耐え難くも甘い季節 〜もうひとつのMy way
            

MOMO 様






第三章



白く長い手で頚椎から腰骨にかけて、やんわりと押されて思わずため息がもれた。

「だいぶ、いいみたい」
整体師はすこしだけ微笑んで、治療を続けた。

「でもまだ腰がすわってないわね」
「・・それって精神的なことじゃない?」
「言ったでしょ、全ては?がっているの。
 肩肘張って生きている人は本当に脇から肩甲骨にかけてが鉄のように硬いの」

「誰のこと?」
ナミは白く柔らかいタオルに顔をうずめながら唸った。当分説教はごめんだ。
「最近の貴方はそうでもないみたい。何かあった?」
「別に」
「ちょっと身体が楽になっているみたい、手術を決めたからかしら」
「・・・どうだろう」

ここは彼女の自宅でもあり、治療院でもある。古い小さな民家を借りていて
小さな庭まである。ここに通うようになって初めて縁側というものを知った。

「半分自棄なのよ。どうにでもなれって」
「そう・・・」
仰向けにさせられて、ヘソの周辺に軽く手を当てられる。不思議なことにポカポカと身体が温かくなっていく。彼女の整体はいつも謎に満ちている。

「そういう時もあるわよ」
「投げやりね」
「何か言って欲しい?」
「ううん、別に」

そうなのだ。事故以来、誰かに何かを言って欲しいのか言われたくないのか
それさえも分からなくなってしまった。誰も怪我のことに触れなくなり、
バスケの話も避けるようになっていて、自分がそうさせているのかと思うとそれも苦しかった。

治療後には、温かいビワ茶と小さな握り飯が必ずでてくる。
ナミはそれをほおばりながら縁側に座るのがとても好きだ。

「恋人ができたの?」
背後からいきなり言われて、おもわず湯のみを落としそうになる。
「なっ!何いってんのよ!いきなり!」
「・・・ふふ、身体は正直なのよ。ある部分が緩んでいたから」
「ある部分?」ナミの疑わしい視線をまったく気にせずに彼女は微笑む。

「そう、とろーんと緩んでる」






***






「お前さ、好きな奴とか・・いんの?」



日誌を書き込み終えた頃ににポツリと同級生の男が囁く。
外はもう夕日も落ちかけていて、夜空の青と夕日の赤のグラデーションがはじまっていた。
黒板拭きを終えたナミは、「はあ?」と大きな声をだしてしまって慌てて口を塞いだ。

もう生徒はとっくに下校して、教室には日直の2人だけが残っていた。不幸なことにゲンに細々と用事を頼まれてこんな時間になってしまったのだ。
二学期の終業式で早く帰れるとふんでいただけに、相当な貧乏くじだ。

「何言ってんの?」
「だからさ!・・付き合っている奴とかいないのかって聞いてんだよ」

男は苛立たしく日誌を閉じた。1年から同じクラスで、バスケ部でも一緒だった彼が唐突にそんな事をいうのでナミは「いないけど、なんで?」と思わず聞き返してしまった。
先日買ったばかりのGAPの黒タートルに白い粉ついてしまったので懸命にはたきながらも、この状況は自分がもの凄く苦手とするものだと確信して咳払いをした。

「ルフィは違うんだろ?」
「やめてよ、あいつは弟みたいなもんで・・」何を言い訳しているのだろうか。
「じゃあ、クリスマスどっか行こうぜ」
「はっ!?」

ナミの問いには答えずに、それだけ言うとガタっと席をたって廊下へとでていく。
あまりにも勝手な言動に思わず、しばらく大口を開けて立ち尽くしてしまった。
「ちょっと!待ちなさいよ!勝手に決めないでよっ!・・・!」

追いかけようとして、廊下へ飛び出すと心臓が止まりそうなほど近い距離にゾロが立っていた。
手には日誌をもって、その角っこで頭をかいている。

ー最悪だ

なぜかそう思った。いつからここにいたのか判らないが、聞かれていたら最悪だと思ったのだ。

「スゲェ勢いで帰ったぞ、これを俺に投げつけてな」
ゾロはなんてことのない顔をして、そのまま教室へ入り、窓の鍵を点検すると電気を消した。

「閉めるぞ、早く帰れ」
出入り口で棒立ちのナミをちらりと見る。

「い、言われなくてもっ」
バスケットボールが詰まったどでかいバックを背負い込むと、ナミは颯爽とゾロの横を通り抜け廊下を走る。あんな静かな場所にいて、この心臓の音を聞かれてしまうのが怖かった。

