Baby Rush 2      −7−
            

真牙 様




週末――夜の間に雨でも降ったのか、朝カーテンを開けて見た景色はしっとりと露を含んでいた。

だが気持ちのいい上天気なので、昼前には路面も乾くだろう。

「マーンマ〜?」

「おはよう、子ゾロ。今日もいい天気よ。絶好のお花見日和ね」

足元にじゃれつく子ゾロをいなしながら、たっぷり洗った洗濯物を干しにかかる。
まるで母子家庭のようだと気がついて、ゾロがずっとこの状態で生活していたことに思い当たり小さく苦笑する。

「まったく、あんたの父さんも自分に踏ん切りつけるの遅過ぎない? 結局一週間ほったらかしにしてくれちゃって・・・。それともまさか、本気で子ゾロに見切りをつけちゃってたりなんかして・・・!?」

「まー?」

「――下手したらあの男、ホントにやるかも・・・」

ナミの怖い考えを知ってか知らずか、子ゾロは無邪気に首を傾けてベランダに出ようともがいている。

ナミが自宅に拉致して来て以来、幸か不幸か子ゾロは別段泣くでもむずがるでもなくご機嫌に過ごしている。
以前ゾロとナミが喧嘩の末子守を強制断絶した時は、ナミに会えないストレスで3日も熱を出したという前科があった。
なのに、今回は一切そういった兆候はない。

ゾロが聞いたら怒り狂って吼えそうなオチだ。

「そういや聞いてなかったわね。あんたの母さんが亡くなった原因。ちょっとした事故なんて言ってたけど・・・」

今の生活を改善させることにばかり神経を使っていたので、そういった過去のエピソードは聞かずじまいになっている。

・・・いつか、聞いてもいいだろうか。

聞いたら、話してくれるだろうか。

ぼんやり考え事に浸りそうになり、慌てて頭を振って意識を戻す。足元でオオカミの着ぐるみ姿の子ゾロが、怪訝な表情でじゃれていた。

「んんん、今はまだ喧嘩中なのよ!? 駄目駄目、そんな話のできる状態じゃないわ」

前回はナミも知らなかったとはいえ、かなりきついことを言ってしまったという自覚があった。
子ゾロの熱出し騒動を機になし崩しになっても、それはそれで仕方がないと思っていた。

だが、今回ばかりは自分から折れるつもりはない。

一体ゾロが今後どうしたいのか、あの口からきちんと聞くまで許してなどやらない。
あの男のしでかしてくれた暴挙は、今もまだナミの胸元にうっすらと残っているのだから。

思い出すと今でも赤面して頬が熱くなる。

ナミに触れた、荒々しい中にも垣間見えた口づけの甘さと吐息の深さ。
有無を言わせぬ力強い腕と厚い胸板。
確かめるように這わされた強引な指先。
何よりナミを絡め取って離さない、まっすぐな、すべてを見透かそうとするかのような鋭い翡翠色の瞳。

それから――。

(・・・それから? それからってナニッッ!?)

無意識の思考にぎょっとして狼狽する。一気に頬が真っ赤に染まって、心臓が飛び跳ねたような気がした。

「あ〜〜〜、もうッッ! だから違うんだって! 考えなきゃいけないのはソコじゃないでしょッ!!」

混乱してオレンジ色の髪を掻き回す。真っ赤に染まった頬を鎮めるのはなかなか難しかった。

「と、とにかく! ゾロが謝って来るまで許してあげないの! 前みたいになし崩しじゃ今後に示しがつかなくて困るの! いいわねッ!? よ〜しOK、大丈夫、グッジョブ私!!」

