桜の花の咲く頃に     −11−
            

真牙 様




遠くで何か物音がする。ことことと何か作業する音、それを行う者の優しい気配。

(いつだっけ。小さい頃は、良くこんなことあったなぁ・・・)

姉のノジコと仔犬のように転げ回り、雨降りの中を傘も差さずに走り回ってふたりで風邪を引いて寝込んだことがあった。
治った後の拳骨は痛かったが、看病されている時のあの優しい手の温もりは今でも忘れられない記憶のひとつだ。

懐かしい光景に思わず手を伸ばすが、捉まえる前にすうっと消える。

軽い寂莫感と共に意識が浮上し、ナミは何気なく額に手の甲を乗せて辺りを見回した。

大分体調が回復したのか、意外に身体が軽く感じられる。

ふと鼻先に、何かのダシに似たいい香りが漂って来た。さすがに二食も抜くと、そろそろ胃が何かを欲しがって来るらしい。
熱さえ収まってしまえば尚更だ。

「・・・ゾロ?」

「んー? ああナミ、起きたのか。そろそろ何か食えそうか? とりあえず粥なんぞ用意してみたが、どうだ?」

「お粥? ・・・まさかと思うけど、あんたが作ったの? ていうかゾロそんな物作れたの?」

思い切り意外なことを聞いた気がして、ナミは大きく目を瞠る。どんな恐ろしい代物が出て来るか想像に耐えない気がした。

それを察したのか、ゾロは眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をした。

「俺以外、誰が作んだよ!? 作り方は管理人に聞いたから、変ならあそこの味覚が変なんだろ」

言いながら小さな盆を、ベッドに座るナミの膝へと預ける。小さめの丼に、少なくとも見た目はまともそうなお粥が湯気をたてていた。
その脇には水分補給も兼ねた、デザートの苺とネーブルオレンジが並んでいる。
どちらもつやつやして美味しそうだ。

「とりあえず食えねぇモンは入れてねぇし使ってねぇぜ? おら、冷めねぇうちにさっさと食え」

「化学反応してたら意味ないじゃない。・・・次に内科のお医者さんに行く羽目になったら責任取ってよね」

「おお、どう取って欲しいのか言ってくれりゃ、いくらでも思う存分取ってやらぁ」

鰹節と梅干の香りが脳の中枢神経を刺激する。ナミはようやく忘れてかけていた食欲を感じた。

覚悟を決め、恐る恐るそれを口にする。

「・・・どうだ?」

「嘘みたい・・・。思ってたよりもこれ美味しいわ。そうか、きっと熱のせいで味覚がおかしくなってんのね」

「熱のせいかよッ」

横目で睨むゾロを軽くいなし、もう一口食べようとレンゲで中身を掬う。不意にゾロがその手を掴み、強引に自分の口へと入れてしまった。

「何だよ、まあまあうめぇじゃんか。そりゃお前の作るのと比べちまったら、こんなん素人丸出しの味だろうがよ」

「なぁにゾロ。あんたもしかして味見もしてなかったわけ? 信じらんないわ、私を正真正銘の毒見役に仕立てるなんて〜」

悪口雑言を吐きながら、それでもレンゲを動かす手は止まらない。
途中で飲み物を挟みながら、気づけばナミはゾロの作ったお粥を綺麗に平らげていた。

「ああ、美味しかった、ご馳走様。後で管理人さんにお礼言わなきゃ」

「管理人かよッ」

空になった丼を取り上げ、パックに入ったままの苺とオレンジを盆の中央に移動させる。
小皿に入れたり切ったりせず、買って来たままというのがゾロらしかった。

「でもホント、意外だったなー。ゾロにこんなことができるなんて、明日と言わず今日にでも槍か隕石が降りそうね」

「お前何気に失礼じゃねぇか? やる時ゃ俺だってやるんだよ。伊達に1年近くひとりで子育てやってねぇ」

「その割にはとんでもない物ばかり持たせてくれなかった?」

2月に請け負った子守の際に、バッグから出て来た数々の珍妙な食材が思い起こされる。
かなり塩分の高い物を食べさせられていただろうに、よくもここまでの健康診断を潜り抜けて来られたものだった。