けれどすぐに首根っこをつかまれて、全力疾走を止められた。

「あんま無茶な走りするな」
「ゲンコーチ・・・」






ー最悪だ

いつのまにか学校近くのなじみのラーメン屋のカウンターに座らされていた。
今日はとことん他人に振り回されている。放課後にゲンに捕まったが最後、いつもこの席に座らされる。ルフィやビビと一緒ならばなんとなく楽しい時間なのだが今回は事情が違う。

ゲンの隣にはゾロが麒麟印の生ジョッキを飲み干して、ブハっとオヤジ臭いため息をついているのだ。

「ナミは塩ラーメンだよな。俺は今日は味噌バター。ゾロ、おまえはどうする?今日くらい奢ってやるぞ」
「じゃあタンメン大盛りと豚キムチ」
「少しは遠慮しなさいよ」
「・・・」
「・・・」

ゲンを間に挟んで、熱気のあるはずのラーメン屋に冷たい空気がたちこめる。

「ま、いいじゃねぇか。おっちゃん!あと餃子2皿な!」
ゲンはビールを飲み干すと、お通しのザーサイをポリポリとつまみながら、早速顔を赤らめている。

「準備はできたか?」
「うん、トランク一つでなんとか済みそう。観光じゃないしね」
「まあな、どうせ2週間は病院に閉じ込められるだろうからな」
「病院のURLがあったから、ネットでみたけど綺麗で設備がよさそう」
「安心したか?姉さんは一緒に行ってくれるのか?」
「ううん、仕事もあるし。もう子供じゃないから一人で行けるわ」
「ばーか、十分子供だっつーの?なあ?ゾロ」

急にふられて、ゾロは豚キムチを口からこぼしている。

「まあ・・いいんじゃねぇの?」
「なにそれ」ナミは餃子を一口で口に投げ込む。

「しかし、丁度よかったな冬休みに重なって」
「うん・・・」
ゲンは覇気のないナミの背中を叩くと、ラーメンをもの凄い勢いでかきこむと突然席をたった。
ゾロもナミも店主のオヤジも、その勢いに呆然としてゲンを見上げる。

「というわけで、俺は帰る!」
「はっ?」
「コーチ?」
「いやぁ、用事を思い出した。おっちゃん、これでよろしくな!」
ポケットから札をだし、厨房のカウンターにのせると2人の叫び声もきかずに出て行ってしまった。
残されたのは、まだ2口しかすすっていないナミの塩ラーメンと嘘のように山盛りの餃子だ。

ー最悪だ

ナミは今日3度目の悪態を心のなかでつく。
ゾロは何も言わずに、黙々と自分の皿を消化していく。その側で負けまいとナミも麺と餃子を交互にがっつく。

「食いすぎ」ゾロがようやく口にしたのはそんな言葉だ。
「!なによ!悪い?成長期はお腹がすくのよ」
「立派に成長してんじゃねーか」
「!や!やらしい言い方しないでよ!おっちゃん!替え玉!」
丼をカウンターにドカっとおくと、1分もしないで替え玉が汁に落下した。
「練習のあとなんかは3玉いくわよ」
「そりゃ、なによりだな」
「・・・・」

しばらく黙って、ナミの食欲旺盛な食べっぷりを眺めてるゾロの顔はだんだんと緩んできた。
その視線が気になって、何故か大口が開けられなくなって食べにくい。

「な、なによ。ジロジロみないでよ。あげないわよ」
「いや、気持ちいいくらい食うなあと思って」
「なにそれ」
「麺は好きか?」
「・・・好きよ」
「沖縄ソバ食ったことあるか?」
「?ないけど・・ラーメンとなんか違うわけ?」
「全然違う。でも最高に美味い」
「へぇ・・」
「スープも麺もラーメンと違う美味さなんだよなあ」
「それじゃ全然わかんないわよ」
「んじゃ、食ってみろ。沖縄料理の店に行けば必ずあるからな」
「私がわざわざお金払ってあんたの命令に従うと思ってんの?」

