Baby Rush 2      −9−
            

真牙 様




――遠くの方で何か聞こえる。

呼び声のようだ。誰かが自分を呼んでいる・・・。

あれは誰の声だったろう!? ぼんやりした頼りない頭でゆっくりと考える。

声は、必死に自分を呼んでいた。
今にも泣きそうな、身を裂かんばかりの悲痛な声で。

(誰? どうしてそんな泣きそうな声で私を呼ぶの・・・?)



すうっと意識が浮かび上がる。ナミの視界に映ったのは、ゾロの逞しい肩越しに見える春霞の空だった。

「――ナミ! ナミ!! 起きろ、目ェ開けろ、頼むから目ェ開けてくれ・・・ッ!!」

ぼんやりしていた意識が次第にはっきりしてくる。それにつれ、全身がいらぬ痛みを訴えてきた。
ゆっくりと記憶を辿る。
そうだ、痛いのも当然だ。退いた途端足を踏み外し、参道の石段をゾロもろとも転げ落ちたのだから。

「ナミ! 頼むから、逝くな・・・俺の前から勝手に消えるな・・・!!」

全身を、魂を揺さぶる悲痛な叫び。ナミをきつく抱きしめたまま、ゾロはまさに身を裂かんばかりの慟哭に震えていた。

不思議だった。
どうしてゾロは、赤の他人であるはずの自分を抱きしめて、こんなに身体全部で動揺しているのだろう。

今まで散々借りがあるから、何かあったら寝覚めが悪いから? 

それとも目の前で石段を転落した女に不都合が生じたら、そこに居合わせたゾロ自身の責任問題になるから?

判らない。ゾロは余計なことは言うくせに、肝心なことは腹の奥にしまい込んでしまうから。

なのに、今は。

全身から想いのすべてが立ち上り、ナミを呼び戻そうと全身全霊を込めて必死になって声を上げていた。
それだけは、目に見えるもっともはっきりした事実だった。

「ナミ、頼むから目ェ開けろ・・・もう、他に何も望まねぇから・・・!」

心まで張り裂けそうな哀しい声。

話があると言われたあの時、最初はナミ自身もあんなに怒るつもりはなかった。
ゾロが素直にたった一言ごめんと言ってくれたなら、全部水に流して許そうと――許させて欲しいと思っていたのだ。

なのに結果はこれだ。

決して初めから喧嘩したいわけではなかった。

そう――いろいろ世話を焼いたり、一緒に笑い合った時間すべてを否定されたような気がして、涙が出るほど悔しかったのだ。

いつもいつも、いちいち理由を探しては顔を見たいと思うほどに。

ゾロのこめかみが止めどなく流れる血に染まっている。
それすらもどうでもいい勢いでナミを呼ぶ姿に、ナミは抱えていた怒りも憤りも小さく萎んでいくのを感じた。


「・・・ゾロ・・・?」

ナミは掠れるような小さな声で、静かにゾロの名を呟いた。

途端にビクリとゾロの肩が大きく反応する。ゾロは恐る恐るといった具合に、そっとナミの顔を覗き込んだ。

「・・・ナミ?」

「うん・・・もしかして私、気を失ってた? 石段から落ちて、それから――」

「・・・・ッ!」

ナミの問いは最後まで言い終えることができなかった。
なぜならナミは、前以上の力でゾロの腕の中にきつく抱き竦められていたのだから。

「ゾロ? ・・・痛いよ、ゾ――」

頬に冷たい物が当たり、ナミは言いかけた言葉をはっと飲み込んだ。
ゾロの目尻から溢れたそれは、震える頬を伝い落ちていくつもナミの顔に零れた。


「ゾロ、泣いてるの・・・?」

「・・・と思った。死んだかと、思った。・・・あいつみてぇに、また俺の目の前から消えちまうかと思った・・・」

嗚咽混じりの呟きに、ナミはどうしていいか判らず、恐る恐るそっとゾロの背中を抱くように腕を上げた。

ビクッと大きく背中が震える。それを宥めるように、ナミは何度もゾロの広い背中を撫でた。
少しずつだが緊張が解けていくのが判った。

ゾロは独白のように呟く。

「俺は、あいつを守れなかった・・・気づいた時には、もう遅くて・・・間に合わなかった・・・。俺は、あいつを庇ってやることすらできなかった・・・」

心の奥底に沈めておいた告白は、正に喉から絞り出すような声音だった。

「生きててくれて、良かった。ホントに良かった・・・。お前まで失くしたら・・・俺はもう、きっと耐えられねぇ・・・!」



どきん、と一際高く心臓が高鳴った。
一気に頬に朱が上る。
不意打ちの言葉に身体が――何より、心が震えた。

普段無口で言葉が足りないくせに、こんな時に限って何という口説き文句を囁いてくれるのか。

(ゾロのくせに、何でそんなこと言ってくれちゃうの・・・)

