「ちょっといいかしら、そこのお二人?」



かけられた声に一瞬固まってしまったのは、不可抗力だろう。








ライブラリー・ポートレート  −3−
            

糸 様




ナミに図書館のカードを貸すようになってから、既に1ヶ月以上が過ぎていた。

はっきり言って、ナミの読書量は俺にとっては驚くべきものだった。借りていくのはいつも、俺やルフィならば3秒で眠くなるような細かい字で書かれた専門書ばかり。中には英語で書かれた論文らしきものもあった。

それをきっちり2週間の期限までに読み込んでくる。そしてまた別の本を、同じように借りていく。受験は平気なのかとこちらが心配になってしまうくらいだったが、ナミは「大丈夫よ」と笑うだけだった。



つまり2週間に一度、俺は確実にナミに会う機会を得たわけで。

行き帰りの道で話すうちに、ナミのことを俺は少しずつ知っていった。高校は実家から自転車で通っていること、大学はこの近くの国立を狙っていること(ちなみにかなりの難関だ)、実家が喫茶店を営んでいること、2つ上の姉がその店を手伝っていること・・・経済学部に進むのも、いつか自分もその喫茶店の経営に関わるためらしい。

それにしては書庫から借りていく本はやはり理系関連のものばかりで、俺としては不可解な思いは消えなかったが、ナミが趣味だと言い切るので、それ以上の追求はしなかった。しても多分答えないだろう。

要するに、細かい事情は俺にとってはどうでも良かったのだ。



だが、しかし。

いつものように貸し出し手続きを済ませ、図書館を出ようとしていた俺とナミに、冒頭の声がかかった。

ぎくり、としか形容できないような思いがよぎり、俺は思わず目線を下げる。すると、ナミも同じような顔をして俺を見上げていた。

それを見て俺は逆に冷静になった。とりあえず、呼び止められたのは俺たちで間違いないのだから、振り返るしかないだろう。



できるだけさりげなく振り向くと、立っていたのは黒い髪を肩まで垂らした長身の女だった。口元には意味ありげな微笑が浮かんでいる。



見たことがある、と俺は記憶を探り、すぐに思い当たった。俺が書庫へ本を探しに入りたいと申し出る時、いつもカウンターの中で手続きをしている女だ。

となれば、司書か、その助手といったところか。どっちにしろ、あまりいい予感はしない。早々に退散したいところだ。



「俺たちっすか」俺はなるべく平静な声を出したつもりだった。

「ええ」女は笑ったまま言った。「あなたと、そのお嬢さん。最近、よく一緒に図書館に来ているわね。少しお話させてほしいのだけど」



ここまで言われればもはや目的は明らかだ。俺は何と答えようか迷った。生憎急いでるので、と場を切り抜けることも考えた。

だが、ナミが先に答えていた。



「この本のことですか」

「おい」あわてたのは俺の方だ。ナミは、鞄からさっき借りた書庫の本を取り出していた。

「ナミ、お前」

「いいの、どうせバレてるわ。この人、いつもカウンターにいるし。それにここで逃げても、ゾロ1人が後で呼び出されて図書館利用禁止にされるのがオチよ。ここの学生なんだから、調べればすぐに分かっちゃうもの」



いくら私でもそこまでなすり付ける気はないわ、とあっけらかんと言い切ったナミに、俺は二の句が告げない。女は声を上げて笑い出した。嫌味のかけらは少しも感じられなかった。



