桜の花の咲く頃に     −10−
            

真牙 様




その後食欲の有無を聞かれたが、まだ熱っぽい身体は水分以上の物を欲してはいなかった。

なので、せめてそれに準じる物をと思ったのか、ゾロはりんごを丸ごと一個分摩り下ろした物を用意してくれた。

ただどうやって作業したのか、通常ならば完全なペースト状になっているはずのそれは、細かい欠片が多量に混じった見事な「細切れ」入りだった。

「・・・あんたってホント、とことん男料理よねぇ」

「うるせぇ。ちゃんと皮と芯は取ったんだ、ありがたく食いやがれ」

「はいはい、感謝してます。どーもありがとっ」

「まー? んま〜、あーう」

「レンも食べる? うん、甘くてなかなか美味しいわよ。って、このスプーン大の欠片ってどういうこと? 別の意味で涙出そうかも」

「やかましい、黙って食えッ」

火照った身体に、ひんやりとした下ろしりんごは格別の味がした。這い寄って来たレンにも何口か分けてやり、残りをゆっくりを口に運ぶ。

何気なくカレンダーを見て、今日が月曜だったことを思い出す。

「いけない。ビビかウソップに連絡入れて、今日の私の分の仕事を頼んどかないと」

「ああ、それだったら俺が連絡しといてやる。お前はそれ食ったらさっさと寝ろ」

ベッドサイドにスポーツ飲料を何本も置き、時計を見て時間を確認する。
先刻キッチンでりんごと格闘しながら電話をしていたので、ゾロの今日の仕事の段取りは整ったらしい。

「あー・・・もしシャワー浴びたいんだったら、タオルは洗面所にあるのを適当に使うといい。着替えはそのTシャツでいいよな。昼には一度戻るから、とりあえずおとなしく寝てろよ? まぁそんな格好じゃ、自分の部屋には戻れんだろうがな」

「ううう、うるさいッ! 行くならとっとと行け――ッッ!!」

「おお、おっかねぇ。んじゃ、行って来るわ」

「まー! あーう! マーンマ〜!! ぶー!!」

そう言うとゾロは、未だほんのり熱を帯びた頬をそっと撫で、レンを担いだ肩越しに手を振って出掛けて行った。
担がれたレンの猛抗議は、玄関のドアが閉まるまで力一杯続いた。

玄関での施錠音がやけに大きく響き、それを機に室内はいきなり水を打ったように静まり返った。

はたと思い出す。

「――あ〜、失敗した。バッグくらい持って来といてもらえば良かったー・・・」

携帯が手元にあれば、少なくとも連絡を自分で入れることができたではないか。
そんなことすら気づかなかったとは、やはり、どこかまだ本調子ではないらしい。発熱侮るべからず、である。

とりあえずもう一休みする前に、すっきりさっぱりシャワーだけ使わせてもらおう。
いい加減汗をかいてべたべたする肌が気持ちが悪い。
洗濯済みのTシャツを置いて行ってくれたので好都合だ。

ポカリを一口飲み、無造作にベッドに横になる。

今気づいたが、直接ナミに掛かっていたのは部屋にあったはずの自分の毛布だった。
察するにあられもない格好で倒れていた自分を移動させるのに、目隠し代わりに使ってここへ持ち込んだのだろう。

(とりあえず、裸同然の女抱えて移動したくない羞恥心くらいはあったのね)

ほっと目を閉じる。

広いベッドにはゾロの匂いと、微かに温もりが残っている。
遠くに近くに今まで馴染んできたあの男の匂いが、ナミは嫌いではなかった。
その匂いに包まれていると、何だかゾロにずっと抱きしめられているような安心感がある。胸の奥に温かな灯が灯る。

そう――サンジとはまったく違う。積み重ねて来た時間以前の問題のように思う。

(なのに、間違えるなんて・・・私も大概バカだったわ・・・)

散々セクハラされておきながら、その男に心身共に深い安堵を感じる。

その矛盾点に気づかないナミは、かなりのレベルでかれらにほだされきっていることに気づいていなかった。





ナミを休ませて自宅を出たゾロは、一旦10階に上がり、ナミの部屋の前に来ていた。

昨日の今日では、ナミの仕事仲間であるビビやウソップの携帯ナンバーなど知りようはずもなかった。
仕事先への連絡をつけるため、彼女の携帯を使わせてもらおうと思ったからだ。

「ちいっと待ってろな。今電話しちまうから」

「だーう」

昨日と同様、慣れた手つきでナミ宅のドアを開ける。ざっと室内を見回すと、目当てのバッグはキッチンのテーブルに放置されていた。

「悪ィが開けんぞ?」

聞こえるわけなどないが、一応断ってからその中を探る。目的の物は、開けてすぐのホルダーに収まっていたのですぐに見つかった。
二つ折りのそれを開き、アドレスでビビを探す。検索を掛けるまでもなく、一覧の上の方にあったのですぐに判った。
そのまま発信を押す。

