桜の花の咲く頃に     −9−
            

真牙 様




ナミを自宅に連れて来てから約1時間後――玄関で、来訪を告げるベルが鳴った。

「こんにちは、こちらロロノア・ゾロさんのお宅ですか?」

「ああ、そうだ。・・って、あれ? あんたは――」

ドアを開けて挨拶をし、訪ねて来た医者の顔を見て驚く。
それは、師匠のいる神社の近くにあった小さな医院の、あの青年医師だった。

「ああ、あなただったんだ。おでこの傷は・・・うん、もう大分目立たなくなってきたね、良かった。あ、俺あそこの診療所で医者やってるチョッパーっていうんだ。今日の休日診療は俺の当番だったんでね。以後よろしく」

「そうか。手間掛けるが、とにかく上がってくれ」

栗色の髪と瞳をした人懐こい医師チョッパーは、きょろきょろと辺りを見回した。どうやらゾロが患者でないことは判ったらしい。

「熱出して倒れたって言ってたけど、患者はどこ?」

「ああ、こっちだ」

「あー?」

寝室に案内され、足元に這い回っていた子供を見つけてチョッパーが微笑みかける。
レンは渋い表情を見せ、じっと動かなくなった。

「あはは、人見知りされちゃったみたいだ。えーと、患者は・・・この女性だね」

広いベッドに横たわる女の顔を見たチョッパーは、それが以前ゾロと一緒に診療所を訪れた女性だとすぐに判った。

「ああ、何だ、患者は奥さんだったんだね。ええと、診察を始める前に基本的なこと聞くけど、彼女妊娠してる可能性はある? それによって使える薬が変わるから、これはかなり大事なことだよ?」

何気なくさらりと問われ、ゾロは言われるまま言葉の意味を考え――理解した瞬間、一気に耳まで赤くなる。

「どうしたの? 俺、何か変なこと聞いた?」

「い、いやその・・・そうだよな、お前は医者なんだから。当然のことを聞いたまでなんだよな、ははは・・・」

ゾロの渇いた笑いが室内に響く。チョッパーは首を傾げたが、別に追求はしなかった。

(夫婦だっていろいろ事情があるもんな。いくら医者だって、踏み込んじゃいけない領域があるもんな。うん、判ってるよドクター)

チョッパーは心の中で自分の師にそう告げるとひとつ頷き、聴診器を出しながら改めてゾロを見上げた。

「で、どうなの? 可能性なんだから、まさか夫婦で判らないわけじゃないでしょ?」

ルフィのような童顔でにこにこしながら、際どいことをさらりと言ってのける。
医者とはこんなものかと、ゾロは眉間の皺を深くした。

「いや・・・それはあり得えねぇ、から」

「そう。上のおチビちゃんがまだ小さいから、二人目はまだ早いって避妊してたんだね。うん、いい家族計画だ」

(いや、そうじゃねぇだろッ!?)

ゾロの心の叫びはチョッパーには届くはずもなかった。




聴診器で心音を聞いたり熱を測ったり採血したりと、診察に必要なことを一通りこなし終える。
簡易カルテに必要事項を書き込み、チョッパーは二種類の注射器を一本ずつ用意し始めた。

「えーとね、この中身の黄色い小さい注射が熱冷まし、大きい透明な方が抗生剤だよ。ブドウ糖も入ってるから、気休めだけど栄養補給も兼ねてるかな」

「そうか。・・・で、容態はどうなんだ?」

アルコールで腕を消毒し、まずは熱冷ましを打つ。肩近くに垂直に刺すのでなかなか痛そうな眺めだ。

「ん〜、このところの寒暖の差に身体がついていかなかった、ってとこかな。風邪だと思うよ。それと、過労かな。3月は決算なんかが多いから、無理し続けると突然どっと疲労が押し寄せたりするんだ。女性は特に生理的なものもあるしね。もしかしたら、頼りになる旦那さんが休みの日にいてくれたから、心身ともに安心して気が緩んだのかもしれないし」

「旦那さん・・・」

(・・・ま、いいか。悪くねぇ)

どうやらチョッパーはゾロとナミを夫婦と信じて疑っておらず、ゾロも今更改めて否定する気も起こらなかった。
その甘い勘違いに、ゾロ自身悪い気がしなかったのが最大の理由のひとつである。