「潔いわね、そして賢いわ」

「お褒めに預かって光栄ですけど・・・」ナミが伺うように言った。「何がおかしいんです?違うんですか」

「いいえ、違わないわ。だけど、勘違いをしているようね。私は、別にあなたたちを咎めようと呼び止めたわけじゃないのよ」



「「・・・はあ?」」



俺とナミは同時に間の抜けた声を上げた。それを見て、女はますます笑う。



「私は『お話させてほしい』と言っただけよ?確かに規則破りではあるようだけど、むしろ誉めてあげたいくらいのものね」



・・・訳が分からない。図書館の職員が、規則を破った者をわざわざ発見したというのに、注意もせずに見逃すのだろうか。



だが、考えてみればカードの又貸しというのは結構頻繁に行われていることだ。
図書館側にとってみれば不愉快なことだろうが、見破るのは困難だし手間もかかる。

そこを敢えて俺たちに声をかけてきたということは、どういうことなのだろう。



「一つ聞きたいんすけど」どうしても気になって、俺は尋ねてみた。「どうして分かったんすか?俺が名前を貸してるって」



女はようやく笑うのをやめ、俺の目をじっと見つめた。そして言った。



「あなたは、書庫の本を借りる学生が1週間に何人いるかご存知かしら?」

「・・・いや」

「院生ならともかく、ここの学部生はそこまで古い文献はあまり必要としていないのよ。開架が充実しているから。たとえ4年生でも、レポートも卒論もそれだけでほとんど事足りる」

「・・・・・・。」

「学籍番号を見れば、あなたが1年生で、体育学部だということはすぐに分かるわ。照合すれば、今までほとんど本を借りた記録がなかったことも。そんなあなたが、1ヶ月半で述べ10冊近くも書庫の本を借りている。しかも学部とはほとんど縁のない、海洋科学系の書籍ばかりね。これは何かあると思って然るべきじゃないかしら」



台本を読むかのように流暢に喋るその女を、俺はまじまじと見つめてしまった。
この女、一体何者だ?

だが確かに、その口調に責めている響きは一切なかった。ただ事実だけを淡々を述べ、まるで学者が講義をしているような・・・



「あの・・・ところで、あなたは?」



警戒したような声でナミが尋ねると、女は再び微笑を浮かべ、ポケットからプラスチックのケースに入った名札を取り出した。





『文学部史学科 考古学研究室 助手   ニコ・ロビン』





「ええっ?!研究室の助手?!」



先に驚いて声をあげたのはナミの方だった。



「そうよ。図書館の職員だと名乗った覚えはないけど?」

「で、でもいつもカウンターに」

「ええ、いるわね。でもこれは趣味のようなものよ。私は図書館が好きだし、ここの館長にはお世話になったから、こうして手伝わせてもらっているだけ。だから言ったでしょう、咎めるために声をかけたのではない、って」



私にはそんな権限はないのよ、と笑う女に、やられた、と俺は思わず脱力してしまった。不覚にも、完全に騙されていた。

しかし、それだとますます分からないことがある。



「・・・だったら、どうして俺たちに声なんか」

「そ、そうよ!あなたには関係ないなら、見過ごしてくれれば良かったのに」



冷や汗かいたじゃない!と息巻くナミを見て、女――ニコ・ロビンはふっと目を細めた。




「あえて言うなら私の好奇心よ」

「それだけかよ!!」俺は敬語も忘れて思わず突っ込んでしまった。どうにも、調子が狂う。だが当の相手は涼しい顔で言葉を続けた。

「あとは・・・そうね、懐かしい、と思ったのかもしれないわね」





なつかしい?





意味が全く分からなかった。ナミもそれは同様らしく、未だ警戒の表情を崩していない。


そんな俺たちを見やり、ニコ・ロビンは表情を変えることなくこう言った。



「昔、あなたと同じことをしていた子がいたのよ、お嬢さん」



突然の話題の転換に俺はますます顔をしかめたが、ナミの反応は少し違っていた。どこか戸惑うような表情になり、歯切れ悪く尋ね返す。



「・・・私と、同じ?」

「そう。ある時、いつもここで本を読みながら、あの張り紙を眺めてばかりいた高校生がいたのよ。彼女には書庫の本をどうしても読みたい『理由』があった」



ニコ・ロビンは図書館の壁に目をやる。そこには古びた張り紙があった。



――書庫の本の貸し出しは、本学学生と学校関係者に限るものとする。



「その『理由』のために、彼女はどうしても書庫にある本を読まなければいけなかったの。勿論買えば良かったのだけど、彼女には高い専門書を買うお金も、時間もなかった。何とか借りることができないかと、いつも図書館に通っていたけれど、どうすることもできない。結局、いつも張り紙を見つめて終わってしまう」

