桜の花の咲く頃に     −8−
            

真牙 様




――夢を見ていた。

自由にならない重い身体に鞭打って、ようやく上半身を起こす。

広大な草原にぽつんとたったひとり、まるで取り残されたように座っている。綺麗な草原なだけに、その荒涼感は寒々しいものがある。

不意に、一陣の風が吹き抜けた。

いつの間にか慣れた気配が近くにあり、見ればすぐ傍にゾロが佇んでいた。

ナミがじっと見上げると、ふといつか見た、あの切なげな優しい笑みが浮かんでいる。

表情は笑っているはずなのに、それがどこか泣いているように思え、ナミはそうすることが当然のように手を伸ばした。

(泣かないで。たったひとり、全部抱え込んで泣かないで・・・)

ナミの意図を察したのか、ゆっくりとゾロが屈む。
大きな手が、壊れ物でも扱うかのようにそっと頬に触れる。髪を梳き、首筋をなぞる。

深い翡翠色の瞳がじっとナミを見つめている。すべてを包むような優しい視線に、ナミはそうすることが当然のように逞しい首を抱いた。

微かに煙草の匂いがする。またひとりで切ない想いを振り切ろうと、心に爪を立てていたのだろうか。

(泣かないで。私はここにいるから・・・)

そっと唇に触れる。
それは不思議な重みを伴い、ナミの腕に奇妙な重圧感をもたらした。


がくり、と一気に喪失感が押し寄せる。それに合わせ、周囲の景色はあっと言う間に霧散した。




はっと目が覚め、急に現実に引き戻されたショックでどっと冷や汗が出る。

何が口を塞いでいるのか、変に息苦しい。何かを抱えている感触があるので、いつの間にかレンを抱きしめていたのかもしれない。
そう思いながらゆっくり目を開ける――と、間近に男の顔がひとつあった。

ぎょっとする。自分が抱きしめていたそれは、ゾロではなく金髪の料理人サンジだった。

「や・・・ッ!」

慌ててサンジの身体を押し退ける。心臓が早鐘を打って、呼吸をすることすら忘れてしまいそうだった。

(何・・・今、サンジくん私にキス、してたの・・・?)

状況がまったく把握できず、ナミは後退って混乱した思考を何とか宥めようと必死になっていた。

夢でゾロを抱きしめたと思っていた。が、実際抱いていたのはどうやらこの男だったらしい。

女性に対しては常に細やかな気遣いをしてくれる、どこまでも優しい男だと思っていたのに――。
それなのに、誤って抱きつかれたらこれ幸いと、それに便乗して人の寝込みを襲うような男だったのだろうか。

それ以前に――ナミは無意識のうちに手の甲で唇を拭っていた。

失望感以前に――いやだった。

サンジのことは人間としては好きだったし、“イイ男”と揶揄したこともあったが、生身の男としては意識していなかった。
増してや、こんな形で自分に触れて欲しくはなかった。

(ゾロなら・・・ゾロだったら許せるのに・・・)

自然に浮かび上がる思考に愕然とする。そこまであの憮然とした無愛想男に気を許していたのか、と。

そんなナミの様子を察したのか、サンジは慌てて弁解し始めた。

「あー・・・ごめん。その、触れるつもりはなかったんですけど! その、言い訳に聞こえるかもしれないけど、急にナミさんの手が・・・。ああ、それってやっぱり言い訳だよなぁ・・・。ええとね、これは・・・」

「―――――ッ!!」

必死に言い訳するサンジの肩越しに剣呑な視線を感じる。
それに気づいて視線を上げ――ナミは息が止まるかと思った。

(――ゾロ? まさか・・・今の、見られた・・・!?)

たった今、偶然ここに来たのだと思いたかった。何も見られていないことを祈った。

だが、驚愕に見開かれた瞳が次第に殺気を帯びるのを感じ、ナミはすべてこの男に見られていたことを悟った。




今より少し前――。

ゾロは、レンを寝かしつけに行ったナミがあまりにも遅いので、気になって様子を見に行くことにした。

淡い薄紅色のカーテンを擦り抜け、優しく香る春の息吹に目を細める。

階段から駐車場への緩い階段を下りかけ、ゾロは奇異な光景を見たような気がして思わず足を止めた。

(あれは・・・)

ゾロの車は駐車場の端の方に止めたので、ここからなら一段下がった向こうの様子が良く判る。

締め切っていては暑苦しいと思ったのか、車の後部ドアは開けっ放しにされていた。
通常なら、そこからナミとレンが見えるはずだった。

だが――そのドアのところに、あのサンジが中を覗き込むように身体を預けて座っている。
下世話に言えば、そこにいる誰かに圧し掛かっているようにも見えた。

そこまでなら、10歩譲って「サンジがナミの寝込みを襲おうとしている」と思うこともできた。

だがそこに、見たくもないものが見えた。圧し掛かるサンジの首に、回されたしなやかな二の腕が――!

