Baby Rush 2 −6−
真牙 様
「もしもしサンジくん? そう、私。昨日はごめんね、いろいろ立て込んでて行けなくて・・・。あ、そうなんだ。んん〜〜〜、悪いけど暫くいいわ。あはは、また喧嘩しちゃってね・・・うん、そうしてくれると助かるわ。ありがとッ。え、花見? ああ、お昼時ならサンジくんも抜けられるものね。えーと、今ちょっとオマケがいるんだけど・・・あら、何で知ってるの? んー、まあいろいろ事情がね。それでいいなら構わないわよ。ん、判った。じゃ、またね」
結局待ちぼうけを喰らわせた形になったサンジをナミが思い出したのは、次の日事務所に着いてある程度仕事をこなした後だった。
慌てて通路に出て携帯から電話を入れると、少し眠そうなサンジの声が返って来た。
まさかずっと待っていたわけでもあるまいに。
(そんなわけないない)
ナミは笑ってふざけた思考を振り払い、再び仕事へと集中した。
そのやり取りをドアの隙間から密かに聞き耳を立てていたビビは、ウソップをデスクの陰に引きずり込んで声を潜めた。
「・・・ウソップさん、ナミさんまた変なことになってませんか?」
「そうか? いや、そうかもしれんが、ここはひとつ大人になって放っておいた方がいいんじゃないか?」
「そんな、ウソップさんひどい。ナミさんが悩み悩んだ挙句に陰で泣いててもいいんですか? そんなの男として許されるんですか!? ウソップさんは自分だけが幸せなら、他の身近な人はどうでもいいんですね!? ショックだわ、あなたがそんな人だったなんて・・・」
「いや、だから俺としてはな、今はそっと暖かく見守ってやった方がいいと・・・」
「悠長なこと言っててナミさんが泣いてたらどうするんですッ!?」
「早々泣くようなタマかよ・・・」
「何てこと言うんですか、ウソップさん! ナミさんはれっきとした女性です! タマなんてありません!!」
「だから物のたとえだって・・・」
「・・・楽しそうねぇ」
「楽しくなんてありませんッ! 大体ウソップさんが・・・え?」
「うをッ!? ななな、ナミッッ!?」
いつの間に戻っていたのか、デスクの上から覗き込んでいたナミとばっちり視線が合ってしまう。
白い額の稜線には、見紛うことない青筋が浮かんでいた。
「・・・ありがた〜い詮索はもういいから、そろそろ仕事してくんないかしら〜〜?」
「「は、は、はいぃぃぃぃぃ〜〜〜・・・」」
「でも」
自分のデスクに戻って行く傍ら、少しだけ肩越しに振り返る。
「心配してくれて、ありがとね」
「ナミさん・・・」
にっこりと微笑む。それは、ナミの性格を知っている者でも一発で魅了されそうな素晴らしい笑顔だった。
そこには微塵のわだかまりもなかった。
しかし――それとこれとは話が別。
その日ふたりはこってりたっぷりの残業を言いつけら、滂沱の涙に明け暮れた・・・。
日々が重なるにつれ、ゾロは自分の中に形にならない苛々が募るのを感じていた。
今までこんなことはなかった。どんなにいやな出来事があっても、少し飲んで幼い我が子と一緒に眠れば次の日には切り替えられた。
なのに、今回に限ってそれができない。
(ひとりだからか。あんまり静か過ぎるから、つい余計なことまで考えちまうんだ・・・)
ほんの些細な事故で呆気なくくいなが死んだ。
あまりの呆気なさに到底信じられず、斎場で彼女が煙となって空に昇るのを眺めても、悪い夢でも見ているようで涙も出なかった。
だが、ゾロには気落ちして沈んでいる暇などなかった。
ひとりではまだ何もできない、小さくとも大きな存在――残された、幼い赤ん坊。
明るい溌剌とした眩しい笑顔――無邪気に振る舞いながら、凍てついた心を溶かすように侵食していった女。
それらが、今までゾロを支えていたのだ。
意外だと思う反面、確かにそうだと納得する自分もいた。
特に子ゾロに関しては、ゾロにとって私生活のかなりの部分を占めていた。