「・・・」
「・・・」
再び冷気がカウンターの周囲をとりまく。店主が咳払いをした。

「・・・今度食わせてやるよ」
「それいつ?」
「は?」
「何年の何月何日なの?それを食べさせてくれるのは」
「・・・・」

ナミは餃子にラー油をダボダボかけながら、まだ麺の入った口を動かしている。

「私ね、嫌いなの。いつか、とかまた今度、とかさ。中途半端な約束ならしないでよ」

「・・・・」
「何よ、文句あんの?」

ゾロはあんぐりと口を開けていたが、やがてククっと笑いを洩らすともう止まらなくなりしまいには声をあげて笑いはじめた。店の客がチラっと横目でみたのでナミは恥ずかしくなりゲンが去って一つ空いていた席に移動すると、ゾロの背中を思い切り叩いた。
「あんた馬鹿にしてんの!?」
「いや・・そうじゃねぇ・・たださ」
「?」
「俺もまったく同じことを昔いった事がある。まさか同じセリフをはく奴がいるなんてな・・ しかも女で・・・」
涙をこらえて、ビールを飲み干したゾロは「あー笑った」と脱力している。

「・・・変な奴」ナミは怒る気も失せて、残っていたラーメンの汁を飲み干す。
でも自分もなんだか可笑しくなってきて、しまいには笑いだしてしまった。
どう考えても、この会話はくだらないからだ。

「俺のが伝染ったか」またゾロが笑い出した。
「せ、責任とってよ!」ナミの目にも笑い涙が溢れている。
ナミは酒も飲んでいないのに、もう何もかもおかしくなってしまい、笑いすぎて手が震えているゾロが餃子を箸から落としただけで、もう腹がよじれるくらい笑った。


「「あーーーーーーーーーっ!」」 と入り口で突然店の常連である2人の生徒が叫んだ。


「ゾロ!ナミとなにやってんだよ!」
「ナミ・・どうしたの?」
席に突進してきたのはルフィとビビだった。

「あんたらこそ、今日は映画観に行くって・・」
涙を拭きながら、ナミは水をのんで気持ちを落ち着かせる。
まずいところを見られた言い訳よりも、なんとかこの笑いを止めるほうが先決だった。


「それがすごい行列で、初日だったから覚悟していったんだけどルフィがお腹すいたってうるさくて・・」
「だってよ!考えても見ろ!腹へってんのに、さらに2時間ポップコーンで我慢しろってのかよ!」

ー不憫なビビ

ナミもゾロもそんな目で彼女をみつめた。けれどビビにとってはルフィと一緒だったら映画もラーメンも大した差はないらしい。ホクホクとした顔でゾロの隣の席に座ると、アレコレ注文をし始めた。
これは邪魔してはいけないと察し、ゾロもナミに促されて席を立つ。


「私達、お邪魔でした?」
ビビの素直かつ天然的発言にゾロはノーコメントだ。
「さっきまでコーチがいたのよ」ナミが白いダッフルコートを着込みながら言い訳する。

「手術の日、決まったのか?ナミ」すでにザーサイをたいらげたルフィも顔を覗き込む。

「うん、24日」
「アメリカでクリスマスね」

「きっと麻酔で爆睡している内に終わっちゃうわ」

ゾロはその会話には参加せずに「ごっそさん」とのれんをくぐった。




***





腹ごなしよ、とコートに誘ったのはナミだった。
店をでて、帰り道がどう考えても同じ方向だったのでそのままなんとなく歩いていた時だ。
薄暗いコートだが、たった一つの外灯がわずかにポールを照らしている。
ナミはバッグからボールをとりだして、コートを脱ぐとゾロをみてニンマリ笑う。

