇ。これは、とっておきの上物なんだ。ザル女に飲ませる訳に行くかっ!」
「ケチ臭っ!んな染みったれた根性だから、女にモテないのよ〜」
「それとこれは関係ねぇだろ?」
「関係あるの!友達の祝いに、酒の一杯も奢れないでどーすんのよっ!肝っ玉が小さいっつうか、何つうか…」
「祝い?って………あっ!アレか?上手くいったのか?」
「と・う・ぜ・ん!私を誰だと思ってんの?演技派美人女優『ナミ』よ。」
「ああ、そうかい………まぁいい。一杯だけだぞ、一杯だけ。」
「本当、セコイんだから…」
ナミはあの翌日、ご機嫌で帰ってきた。
監督に生まれ変わった様だと絶讚され、共演者からも尊敬の眼差しを受けたそうだ。あまつさえ、次の仕事の話も持ち上がり、AVでない仕事を紹介して貰えそうだと。
そして、一杯だけと始めた酒を、全部飲み干した。
(いつも自分の思い通りにしやがる…魔女以外のなんだっつうんだ?)
結局、ゾロに礼のひとつも述べず、長い時間をソファの上で二人で過ごした。ただ語り合うだけの、いや、一方的に聞かされるだけの時間を。
時折、昨夜の二人に話が及びそうになると、ナミは意識していないと言わんばかりに別の話を振ったり、無理に馬鹿げた口喧嘩を挑んできたりした。そんな話はしたくない、する必要も無いと言わんばかりの態度。
いや、少し違うかも知れない。
忘れようと意識しないようにと、努力しているみたいだった。
ゾロもそんなナミの姿に、敢えてほじくり返す気合いも失せ、彼女が今ここにいるというだけで良いと思う事にしたのだ。
そのくせ、互いに離れ難いとでも言う様に、延々と話し続けた、2ヶ月前の夜。
「なんでもねぇ…それより、んなやっすいAVなんか見てる暇…」
「安くねぇっ!『まりあ』ちゃんを悪く言うなっ!」
「うっ…………」
たかがアニメではないか?と思ったゾロだが、この女好き野郎の琴線に触れてしまったらしい。
確かに普段から異常とも言えるフェミニスト振りを発揮する目の前の金髪エロコックことサンジだが、真逆アニメキャラクターにまでとは思いもよらなかった。
大学入学以来4年近い付き合いだが、こんなヤバイ一面を持っていたのかと思い、一瞬引いて行く自分を止められなかった。
「いいか、よく聞け!アニメだとかって言葉で、何でも一緒くたにするな。『まりあちゃん』の素晴らしいところはだな……」
サンジは見る見る青ざめるゾロの顔色に漸く気付いたのか、一旦言葉に窮し、捕まえていたバッグから手を離した。そして、呆れた様な溜め息を吐き、肩を落としたまま話しを続けた。
「ゾロ、テメェが何を誤解してるのかは、よぉーく分かった。ちゃんと説明してやるから、落ち着いて聞け!」
「俺は冷静だ。だから…」
「最初に言っとくが、俺は現実の女しか愛さねぇっ!」
「だがよ、実際…」
「俺が惚れてんのは、『まりあちゃん』の声の主だ。間違えんなよ。ここが一番大事なとこだからな。」
(…………ナミか。)
それに思い至り、ゾロの脳裏に浮かぶあの日のナミの姿。
『先生』と呼び続け、最後の時『ゾロ』と自分の名を叫んだ彼女。
しなる体を抱き止めた時の、締め付けられた様な柄にもない切ない自分の気持ち。
「彼女の声は、純な少女を上手く演じてるのは勿論だが、本当にヤッてるみたいにリアルなんだ。テメェも見たんだから、分かるだろ?」
(だから、いやなんだ…思い出すだろ?忘れ様としてるのによ。リアル過ぎンだよ。)
「あれは絶対愛情がねぇと出せない声だと思わねぇか?」
(愛情…………だと?)
