『Baby Rush』 ―ベイビー ラッシュ― −7−
真牙 様
ナミの周囲に平穏な日常が戻って来た。
(これが当たり前なの。半年かけてやっと慣れたのに、今更誰も壊さないで・・・)
いつものように身支度を整え、車で事務所へと出勤する。
いつもと同じ顔ぶれ、いつもと変わらない仕事風景。これが当然の眺めだったのに。
「はぁ・・・なんか緊張感が足りねぇよなぁ・・・」
「そうですね。子ゾロ君から仕事のテリトリーを死守しようって意識があったから、変な緊張感があったんですね」
「こらこらふたりとも。緊張感が欲しいなら、いつでも仕事増やしてあげていいのよ?」
「「ははは、はいぃ〜〜〜・・・」」
振り回されてばかりいられない。やることは山ほどあるのだ。
「・・・ナミさん、この書式逆じゃないですか?」
パソコンの横を通りかかったビビが、おずおずと画面を指し示す。
確かにそれは、ひとつ前の書類に使用していた形式で、今回のとはさり気なく別物だった・・・。
「な、んでもぉ〜〜〜・・・」
もう少しで終わると思っていただけに、ナミは頭を抱えた。
それもこれも、一週間前にゾロが自分に子守の白羽の矢を立てたからだ。
その間夕食や晩酌を共にして雑談し、その人となりを少なからず知ってしまったからだ。
普段無愛想に見えるのに、時折そこに切なげな表情が見え隠れしていたからだ。
そして、お礼を言われて明るく締めくくるはずだったのに、いきなりゾロがあんな暴挙に出るからだ。
だんだんナミの中に怒りが湧いてくる。
どうして親切で子守を請け負った自分が、こんなにもやきもきせねばならないのか。
それもこれも、すべてゾロのせいだ。
礼は5倍は弾んでもらわねば割りに合わない。
――人はこれを逆切れと言う・・・。
そうして4日が過ぎた。
その間ナミは珍しく更に3つものポカをやらかし、その残務処理のお陰で週末マンションに帰り着いたのは9時を回っていた。
「あ〜・・・どれもこれも、ぜぇ〜んぶゾロのせいなんだからー。あんにゃろう、今に目に物見せてやるから覚えてなさいよね〜・・・」
エントランスを横切り、エレベーターを待つ。
軽い電子音と同時に扉が開き、中へ入ろうとして人とぶつかりそうになる。
大柄な気配に一瞬ゾロかと思って構えたが、出て来たのはマンションの管理人夫人だった。
「あ、こんばんは。大丈夫でした?」
「ああナミさん、お帰り。あたしは大丈夫だけどさ、大丈夫じゃないのは9階のチビちゃんだよ」
恰幅のいい身体を揺すり、彼女は苦笑して肩を竦めた。
「9階って?」
「ほら、あの緑頭の・・・ロロノアさんて言ったっけ? あそこのおチビちゃんがここ3日熱出しててねぇ。とりあえず今解熱剤を差し入れて来たとこなんだよ」
「子ゾロが?」
初耳だ。いや、それ以前にこの4日間姿を見ていなかったので、そんなことになっているなど知りもしなかったが。
「ああ、そういやあたしらが旅行に行ってる間、ナミさんがあの子を預かってたんだって?」
「ええ、まあ・・・って管理人さん、ゾロに私の好みバラしましたよね!?その好みの話以前に、どうしてゾロが私の好みなんて聞かなきゃならなかったんですか? もしや、子守の指名を私にさせたのは・・・」
「おや、ばれてたかい。あたしだよ」
管理人婦人は何ら悪びれる様子もなく、にこにことナミを見上げている。
「だってさ、あの近辺の階で子守と仕事を両立できそうな人って言ったら、どうしてもナミさんしか浮かばなくてねぇ。もちろん他意はないよ。だから気を悪くしないでおくれね。けどロロノアさんもやもめだから、こんな時くらい情報だけでも助けてやれないかと思ってね」
「管理人さん? ゾロって、やもめ・・・なんですか? 私にはバツイチって言いましたけど」
「あー、それはあたしも聞いてるよ。きっと本人、離婚でも死別でも相方がいなくなるのは同じだと勘違いしてるんだね。あの人の奥さん――チビちゃんのお母さんは、あの子が生後1ヶ月くらいの時事故で死んだんだよ。丁度9ヶ月前のことさ。真面目な、いい娘だったのにねぇ・・・」
(死んだ・・・? 子ゾロのお母さんいないって・・・死んじゃっていないってことだったの?)