『はい、もしもし?』

コール3回で目的の相手が出る。昨日聞いた声に安堵し、ゾロは口を開いた。

「あー、ビビか? ゾロだが」

『え、ええッ? ミスター・ブシドー!? ど、どうしたんですか、これナミさんの携帯ですよね?』

「ああ、そうなんだが、今本人が出られる状態じゃなくてな。昨夜から熱出してんで、今日は仕事に行けそうもねぇんだが」

『大変、ナミさん熱があるんですか? どうしましょう、私行った方がいいですか?』

「いや、昨夜往診頼んで医者に診てもらったんで、おそらく大丈夫だろ。今日一日休めば、多分明日には何とかなるとは思うが」

『判りました、ウソップさんにもそう伝えておきます。夕方には寄りますって、ナミさんに伝えてもらえますか?』

「ああ。いや、あー・・・ナミは今自宅にいねぇから、来るんなら一階下の俺んとこにしてくれっか?」

『・・・はい?』

約10秒近く間が開く。ゾロは念を押すようにもう一度繰り返した。

「だからナミは、今自宅にいねぇんだ。俺んとこにいるから、来るんならそっちに頼む」

暫く沈黙が流れる。ややあってくすくす笑う声がし、次いで異様にテンションの上がったビビが元気良く答えた。

『はい! 事情は良く判りました。ええ、こちらは任せて下さい。それと、私ミスター・ブシドーのところにお伺いはしませんから。おふたりの邪魔をするなんて、そんな野暮なことしたくないですもの、うふふ』

「・・・・? そうか? ならナミにはよく言っとくわ。んじゃ、よろしくな」

通話はそこで切れた。

ゾロは知らない。
たった今電話の切れた向こう側で、ビビの脳内細胞が妄想に暴走を重ねて活性化していたことなど・・・。





「どうした、ビビ? 今の電話ナミだったのか? そういや昨日、何か様子が変だったからなー。大丈夫なのかー?」

その電話は、いつもの出勤時間になっても現れないナミを、ビビとウソップのふたりが心配していた矢先の一報だった。

表情豊かに身振り手振りで会話していたビビだったが、途中からにんまりした笑みを浮かべていた。
どこか、楽しくて仕方がないといった表情だ。

「・・・どしたんだ、ビビ? 顔がミョ〜にホコロんでるぞ?」

心配モード全開だったはずのビビが、いつしかおかしくて堪らないといった顔つきになっている。

「ウソップさん、ナミさん熱出して今日お休みだそうです。今ナミさんの携帯から、ミスター・ブシドーがそう電話して来ました。ですから、今日はふたりで頑張りましょうねッ♪」

「ミスター・ブシドーって、あの無愛想なゾロのことだろ? こんな時間にナミの携帯からゾロって・・・へ?」

自分の言った意味の重大さにふと気づき、じっとビビを見る。

同じことを考えていたようで、ビビは笑い出してしまうのを堪えるように肩を震わせていた。

「まさかとは思うが・・・“そういう”意味、か?」

「この場合、それ以外に考えようがないと思うんですけど? うふふ、いいですね〜、春ですもんね〜」

「いや、そりゃあの魔女の如きナミにも人並みに春が来たのはめでたいんだろうが、寝込んでる大前提は何ら変わんねぇんだぞ? そうだよ、なのに何でそんなに嬉しそうなんだ? まさかナミが寝込んでることがそんなに嬉しいのか? 女の友情はどうした。いやいや待て待て、今まで世間的に見せていたのは実は仮の姿で、ホントのところは熾烈な女のバトルなんてのをやらかしてたのかッ!? うをッ、そしたら俺はどーすりゃいいんだ! 降り掛かる火の粉は払えんのか? 大丈夫か、挫けるな俺ッッ!!」

「何ひとりで変なこと言ってるんですか、ウソップさん。そんなんじゃありませんよ。ただ――」

言葉を切り、何気なくビビが俯く。ウソップは恐ろしい告白でも聞く思いで、ごくりとひとつ唾を飲み込んだ。

「た、ただ?」

「私、恋のキューピットになっちゃったみたいなんです、うふ♪」

(・・・はい〜?)