「やったことある?」
「遊び程度に」
「じゃあ遊び程度に」

ナミは殆ど狙いを定める様子もなく、いきなりショットを打ちバスケットを揺らした。

「嘘だろ」
「小学校から使っているコートだもの、目をつむっても入るわよ」

ボールはバウンドしてまるでペットのようにナミの足もとまで戻ってきた。それさえも魔法のように見える。

「ボール、とってみる?」
「遊びか?」
遊びよ、とナミが笑ってみせたので、ゾロは黒のダウンを脱ぎ捨てると果敢にナミに襲いかかった。

それが無謀だったということに気がついたのは、20分後だ。
とても事故で怪我をした人間の動きとは思えなかったし、これでも手加減しているのなら本番のコートの上でのナミを想像しただけでもゾロは鳥肌がたつ思いだ。

「っは!・・・ちょっと待て!」両膝に手をあてて、背中を大きくゆらして咽る。
「さすがに動きはいいわね、でも剣道とは瞬発力の種類が違うものね」
「?なんで知ってる」
「聞いてもいないのに、ルフィが色々教えてくれたわ。波照間のあんたの学校で海賊学を教える約束をしたって言ってた」

「約束してねぇし、まだまだ先の話だ・・」喉のあたりに豚キムチが上がってくる。
「浜で剣道を教えるの?」
「それだけじゃねぇけど」

休憩だと、ベンチにすわって大股を開く彼の姿は外灯の光からはずれてしまって表情がみえない。
ナミはそのまま、ショットを何本もうったりドリブルをしてコートを飛び回った。

「2.3年は海外をまわるつもりだしな」暗闇から声がした。低くてかすれた声だけど聞きなれると心地いい声だ。
「?」
「世界中の小さな島の学校を見てみたいし、剣道を教えて欲しいって依頼のある学校もまわる予定だ」
「へえ・・・」

しばらくは静かなコートだった。ナミがドリブルをするボールの音だけが止む事なく続いて響く。

「悪かったな」
「・・・・」長く続けたドリブルを止める。

「その、なんだ。たしかにちっと余計なことだった・・・かもしれん」
「なんの話よ」
「ああ、まあいい・・」
これ以上は言うまいという態度でゾロがベンチを立った瞬間、ナミは自分の胸がギュウっと苦しく詰まるのを感じた。

「ごめん、嘘。知ってる」
「・・・・」
「それに、図星だったわよ。あれ」
「もういいって・・・」

ゾロはそのまま聞き流すように出口へと歩き出した。それが更にナミの心臓をおかしくさせている。

「怖いのよ」
「・・・」
「やっぱり・・・怖いのよ。いくら強がったって、誰もこんな気持ちわかってくれないんじゃないかって、失敗したら自分は何をやっていけばいいんだろうって思い浮かばなくって・・・」

「やってから考えろよ」

「・・・」

ナミは触り慣れたボールを自分の子供のように抱きしめると少しうつむいた。

「泣いてんのか」
「泣いてないわよ」

それは真っ赤な嘘だ。本当は大声を上げて泣き出したいくらい、もう涙はこぼれ落ちる寸前だった。
でもここで泣いては、自分に負けたことになりそうで必死で息をとめて歯をくいしばる。


「けど悔しいから、こんなとこで諦めるのも、笑われるのも悔しい」
「誰も笑ってないだろ、だってお前何もまだやってねぇじゃねぇかよ?」
「・・・」
「お前自身が悔しいんだろ?今のままじゃ」
「悔しいわよ」
「じゃ、思ったことを思うようにやれよ。そうすればきっと、どんな結果になってもお前は後悔しなんじゃねぇか?」
「・・・」



「やらない後悔ほど最低なものはない」




「・・・何それ」

いつの間にか目の前に立っているゾロは「ん?」とうっすらのびた顎鬚をかきながら天を見上げる。

「有名な格言」
「知らないわよ」
「当たり前だ、今思いついたんだし」

ナミはブッと噴出すと、溢れそうな涙をぐっと手の甲でぬぐう。

「おまえみたいなのは、見てて危なっかしい」
「偉そうに」
ようやく声がでた、と思ったらいきなり大きな手が自分の肩甲骨をポンポンと叩いた。


「ほれ、ここガッチガチだろ?80のオバちゃんじゃないんだ、そんなに焦るな」

ゾロの「ポンポン」はしばらく続いた。それはナミが拒まないまま、黙っていたからだ。

大きくて、やさしい手だった。


「聞かせてよ」
不思議と浅かった呼吸も深くゆったりとできるようになって、ナミは少し優しい声でいった。

「ん?」
「あんたのこと」
「俺?」
「どんなことを考えて生きてるのか、どんな悩みがあるのか
 あんたの目に見えている先ってどんなものなのか」
「・・・・」
「聞かせなさいよ」