『いない』と一言で言われても、離婚と死別とでは天と地ほども違う。
そこにいないだけではないのだ。
会いたいとどんなに願っても、もう二度と、顔を見ることも声を聞くこともできないのだ・・・。
ナミは今更ながら思い出した。
あの時、ゾロが自嘲気味に言っていた言葉を。
“・・・待っても帰らねぇ女待つほど、俺はできた人間でもめでてぇ人間でもねぇ”
(ほんと、バカなんだから・・・。バツイチとやもめじゃ全然意味違うじゃない)
きゅっと顔を引き締め、隣のコンビニへと取って返し、戻ってエレベーターのボタンは“9”を押した。
ドアの前で散々逡巡し、5分以上たってようやく玄関のベルを押す。
微かに子ゾロの泣いている気配がし、ドアが開くのと同時にボリューム全開になった。
ドアノブを握るゾロの肩に、子ゾロがしがみついてぐずっている。
ゾロ自体も顔色があまり良くないので、ここ数日の顛末はおおよそ見て取れた。
ナミはなるべく怒っている風の表情をし、買ってきたイオン飲料を差し出した。
「・・・下で管理人さんに聞いたの。子ゾロ、熱出してるって」
「あぁ・・・そうか」
とりあえず一言ずつは言ったものの、この間のことで少々気まずい空気が漂っている。
だが、それを粉砕してくれたのは他ならぬ子ゾロだった。
ぐずりながらも振り返り、目の前に立っているのがナミだと判ると、大声で泣きながら身を乗り出して来たからだった。
落ちる勢いで抱きついてきたので、ナミも苦笑して子ゾロを受け止める。
――と、子ゾロはしゃくり上げながらもピタリと泣き止んだ。
「・・・このクソガキが。実の親より女がいいってか」
「もしかしてここ3日間、夜中もずっと泣いたりぐずったりしてた? ゾロもろくに眠れないほど」
「忌々しいがその通りだ」
苦虫を噛み潰したような渋面のゾロに溜息をつき、ナミは子ゾロを抱えたまま室内へと上がり込んだ。
「おい、誰が上がれって・・・」
「目の下にクマ作ってる奴が偉そうに意見できる立場なわけ? ちょっとそれ貸して」
ナミは子ゾロを抱えたまま、テーブルに置いてあった哺乳瓶に飲み物を入れ替え、座って子ゾロに飲ませた。
「あーあ、こんなに汗かいちゃって。これ飲んだら着替えさせてあげなきゃ。着替え持って来て」
「お、おぅ・・・って指図してんじゃねぇよ」
「いいからとっとと行く!」
ナミの迫力に渋々着替えを取りに行き、ゾロは戻ってふたりの前に胡坐を組んで座った。
ついでに持って来た酒瓶とグラスも置き、ふたつ注いで先に飲み始める。
「お医者には連れてったの?」
「一応な。風邪ではねぇらしいが、よく判んねぇ」
さすが3日もろくに眠れなくては、ゾロの顔色も冴えない。
心配していろいろやってはみたものの効果は薄く、半ば苛ついてもいたのだろう。
ナミの腕の中でおとなしく飲み物を飲んでいる姿を見て、少なくとも安心してはいるようだ。
じっと見つめるゾロの視線に気づき、ナミは正面からそれを受け止める。
深い翡翠色の瞳は、無表情のまま静かにナミへと注がれていた。
静謐な湖面のようにどこまでもまっすぐで、すべてを見透かそうとしているかのようにも感じられ、これはこれでどきりとさせられる。
「・・・何、ゾロ。私まだ怒ってるんだけど」
「見りゃ判る。けど、こないだのことは謝らねぇ。俺もムカッ腹ついたからな」