(あのバカ、何して・・・ッ!!)

胸の奥にどす黒い感情が渦巻くのが判った。それが嫉妬であり、謂れのない独占欲であることも充分解っていた。

解っているのに、目の前の光景に腹が立って仕方がなかった。


頭の隅にいた冷静な自分が、侮蔑する眼差しでゾロを見ている。
ナミに肝心なことを何ひとつ伝えていないくせに、自分のもの気取りをするほどお前は愚かなのか、と・・・。


(・・・解ってる。俺はまだ、何も伝えてねぇ。あいつはまだ、誰のモンでもねぇ・・・それは解ってる、ああ解ってるさ!!)

以前、ようやくの思いで手に入れた小箱は、未だナミの手に渡ることなくゾロのポケットに押し込められたままだ。

痛いほど握り締められた拳が震える。
解っていてなお、溢れて止まない想いのやり場はどこにもなかった。




「・・・あーらら」

背後のゾロに気づき、サンジはおどけるように肩を竦めた。

殺気だった翡翠色の瞳は、視線だけでサンジを射殺そうとしているかのようだった。

(私・・・間違えたんだ。煙草の匂いがしたから、ぼんやりしてて前に感じたのと同じだと思ったから・・・)

煙草を吸わないナミに、銘柄の違いなど判るはずもない。純粋に、勘違いしたのだ・・・。

「・・・なぁに睨んでんだよ。ナミさんが怖がるだろうが」

「うるせぇ。用が済んだらとっとと失せやがれ・・・ッ!!」

押し殺された声だったが、ナミには怒鳴られた方がましなように聞こえた。

(ゾロ、怒ってる・・・)

よくよく考えてみれば、ナミが何をしようとゾロに文句をつけられる筋合いはなかった。
ナミはまだゾロに、「好きだ」とか「つき合ってくれ」とかの肝心な言葉を何ひとつ告げられていないのだから・・・。

(そうよ、束縛される筋合いないのよ? でも・・・)

そう言って関係ないと言い切られてしまうのも、あまりに寂しい気がした。

ならば、今まで培って来た関係や、共に過ごした優しい時間をどうしてくれるのか――なかったことになど、できない。
できるはずがないのに・・・。

「・・・へえへえ、今日のところは退散してやるさ。あっと・・・ナミさん、ごめんね。話はまた後で」

そう言うとサンジは、ゾロを一睨みして車に乗り込んで行ってしまった。

頭痛が増したような錯覚に捉われ、ナミは表情を顰めた。
どうしたらいいのか、どう説明すればゾロに判ってもらえるのか、ナミは鈍る思考に鞭を打って必死に考える。

「あ、あのねゾロ――」

何とか雰囲気だけでも取り繕おうと口を開く。
だがゾロはナミにみなまで言わせず、無表情の上冷然とした口調でさらりと告げた。

「・・・別に、俺にお前の行動を制約する権限はねぇ。あいつと何しようが、今の俺にはどうこう言う権利はねぇしな」

「違うのゾロ! あれは・・・」

自嘲気味に口許を歪めるゾロは、ナミを正面から見ようとしていなかった。まるで、言い訳など聞きたくないとでも言いたげに。

「もし見たまんまが事実なら、言い訳の必要はねぇだろ!? “ちょっと軽そうだけど、なかなかイイ男”なんだからな」

ナミは言葉に詰まり、きゅっと唇を噛んだ。
ナミの言い分を聞きたくないのか、聞くまでもないと判断したのか、ゾロの口調は淡々と静かだった。

それが逆に、愕然とナミの心を打ちのめした。

「・・・私の言い分は、聞くまでもないって言いたいの!?」

「“あれ”が事実なんならな」

ナミを見ようともしない一方的な言い草に、ついにナミが逆切れした。
レンを避けて後部シートから降り、そのまま近づいて一気にゾロの頬を張り飛ばす。

まさか平手が飛んで来るとは思っていなかったゾロは、初めて改めてナミを見た。ナミの目尻にはうっすら涙が浮かんでいた。

「・・・見たことと違うことだってあるのよ? 事実と真実の違いを聞こうともしないで、そうやって耳を塞いでればいいんだわ! あんたなんかに期待した私が馬鹿だった!!」