ウソップの脳内細胞が1分ほど停止する。

(キューピット? キューピットっつったか今? そりゃあさぞや・・・イタ〜イ恋の渡し守だったんだろ〜な〜・・・)

にっこり笑ってメガトン級の爆弾を投げつけるその所業を、ウソップは彼女とのつき合いで良〜く理解している。
わざとだったり天然だったり、その手法は様々だが。

そう――何気に「可愛い顔してエグいことをする」と言ったルフィの心眼は、思い切り正確に的を射ていたのだ。





頼まれた用事を果たしたと踵を返しかけ、ふとゾロはナミのバッグを見つめて肩を竦めた。

「・・・何か用を思い出した時連絡手段がねぇと不便、か。あんな格好でうろつけるはずもねぇし・・・しゃーねぇ」

「まー? おーう」

壁伝いにカニ歩きしていたレンを捕まえ、肩に担ぎ上げる。ゾロは鍵を握った指先にナミのバッグを引っ掛けた。

待っている時間が面倒なので、いつもとは逆の階段から9階に下りる。
どちらかというと階段からの距離の方が通路は長いが、今はいちいち上がり下りするエレベーターを待っている時間の方が惜しい。

さっさと通路を抜け、再度自宅の鍵を開ける。判りやすいようリビングのテーブルにバッグを置き、ふとベッドにナミの姿がないことに気づいた。

「どこ行ったんだ? まだ熱もあるってのに」

ひとり呟き、そこで初めてバスルームからの水音に気づいた。

あれだけ汗をかいたので、やはり女心としてはさっぱりしたかったらしい。小さく苦笑する。

(もう中に入ってんだろうから、バッグのことだけ声掛けてくか)

ゾロの服を物色し、万が一自宅に戻ってバッグのないことに気づいたら、今度は泥棒騒ぎに発展しかねない。

軽く肩を竦め、ゾロは何気なく洗面所へのドアを開けた。

「おいナミ、お前のバッグ持って来てや――」

そこでゾロの言葉と身体、果てには思考回路まですべてが一気に固まった。

なぜならば、とうに浴室内にいるものとばかり思っていたナミが、目の前で今正にキャミソールを脱ごうとしていたのだから。


――空白の5秒間・・・。


「き・・・きゃあああああああッッ!!!」

ナミの絶叫で、ゾロはようやく我に返った。一気に首まで真っ赤になり、しどろもどろの声は喉に張りついて要領を得ない。

「わ、悪ィ! い、いやその、別にわざと覗こうとしたわけじゃ・・・じゃなくて、ちょっと一言伝えとこうと・・・」

「何が一言よッ! 出てけ、このエロマリモッッ!! セクハラの次は覗きか、このムッツリスケベオヤジッッ!!!」

目にも止まらぬ早さで洗濯籠が飛来し、ゾロはまともにそれをおでこに喰らった。


その網目模様の痕跡はレンを保育園に送り届ける頃になっても消えることはなく、原因について大爆笑のルフィに激しく追及されることとなった。





「あ、あ、あんにゃろう、セクハラで足んなくなると今度は覗きか・・・ッ!」

思い切り捻ったシャワーのお湯を頭から浴びながら、ナミはふつふつと湧き上がる怒りと羞恥心とで煮えまくっていた。

「どこまで見られたんだろ・・・」

全部脱いだわけではなくあくまでも“途中”だったので、まともに上半身すべてを見られてはいない――とは思う。
しかし、一瞬というならまだ可愛げがあるが、固まったまま数秒は経過していたので、じっくり観察されてしまったような気がする。
だから余計に羞恥心が収まらないのだ。

(高熱出してる病人に拍車を掛けてどーすんのよ、あの男・・・!)

置かれていたボディソープやシャンプーを無造作に使う。嫌いな銘柄ではなかったので少し安心した。

(何だかなー・・・)

似て非なるもの。
自宅ではないバスルームで、自分の物ではない香りに包まれる。
それがなお一層ナミの気分を落ち着かないものにさせている。

それはまるで、自分が徐々にゾロの色と香りに染められていくような、一種秘め事めいた甘い痺れを感じさせてくれる。

(・・・ああもう、私ったら何考えてんの! こんなこと考えてたらまた熱が上がっちゃうわ・・・)

ナミはさっさと髪と身体を洗い、すっきりしてバスルームを出た。水気を拭き取ってゾロの用意してくれたTシャツを着る。

案の定それはぶかぶかで、裾などナミの太腿半ばまであった。これで一応キャミソールよりはましな格好になっただろう。

いや、逆に隠されてしまった分余計な想像力が総動員され、より一層扇情的な眺めになったと言えなくもない。

「だから・・・やめなさいっての、私!!」

声に出し、わざと大声で言い切る。そうでもしないと、とんでもない思考の螺旋に嵌まってしまいそうだったからだ。

(ああもう、とにかく今は休むのよ。休んで体調回復して、考えるのは全部それから。いいわね、私!?)

心の中の理性に否やの声は上がらない。

ナミはようやく人心地つき、大きなベッドにゆっくりと熱に疲れた身体を横たえた。




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(2004.04.19)

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