「ムカッ腹つくと強姦まがいのキスするわけ? 犯罪者になる前にやめるようお勧めするわ」
ゾロははっきりとは答えず、口の中で何か呟いた。ナミの耳には、誰のせいだ、と言ったように聞こえた。
やや間を置いてからゾロは憮然と視線を逸らす。
細い二の腕に抱かれた子ゾロは、むずがりながらも眠る態勢に入っていた。
原因が何であれ、眠れなければ子供なら尚更辛いだろう。
おでこの冷却シートを替えて背中を叩きながら揺れていると、いつしか子ゾロは静かな寝息をたてていた。
「・・・けっ。女にゃ勝てねぇってか」
「“女”じゃなくて、きっと“お母さん”よ」
「あぁ? 同じ女だろうが。何が違うってんだ!?」
「バツイチとやもめの違いも判らないマリモ脳細胞じゃ、説明してもおそらく理解できないでしょうよ」
溜息をついて子ゾロを寝かしつける。運が良ければ、今夜はこのまま眠ってくれるだろう。
ナミは置かれていたグラスを取り、一気に煽って飲み干した。
「じゃ、私はこれで帰るから。これ、ご馳走様」
「ん・・・」
グラスを片づけて振り返る。そこには視点の定まらなくなりつつあるゾロが立っていた。
「ゾロ? どうしたの、大丈夫?」
「・・・眠ィ」
どうやら3日間続いた徹夜で張り詰めていた空気が、安心したことで一気に緩み、眠気の臨界点を振り切ってしまったらしい。
「ち、ちょっとこんなとこで寝ないで! ベッドはあっち! あんたが風邪引いて寝込んだりしたら、子ゾロは看病できないんだからね!?」
「おぅ、判ってる・・・」
返事がますます怪しくなり、身体までゆっくり揺れ始めている。
咄嗟にやばいと判断したナミは素早くゾロに肩を貸し、ふらつきながらもようやく寝室へと押し込んだ。
「ほらゾロ、ここに座・・・きゃあ!!」
肩を外そうとした瞬間ゾロの身体から力が抜け、ナミの視界も同時に一回転した。
「ち、ちょっとゾロ、何を・・・!」
何がどうなったのか一瞬理解できなかった。
どうやら肩を外す前に、ゾロと一緒にベッドへと倒れ込んでしまったらしい。
しかも、思いっ切り抱き合うような体勢で。
「ゾ、ゾロ、ちょっとゾロ! 手ェどけて、離して、重いってば!」
慌てて片方の手でその厚い胸板を叩くが、既に夢の世界に旅立ったゾロはまったく反応しなかった。
視界を巡らせると、丁度ナミの頭のところに子ゾロが転がっていた。
ふたりが倒れ込んだ衝撃で大きくバウンドしたにも関わらず、こちらも夢の世界から帰って来ない。
「ちょっと・・・」
肩を貸す形になっていたので、ゾロの左腕がぴったりと腕枕するように差し出されている。
もう一方の腕は、あろうことかナミの腰にしっかり絡みついて離れない。
「ちょっとぉ・・・」
不意に髪を引っ張られる。丁度こちらを向いた子ゾロが、反射的に触れたナミの髪をしっかり握っていた。
「もぉ〜〜お、どいつもこいつもっ。私は抱き枕じゃな〜〜〜〜いッッ!!」
誰も聞く者のないロロノア家で、真っ赤になったナミの叫びだけが空しく響いた。
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(2004.02.26)Copyright(C)真牙,All rights reserved.