「ん〜ま〜?」

ウソップの口癖を真似て自分へと言い聞かせたのに、子ゾロにツッコミを入れられたようで思わず力が抜ける。

「子ゾロ〜。気合いなのよ、心意気なのよ。そこでツッコまないでよ〜〜・・・」

「ま〜?」

子ゾロの頭を撫でて苦笑する。
判っているのかいないのか、無論そんなつもりなど微塵もないに違いない。

だが、そうでも思わなければやっていられなかった。





昼近くなってから花見に指定された神社に出向くと、既にサンジがもっとも見頃な梅の木の下にピクニックシートを広げて一服していた。

「あら早かったのね、サンジくん。今日はお招きありがとう」

「いいえ、ナミさんのためならば休業してでも飛んで来ますともッ。嬉しいですよ〜、わざわざ俺のために出掛けて来てくれたなんて〜」

「ううん、美味しいお昼のためよ」

「ああ、情け容赦のない君も素敵だ〜〜」

締まりのない笑みを浮かべたサンジは、シートの表面をささっと払ってナミの席を作った。

「子ゾロもご相伴しても構わないわよね!? 子ゾロー、今日はサンジ兄ちゃん作の美味しい御飯よー」

「ああ、これがゾロの・・・DNA配列弄り回したんじゃないかってくらい、あのマリモ野郎にクソ似てますね」

「でしょ? 笑っちゃうわよねー、きっとマリモだから増殖するのよ」

「なるほど、言い得て妙だ。さすがナミさん、冴えてらっしゃる」

「あー?」

ナミの膝の上にしっかり陣取った子ゾロは、広げられた弁当を物色しているのか手の動きが獲物を狙う猫状態だ。

「ほら子ゾロ、御飯作ってくれた人にありがとしようね〜」

ナミはその小さな手を掴み、サンジの膝を叩かせた。途端になぜか不機嫌そうな表情になる。

悪戯心を起こして更に近づけようと身体を押すと、案の定泣き出しそうな顔で必死に後退りした。

「あはは、やっぱり人見知りするってホントだったのね〜」

「そうですかねぇ。こいつ、人を見る目がないですよ。この愛の戦士を見て泣きそうになるなんて」

やや憮然とする。似ているだけにどうしても子供を通してゾロが見えるらしく、かなり面白くなさそうではあった。

しかしここは極上の美女の前、さっと気分を切り替えてサンジは促した。

「じゃあ、せっかく来て頂いたことだし、どうぞ俺のスペシャル・ランチを召し上がれ」

「わあ、美味しそう。サンジくんてお菓子だけじゃなくて、料理も上手なのね〜」

「任せて下さい。何せ俺は愛と食の伝道師ですから」

言いながら素早く小皿に取り分けた分を渡してくれる。
重箱に詰められた料理はどれも一級品で、一流レストランで出されても遜色のないものばかりだった。

「ああ駄目よ、そんなに一度に口に入れちゃ。ってほら、喉詰まっちゃうでしょ。こら、意地汚い真似しないの、まだ一杯あるんだから。ほら、こっちも食べてごらん、美味しいわよ〜。今日は私のとこにいてラッキーだったわねー、子ゾロ?」

「ああ、かいがいしく子供の世話をする君は天使か〜、実にお優しい。それに比べてあのクソ野郎、ナミさんに子供押しつけて一体何してやがんだ!? まったく男の風上にも置けねぇ!!」

憤慨するサンジの様子にぺろっと舌を出し、ナミは苦笑しながら一応ゾロの名誉のために言葉を挟んだ。

「ん〜、ちょっと違うかも。子ゾロは押しつけられたんじゃなくて、私が勢いで拉致して来たんだもの」

「・・・は?」

「ちょっとね、いろいろ事情があんのよ。深くは聞かないでね、乙女の秘密なの」

ナミが軽くウィンクして見せると、サンジは目をハート全開にして意味不明の踊りを披露してくれた。

どんな女性にもまんべんなく声を掛ける軽い男だが、基本的に優しい人柄には違いなかった。
思わず喧嘩した旨を零したら、すぐさまナミを慰めるようにこの花見の席を設けてくれたのだから。

(優しくて細やかな心配りができて――いい人なのよね、ホント・・・)