頭がガンガンする。耳鳴りでこめかみが痛い。

ナミは踵を返した。今は一刻も早く、ゾロの顔の見えないところに行きたくて。




「ど、どうしましょうルフィさん。ナミさん行っちゃいましたよ? ああ、ミスター・ブシドーったら何てこと・・・」

「う〜ん・・・」

ふたりの様子を階段の上で窺っていたルフィとビビは、とんでもない展開に青褪めていた。

いや、主に慌てているのはビビのみで、ルフィはというと悠然と構えたまま憮然と佇むゾロを見下ろしている。

「ゾロもなぁ、ホントは全部判ってはいるんだ。何が大事で、何を優先しなきゃいけないかって。判ってるのに、まだ怖いんだ。また失くしたらどうしようって怯えてんだ。っとにバカだよなぁ、誰のお陰で笑えるようになったのか自分が一番良く知ってるくせによ」

「・・・ルフィ、さん?」

誰にともなく呟くルフィに、ビビはじっとその横顔を見つめる。

そこにいたのはいつもの能天気なやんちゃ小僧ではなく、どこか達観した雰囲気を持つひとりの“男”だった。

「でもな、やっぱナミのためにここはひとつ言っといてやんねぇとな。一飯の恩だ」

そう言ってルフィはいつもの表情に戻り、階段を一気に駆け下りてゾロの前に立ちはだかった。
怪訝な顔をするゾロを前に何ら物怖じすることなく、ルフィはまっすぐゾロを指差して轟然と言い放った。

「ゾロ、お前が悪いッ!!」

そして、ゾロは自分より小柄なルフィに圧倒されて何も言えず、言葉を呑み込んで一歩退くしかなかった。




小道を戻って行くと、丁度ウソップとカヤがおおまかな片づけを始めていたところだった。

「おうナミ、チビ助なかなか寝なかったのか――って、何かあったのか?」

「――え? んんん、何でもないわよ。そうね、もう大きい物は片づけた方がいいわね。手伝うわ」

何気なさを装い、さっさとカヤの隣で小物をしまい始める。何も考えないためには、身体を動かすのが一番だった。




そうしてその日の花見は終わり、それぞれに帰路に着いた。


当然のように帰りの車内での会話はルフィとビビのふたりのみで、ゾロとナミは一言も発しない。
時折ビビが気を使って話を振るが、軽く相槌を打つだけでどちらもまったく乗って来る気配はなかった。

やがてルフィの降りるコンビニに着く。ルフィは何を思ったのか、不意にビビの腕を掴んで引いた。

「おうゾロ、ビビは俺が送ってくからお前らはそのまま帰れや。んじゃな〜」

「って、え? ちょっとルフィさん!?」

「・・・おぅ」

ぼそりと呟き、車はふたりを降ろして行ってしまった。

走り去る車の後ろ姿を眺めていたルフィは、それが完全に見えなくなってから何気に口を開いた。

「なぁビビ、お前食い物にかこつけてわざとサンジのことあそこに呼んだんだろ。可愛い顔して意外にエグいことするよなー」

不意の発言に、ビビは思わず言葉に詰まった。

「・・・ど、どうして判ったんです? ナミさんにも内緒だったのに」

「うんにゃ、何となくだ。かーなり余計なお世話だったかもしんねぇが、ん〜〜・・・まぁ、何とかなっかなー」

「だって、レンくん預けたり何だりしてる割には全然進展しないから、きっかけがいるのかなぁって・・・」

そういう自分も、ルフィとの再会を仕組まれていたことなど知る由もないが。

「・・・それにしても大丈夫なんですか、あのふたり。仲介役がいなくてますます喧嘩してたらどうしよう・・・」

「病人相手にそこまでやらんと思うけどなー。ま、後はゾロが何とかすんだろ。できなきゃナミとはそれまでだ。ま、あいつも黙っておとなしく諦めるタマじゃねぇけどな、しししッ」

「え? 病人って一体・・・それに何とかって・・・」

心配なのかまだ狼狽しているビビに、ルフィは歯を剥いて笑って見せた。

「ガキじゃねぇんだ、後は本人の努力と根性の見せ所だろ。んなことよりビビ、この後どっか行かねぇか? 俺とデートしよーぜぃ♪ もち後で携帯ナンバーとメル・アドも教えてくれなッ♪♪」