「相手の男優に惚れてるとか?それはなかったとしても、本気で惚れてる男とヤッた経験に元づいてる…」
「そりゃ、ねぇよ。」
「何で断言できんだ?」
「い、いや…そんな気がするだけだ。」
「ま、テメェに女心を理解しろっつうのは、土台無理な話しだから構わねぇが。要するにだな、天性のフェミニストである俺が、テメェの言う安いアニメを堪能する理由は、『まりあちゃん』を演じている女優の芝居に惚れ込んだって訳だ!純粋に真摯に演じる、その声に心が震える…」
「声優ヲタク……か?」
「!…ゾロ…殺すっ!」
誰も止める者のいない小さなアパートの一室で、二人の男の取っ組み合いが始まった。あまりの騒ぎに、隣室の住人がドアを叩くまで、それは続いた。
「いいか、コレだけは言っとくぞ。俺はヲタクじゃねぇ!フェミニストだ!いや、百歩譲ってヲタクだとしても、『生きている女性ヲタク』だ!そして、その全てを手に入れる…」
「結局、ヲタクだろ?」
「………ちっがーう!ちゃんと聞いてろよ…」
ヲタクであってくれた方が、ゾロにとっても都合が良かった。サンジは学内でも結構無口で通っているゾロには珍しく、腹を割って話せる数少ない友人であり、来年度からは専攻を共にする予定になっていて、今以上に交流も頻繁になるだろう。そうなれば、自ずとゾロの部屋へやって来る機会も増えると云うものだ。
そうなれば、何時かは『まりあ』とも顔を合わせる状態が生まれる事を予想するに足る訳で。
「もう、分かった。悪かったです。」
ナミに会ったが最後、この男が惚れない筈が無いと言う確信めいたものを、ゾロは懸念していた。
そして、ナミと会わせたく無いと感じている自分がいると、否定できないでいる。
「その心の篭らない言い方には、納得いかねぇが、まあ、今回だけは許してやる!」
「けっ……」
「ン?まだ、やんのか?」
「面倒くせぇ。」
「よし、ここは手打ちにして、レポート貸せよっ!」
「テメェは……ホラよ。」
「お、サンキュ。ゾロ、暇なら『まりあちゃん』見ててもいいぞ。」
また、抱きたくなるのが怖かった。
「……おぅ。」
それでも、『まりあ』の声が聞きたいと思うゾロだった。
「やっぱ、見てぇんじゃねーか!」
「……テメェは、レポートやれよ。」
「素直じゃねぇ野郎〜」
(聞かせたくねぇンだよ、テメェには……いや、誰にも…だな。今日は帰らねぇ方が無難か?ナミに顔合わせらんねぇ。情けねぇが。)
(馬鹿ゾロ……)
その日ゾロは戻っては来なかった。
ナミが珍しく、ゾロの帰りを待っていたにも関わらず。話したい事が山ほどあった。相談したい事もあったから。
だから、夜更けにひとり、ゾロのベッドに潜り込み、真っ暗な部屋の天井を仰ぎ、我知らず呟いていた。
「ゾロの…バカ。」
小さな部屋に谺した声が、ひとりぽっちであると教えてくれる。
何時もなら「何だと?テメェ、もっぺん言ってみろ!」と、返ってくる筈の掠れた声が聞こえない。
カーテンを引いた窓の外から、斜向かいのコンビニの明かりが薄く光っていた。
ゾロと再会したのは、その店だ。1年程、正確に言えば10ヶ月前だった。
其処だけ昼間のように明るい店内で、熱心に立ち読みするゾロの姿を外から見つけ、引き寄せられ、気が付けば店に足を踏み入れていた。
普段は殆んど立ち寄る事はない、そのコンビニ。その頃のナミにとっては、明る過ぎる場所だったから。
ナミに気付く気配も見せず、一心不乱に雑誌を読んでいるゾロに、何と声を掛ければ良いのか戸惑い躊躇し、暫くジッと見つめ続けた。
眉間の皺、射抜く瞳、筋の通った鼻梁、酷薄そうな唇、短い翠の髪、左耳に揺れる3本のピアス…少し精悍さを増したものの、変わらぬ孤高の姿に、思いが5年前に還って行きそうになった。
涙が溢れる直前の、胸が締め付けられ、喉に熱い塊が込み上げる感覚に全身が侵され始めた。
「…ナ…ミ…?」
突如何かに衝かれた様に、ゾロが入り口付近に佇むナミを凝視した。
「ゾロ?」
(憶えていてくれたの?)