泣いている理由がどうにも判らず、苛々して何もかも投げ出したいと思ったことも正直何度かある。
忙しかったり機嫌が悪かったりする時に限って、熱を出したり腹を壊したりすることもあった。
寝不足になりながら、夜間診療に走ったこともある。
子育てのことなど何も判らなかったが、それでも今日まで何とかやって来た。
今にして思えば、その忙しさがあったから自分の置かれている現状を認識せずに済んだのだ。
子育てにかまけていれば、自分自身の感情に簡単に蓋をすることができたから。
逆に言えば、自分のことなど考えたくはなかった。
一度味わった小さな幸せを失くしたと正面から認識してしまうと、胸の中にぽっかりと開いた空虚感に苛まれてしまうからだ。
子ゾロがいれば、忙しさを理由にそれらを見ずに済んだ。
眠っている顔を見ていると、たったひとり残されなくて良かったとすら思えた。
くいなの面影がまったくなかったのも幸いだったかもしれない。
なのに――それが、今はいない。
ナミに関してもそうだ。
初めは、エレベーターやエントランスで会った時に言葉を交わす程度の関係だった。
遠慮という言葉にまったく無縁で、初対面の相手にはほぼ敬遠されていたゾロにまったく物怖じしない態度には驚いた。
勝気で口が悪くて、何か恩を売ったと思えば「3倍にして返せ」が口癖の変わった女だった。
だが――いつからか、無邪気な笑顔と何気ない仕草に次第に魅了されていた。
渇いて、何かに渇望して、ひび割れかけていた心に、急激に染み渡る何かを持っていた。
同情でも何でもいい。とにかくきっかけが欲しかった。
ナミに、もう1歩近づくためのきっかけが。
そんな折、保育園一時閉鎖の煽りを受けて子ゾロの預け先の旨を相談した管理人の言葉は、正に渡りに船だった。
そして目論見は成功し、また逆に、ゾロ自身もひとつの罠に掛かったことを思い知った。
ナミと同じ時間を過ごす度、その魅力にどんどん堕ちて行く自分を目の当たりにしてしまったのだ。
散々振り回されているのに、心地いいとすら思えてしまう。
こんな気持ちを抱く日が来ようとは、今までの人生考えたことすらなかった。
それも一興かもしれない。苦笑に溜息が重なり、ずるずると思考の底なし沼へと落ちて行く。
そしてそれは、ナミの目論見に嵌まってしまったからなのだと、その時のゾロには知る由もなかった。
そんな折、不意にテーブルに放置されていた携帯が呼び出しを告げた。
相手は、今回の葛藤をとんでもなく複雑にしてくれた張本人――金髪の料理人サンジだった。
用件はたった一言。
「今すぐ店に来い。でなきゃ後悔すんぞ」
こんな時だからこそサンジの顔など見たくなかったが、有無を言わせぬ口調にゾロは渋々キーを掴んで立ち上がった。
時刻は既に11時近いというのに、店には皓々と灯りがついていた。
さっさと入って来いと言わんばかりに、入り口の日除けだけが上げられている。
無造作に押すと、ドアにつけられているチャイムが無意味なほど明るく鳴り響いた。
「・・・何だ、急にこんなとこに呼びつけて」
腹の奥で渦巻く苛々を隠そうともせず、ゾロはカウンターのサンジに向かって冷然と言い放った。
サンジは何ら物怖じすることなくゾロを視界の端に止め、用意していた皿を目の前にすっと押しやった。
「――食え」
「あぁ? こんな時間に呼びつけた挙句、よりによって俺にこんなモン食わそうってか!? ふざけんじゃねぇぞ、クソコック!」
「いいから黙って食えッッ!!!」
「・・・・ッ!」
女にはだらしのないサンジでも、こと料理に関しては清廉潔白な修行僧のような面持ちで決して他の追随を許さない。
一瞬気圧されたことに歯噛みしながら、ゾロは覚悟を決めてその物体を手掴みで口にした。
一口齧り、口一杯に広がったその味に驚く。
(・・・何だ、これは・・・?)