「なんで」
「自分でもわからない。でも知りたいから」

なんで?こんな気持ちに理由などいるのか。聞いているゾロ本人でさえ、言ってしまってから思う。
そういう言い表せない感情をもっているのはお互い様だ。

「んじゃ、アメリカの土産話と交換ってことで」
「うん」


ナミはゾロが予想していた以上に可愛い声で頷くと肩を抱かれながら、
そのままゾロの汗で湿ったトレーナーに額をあてる。

「なぁ」彼のかすれた声
「なに?」彼女の緩んだ声


その瞬間







「・・・・・か」





小さく囁いた言葉がナミの唇に流れ込んできた。
拒まれなかったのを確認すると何度も重ねあわせて、強く抱きしめる。
深くなっていくキスにナミは気を失いかけて、ゾロの背中を思わず強く掴んだ。

「!」

それが合図だったかのように、ゾロの身体が大きく揺れた。



それも、あまりにも突然のことだった。
我に返って素早く離れたゾロは「まずった」とボソボソと言いながら一人で歩き出してしまっている。

「な、なにが!」必死でだした声は完全に裏返っていた。
「悪い、気にすんな」
「!?」

気にするわよーー!何よ今のーーー!



その心の声は結局言葉にならず、あっという間に暗闇に消えてしまったゾロに届いていない。
その後はもう、全てが混乱してどうやって自分が家路についたのかさえ覚えていない。


不意打ちも悔しく
抱きしめられることをどこかで期待していた自分にも悔しく

あの言葉もどういう意味だったのかさえ わからなくなっていた。







***








2日後にゲンへ挨拶をしに訪れた学校は、終業式を終えてから追試をうけている気の毒な生徒達以外は誰もおらず静かな午後の時間で穏やかだ。
ゾロの唇と言葉がどうしても脳裏から消えることはなかったけど、渡米の準備や英語の医療用語を必死で覚えることに忙しく、あっという間に時が過ぎていた。

もし彼がいたら、どんな顔をすればいいのかと散々迷ったが
その心配はなかったと職員室を覗いてすぐにわかったのでホッと胸をなでおろす。
ゲンはまた山のような書類やら本やらの中から探し物をしている途中で、机の下に頭を突っ込んでいる。

「コーチ、行ってくるよ」
ナミの声に「おお」と頭をあげた。お決まりのように引き出し部分に頭をぶつけているのを笑いながら横目でチラリと隣の席を見た。ズタ袋もないし、やけに整理された机の上をみて更に安心する。

「3学期が途中参加になっちまうが、ま、3年の3学期なんてあってないようなもんだからな。
 いっそそのまま遊んでくればいいんじゃねぇか?」
「教師のセリフじゃないわね、それ。それに協会が待ってくれるわけないでしょ。
 帰国したら、状態を知らせに本部に直行しなくちゃいけないんだから」
「まあ、いうな」
「・・・とにかく、やってみる」
「そうしろ、その顔だったら間違いなく成功だな」
「そういうセリフはアメリカ人の医者に言ってよ」
「馬鹿者、成功するかしないかはお前次第なんだよ」
「・・・はい」
「気合だ、気合い」

ナミはたまらなくなって、椅子に座っていたゲンを頭から抱きしめた。
突然、豊かな胸が頭上から襲ってきたのでゲンは
目を白黒させていたが、やがて父のように娘を抱き返す。

「ナミ、あいつを嫌わないでやってくれよ」

「・・・」
「とことん不器用なんだ、そのくせ言いたいことを我慢しないから、世渡りが下手クソでな」
「うん・・・」ナミは目をつむる。
「でもな、あいつは気にかけたい奴にしか余計なことは言わないんだ」
「・・・」
「それだけは分かってくれ」

