Baby Rush 2 −10−
真牙 様
――そうして日常が帰って来た。
当然ながら、子ゾロはゾロの元へと帰って行った。抱き渡す折に気難しい顔をしたが、ナミが
「ゾロがいやになったらいつでもおいで。優しいナミちゃんが面倒見てあげるから」
と楽しげに言ったので、子ゾロはぱっと表情を輝かせてナミに手を振った。
・・・充分判ってやっているとしか思えなかった。
しかし、その際ゾロの鋭い瞳に嫉妬の炎が見え隠れしていたことに、幸いなことにナミは気づかなかった――。
保育園の送り迎えも、またゾロの仕事のひとつに戻った。
それが本来の姿だったが、一週間もの間ナミと言葉を交わして妙に馴染んでしまった保育士のルフィは、
「なあゾロ、チビ・マリモンの送り迎えナミでもいーんだぞ? まあゾロから渡された方が泣かない分楽だけどよ。けどどうせ朝夕会うんなら、ごっついオヤジより綺麗どころの方が断然いいじゃん」
「それはてめぇの都合だろッッ!!」
童顔で実年齢より常に若く見られるルフィは、何気に問題発言をして思い切りゾロに頭を殴られた。
「にしししッ! けど、どうせお前らがくっついたら、ナミがここに来る可能性だってあるんだよなー!?」
「あいつは金輪際絶対ェ寄越さねぇッッ!!」
ゾロの即答に、ルフィは転がるように腹を抱えて大笑いした。
「ぎゃははははッッ! おいゾロ、自分で言ってて判ってっか? 今の、完全にくっついたこと前提に喋ってんぞ!? さすがは本家本元デカマリモ、とんでもねぇ自信だなー。まったく恐れ入ったぜ、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃッッ!!」
「・・・そういやもうすぐ彼岸だったな。せっかくだからこっちから先祖に会いに行きやがれ!!」
――あわや保育園の庭は乱闘場になりかけ、真っ赤になったままゾロは園長に退場処分を喰らった。
だが――そんなゾロの断固たる決断を嘲笑うかのように、3日後当の発言者からナミの携帯に電話が入った。
『・・・面倒掛けて悪ィんだが、チビ迎えに行ってもらえねぇか? どうしても抜けらんねぇ急ぎの仕事が入っちまって、いつもの時間までにとても帰れそうもねぇんだ』
「ちょっと待って、私もすぐには行けないわよ? 今決算期で手が離せないほど忙しいんだから」
『それでも俺よか早ェだろ? 俺が行くまで待たせといたら、チビはルフィの奴と一緒に夜中近くまであそこにいにゃならんし。・・・ホントはお前にだけは頼みたくなかったんだが、背に腹は代えられねぇ』
「何それ、どういう意味!? あんた何気に失礼なこと言ってない?」
『だぁから変な意味じゃなくて! ああもう・・・とにかく行ってくれんのかくれねぇのか?』
半ば自棄の様子で叫ぶので、ナミは渋々引き受けることにした。
とはいえ、今作成中の書類はあと1時間もしないうちに依頼者が引き取りに来る算段になっている。次いで面倒な帳簿がもうひとつ。通常ならば片づけを済ませて帰る時間だが、この年度末にそんな悠長なことを言っていられる余裕はなかった。
「ナミさん、どうかしたんですか? 急ぎの仕事でも?」
「ああビビ。ん〜、急ぎと言えば急ぎなんだけどね。ゾロの奴、自分が遅くなるからって子ゾロを迎えに行けなんて言うのよ。まったく人を顎で使ってくれちゃってさ。この貸しは高くつくんだから」
ぶつぶつと詰ってはみるものの、上手い解決策は浮かんで来ない。
「ナミ、俺は勘弁してくれよ? ここの帳簿ザルもいいとこで、今どうしようもねぇことになってんだからよ〜」
「あーはいはい、判ったから頑張って処理するよーに」
眉間に皺を寄せて唸っていると、ビビがぽんと手を叩いて言った。
