『Baby Rush』  ―ベイビー ラッシュ―   −6−
            

真牙 様




――夢を見た。
こんなに鮮明でインパクトのある夢を見るのは、ナミにとって久し振りだ。

現実にしてはあまりにもかけ離れているし、夢にしては妙に生々しい。

それは、あろうことかあのゾロにキスされる夢だった。

女を腰砕けにさせそうな艶っぽい目で迫り、そっと唇をついばむ。

翡翠色の射抜くような瞳に逃げられなかった。そもそも逃げようとすらしていなかった。

徐々に重なりが深くなり、求めてやまない激しい大人の口づけへと変わり、やがて――。

(ちょっと待ってよ! 発情期の猫じゃあるまいし!)

子ゾロを介していろいろな表情を見てきたせいか、単なる顔見知りだった頃のとげとげしさはなくなっている。

時折見せる切なそうな顔は普段の強面と落差が激しい分、どうしても新しい方の印象に引きずられる。

「それにしたって、キスよキス。しかもあのゾロとあんな・・・」

身支度をしながらまた思い出し、どうしてもあたふたと慌ててしまう。
今まで何人もの男とつき合ったことはあるし、キス程度なら幾度も経験済みのはずなのに・・・。

困るのはそれをさほど嫌がっていない自分の心情だ。

なまじいい男かも、なんて思ってしまったのが運の尽きかもしれない。

「バツイチなのよ? 別れたって言ったって、奥さんいるのよ?子ゾロに会いに来てるとこに鉢合わせて、変に誤解されたら可哀相じゃない。あいつあんまり言い訳しなそうだし、それに私は子守を頼まれただけの赤の他人だし・・・」

言葉に出して言い訳していること自体、それがどういう傾向を示しているのか無論自覚はない。

「頑張れ、私。どっちにしろ、長くてもあと3日の約束なんだから・・・」

その時、丁度玄関のベルが鳴った。出ると毎度のゾロだった。

「お、おはよう、ゾロ。今日もいい天気ね」

「・・・あぁ、悪ィが今日も頼む」

「まー、んま〜、あー」

「おはよう子ゾロ、今朝も元気ね〜。今日はせめて機械類の電源落としは勘弁してね。あさって期限の書類があるんだから」

あまりにも必死で身を乗り出しているので、早速ゾロの手からキツネの着ぐるみ姿の子ゾロを受け取る。

今朝あんな夢を見たせいか、動揺しそうな自分を抑えるのに必死だ。

(考えない。今は考えないの。でないと何を口走るか・・・)

「あ、あのさゾロ、昨夜・・・」

(って思ってる傍から何言ってんの私ッッ!!)

「ゆ、昨夜? 昨夜がどうした!?」

「――んんん、何でもないの! ・・・何あんた、そんな怖い顔して?」

「べ、別に何でもねぇ。・・・あぁ、そういやチビの子守、今日で終いだ」

唐突なゾロの言葉に、ナミは暫く何を言われたのか理解できなかった。

「・・・え?」

「朝イチの連絡でな。とりあえず、園の職員連中が復活したんだと。だから、チビの子守を頼むのは今日が最後だ。今まで助かった、世話んなりっぱなしですまねぇ」

「そ、そうなの。そうよ、今まで大変だったんですからね。ウソップなんて何度もデータ吹っ飛ばされてたんだから。このお代は高くつくわよ? 前にも言ったけど、とりあえず3倍が基本ね。これ以下はないわよ」

ナミは努めて明るく笑った。ゾロも口の端を微かに上げて、

「何言ってやがる。さんざ手土産貢いでやったじゃねぇか。せめて1.5倍で勘弁しとけ。じゃあな」

とだけ言い残し、ゾロはエレベーターホールへと向かって行った。

「ふ・・・ふざけんなー! 5倍にするわよ〜〜〜!!」

ナミは叫んだが、既にゾロの姿はなかった。




「え? 子ゾロ君、明日から来ないんですか?」

「そうかぁ。残念だなー、今日は娘が小さい頃使ってたおもちゃ持ってきたのによー。けど、息子ってのも可愛いかったなー。俺ももうひとりくらい子供欲しいな〜」

「そうですね。こんな可愛い子見てると、結婚して子供を産むのも悪くないって思えますもん」

事務所に着いてビビとウソップに今朝の顛末を話すと、意外にも子ゾロとの別れを心底惜しんでいた。

「何言ってるの。確かに可愛いけど、これ以上子守に時間を割かれてたら、月末提出の書類間に合わないんだからね?」

(そうよ。もうお昼の心配しなくていいし、お昼寝の手間だってないし、お風呂やゾロの夜食の世話だっておしまいなんだから・・・)