こういった代物が作れるなら、乳児には何が必要なのか気づいて然るべきなのだが。

「携帯するにゃ便利だろ。家で食う時はもう少し工夫はしたさ」

「・・・どう工夫したのかなんて、恐ろし過ぎて聞きたくもないわ」

つくづくレンの生命力に脱帽といったところか。今後もその意気で豪快な父の扱いをかい潜って欲しいものである。

何気なく時計を見る。時刻は1時近かった。

「忙しいのに悪かったわね。仕事途中なんでしょ? 片づけくらいしとくから、もう行ってもいいわよ?」

苺をひとつ齧りながらベッドから降り立つ。その姿に、ゾロの視線がじっと釘づけになっている。

「昨夜の格好もかなり扇情的にそそられたモンだったが、見えそうで見えねぇってのもまたイイな」

「・・・そういえば、ロロノア・ゾロさん? 今朝のコトなんだけど」

腕を組んで斜に構え、じっと斜め下からゾロを睨み上げる。
窓から温かな春の陽射しが差し込んでいるはずなのに、室温が一気に3度ほど下がったような錯覚に捉われる。

どうやらゾロは、自らの失言でまんまと地雷を踏んでしまったらしかった。

「な、何だ、今朝のことってどのことだ?」

「ゾーロ? ちゃんと答えて。・・・どこまで見たの?」

ゾロはナミの背後に、ツンドラ気候の酷寒の地に吹き荒れるブリザードを見たような気がした。

「おいおい、全部なんて見えんかったぞ? まあその、いいとこ胸の下半分ってとこで、こう、この辺が――」

「いや――ッ! 忘れて、忘れるのよ、忘れなさい! 慰謝料は5倍増しにして勘定に入れとくからね、これは一切勉強しないわよ!!」

「減るモンじゃなし、別にいいじゃねぇか。あれは事故だ、わざとじゃねぇ」

「乙女の珠のお肌を覗き見しといて何が事故よ! まったく、わざとやったら10倍だからねッ!」

ぶつぶつと文句を言いながら、空になった食器を洗うべくキッチンへと歩いて行く。

それを視界の隅で追いながら、ゾロは小さく溜息をつくしかなかった。

(そういうことは細けぇくせに、何でTシャツ1枚で男の前を平然とうろつくかねぇ・・・)

ゾロの切実な疑問は、ナミの耳に届くはずもなかった。


まったく――それにしても相変わらず豪快な言い切り文句だと、ゾロは諦めたのか肩を竦めただけだった。

そのゾロをもう一睨みしてやるつもりで目を向け、ふと、その背後に見える神社近くの桜並木が視界に広がった。

長い階段参道を持つ神社は、ここからだと階段自体が薄紅色の絨毯を敷き詰めたかのように優しいピンク色で埋め尽くされている。

昨日の花見は体調不良で一杯一杯だったので、せっかくの花をあまり良く見ることができなかったのが惜しまれた。

その視線に気づいたのか、ゾロはちらりと背後の風景に目をやった。

「昨日の桜山、どうだった? 実はあんま覚えてねぇんじゃねぇ?」

見透かしたように言われ、ナミはぐっと言葉に詰まる。本当のことなので言い返せなかった。

「しゃあねぇなぁ・・・そこの、師匠んとこの神社で良ければもう一度行くか? 花見」

「・・・週間予報では、今週末は雨続きなのよ? 行くなら平日しかないじゃない。あんた忙しいのに無理しなくていいわよ」

「今が満開なのに、雨なんざ降られたら一気に散っちまうだろうが。仕事は調整すりゃ何とかなんだろ。ま、その前後の晩飯は期待しとくわ。それでも構わねぇってんなら、そうだな――明後日の晩、夜桜見物に連れてってやるよ」