「・・・・・・。」

「そんなある日、いつものように張り紙を見ていた彼女に、声をかけた人がいた」



そう言い、ニコ・ロビンは俺の方を見た。





――お前いっつもここにいるけどよ、何か借りてぇ本でもあるのか?





「・・・学内でも名の知れた、建築科の不良留年生だった。彼女が戸惑っていると、彼はあっさり『俺が替わりに借りてきてやるから、何が読みたいか言え』、と言ったのよ」

「・・・それで?」さすがに、俺にも何となく話が見えてきた。

「最初は、彼女も断っていたわ。けれど、彼がこう言ったの」





――俺がそうしたいって言ってんだから、ごちゃごちゃ言ってねぇで言え。

――大体、本を読みたいって思うことの、何がいけねぇんだ?それじゃ、何のために図書館なんてものが存在してんだよ。

  





「・・・そうして、彼は彼女が言った通りの本を借りてきてくれた。何度も、何度もね。建築学部には関係ないものばかりを、それでも『興味があるから』の一点張りで通してくれた。館長も、元々理解のある人だったから黙認してくれていたようね」

「・・・で?」

「その建築科の彼は、その後無事に卒業した。そして、彼女も望みが叶った」



望み?と俺が首を傾げると、ニコ・ロビンは柔らかく微笑んだまま言った。



「それは私からは言えないわ。彼女から聞いて頂戴」



は?ナミに?・・・何故?

思わずまじまじと見つめると、ナミは唇をぎゅっと噛みしめて反論した。



「何のことですか?私は・・・自分からゾロに頼んだんです。彼女とは違います」

「それは大した問題じゃないわ。肝心なのは、あなたと彼女の『理由』よ」

「違う!」ナミの声は強張っていた。「私はただ、趣味で読みたかっただけなんです!理由なんて、そんな大層なものは・・・」

「受験生にとって最も大切なこの時期に?書庫の本は逃げたりしない。趣味ならば尚更、大学に合格してから、ゆっくり読めばいいのではなくて?それでも、彼はいくらでも名前を貸してくれると思うけど」



話を振られ、俺は何と言えばいいのか分からなかった。言われてみればその通りだ。

ニコ・ロビンの突いた点はピンポイントで、ナミは明らかに動揺していた。本を両手で抱え込み、今にも泣き出しそうに俯いている。



「・・・周りを巻き込む力」



ニコ・ロビンは小声で呟いた。



「『彼女』の望みが叶った時、それも能力のうちだと、ここの館長は言っていたわ」

「・・・どういうことですか」

「いずれ分かるでしょう。あなたは賢いから」

「・・・・・・。」

「無理にとは言わない。でも、よく考えて。私が何故この話をしたのか。このままでは、貴方だけじゃなくて、彼も報われないわ」



話はそれだけよ、引き止めてごめんなさい、とニコ・ロビンは踵を返す。

ナミはひどく複雑な顔で俺を見上げていたが、正直、俺はもう何が何だかさっぱりだった。

だが、一つだけ引っかかることがあった。



「・・・あの」立ち去ろうとする女に、俺は声を掛ける。「もう一つだけ、聞いてもいいっすか」

「何かしら?」

「その、望みが叶った『彼女』ってのは・・・」



もしかして、今目の前にいる――



だが、それに対する答えは返ってくることはなかった。表情だけで『さあ、どうかしら?』と笑い、謎めいた助手は俺たちの前から去っていった。




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(2009.11.17)


 

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