「久しぶりだな〜5年振り位になるか?今何してんだ……」
何も言わず消えた自分に、憤慨どころか何の疑念も見せず、5年前給水塔の下で「またね」と言って別れた続きで、外連味の無い態度のゾロがいた。
一瞬にして、ナミの肩に入っていた力が抜けていった。
今から思えば、抜けた力は5年分だった、そんな気さえしている。
「ナミ、そろそろ声の仕事に本腰入れてみない?」
「ノジコ…私、舞台に…」
「知ってるわよ。アンタが舞台の上が好きなのは。でもね、今劇団は定期公演に向けて配役も決定して稽古も佳境に入ってるのに、アンタに役はついて無いじゃない。」
「でも、主役が降板した時の代役は、貰ってるのよ!台詞だってもう入ってるんだから……」
「長期公演じゃないんだから、役が回って来る可能性は低いンじゃない?」
「そうだけど…」
劇団の事務所に顔を出したのは夕方6時を過ぎていた。以前にやったアフレコの仕事に多少の変更が出たため、急遽再録が行われる事になり、午後一番から収録に立ち合っていたのだが、機材トラブルで間に合う筈だった4時からの舞台稽古に遅れてしまった。慌てて稽古場に駆け付けたものの、演出家はかなり不機嫌で、ナミの参加は断られてしまった。仕方なく、仕事の報告がてら事務所に行くと、劇団員の外渉を一手に引き受けるノジコに呼び止められた。
「ナミは今、あちこちから仕事のオファーを受けてて、ここがチャンスだと思うの。勿論、舞台を諦めろと言ってるンじゃないよ。少し外に出て自分を売るのも悪くないって言ってるんだ。」
「う、うん。」
「ナミの力は私も、他の劇団員も良く知ってる。中にはヤッカミ半分で、子役時代の話をするヤツもいるけど、アンタはそんな陰口にも負けないで努力してきた。」
「……ありがとう、ノジコ。」
ナミがこの小劇団に入って以来、陰に日向に彼女を支えて来てくれたのはノジコだ。時に姉の様に、母の様に。
ゾロと再会を果たすまでの数年間に、彼女の家で寝泊まりさせて貰った時期もあった。ナミにとってはかけがえのない存在の一人。
「ナミが望む姿とは多少違うかもしれないけど、目の前のチャンスを逃すなんてナミらしくないんじゃないの?」
事務所の小さな応接ソファに腰掛けて、ナミを見つめるノジコの瞳は真摯なものだった。
「遠回りするみたいで嫌やなのかもしれないけど、考えてみてくれない?声の仕事。こっちで稼いで、舞台に継ぎ込んでみる……くらいの気持ちでいいから。」
確かにチャンスだと思う。苦労したAVの仕事の後、監督は口約束で終わらず、単発ものではあるが準主役級の仕事も紹介してくれた。それを契機に、何本かの仕事も抱えている。
ある程度の評価を貰っているのは確実だと、ナミ自身も確信していた。現に、こうしてノジコから正式打診を受けている。
全て最初の『まりあ』の成功が、この幸運を呼び寄せたのは間違いない。
あの芝居が、今のナミを作った。
「……考えてみるわ。」
呟いたナミの脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。
「そうこなきゃ!返事は……明日でいいよね?」
「そ、そんな……分かった。明日ね。」
明日…
「いい返事、期待してるよ。アンタが売れれば、劇団にもプラスになるし、ナミが舞台に立つチャンスも生まれて来るンだ!一石二鳥じゃない?お得なの好きでしょ、ナミ?」
「も、ノジコったら……その通りよっ!」
ノジコとの話の時点で、ナミの気持ちはほぼ固まっていたと言っても良かった。
正直客の目の前で演じる舞台に魅力を感じ続けてはいるが、新参団員としての今の自分に大きな役が回って来る可能性は低い。演じたくてもその場が無いジレンマを抱えるくらいなら、声だけでも演じる場に身を置いていたいとも思う。
ただ、その仕事が順調なだけに、そちらにばかりウエイトがおかれてしまうかもしれない恐怖があるのも、また事実。
そんな不安を唯一の家族に聞いて貰いたかった。そして、少し背を押して欲しかった。
ゾロに。
けれども帰って来ない。
ゾロの秘蔵酒をキッチン棚の奥から捜しだし、手酌を傾け、ただじっと彼を待っていた。二人で飲んでいると甘味が香る酒が、今夜は苦味で舌が痺れる様な感覚がある。それでもボトルの半分も消える頃になると、遅い帰りに怒りが募ってきて、誰に言うでもなくナミの言葉がリビングに響いていた。
「……遅くなるなら、電話くらいしなさいよっ。」
自分の携帯電話を握り、光らない画面を見つめふと気付く。
(……そんな関係じゃなかったわ……)
力が抜けて行くみたいに、2ヶ月前抱かれたソファに横たわった。そこには、翠色の短い髪が一本落ちていた。
右手の親指と人指し指で摘み、自分の眼前にそっと持ち上げる。
「私達、どんな関係なのかしら…」
兄妹……血が繋がってないのに?