ヤニくさいトレーナーから名残惜しそうに離れたナミは、そのまま静かに頷くとトランクを持ち上げた。






静まり返った廊下を歩き、来年の春には去らなくてはならない大好きな体育館を窓から眺めた。
「あ・・」黒い物体が体育館の脇にある大銀杏の側をウロウロしていた。


「日本橋、日本橋ってば!」
トランクを引きずりながら、黒猫のそばまで駆け寄る。
しばらく逢えなくなるのだから挨拶くらいしておこうと思ったのに、ちっともナミの声に反応しない。

「あんた白状な奴ね、芸者みたいな名前してさ。だから男にしか愛想がないよね・・」

たまにネコ缶などを与えていたのに、結局このメスネコはルフィとゾロにしかなつかなかった。

「ニャ」軽く一声鳴くと、チラっとナミを横目で見上げてから体育館の中へ入っていく。

「?」 もう鍵が閉まっていると思った館は開いていて、中から日本橋がしきりに鳴く声が聞こえる。
時計に目をやると、もうすぐ成田にむかわないといけない時間だった。
けれどあまりにも泣き止まない日本橋が気になって、トランクを置きっぱなしでナミは館に入っていく。

「日本橋ー?」

泣き声は倉庫からだった。さらに何かをあさる物音もする。




「だからなんだってんだよ、お前は。餌なんかもってないぞ」




聴こえてきた声に足が止まる。
迷っていた。声をかけるべきか、けれど何をいっていいのか。

確かに彼の存在は渡米への決意の一つの階段だった。
ゲンの「嫌わないでくれ」という言葉も頭をめぐる。

足を動かして、静かにゆっくりと倉庫へと向かう。
男はガリガリと日本橋にジーンズをひっかかれながら、背中をむけて倉庫のダンボールに上半身をつっこんでいた。
日本橋はお得意のジャンプで彼のダークグリーンのパーカーにも両足で飛びついて生地をしっかり伸ばしている。
「馬鹿!伸びるだろ!やめろ!」
以前、ルフィに言った言葉となんらかわりない口調でナミは笑いそうになる。
もうあの頃が本当に遠い昔のようにも感じる。

ゾロはこちらの存在に気がついていないように見えた。日本橋の鳴き声もいっそう盛り上がっていた。
止められないくらい心臓の音が身体を支配していくのがナミ自身痛いほどわかる。





出逢ったのは夏だった

誰にも言えないけど、あの綺麗なクロールと陽の光で発光する緑色の髪があの夏一番の思い出

毎日会っていたけれど、話した回数なんてたかが知れている

それでも目線は

いつもどこかで彼を探していて

昼休みや放課後でも

偶然出会うことを心の奥底で望んでいたような気がする

だから あのキスも あの言葉も 

彼の本心だったのかが知りたい






事故のあった日からずっと、身体中にはりめぐらされた強張りが
どうしてか彼の前では緩み溶けていく。いっそ目の前にあるこの広い背中を
抱きしめて大声で泣いて、すべて吐き出したかった。押し寄せる不安をすべて。


昨晩から緩みっぱなしの涙腺も崩壊寸前。だからこれが精一杯だった。




「じゃあね」











「あ?」


ゾロは大騒ぎしている黒猫の鳴き声と、自分があさるダンボールのガサガサとした音の隙間にわずかに聞こえた高めの声に振り向いた。当然だけど、誰の気配もない。でも誰かがいたような気配。

まずは空耳だと思い、重症かもしれないとため息をついて再び作業に専念した。
けれども、校庭からガラガラと何かを引きずる音がして、あれが空耳でなかったことを確信する。
少し考えてから、足元から離れない日本橋を仕方なく肩に担ぎ上げて走った。

そして遠くに見えたオレンジ髪の後ろ姿をぼんやりと眺めた。
振り返るかもしれないと、どこかで期待しながら立ち尽くす自分に呆れる。


「またな」



ポツンと呟くと、肩に貼りついていた黒猫が嫉妬に満ちた様子でゾロの肩をがぶりと噛んだ。



それは



長い別れのはじまりだった。




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(2005.10.26)

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