黙っていたところで誰にも不都合は生じない。
ナミが起きていたならば何と言うかは知らないが、当人は荒い呼吸のまま浅い眠りの中を彷徨っている。

そうこうするうち、チョッパーは二本目の注射を打っていた。抗生剤は肘の内側である。量が多いので打ち方もゆっくりだ。

「まー?」

「んー? ママはこれで大丈夫だよ、おチビちゃん。可愛いね、男の子かな? パパそっくりだねー」

「ああ、男だ。今は俺よりナミにべったり中でな」

溜息混じりに言うと、チョッパーはくすくす笑って血止め用のシールを貼った。

「それは仕方がないねー。人見知りの時期は、特に母性を求める傾向が強いから、パパの立場ガタ落ちかも。子供によってはパパとお風呂に入るのすら嫌がるらしいから、子育ても一筋縄じゃいかないし。って、独り者の俺が言っても説得力ないか」

「いや・・・そんなことはねぇさ」

独身でも医者の言葉は、また違った重みが感じられる。

今日ルフィも気づいて笑っていたが、ゾロとナミが並んでいれば、レンはちゃんと顔を見てナミの方へと這い寄って行く。
1歳を過ぎているので、判ってやっているとしか思えなかった。


(それにしても――)

浅い呼吸を繰り返すナミの横顔を眺め、ゾロはようやく安堵めいた息をつくことができた。

やはり、途中で感じた違和感はこれだったのだ。もっと早く気づいてやれれば、こんなにひどくならずに済んだかもしれなかった。

いや、気づいて声は掛けた。
なのにナミは、大丈夫だと笑って体調不良のことを告げなかった。

そんなに楽しみにしていたなら、あの時照れていないで連れて行くと約束してやれば良かった。
今更言っても、それはもう遅いのだが。

「ええと、これで処置は済んだから。後は小まめに水分を取らせるようにして。ここから脱水症状起こされると厄介だから。できればスポーツ飲料か、イオン飲料がいいな。汗をかいたら着替えもさせてね。熱が下がれば食欲も出るだろうから、そしたらお粥かりんごの下ろしたのでも食べさせてあげて。あっと会計は、月が替わるまでに診療所に来てくれればいいから。後は、大丈夫かな?」

「あぁ、助かった。手間掛けて悪かったな、こんなとこまで往診させて」

「仕事だから慣れてるよ。――と、そうそう、ひとつ言い忘れてた。着替える時、蒸しタオルで身体拭いてあげるといいよ? 特に背中とか、脇の辺りを重点的にやることがポイントかな。ここ大事だからね? じゃ、お大事に」

「お・・・おぅ」

チョッパーはそう言って往診鞄を持ち、診療所へと帰って行った。

(身体拭けったって・・・)

毛布を捲りさえすれば、剥き出しの手足くらいは拭いてやることはできる。しかし――。

(よりによって、背中と脇、だと?)

ナミの意識があろうとなかろうと、ゾロにはかなり難しい相談だった。

セクハラならば、相手の反応によって冗談で済ますこともできる。
実際そうしてどこまでなら許されるか、限界を図っていた節もまったくないとは言い切れない。
だが――チョッパーの言いつけをそのまま実行したら、相手が病人いうことも忘れ、冗談では済ませられなくなってしまいそうで怖い。

女の肌を見たり触れたりしたことがないわけでもないのに、ナミが相手だとどうにも調子が狂って仕方がない。

「・・・修行が足りねぇ」

ゾロの溜息は切実で深い。

なので、とりあえず今できることから始める。まずは飲み物だ。

「あー・・・チビ、じゃねぇレン、しゃあねぇからお前も来い。置いてってる間にベッドにかじり上がって、病人のナミを踏んづけてたらシャレになんなぇからな」

「あー、ぶー」

それには不満があるようだったが、もちろんそんな抗議など聞き入れるつもりはなかった。





夜になり、レンを風呂に入れて残っていた弁当で簡単に夕食を済ませても、ナミは未だ浅い眠りの中を彷徨っていた。

「まー? マーンマ〜?」

「今日だけは静かにしとけ。相手は病人なんだぞ? うるさくしてっとベランダのハンガーに吊るしちまうからな」

「ぶー」

熱のせいでかなり寝苦しいのか、寝返りだけは頻繁だ。時折覗いて額に手をやるが、なかなか熱が下がる気配はなかった。

(あいつ、ヤブじゃねぇだろうな!?)

医者など小児科以外殆ど掛かったことがないので、その辺の判断材料はあまりにも少ない。
人懐こい優しい笑顔の医者だったので、ここは素直に祈るような気持ちで信じたいところだ。

病人がいるところでひとりで飲んでいるわけにもいかず、ゾロは今日のところは早々に休むことにした。

「・・・・・」

微かに眉間に皺を寄せているナミの横顔を眺め、邪な思考を強引に頭の隅の方へと追いやる。

(ナミは寝てるし、何より病人だ。だから、変なこと考えんじゃねぇぞ自分!)