何だかその気持ちを利用しているようで、ナミの心の中をチラリと罪悪感が掠める。

だが、今はその優しさが身に沁みて嬉しかった。


風の穏やかないい日和だ。
平和な日曜の昼下がり、美味しい御飯にありついたナミと子ゾロはほっこり小さな幸せを噛み締めていた――。




「サンジくんご馳走様。とっても美味しかったわ」

「いいえ、こんな素敵なレディに食して頂けるならいつでも駆けつけますよ。っと、お名残惜しいですが店に戻らないと。ああっ、今日ほど時間の神を恨んだことはねぇッッ! せっかくナミさんと愛の一時を過ごしていたのに、もう昼休み終了なんて〜!!」

「いや、それ違うって」

「ああ、鋭いツッコミをくれるナミさんも素敵だ〜。いっそその言葉でこの胸を貫いて下さ〜〜い」

手際良く片づけを済ませると、サンジは激しく後ろ髪を引かれながら何度も振り返りつつ神社を去って行った。

「・・・賑やかな兄ちゃん行っちゃったね〜。せっかくだから、ぐるっと一周お花を眺めてから帰ろうか」

「んま〜」

ふくいくとした香りに誘われるまま、ナミは神社をぐるりと周りながら色とりどりに咲き乱れる梅を眺めた。
背後の山には小山一帯を覆うように植林されている桜が控えている。蕾も大分しっかりしているので開花はもうすぐだろう。
そっちも見事な眺めが期待できそうなので、ナミは知らず頬を緩めていた。



一周して境内に戻ると、子ゾロは満腹感に負けて半ばうとうとしていた。この気候では当然の結果だった。

参道を戻りかけた途中に、袴姿の初老の男が箒を手に立っていた。どうやらこの神社の神主らしい。

「こんにちは、いい日和ですね」

「おやこんにちは、お嬢さん。お花見ですか!?」

「ええ。とても見応えがあって綺麗でした。また桜の頃に来ようと思います」

「そうですか。何よりです・・・おや、その子はもしや!?」

オオカミ頭からはみ出していた翡翠色の髪を見て、神主は少し驚いたような表情を見せた。気になったので立ち止まる。

「この子をご存知なんですか?」

「ええ。まだほんの赤子の頃に見たきりでしたが・・・ゾロとくいなの息子のレンでしょう?」

「くいな・・・?」

「この子の母親です。いや、もう亡くなりましたから、でした、と言うべきでしょうか」


どきり、と心臓が大きくひとつ跳ね上がる。

それは、初めて聞いたゾロの奥さんの名前だった。どうやらこの人物は、ゾロの事情にある程度通じているらしかった。
神主はすいっと辺りを見回した。

「今日は、ゾロは来ていないのですか?」

「えー・・・ちょっと野暮用があって・・・」

まさかそのゾロから拉致して来ましたとも言えず、ナミは適当に言葉を濁した。

「ゾロは、息災にしていますか?」

「ええ、何とか。掃除とか食事とか細かいところに気が回らなくて、部屋なんか凄いことになってますけど」

「そうでしょうね。ゾロは昔からそういったことには大雑把で、最低限困らなければ気にしない性格でしたから」

その挙句があの“腐海の森”だったのか。納得でき過ぎてナミは苦笑するしかなかった。

「そうなんです、どこもかしこもぐしゃぐしゃで。ほったらかしの放任主義だし、子育てのイロハも完全無視で勝手に我が道行って笑ってるし。このままじゃ子ゾロの将来が心配だわ」