見かけはどう見ても、この店の人気商品ガトーショコラだった。匂いも香ばしいカカオの香りがし、ソフトな口当たりが上品だ。
なのに――ゾロの恐れていた強烈な甘味が襲って来ない。むしろほろ苦いくらいで、ゾロの味覚に丁度いい仕上がりになっている。
「・・・どうだ、クソうめぇだろ」
サンジはようやく表情を緩め、大仰に肩を竦めて溜息をついた。
「ったく、結果としてすべてお前のためってのがどうにも気に入らねぇが、それもこれもナミさんたっての頼みだからな。心優しい女神の化身に全身全霊感謝して、これからは彼女に対する非礼をすべて改めやがれってんだ」
「ナミが? 何でまた・・・」
話が見えない。きっと今の自分はひどい間抜け面を晒していたかもしれない。
だが、それでも構わない。サンジに説明を求める。
サンジは渋面になり、心底いやそうな顔をした。
「聞くか、何でって聞くのかここで!? か〜〜、まったくもってどうしようもねぇな。どうしてなんて聞くお前の脳みその方がどうかしてるぜ。何で俺様自慢の逸品をわざわざそんな味に仕立て直したと思ってる!? あのナミさんにどうしてもって、両手を合わせて頼まれたからに決まってんだろうがッ。とうの昔に過ぎちまった、どっかのトーヘンボクなマリモ野郎の誕生日を、とにかく祝ってやりたいんだってな!」
まくし立てるようにサンジの言は続く。
「誕生日と言ったら、当然ケーキがつきもんだろ。なのにクソ生意気にも、当の本人は甘い物が大の苦手と来てやがる。だからわざわざ毎晩ここで試行錯誤してまで、俺にこんな代物作らせたんだよ。判ったか、ナミさんの海よりも深い優しさが! やもめのマリモ野郎にはありがた過ぎて涙が出んだろ!?」
「・・・ああ、確かに。ありがてぇな・・・」
何かか心の奥深くにポツリと落ち、ゆっくりと波紋を広げる。
静かに、すべてに染み渡るように――。
「だ―――ッッ! 何なんだよそのお寒い反応はッ! お前イカレてんぞ、絶対!!」
「・・・かもな」
サンジは強烈な寒気を覚え、自分の両肩を抱いて激しく頭を振った。
「まったくお前は厚かましいんだよ! カマ掛けて聞いてみたらお前、ナミさんの好意に甘えて子供まで預けてやがるんだってな。ガキってこたぁ何でも一緒ッ。ああ、あのナミさんと一緒に眠って一緒に風呂入って、クソ羨ましすぎ・・・いや、図々しすぎんだよ! だがな、俺だって今のままじゃ終わらないぜ!? 聞いて驚け。泣く子も笑う愛の伝道師様は女神を伴って週末花見でランチだ、お前にゃ逆立ちしたって真似できねぇだろ」
揶揄するような言い方に、綻びかけていたゾロの表情が再び憮然となる。
それを見てしてやったりと思ったのか、サンジはぱっぱとゾロを追い払うように手を振った。
「ああ、俺の用はこんだけだ。鬱陶しいてめぇの顔なんざこれ以上見たかねぇからな。帰れ帰れ、とっとと帰りやがれッ」
ゾロは特注品のガトーショコラを手にしたまま、追い立てられるように店外に出た。
何気なく残っていたケーキを口に運ぶ。
「・・・うめぇ」
それは素直に、ゾロの賞賛に値する味だった。
ナミがこの店に足繁く通っていたのはこのせいだったのだ。
他でもない、甘い物が大の苦手なゾロが食べられる、世界でたったひとつのバースディ・ケーキを作るために。
「バカは、俺か・・・」
漏らした吐息は軽い。
3月とはいえ、夜の気配はまだまだ寒い。
だが、頭を冷やしてゆっくり考え事をするには丁度良かった。
――その頃。
「ん〜・・・ま〜・・・」
「〜〜〜ッ、子ゾロ、お願いだからやめてぇ〜〜・・・」
寝かしつけるために添い寝したナミの胸元にぴったりと張りつく子ゾロ。
そこまでは良かったが、時折寝ぼけて豊かな双丘に顔を摺り寄せて頬擦りされるのには正直参った。くすぐったくてこそばゆくて、とても眠れたものではない。
「だから、セクハラなんだってば〜〜・・・」
子ゾロは安らかな寝息をたてて眠っている。
ナミの悲痛な嘆きを聞く者は誰もいなかった・・・。
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(2004.03.14)Copyright(C)真牙,All rights reserved.