ふと考えてみれば、こうしてナミと一緒に眠るのは3度目になる。

1度目はレンが3日もの間熱を出し続け、ゾロも寝不足になっていた時に来てくれたナミを、無意識に抱きしめたまま離さなかった時。

2度目は眠ってしまったナミを無施錠の室内に放置できず、結果ゾロがレンと共に居座ることを決めた時。

その時は一瞬ソファで休むことも考えたが、それは大柄なゾロが寝るにはあまりにも小さ過ぎる代物だった。
ベッドも然りだった。ひとり暮らしでセミ・ダブルは褒めても良かったが、そのまま3人もの人間が寝るにはあまりにも狭過ぎる。

散々悩んだ結果、身体を寄せて背後から抱きしめるように眠ったのは本当に苦肉の策だった。

そして、3度目の今回。

今日はゾロ宅のベッドなので、とりあえずさほど身を寄せ合わなくても充分休むことは可能だった。
少し――いや、かなり惜しいと思ってしまったことは、哀しい男の性として勘弁して欲しい。

念のためベッドサイドに飲み物を置き、ゾロはレンとナミに挟まれるような位置に転がって目を閉じた。





(熱い・・・でも、寒い・・・)

耳鳴りと激しい頭痛を感じながら、ナミはふと浅い眠りから現実へと引き戻された。

柔らかな感触に、自分がベッドに横になっていることが判る。
キッチンで倒れたと思ったのに、無意識のうちに必死で寝室に辿り着いたのだろうか。

(だとしたら凄いわ私・・・)

目を閉じ、横を向いたまま耳鳴りの続く頭でぼんやり考える。いや、実際は考えることなどできず、惰性で状況を把握しているだけだ。

顔や額が熱いのに、身体は震えが来るほど寒かった。余程熱があるに違いない。漫然とそんなことを思う。

もうひとつ寝返りを打つ。
ふと――その指先に、何か温かい弾力のあるものが触れた。

目を閉じたまま何気なく手を伸ばす。それは適度な弾力に富んだ、ひどく温かな物体だった。
何も考えず、ただ本能のみで身を寄せる。

(ああ、あったかい・・・)

熱があるので大概のものよりはナミの方が熱いはずなのだが、それでもその物体は熱で疲弊したナミの身体を包み込むように温かかった。

触れた布らしき物体を手繰り寄せ、そのまま額を押しつける。思った通り、それは何とも言えず心地好かった。

心なしか、とくとくと懐かしい音が聞こえる。安心できる優しい音に、ナミはようやく深い眠りへと落ちて行った。



不意に忍び寄った感触に、うとうとしかけていたゾロは仰天して一気に目が覚めた。

(お、おいこらッ! ナミ、何しやがんだッッ!!)

寝苦しくて何度も寝返りしていたのは何となくは判っていた。発熱は体調不良の最たるものだ、それは仕方がない。

だが、寝返りをした勢いで、まさか自ら自分の胸に擦り寄って来るとは思わなかった。
しかもカーテンの隙間から漏れ入る街の灯りで、薄い闇の中にナミの白い肩が妖しく浮き彫りにされ、艶かしいほどの色香を漂わせている。

繰り返される吐息は、幾度となく首筋をくすぐり続ける。
強烈に存在を主張する布一枚越しの豊かな双丘が厚い胸板に押しつけられ、やんわりとその形を変えている。
柔らかな髪と熱による甘い体臭が立ち上り、ゾロは惑乱されて眩暈がしそうだった。

(おい、ナミ・・・ッ!)

たまたま横を向いていた手前、上になっていた左腕のやり場に困り、散々逡巡してそっとナミの腰を抱くような位置に置く。

それに反応するかのように、ナミはますますすんなりした脚までも絡みつかせて来る。

(〜〜〜〜ッ! 勘弁してくれ・・・ッッ!!)

ゾロは心の中で悲鳴を上げ、天を仰いだ。

状況だけなら、かなりラッキーなのかもしれない。こんな美女に触れる機会があれば、喜ばない男はまず皆無だろう。

しかしそれも、相手の体調が万全であることが大前提ではなかろうか。

ゾロとて健康なひとりの男だ。目の前にこんな極上の美女を据えられたら、手に入れたくなるのが当然というものだ。

しかし――何度も言うようだが、今目の前にいるのは高熱に苦しむ病人なのだ。
そんな相手をどうこうしてしまえるほど、ゾロも鬼畜根性丸出しではない・・・と思う。

(あぁ、畜生が・・・ッ!!)