「おやおや、笑っていると。・・・そうですか、元の彼に戻れましたか・・・それはおそらく、あなたのお陰なのでしょうね」

「・・・はい?」

この神主は一体何が言いたいのか――ナミは首を傾けた。

「わたしが最後に彼に会ったのは、くいなの葬儀の席でした。雨に濡れても気づかないくらいぼんやりしていて、今にも折れそうでしたよ」

当時のことを思い出したのか、神主はふと遠い目をした。

「お嬢さん。男という生き物は、世の女性に比べるとひどく弱い生き物でしてね。一度得たものを失うと、ひどく飢えてしまうのですよ。それこそ、前以上にね・・・」

「おっしゃっていることは判りますけど、まさかゾロに限ってそんな・・・」

「本当に、そう思われますか? ならば彼は、自分でも気づかないうちに心の中に何かを蓄えていたのかもしれませんね」

薄い霞の漂う空を見上げる。暖かな陽射しに目を細め、神主は思い出したように口を開いた。

「そうそう。厚かましいようですが、お嬢さんに伝言をお願いできませんか? もう少し余裕ができたら、また道場にいらっしゃいと」

「道場?」

「ええ、剣道の道場です。ああ見えてゾロは、全国でも屈指の剣士なのですよ。ただ・・・くいなを失くしてから子育てに追われて時間の余裕がないと、もう1年近くも会っていませんのでね。わたしはここの神主であると同時に、街外れにある道場の師範でもあるのです。ゾロとは、そういうおつき合いをさせてもらっています」

「そう、だったんですか・・・。そんなこと、一言も・・・」

最後の言葉は、ナミにゾロとの関係を説明してくれたらしい。
ナミは話の成り行きに呆然として、ただ惰性で頷くしかできなかった。


「あの・・・もし良かったらレンを――その子を少し抱かせてもらってもいいですか?」

「え? あ、ええ。でも大丈夫かしら?」

「ああ、もしや今人見知りの時期ですか? う〜ん、泣かれたらその時はその時ですね」

顔を擦りながら動いていた子ゾロは、抱き手を移動した感触にふと目を開いた。

おそらくは、物心ついて初めて見る神主をじっと見つめている。柔和な視線が丸い眼鏡の奥で揺れていた。

子ゾロは半分眠る態勢に入っていたせいか、そのまま神主の腕の中で目を閉じた。

「おやおや、眠られてしまいましたか」

苦笑はすぐに好々爺の笑みに変わった。珍しいこともあるものだと、ナミは内心驚いて目を丸くしていた。

かなり人見知りが激しいとルフィも言っていたので、どんな悲惨な展開になるか少々不安だった。
なのに、この神主の人徳なのか子ゾロの眠気が勝ったのか、最悪の結末だけはとりあえず回避されたようだった。

(まかりなりにも神様に仕えてるし、道場の師範なら相当修行も積んでるんだろうから、きっとこれは人徳なのね)

春の陽だまりのような温厚な雰囲気に、ナミはそう納得することにした。

「時にお嬢さん、ひとつ無粋なことを伺ってもよろしいですか?」

「は? 何でしょう!?」

「もしやあなたは、ゾロとご結婚されたのですか? それとも、その予定に?」

何気なく言われ、ナミは思わず言葉と息の両方詰まってしまった。

(あー、もうッ! ルフィといい神主さんといい、どうして周りが先にそんなこと言うのよッッ!!)

「え、えーと・・・そ、そんな予定はない、です・・・。き、今日はたまたまこの子を預かって来ただけで、その・・・」

「そうですか」

柔らかな視線でナミを見つめていた神主はふっと目元を綻ばせ、そのままふわりと微笑んだ。


「では、ゾロとこの子をお願いします――と申し上げておきましょう」


「――は? いえ、ですから私はまだ・・・」

(『まだ』? 『まだ』って何がッッ!? ええい、赤くなるな、私ッ!!)

だがいくら叱咤しても勝手に赤くなる頬を止められず、ナミは恐る恐る神主を見上げた。彼は柔和な瞳のままだった。

まるで全部判っているからと、ナミの背中を後押しするように。

しどろもどろになって言葉が出ず、ナミは照れ隠しするように長い階段の続く参道へと目を逸らした。


そこに――。



見慣れた翡翠色の髪の男が、ゆっくりと上がって来るのが見えた。




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(2004.03.15)

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