だが、ナミにも解っていた。
たった一週間の間ではあったが、子ゾロの存在はこの小さな事務所の中に、確実な何かを残していたのだ。

それが、元に戻る。

そう。元の、ひとりだった平穏な生活に戻るだけだ。半年間やってきたことに戻るだけなのに。

何だろう、胸の奥にもやもやしたものがわだかまっている。
それを何と呼ぶのか、そのときのナミには判らなかった。



「マーンマ〜」

「ナミさん、子ゾロ君おねだりしてますね」

毎度毎度のお昼時、キツネ姿の子ゾロがナミのスカートの裾にぶら下がっている。

ナミは溜息をついて処理していたデータを保存し、ノートパソコンを閉めて立ち上がった。

「あ〜・・・子ゾロのバッグはそこね。取ってくれる?」

子ゾロを抱き上げたナミと、別の書類を整理していたウソップの視線が何気なく合う。

「えーと、これですね。はいどうぞ」

笑顔で差し出されたのは、晩酌のつまみに美味しい鯖の味噌煮缶だった。

「「最後までそれかい!!」」

ゾロの一貫して突き抜けたセンスには、もはや脱帽するしかなかった。





慣れた手順で子ゾロを風呂に入れてやり、夕食の支度をする。
そんな時分に、珍しく玄関のベルが鳴った。誰かと思ってドアを開けるとゾロだった。

「あら珍しい、こんな早く帰れたのって初めてじゃない?」

「あぁ、今日は仕事場が近いとこばっかでな。それより腹減った。何か食わせてくれ」

「もぉ、ちょっと待って。今用意してたとこだからすぐにできる・・・って、汚い手でつまみ食いしないで!」

まっすぐ盛りつけ済みの小皿に手を伸ばしたゾロに、教育的指導の一撃が飛んだ。



「まったく、最後の最後までバッグにとんでもないお土産入れてくれちゃってさ。あ〜んな食生活してて、よく子ゾロが栄養失調にならなかったわねー」

「あぁ? ちゃんと朝夕、飯とミルクはやってたぜ?」

「そういう問題じゃないのよ!この月齢の子供ってのは成長速度が特に凄まじいから、栄養バランスには気を使ってやれって言ってるの。その無骨なマリモ頭では理解できないかしらね〜」

ナミの部屋で3人並んで食事するのは初めてだった。
これが最後だと思うと少し切なくなって、ナミは必要以上に関係ないことまでよく喋った。

ゾロも軽く相槌を打ちながら、黙々とナミの作った食事を平らげていく。

筋肉質で大柄な逞しい身体なので、他人より多少食事量が多いのは仕方ないが、それでも限度というものがある。
ナミの3倍は軽く越える見事な食べっぷりは、見ていていっそ清々しいくらいだった。

「んん、忘れてた。ほれ」

そう言って脇に置いてあった箱をナミへと押しやる。雰囲気からするに洋菓子らしい。

「知り合いのコックに頼んで作ってもらった。口は悪ィが腕は確かだから、まぁうめぇだろ」

「え・・・ってこれ、『ブルー・オール・ブルー』のガトーショコラじゃない!
 
すっごい人気あって、お持ち帰りは完全予約でようやく手に入るって代物なのよー!うっそー、嬉しー!!」

「・・・そこまでご大層な奴とも思えんが」

「えー、まさかあそこのコックさんと知り合いなの!? ね、ね、紹介して。恩に着るから〜〜、ゾロ様ッ!」

ナミが拝むように手を合わせると、ゾロは口の中でもごもごと何か呟き、

「気が向いたらな」

とだけ言った。

「絶対約束よ? もし破ったら今回のお礼は10倍返しにしてもらうからね!!」

あまりの迫力に、ゾロは苦笑するしかなかった。食べ物の恨みは怖いのだ。

「まー、んま〜」

「はいはい子ゾロ、お腹一杯になった? じゃあ口拭いてね」

お風呂で綺麗さっぱり磨いてもらい、なおかつお腹も一杯ならばご機嫌モード全開だ。
子ゾロは甘えるようにナミの膝に上がり、豊満な胸に顔を埋めて満足そうだった。

「・・・ったく、ガキは本能丸出しでセクハラし放題だな」

大吟醸の入ったグラスを傾け、ゾロが苦々しく呟く。
それが妙に大人気なく聞こえたので、ナミは思わず笑ってしまった。

「なぁにゾロ、もしかして妬いてんの? 大の男がこんな1歳児に? そーねぇ、今日でこんなのも最後だもんねー。しょうがない、ナミちゃんは優しいから特別に大ゾロもいい子いい子したげる。はい、いい子いい子〜」