同居人……セックスしちゃったのに?
恋人……好きだなんて一言も言ってないのに?
元恋人……一緒に暮らしてるのに?
数々の関係を考えてみるが、どれにも当て嵌り、どれにも当て嵌らない。
摘まんでいた髪に、息を吹き掛けてみた。
するとその短い翠の糸は、風に吹き飛ばされてしまった。緩く吹き掛けたにも関わらず。
あっという間にナミの指を擦り抜け、狭いリビングの宙に舞う。室内灯に照らされ、一瞬キラリと光り、何処かへ消えてしまった。
思わず捕まえようと伸びた指先は空を切り、そのまま震える紅いマニキュアがやけに生々しく感じた。
(捕まえたい訳じゃないのに……)
ソファから体を起こし、バスルームへ向かう。
剥ぎ取る勢いで着衣を脱ぎ捨て、シャワーのコックを捻った。強い水流がナミの裸体を濡らして行く。うつ向きオレンジの髪を十分湿らせ、小さな顔を上げた。
聡明な額に直接湯の洗礼を受ける。閉じた瞼に掛った湯は、目尻に溜り頬を伝わる。まるで涙のように。
滴る水滴が顎を伝い、細い喉から柔らかく膨らんだ乳房に流れ、少し勃ち上がった乳首を迂回し、くびれた腰から腹部へと、そして全身を濡らして行った。
シャワーの涙で裸体が泣いていた。
ナミは泣き濡れた体で、2ヶ月前のあの日を思い返した。
ナミがゾロのベッドに潜り込むと、布団の中はゾロの匂いで満たされていた。男臭い野生の雄の香り。なのに不快感は殆んど無く、心地良いとさえ感じた。
つい先程まで重ねていた体を反芻して、自分の体の中に残るゾロの残滓に再度潤む自分を、羞恥しながら愛でてもいた。
心など望まないと言った自分を否定はしない。けれど体は求めてしまう現状を、女としてどう受け止める冪なのだろうか。
(……所詮、雌。)
ゾロとは終わっている。
給水塔の下で終わっていた。
先程の二人はただの『雄と雌』、ただの練習。互いの性欲を満たしたに過ぎない行為。
それなのに、何故自分は立ち止まり「一緒に寝る?」などと問ってしまったのだろう。烈しい行為に及んだにも関わらず、シャワーのひとつも浴びないで眠ろうとしているのだろう。残滓を碌に拭う事もせず、ゾロの香りに包まれて、何故喜びを感じているのだろう。
未だ潤む秘所に手を伸ばし、愛でてやりたいと思うのは…
『バタン』
ドアを閉める音が聞こえた。
少し時を置いて、シャワーの水音が聴こえてきた。
(ゾロがシャワーを浴びてる……当然よね。あんなに汗かいてたんだから。洗い流すのは、当たり前の事だわ。そう、綺麗にしとかなきゃ、綺麗に洗い流さなきゃ、綺麗に…)
ナミの潤んでいたところが急速に乾いて、胸の奥も渇いていった。それを機に、ナミは固く瞳を閉じた。
頭からすっぽり上掛けを被り、全身をゾロの匂いで覆った。今だけは、外界から何も感じないよう五感を塞ぎ、ゾロの胎内で微睡みたかった。肌寂しい気持ちの意味を、深く理解したく無かったから。抱かれた雄の感触だけをその身に纏い、薄れ行く意識を楽しんでいようと。
それでも微かに届く水音は、何時までもナミの耳に響いていた。
翌朝目覚めた時には、ソファにゾロの姿は無かった。
そして今も、バスルームの向こうに、ゾロの気配は無い。帰らぬ家主を思い、全身を清めている自分が愚かしくなる。
再会してからのたった一度の情交が、ナミに疼痛を与えていた。
(どうせなら、此所に感じたいわ…)
左手でシャワーコックを掴み、右手で体を擦っていた。乳房を下から持ち上げて洗っていると、先端の乳頭に水流がかかった。弾けてしまいそうな勢いで、乳輪が縮まり乳首を大きく戦慄かせた。
ナミの心の疼きが、そこに伝染する。
左手のシャワーを其所に近付け、乳房を持ち上げたままの右手の親指で固くなった部分を弄ってみる。尖がった頂点に指の腹をつけ、小さな円を描いてみる。たっぷりとした乳房に食い込ませ、クルリクルリと回してみれば、ツンとした甘味のある疼きが体中を走った。