思い掛けない言葉を聞いて、ナミはどうリアクションしていいか戸惑ってしまった。

この男のことだから、自分からそんな人込みに巻き込まれそうな場所に誘ってくれるなど、考えもしなかったことだった。

少しは、昨日の自分の態度を反省したのだろうか。だとしたら殊勝なことだ。

「いやなら別に無理にとは言わねぇが」

「ううん、そんなことない! 行きたい行きたい、連れてって。夜店はもち奢りで♪」

「・・・何だよお前、すっかり元気じゃねーか」

洗い物を終えて、もうひとつ苺を口に放り込む。甘酸っぱい味と香りにナミは大満足だ。

「そうね。食べ物が美味しいってことは、結構復活してるのかも。うん、あんたにも手間掛けたみたいだし、これでも一応感謝してるのよ?」

「一応ね。だったらそれは、是非態度で示して欲しいモンだぜ。論より証拠、言葉より行動ってな」

ちらりと腕時計を見て、さすがにもうやばいと思ったのか玄関へと向かう。

その途中でふとナミの頬に手をやり、苺で赤く染まった唇に自分のそれを素早く落とした。
舌先がペロリと唇をなぞり、ナミは驚いて慌てて身体を引いた。

「ななな、いきなり何すんのよッ!? 風邪伝染っても知らないからねッ」

「感謝してんだろ? これで勘弁しとくんだから、俺も大概優しいだろうが。しかも甘い苺風味だから、正にご馳走さんだな」

「あんたの脳内マリモ細胞の中で“優しい”ってのは、“セクハラしてもいい”って変換されてんじゃないの?」

「ははは、かもな」

あまりに爽快に笑ってくれるので、ナミはがっくりと肩を落とすしかなかった。

「もう・・・笑ってないで、とっとと仕事に行きなさいよッ!」

「おう、そろそろマジでやべぇな。んじゃ、体調がホントに万全になるまで、もう少し休んでろよ!? ちょっと回復したからって、ナメて暴れてんじゃねぇぞ!?」

「いいからさっさと行く! で、帰って来る時はアイスのお土産つきでよろしくッ!」

「へえへえ、やっぱそのくらいの罵声と図々しさがねぇと回復したような気にならねぇな」

「全っ然褒めてないわよッッ!!」

何気に失礼な捨て台詞を残して行くゾロは、こちらもようやくいつものセクハラ全開オヤジ顔に戻っていた。





「おはよう、ふたりとも。昨日は急に休んじゃってごめんね。埋め合わせは必ずするから勘弁してね」

次の日ナミは事務所に着くなり、ビビとウソップのふたりに真っ先に昨日の不手際を詫びた。

「段取り整ってなかったから、スタートがやりにくかったでしょ? 今度から気をつけるわ」

「仕方がないですよ、ナミさん。風邪は時と場所を選んでくれないですから」

「そーだな。体調が悪い時は、無理せず言ってくれりゃいきなり夜更けに大熱出さずに済んだろうによ。あんま水臭いことすんなよ」

確かにそうである。常識人で良識人のウソップの言葉は変な説得力があった。

「ごめーん。今度からホンット気をつけるから。今日の午後のお茶に『ブルー・オール・ブルー』の新作都合するわね」

「ええっ? そんなぁ〜、そこまで気を使わなくていいんですよ〜、これは仕事ですもの〜」

そう言いながらもビビの視線は既に上の空――午後になったら確実に手に入るであろうデザートに、彼女の頬は緩みっぱなしになっている。

「おいおい、思いっ切り態度丸判りだし」

ウソップのツッコミは鋭い。

「ああ、そういや昨日の朝、ゾロに連絡入れてもらったのよね。あいつ、変なこと言わなかった? 肝心なとこでどっか変な奴だから、あんたたちにおかしなこと吹き込みやしなかったかと心配してたんだけど」