口当たりの良い酒に酔った時のようで、それは決して不快な感覚ではなかった。


(ああ・・・)


ふんわりと胸に暖かな想いが満ち溢れる。
自分を包む、この熱い体温の持ち主のすべてを素直に愛おしいと思えた。


(やっぱり駄目だ・・・)


ナミは観念した。



――この瞬間、ナミは心のもっとも深い場所までをゾロに抱き取られたような気がした。



(まったく・・・こんな、女性の扱いのイロハも知らない朴念仁なのに。無骨で粗雑で、デリカシーの欠片もまったくないのに。子持ちでオヤジ根性丸出しで、すぐにセクハラ発言する問題男なのに――)

それでも――。

亡くなった奥さんのことを、今でも心の奥底に抱えたままもがき苦しんでいる。
何かできるはずではなかったのかと、幾度となく反芻しては自分を責めて心の中で嘆いている。

何と不器用な男か・・・。


どうしようもなく切なくて。

どうしようもなく寂しくて・・・。


けれど、ナミの知っているゾロは、既にそれらすべてを内に秘めている男だった。
それらの想いがひとつでも欠けていれば、それはもうナミの知っているゾロではない。

ナミと出会った頃にはもう、その苦い記憶もひっくるめてゾロの一部だったのだ。

そんな不器用なゾロも、幼い子ゾロもまとめて愛しかった。

素直になれば何のことはない、ただそれだけの珠玉のような気持ちだったのに・・・。

(バカは、私ね・・・)

ナミはヘイゼルの瞳を伏せ、ゾロの涙を拭うようにそっと目尻へと唇を寄せた。


Illustrater: 【happy Gate】たまちよさん


それに一際大きく反応したゾロは目を見開き、次いで何とも言えない表情になって改めてナミを強く抱きしめた。

ゾロは角度を変え、そっとナミへと顔を近づける。ナミはふわりと微笑み、そのまま目を閉じた。
啄ばむように何度も触れ、くすぐったい気分にさせる優しい口づけに、ナミはゆっくりとゾロの首へと腕を回した。
それを待っていたかのように、ゾロは途端に深い口づけで何度も今ここに生きているナミを確かめた。

甘い吐息が幾度となく絡み合い、生きて出会えたことに感謝せずにはいられなかった。


「・・・――暗雲は時既に去り・・・春はもう、ここに訪れていたのですね・・・」



小さく呟く神主の足元に、風に攫われた梅の花びらが舞い踊るように吹き抜けた。





その後ふたりは、ゾロの額の傷を含めてせめて診察だけでもして来るよう、神主からしっかりときつく言い含められてしまった。

急な石段を転落した手前当然の心配を無碍にもできず、ふたりは仕方なく神社の近くのこじんまりとした医院を訪れた。

応対してくれた柔和な顔立ちの青年医師は、ゾロの顔3分の1を染める多大な出血を見て思わず動転し、

「いいい医者ァァァァッッ! 医者はどこだ〜〜〜〜ッッ!!」

と、実にツッコミ甲斐のある台詞を吐いてくれた。

「いや、お前が医者だろ!?」

「あ――そうだ・・・」


人懐こい青年医師は、ナミたちの失笑を買った。




その後ふたりはしっかりと全身の診察を受けた。

幸いにもどちらも骨などに異常はなく――ゾロのこめかみはさすがに5針縫ったが、それ以外は痣と擦り傷程度で済んだようだった。
運がいいと、青年医師は我がことのように手放しで喜んでくれた。

ただ。

胸部の診察を受ける際に、アンサンブルのニットセーターを脱いでくれと言われたのには正直困り果てた。

だが聴診器で心音を聞くためには、どうしても胸元をはだけなければならない。
渋々服を脱いで向き直った瞬間、医師は優しげな笑顔を浮かべたまま見事に硬直した。

ナミの胸に残る、未だ消えきっていなかった微かな緋色の刻印。
それが何を意味するものか――医師は一瞬で首まで真っ赤になって診察どころではなくなっていた。

「だ、だだだ大丈夫みたい、だから・・・その、俺は何も見てないから・・・ああ、いや変な意味じゃなくて・・・その、えっと――。ご、ごめんなさいッッ!」

「・・・いいのよ別に。あなたは医者なんだから・・・」

石段を落ちた際のハイな状態は知らずまだ続いていたらしい。感情のゲージが簡単に極端から極端へと移動してくれる。


この瞬間、ナミはあんなに愛しいと思ったはずのゾロへの殺意が微かに過るのを感じた。




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(2004.03.17)

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