「……あ…」
溢れた吐息が湿ったバスルームに反響する。羞恥に瞳を伏せると、逆に感覚が磨ぎ澄まされた。堪らず人指し指も使って乳首を摘むと、煽られるように下半身が熱くなっていくのが分かった。
「…ゾロ…」
閉じた瞼の下に見える男の名を唇に乗せれば、無意識に右手が熱くなる秘所に伸びていた。
薄いオレンジの恥毛は、シャワーの湯で濡れ、色を濃くしている。その上から労るように優しく一撫でしてみる。ゾロがそうした様に。
「…ハァ…」
溜め息がナミを煽る。
シャワーの湯がナミの掌に溜っていた。それは、細く白い指を伝わり、蠢めき始めた襞を濡らしている。
指の一本がふくよかな襞の一部に包まれ、妖しく煽動すると、中から粘質な液体が現れた。ナミの指をトロリと這い、シャワーの湯に溶けて薄まり、内腿を流れ落ちる。
シャーという音に混じり、時折チュプチュプという水音がナミの耳にも届き始めた頃、膝が力を失い、体がバスルームの床に崩れ落ちた。M字型に開いた両足のせいで、指を喰わえたままの局所が直接床に触れ、自重によって深く指が押し込まれる。勢い余ってのけぞる喉が、極まりつつある快感を紡ぎ出す。
「んあっ……」
昂ぶる欲望に抗う事すら忘れ、指を増やす為に一度引き抜く。
抜き放たれた瞬間、濡れた床に触れた襞が、ゾロの舌に弄ぶられた感触を思い起こさせた。
「ゾ…ロ、ゾロ、ゾロ……」
優しく一舐めした後、愛おしむくちづけをくれた。まるで我が子に与えるキスの様にナミの襞を噛んで、溢れた愛液を糖蜜でも舐める様にその喉に嚥下してくれた。あの快楽の時間が蘇る。
堪らず局所を床に押し付けた。知らず前後する腰が甘美な痺れを誘発し、完全に理性の箍を外してしまった。
焦りに似た衝動がナミを追い上げ、擦れる襞を割って2本の指を捩込む。それでも足りず、余った親指が、硬く起立する花芯を求めて、押し潰した瞬間……
「…ハッ…ゾロォ……」
大きく一声啼いた。
こんな痴態を晒した後で、よもやゾロのベッドに一人っきり潜り込む事になろうとは、ナミでなくとも羞恥が募るのは言うまでも無い。
自分の醜い雌の欲望に浸ってしまった事。そうした行為を誘った男の存在。その男が今自分の側にいない事実。何より、肉欲に姿を変えて現れた、自分自身でも目を伏せてきた想い。
そのどれもが、ナミを恥ずかしめ、苛んでいる。
薄いカーテン越しに煌めく灯りが、暗い部屋のベッドに転がるナミを、余計重い気持ちにさせた。醜い肉欲と己さえ偽る心を持つのを甘受した、彼女を責めているように感じて。
明るい場所を歩く資格は無いのだと。
上掛けを魅惑的な足の間に挟み、胸元に寄せ抱き締める。顔を埋めると、胸一杯にゾロの匂いが染みてくる。潤み始めた瞳の端から、一滴溢れた液体が上掛けに小さなシミを作った。声を殺した体が震え、抱き寄せた上掛けをゾロに見立てて、ナミは涙を流し続けた。
何に対して泣いているのか、自分でも判然としない。自慰に更けった愚かさも、自分の今後を言葉に出来ない事も、否定してきた誰かを頼る感情も、思う様にいかない自分自身に怒り憤り、此処にいないゾロに全ての原因を押し付けた。
「バカ…バカ…ゾロのバカ。アンタが悪い。こんなに居て欲しい時に居ない、アンタが悪い。家族だって、お兄ちゃんだって、思ってたのに。そうじゃなかったじゃない。どうして、私の中に入って来んのよ…」
そうだった。性欲という仮面の下には、何時でもゾロの顔が隠れていた。ナミが初めて絶頂を極めた相手も、どこかゾロに似た男だった。筋肉質で均整の取れた体だった。顔付きはゾロとは違って、甘いマスクだったように思うが、目を閉じれば回した腕に感じた感触は翠の男を思わせた。昂ぶる体が臨界を越えた時、ナミの脳裏に翠の影が走ったのは、忘れ切れぬ思い出。