ナミは子ゾロを下ろし、ゾロの隣まで這って行って軽く頭を抱き寄せ、翡翠色の髪を撫でた。
短く刈り込まれた髪は意外に柔らかく、不思議と心地いい手触りだった。

「・・・おい、やめろ」

不機嫌そうなくぐもった声でゾロが呟く。ナミにはそれが照れ隠しに思われた。

「何で? やだ、照れてんの? いつもひとりで頑張ってるんだもの、たまには自分をケアしてあげなきゃね〜」

「・・・・ッ!!」

不意に視界が暗くなり、ゾロの顔が近づいた――そう思った瞬間、ナミは強引にゾロの膝に抱き竦められ、覆い被さるように唇を塞がれていた。

「ゾ・・ッ、何・・・・!!」

振り上げた手をあっさりと捉え、叫ぼうと開いた口内にゾロの舌が侵入する。
押し戻そうと抵抗しても、それは逆効果になるだけだった。
ゾロのそれは、ナミの口内で執拗に絡み合った。

顔を振って振り解こうとしても、髪ごとがっちりとつかまれ、それすらもままならない。
息つく暇もない貪るような荒々しい口づけに、ナミはただただ混乱して目尻に涙が浮かんだ。
ゾロは何度も角度を変え、ナミの口内を激しく蹂躙した。

抱え込むように身体を押さえられ、左手が首筋から豊かに盛り上がった双丘、くびれた腰から臀部の方まで縦横無尽に這い回る。さり気なく背筋をなぞられた時など、思わず身体が仰け反るのを止められなかった。

どのくらいたっただろう。
抵抗する力が弱まり、時折漏れる吐息が絶え絶えになり、哀願に近い空気が漂い始めた頃、ゾロはようやくナミを開放した。

「な、何すんの・・・この、バカ・・・!」

「・・・それはこっちの台詞だ。人バカにすんのも大概にしやがれッ」

「な、何よ。疲れてるみたいだから、せっかく慰めてあげたのに・・・」

「それがバカにしてるってんだ! 大の男捉まえて、ガキと同じ扱いしてんじゃねェ!!」

何の逆鱗に触れたのか、ゾロは凄まじい剣幕で怒っていた。

鋭い眼光に尻込みしそうだったが、ナミとて黙ってはいられない。
その性格が火に油を注いだ。

「ガキよ、同じじゃない! 女ひとり幸せにできなかったから、奥さん出てっちゃったんでしょ!? 赤の他人に慰められたくなかったら、奥さん迎えに行って謝って戻ってもらいなさいよ!その上で慰めてもらうなり何なりすればいいじゃない!人を責めてる暇があったら、まず自分のその性格を直しなさいよ!!」

瞬間、ゾロの瞳がすうっと細められ、ナミはぞくりとして思わず言葉を呑み込んだ。

「・・・待っても帰らねぇ女待つほど、俺はできた人間でもめでてぇ人間でもねぇ。俺はてめぇらだけで手一杯の、余裕のねぇ男でな。前にも言ったろうが。自分が可愛かったら、男に勘違いさせるような真似すんじゃねぇってよ」

「ま、負け惜しみ言ってんじゃないわよ・・・」

ナミの言葉は完全に尻つぼみで、到底ゾロの表情を動かすことなどできなかった。

「・・・礼は後でする」

ゾロは冷たい無表情のまま子ゾロを抱え、玄関へと足を向けた。

「まー、マーンマ〜!」

「諦めろ。あの女はお前のモンじゃねぇ」

肩に抱えられた子ゾロがナミを見つけてべそをかいたが、ゾロはそれを一刀の下に切り捨てた。

やがて乾いた音をたててドアが閉まる。

「な・・によ、ゾロのバカ・・・」

座り込んだまま呟くように零す。その言葉に力はない。

身体のあちこちに、ゾロの感触が残っている。
ただ――抱き竦められた腕が、触れられた身体が、激しい口づけを交わした唇が熱かった。




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(2004.02.26)

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