「・・・え? ええええッッ!?」

――実はこれが本当の目的であったことに、ビビはまったく気づいていなかった・・・。





寒気がますますひどくなっている。暖かい気候だと思い、薄着にしたのが更に拍車を掛けたようだ。

マンションの駐車場に着き、ナミは何とか平静を装って車を降りた。

もう捨て台詞を言う気力もない。一瞬迷ったが、一言「じゃあ」とだけ告げ、ナミは先にエレベーターへと乗り込んだ。

「さむ・・・」

ようやくの思いで部屋に辿り着き、手前にあったキッチンの椅子に身体を預ける。
バッグを放り出し、テーブルに肘をついて痛む頭を支える。

(とりあえず、休まなきゃ・・・)

熱があるのに寒気がひどく、逆に衣服が鬱陶しく感じられる。窮屈で堪らなく思われる。

とりあえず上着を脱ぎ、キャミソール仕立てのシャツをそのままに、もっとも窮屈に感じていたブラとスカートのボタンを外す。
それだけで大分身体が楽になり、ナミはようやくほっと一息つくことができた。

(ベッドに行かなきゃ・・・寝室、どっちだっけ!?)

平衡感覚がおかしくなりかけている。やばいとは思うのだが、身体が上手く動かない。

その時――玄関のベルが鳴った。間隔を置いて、もう1回。

(・・・う〜、こんな中途半端な時間に一体誰よ・・・押し売りだったら速攻コロスわ・・・)

ナミはテーブルに手をついて立ち上がった――つもりだった。
だが実際はそれと同時に全身から一気に力が抜け、椅子ごと床に倒れてしまった。

スチール製の椅子が凄まじい音をたてるが、今のナミにはそれすらも遠く感じられた。



玄関のベルを押して待つが、なかなか応答がない。ゾロは焦れて眉間に皺を寄せた。

やはり調子が悪かったのか、ナミはマンションに着くと自分の荷物も持たずにおぼつかない足取りで上がって行ってしまった。
細かい物がたくさん詰まったバスケットなので、そのまま預かるわけにもいかない。
先刻の今で気まずいのは確かだが、返す物はきちんと返しておかねばそれこそ後で何を言われるか判ったものではない。

もう一度押してみる。
次の瞬間、中で何かが派手に倒れ、次いで重々しい物がドサリと落ちる音がした。
ぎょっとして思わずドアノブを掴む。

「――おい、ナミ? いるんだろ、何やってんだ!? 返すモンがあんだからここを開けろ、おい!」

力任せにドアを叩くがそれきり室内は静まり返り、物音ひとつしなくなった。

(あぁもうッッ!!)

中を確認して、無事何事もなければそれでいい。勝手に鍵を開けてしまったことを咎められたらその時はその時だ。

ゾロはキーケースの中から、ナミの部屋のキーを捜し出して鍵穴に差し込んだ。
そのままドアを開け、勝手知ったるナミの部屋へと無遠慮に上がり込む。

「お前が開けねぇから勝手に開けさせてもらったぞ。おいナミ、何やってんだ? 今物凄い音が――」

言いかけてぎょっとする。

危惧していた通り、ナミは浅い息を繰り返して床に倒れていた。寒いのか、時折痙攣するように細かく震えている。

「おい、ナミ! しっかりしろ、どうした・・・ッ!?」

肩を掴んで抱き起こし、そのままゾロは硬直した。
いや、状況が状況なのでそんなことをしている場合ではないのだが。

抱き起こしたナミは、殆ど半裸――上はノーブラにキャミソール一枚、下はショーツのみでスカートは太腿まで脱げ落ちている状態だったのだ。

(こ、こんなん一体どうしろって・・・だあぁもうッ!)

一度手を離し、寝室へ入り込んで毛布を一枚失敬する。

それでナミを包み込み、ゾロはナミを抱えて自分の部屋へと連れ帰った。

人の部屋では必要な物がどこにあるのか判らない。その点、自宅ならばその心配は皆無だ。
これも苦肉の策なのだと、無理矢理自分を納得させる。

・・・そうか? そうなのか? 本当〜にそう思っているのか!?(←天のツッコミ)


――それにしても。

「頼むから、倒れんだったらもう少しまともな格好してやがれってんだ。ったく、勘弁してくれよ・・・」


青くなったり赤くなったり、ゾロの顔色は忙しい。



それでも休日診療をしている医者の往診を頼むべく、ゾロは救急の案内をコールした。




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(2004.04.17)

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