ナミの出発点はゾロ。回帰して此処にいる。いや、戻って来たというよりも、旅立ってさえいなかったのかも知れない。
一頻り泣いたナミは決心した。
(さぁ、出発……もう、給水塔から離れなきゃ。体だけじゃなく、気持ちも一緒に。)
翌日午後遅くに部屋に戻ったゾロは、西日の射し込むリビングのコーヒーテーブルに、珍しいモノを発見した。
カーテンのキッチリ引かれていない隙間から直接当たった光彩が、スポットとなって一枚のノートの切れ端を照らしている。15cm四方程の中に、整った美しい文字が綴られている。
『ゾロへ
仕事が急に忙しくなって、当分ここへは戻れそうにありません。
仕事場近くの友達の家にお世話になる事にしました。
これでアンタも、女の子連れ込み放題よ。感謝しなさい!
荷物は預かっておいてね。売り飛ばしたりしたら、承知しないからっ!
……あ、棚のお酒、私の船出のお祝いに、全部飲んじゃった。あしからず。
可愛い妹 ナミより』
「どこが可愛い…だ!他人のモンまた勝手に飲みやがって、あの女…」
だが、本当に珍しい事もあるもんだと、ゾロは不思議に感じていた。何故なら、ナミが寄生するようになってから、ただの一度も置き手紙などした事はなかったからだ。仕事や稽古で午前様になっても、バイトや飲み会等で帰宅しないと事前に分かっていたとしても、手紙どころか電話の一本も、ましてやメールのひとつも寄越した試しはなかった。
考えてみれば当たり前の事だ。ただの同居人に、逐一自分のプライベートな動向を知らせる必要はないのだから。
昨日に至っては、ゾロもナミへ連絡を取らず、サンジと一夜を明かしたのだ。勿論、変な意味は無い。レポートを仕上げ、今朝一番で教授に提出して来たのだ。
やましい気持ちの欠片も無い……
「今日は戻れない」と一言断りを入れようと、考えなかった訳ではない。
なんとなく女好きのサンジを目の前にして、ナミに電話を入れるのを躊躇したのは言うまでも無いが、強引に見せられた『ナミ初主演アダルトアニメ』のお陰で、彼女に対して過剰な反応を見せてしまいそうな予感があったのだ。
ゾロは昔からカンが良い方だった。野生に近い所為もあるのかも知れない。それは、いくつかの経験から、自分でもある程度納得するところもあった。
そのカンが働いたのだ。
(今ナミと話せば、何か要らぬ事を言ってしまいそうだ。多分、あの気取った顔を見たくなる。あの生意気な口調に煽られる。きっと、部屋に駆け戻り、2ヶ月前に抱いたあの肢体を再び味わいたくなる。そして、告げてしまうかも知れない、今の俺の……)
そこまで思い到り、我に還った。ゾロを、他人を寄せ付け無い、寄せる事を頑なに拒み続ける、拒む事で己を保つしか無い女に、自分の気持ちを一方的に押し付けるべきでは無いと。
まだ、その時期では無いと。
だから敢えて、連絡をしなかった。
2ヶ月前から抱え続けた生々しい感触を、払拭するどころか募らせている自分を戒める為。
心を欲し始めている自分を、冷静になれる様思い留める為。
何より心層心理に働いているであろう、ナミを部屋から消してしまいたく無い思いを完遂する為。
だが、ナミの姿は失われていた。
リビングに拡がる空間には、給水塔の下とは違って、未だナミの匂いは残ってはいるが。
(嫌な予感は、当たるもんなのか…)
そうでは無い。残された手紙には、暫く部屋を空けるつもりだと書いてある。それは、戻って来ると言う意味だ。そしてそれを、信じようとしている自分がいる。
ナミの荷物は、しっかりある。
リビングの隅に、寝室のクローゼットに、キッチンの棚に、バスルームの鏡台前に……ゾロの部屋のあちこちに、私は此処にいると主張している。
(だから安心してりゃ良い…安心?)