「それでしたら、私が行って来ましょうか? 私なら子ゾロくんも泣かないだろうし、連れて来るだけでいいんですよね!?」
「う〜ん、そうしてもらえると正直凄く助かるけど・・・大丈夫?」
「はい。私の方は、ナミさんのほど複雑な帳簿じゃないですから、帰ってからでも何とかなります」
「悪いわねー、後で『ブルー・オール・ブルー』の春季限定ミルフィーユ都合してもらうから」
「はいっ! 行って来ま〜す♪」
「・・・狙ってたな、あれは」
ウソップの呟きをさらりと聞き流し、ナミはデスクへと戻る途中で追加のバインダー書類を帳簿の脇へと置いた。
それを見た瞬間、ウソップは滝の涙を流して帳簿の上に突っ伏した。
「倒れてる暇があったら仕事仕事。それ終わんなきゃ今日帰っちゃ駄目よ!?」
「勘弁してくれ〜。俺には家で待ってる妻と娘がいるんだぁ〜〜」
「はいはい、あんたのマイ・スイート・ハートは知ってるわよ。判ってるからさくさく手ェ動かすッ!」
「アクマだ・・・」
瞬間――目にも止まらぬ早業でナミの手が閃き、ウソップは豪華装丁広辞苑を喰らって椅子ごと床に沈んだ。
ものの30分ほどでビビが戻って来た――が、その表情は複雑な上真っ赤だった。
「ど、どうしたのビビ。何かあったの?」
緑の怪獣姿の子ゾロを受け取りながら、ナミはひどく狼狽しているビビに声を掛けた。
「ふぇ〜ん、ナミさ〜〜ん、私こんな目に遭ったの初めてですぅ。ただの世間話をしてたはずなのにあの黒髪の保育士さん、いきなり人のお尻撫で回して笑うんですよー! 『お前のこの尻なら、いい子供が一杯産めそうだなぁ。良かったら俺の子供産んでみねぇか』って思いっ切りセクハラじゃないですか!!」
「・・・もしかしてルフィ!? あー、あいつなら確かにやりそうだわね」
「やりそうだって・・・まさか、ナミさんも何かされたんですかッ!?」
「何て命知らずな・・・」
「はい黙るそこ。あいつは良くも悪くもストレート全開なのよ。打算も掛け値もないから、おそらくそのまんまの意味でしょうね」
更に薄手の帳簿をウソップのデスクに追加してビビを宥める。ウソップは脳みそまでゾル化した様子で泣き崩れた。
「けど・・・そっかあ、あいつビビ見てそんな反応したんだ。もしかしたら、厄介なのに気に入られちゃったのかもね〜♪」
「そ、そんな私は・・・」
だがビビの雰囲気から察するに、免疫がないだけで心底いやなわけではなさそうだった。
「ま〜?」
「はいはい、今日は災難だったわねー、子ゾロ。夕飯少し遅くなりそうだから、ここに何かおやつが入ってるといいんだけど・・・」
いつも持ち歩いている子ゾロ用のバッグを、手の空いていたビビが気を利かせて探す。
期待半分、不安半分の様相でウソップまでもこちらを見ている。
「えーと・・・はい、これですね」
果たしてビビが掴んで取り出したのは、ビールのつまみに美味しい大きなサラミ棒だった。
「「――相変わらずよのう・・・」」
判っていたとはいえ、ナミは溜息を漏らしながらがっくりと肩を落とした。
やっぱりゾロはどこか勘違い野郎だった。
結局ナミが帰宅できたのは夜の8時をとうに回った頃だった。
食事を遅くすることになってしまったので、ナミは事務所に置いてあったフィナンシェを食べさせておいた。
なので子ゾロはさほど空腹に怒ってはいなかった。
「さて、ゾロもまだまだ帰らなそうだし、さっさとお風呂に入って御飯食べよっか。でないとあんたおねむだもんね」
「マーンマ〜」
笑ってしまうが、あの後3人の仕事振りは鬼のようだった。
・・・油断してぼうっとしていると、近づいて来る子ゾロにデータを飛ばされ、帳簿を分解されるかもしれない――!!
ならば打ち込みは素早く、保存はこまめに!!