その言葉にふたりは微妙な表情で顔を見合わせたが、敢えて言葉にはしなかった。

「・・・何か怪しくな〜い? まさか何か隠し事でもしてるんじゃないでしょうね?」

「「な、何にもありませ〜ん」」

ビビは根が正直で嘘がつけず、ウソップは大法螺を吹聴するくせにその方向性が少々ずれている。
この中で飛び抜けて嘘や隠し事が上手いのはもちろんナミだが、正面からそう言われてもあまり嬉しくはない話だ。

「嘘ね、ゾロ何か言ったんでしょ!? 白状しなさ〜〜いッ!」

「きゃ〜〜ッ! ナミさんやめて〜〜〜ッ!!」

左手で首を羽交い絞めにし、右手で乱暴に髪を掻き回す。長いので絡まったら大変と、ビビも必死の抵抗を試みる。
が、一時期スポーツジムで鍛えたこともあるナミに、ほっそり華奢なビビが敵うはずはなかった。

「ホントにホントですってば〜。事実以外何も聞いてませんよ、熱出して寝込んでたってことだけで〜」

「・・・ふ〜ん、ならそういうことにしといて――」

そこまで言いかけて、ナミはふと落とした視線の先に見つけたものに目を瞠った。少し角度を変えて眺めるが、見間違いではない。
にんまりした笑みがナミの口許に浮かぶ。

「うふふ〜、ビビィ〜? そういやあんた、日曜はルフィに送ってもらったんだったわねぇ?」

「え? ええ、一応。へ、変ですか? 一緒にお花見したからとりあえずもう少しお話したいって思っただけですけどッ」

「ん〜ん、別におかしかないわよ? た・だ・ね♪」

自由になっている右手の人差し指で、すうっと耳朶のやや裏側をなぞる。ビビは頓狂な声を上げて首を竦めた。
その耳元に唇を近づけ、そっと吐息を絡ませるように甘い声で囁く。

「この時期の虫は性質が悪いから、“虫刺され”には気をつけた方がいいわよ〜?」

先程なぞった辺りの一点を、ナミの桜色の爪がくすぐるようにつつく。

それが何を指していたのか思い当たったビビは、瞬間的に首まで真っ赤に染まった。

「いいい、いえ、そんなナミさん! これは違うんです、誤解しないで、何でもないんですッ!」

「ん〜? 別に何も言ってないし〜、聞いてないし〜、詮索するつもりもないしね〜♪」

「だから、誤解しないで下さいってば! ほんの悪戯なんです、それ以上何もありませんてば!!」

(何気に暴露してるし)

ナミは必死に言い訳しながら墓穴を掘っているビビが可愛くて仕方がなかった。

「あー・・・判った。お前ら少し話し合え! おおお、俺は健康のため外でスクワットでもして来るぜッ。ああ、陽射しが眩しいな〜」

このテの話題には不用意に首を突っ込まない方がいいと即断したウソップは、手を上げてさっさとドアを開けて行ってしまった。
通りに面した大窓からは、桜の木の下で上下に踊るトレッドヘアが見えた。

「あーあ、週末雨が降ったら桜も今週で見納めねー。ビビのその“桜”も色っぽいけど、明日の夜桜も楽しみだわ」

「ナミさんてばー!」

「あはは、照れることないない。ただ、気をつけなさいね? あいつは本能の人だから、下手したらゾロよりも始末が悪いわよ!? 気がついたら押し倒されて、ムードと勢いに流されてました、なんてことにならないようにね。あ、ビビが望むんだったらそれは余計なお世話か」

「そんな怖いこと、素敵な笑顔で言わないで下さ〜い!!」


“春”の予感は、ここにもひとつありそうだった。




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(2004.04.20)

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