その言葉が頭を過ぎった時、ゾロは改めて実感した。
別れの言葉も交せず消えた女とは、5年も前からずっと続いていたのだと。ナミがどうあれ、少なくとも自分はあの給水塔の下に居続けていたのだ。あそこに、心を留め続け、待ち続けているのだ。
唯一、気にかかる言葉もある。『船出』それは、長い航海をも意味している様で。まるでゾロが、立ち寄られただけに過ぎない港を思わせた。
何処か違う港を求めて、旅立ってしまったナミの姿を想像し、胸のざわめきが聴こえてくる。
しかしゾロが港なら、せっかちなナミの事だから、あっという間に帰港を果たすに違いない。そう確信めいた自信もある。
だから今また、ナミの残した生活の一部に囲まれ、自分の部屋で彼女の帰りを待っている。
「男を待たすたぁ、どういう了見だ…あの女、良い根性してやがる。」
呟いた毒舌は、甘い響きを持って、西日射すリビングを暖かく包んでいた。
「……ま、勝手に待ってんだがよ。」
少し泣きそうな顔をしていたかもしれない。
ゾロにしては珍しく、切ない気持ちになっていたから。
ただ、その言葉にはある種の決意めいた色を含んでいた。
何故なら、彼女がゾロの部屋という港に帰って来たとしても、彼女の心の中の楔は簡単に抜けるものでは無いと熟知していたからだ。
2ヶ月前の事故に遭遇した様な、なし崩しで求め合ったあの日から、表面上変わる事無い日々を積み重ね、刻々と募る気持ちに逆らってきた時間。
時にぶつかり合い、時に労り合い、時に不座戯合い、擦れ違う生活のホンの一時に、潤っていく互いを感じていたと信じている。
深く語らずとも解り合っているから、物理的に離れる時間など問題にならないはずだ。
ナミは変わらない。そう簡単に折れたり、曲がったりする女ではないだろう。
事実、他人と一線を画している様に振る舞っていても、根底にある時を楽しみ希望を失わない瞳は5年前のままだった。
そんな彼女だからこそ、一人生きる決意を持ち、真っ直ぐ前だけ見つめ、寄りかかるのを罪悪と決めつけているナミを、懐柔するのは容易い事では無い。
だからこそ覚悟も必要だ。
ナミを愛し続ける覚悟。
そんな大袈裟な想いとは裏腹に、擽ったい気持ちもそこにはあった。
(どうせ嫌いになんかなれねぇんだ……)
諦めるしかない。
初めて逢った給水塔の下から、ナミに寄生されてしまっているのだから。
彼女の存在は、何時までもゾロの中から失われ無いだろう。
カーテンを開けた。
道路を挟んだ向かい、コンビニのある低層マンションの脇から、100m程先に大型団地がそびえている。西日を背景に、団地の屋上に給水塔が見える。
それは大きな団地の上でちょこんと座っているが、暗い影に染まっていて、不吉な色に見えた。
(俺達の給水塔も西日に照らされてるんだろう…)
始まりの場所に心を駆せている内に、懐かしい思い出が蘇ってきた。
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(2006.12.02)