その強迫観念が、結果3人につけ入る隙もないほどの驚異的な早さで仕事をこなさせたのだ。
――結果オーライである。
とは言っても、そう何度も繰り返されるのはごめんだが。
今日は話が急だったので子ゾロの着替えなど当然手元にない。
仕方がないので、またも管理人婦人に鍵を開けてもらえるよう頼むしかなかった。
(ああもう、これで何度目になんのよ。管理人さんの心証悪くなったらどうしてくれんのかしら)
だが、それは杞憂だった。彼女は何も聞かず、あっさりにっこり鍵を開けてくれた。
誤解の曲解がどこまで暴走しているのか、良識人のナミとしては怖い限りだ。
ナミは風呂から食事と一通り子ゾロの世話を終え、毛布に包んであっさりと寝かしつけた。
そこまでやってもまだ10時――自分の手際の良さにひとりほくそ笑む。
ナミはテーブルに肘をついてテレビを見ていたが、やがて疲れからいつしかそのまま眠ってしまった。
「やべ、もうこんな時間かよ。絶対ェ怒ってやがるぞ、ナミの奴・・・」
ゾロは腕時計を見た。針は既に12時近くを差している。まさかこんなに遅くなるとは思っていなかったので少々ばつが悪い。
自宅を通り越し、10階のナミの部屋のベルを押す。
・・・答えはない。
「まさかチビもろとも寝ちまったか? 明日の朝どーすんだ――」
そう思いながら、何気なくドアノブに手を掛ける。無用心なことに、ドアは何の抵抗もなく開いた。
「おい・・・」
微かにテレビの音がする。足音を忍ばせて中に入ると、ナミはテーブルに頭を凭せ掛けたまま眠っていた。
テーブルには、冷めてしまったがひとり分の食事がきちんと並べられていた。
(俺を――待っててくれたのか・・・?)
どうやらずっと待っていたのに、疲れでうたた寝のつもりがそのまま眠り込んでしまったらしかった。
一度そう思ってしまうと妙に嬉しくなり、押さえてもつい口許がにやにやと緩んでしまう。
ゾロは急いで自宅へ戻ってシャワーだけ浴び、ナミのところで遅い夕食を貰うことにした。
いい加減ゾロも疲れていたので温め直すこともしなかったが、置かれていた夕食はそれでも充分美味しかった。
やがて食事を終えて一応片づけもしたが、ナミは一向に目を覚ます気配を見せなかった。
相変わらず幸せそうな顔で、白く華奢な手を枕にすうすう眠っている。
何気なく、だらりと放り出されていた左手を取る。
きちんと手入れのされているしなやかな手は、しっとりと吸いつくような甘い香りを感じさせる。
桜色の爪も綺麗に整えられ、淡い光沢を帯びたマニキュアが良く似合っていた。
ゾロが、ほんの少し力を入れたら折れてしまいそうな細い指。
思わず悪戯心が頭を擡げ、その手を取ってそっと唇を押しつける。
柔らかな感触に甘い眩暈がしそうだった。
(やべ・・・起きてりゃともかく、さすがに寝てる相手襲うわけにもいかねぇよなぁ。いくら俺でも・・・)
少々――いや、多分に惜しいと思ってしまうところが、ゾロがゾロたる所以か。
だがナミのしなやかな手を眺めていて、ゾロはひとついいことを思いついた。
こんな機会は滅多にないと、思いついた自分を思い切り褒めたくなる。
――ゾロの目論見は、ものの2分で片がついた。
しかし――改めて考える。問題は、ナミ自身だ。
「・・・どーすっかなぁ」
このまま子ゾロを連れて帰るのは容易いが、そうなるとナミは一晩中鍵の開いた部屋に放置されることになる。
いくらオートロック完備を誇るこのマンションでも、若い女をそのまま置き去りにするのも男としてかなり躊躇われた。
もし万が一にも何かあったら、誰より自分がいやな思いをするのが判りきっているからだ。
暫く打開策を考え、ひとつ浮かんだ妙案に変に納得する。
(そうだ、これは苦肉の策だ。こうすりゃ万事オッケーだ。何だ、簡単じゃねぇか)
ゾロの勝手な結論を咎める者は誰もいなかった。
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(2004.03.18)Copyright(C)真牙,All rights reserved.