どうにか気を紛らわせようと、やけくそで羊を数え始める。

時計の針は、未だ深夜を差している。


ゾロへの精神的拷問は続き、夜はなお一層更けていった――。




(重い・・・)

以前どこかで覚えのある感覚に、ナミの意識が急速に現実へと引き戻される。

ふと目を開けると、目の前にタンクトップに包まれた逞しい胸板が見えた。
両腕がナミを包むように差し出されている。どうやら正面から抱き合うような格好で眠っていたらしかった。

(な、何で私、こいつに抱きしめられて眠ってんのよ・・・!)

驚きに思わず撥ね起き――ぐらりと襲う眩暈に、再びベッドへと倒れ込む。

「う〜・・・羊が九万八千五百二十六匹、羊が九万・・・んぁ? 起きたのか、ナミ」

「お、『起きたのか』じゃなくて・・・何でまたゾロがここにいるの? まさか勝手に鍵使ったのッ!?」

「ああ? 俺がいんのは当然だろうが。ここ俺の部屋だぜ? お前、熱出してぶっ倒れてたんだよ、覚えてねぇか?」

言われて改めて気づく。天井は見慣れた柄だが、周囲に置かれている物がナミのものではない。
自分のものではないのに、変に見覚えのある部屋――そこは、思い出すまでもなく確かにゾロの部屋だった。

(何で私、こんなとこにいるの・・・)

まだ熱が残っているようで、どうにも思考がまとまらない。それでも何とか思い出す。

そうだ。性懲りもなく、また喧嘩したのだ。せめて言い訳のひとつも言いたかったのに、それを真っ向からゾロに拒否された。
哀しくて、悔しくて――思わず平手を見舞ってしまったのだ。

なのにそんな自分を、なぜゾロはわざわざ自宅へと連れて来たのだろう。

(どうして。何のために・・・?)

考えようとする後から思考が霧散する。どうにもタイムリーな結論が思い浮かばない。

そうするうちにゾロの大きな手がナミの額に触れ、自分の額との温度差を目算している。

「あー、昨日の夕方医者に来てもらって注射打ったから、大分楽になったとは思うが・・・まだ少し残ってるみてぇだな」

大欠伸をしながら身体を起こし、ベッドから足を下ろして座る体勢になる。無造作に頭を掻くゾロはひどく眠そうだった。
まるで、あまり眠っていないかのように。

まだ熱っぽいが頭痛だけは収まったので、何とか考える気力を奮い起こすことはできた。
まず湧き上がったのは基本的な疑問だった。

「何で私ここにいるの・・・?」

「俺が連れて来たから」

「だから、そうじゃなくて。喧嘩してたのに・・・人の言い分、聞く気もなかったくせに・・・」

「しゃーねぇだろ。病人相手に喧嘩もへったくれもねぇだろうが。話は・・・とりあえず、熱が下がったら聞いてやっから。だから、今はとにかくゆっくり寝ろ。あっと、喉渇いてねぇか? 汗かいて気持ち悪ィんならついでにこれにでも着替えとけ。何ならおまけで身体も拭いてやるが?」

言いながらグレーのTシャツが差し出される。確かに汗で肌がべたついているように感じられた。

何気なく自分の格好を見下ろしてぎょっとする。ノーブラにキャミソール、ショーツのみといったあられもない姿ではないか。
ナミは一気に顔が真っ赤になり、慌てて毛布を引き寄せた。

「ゾロ! ち、ちょっとあんた、私に一体何したのッ! 何で私がこんな格好で寝てんのよッッ!?」

「何でって・・・俺が見つけた時はもうその格好だったぞ? まったく、どうせ倒れんなら、もう少し慎みのある格好で倒れろよな。そんな挑発モード全開の格好されてたんじゃ、こっちもおちおち寝られやしねぇぜ」

「へ、変な気起こさないでよね、エロマリモ!」

唸りながら、手渡されたポカリを受け取り、渇いてかさかさしていた喉に一気に流し込む。
だが、突然流れ込んだ水分に身体の反応は鈍く、一瞬噎せてからナミは思い切り咳き込んでしまった。
それにも慌てず騒がず、ゾロは壊れ物を扱うようにそっとナミの背中を撫でてくれた。

それがあまりにも優しかったので、ナミは思わず呟くように言っていた。

「・・・何で、そんなに優しくすんのよ。たった一言、『間違えた』って言わせなかったくせに・・・」

「あぁ? 何を間違えたって?」

「あんたから感じた煙草の匂いだと思って・・・丁度夢の中にいたあんたと勘違いしただけなんだから。ホントにそれだけで、それ以上もそれ以下もないんだから・・・なのにゾロ、頭から耳塞いで聞こうともしないから・・・」

ナミはようやくそれだけ言うと、身体を丸めて毛布に包まった。

ゾロは何も言わなかったが、判ったというように無骨な手が軽くナミの背を2,3度叩いた。




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(2004.04.18)

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