桜の花の咲く頃に −7−
真牙 様
穏やかな時間が流れる。周囲にも笑い声が溢れ、桜山はふんわりとした空気に包まれていた。
「なぁナミ、チビ・マリモンまだ警戒してっかぁ? 興味津々な顔はしてんだけどなー」
「ん〜、でも大分慣れてきてはいるみたいよ? そろそろ動き出そうとしてるし・・・そうだ」
確かに良く見れば、手先が周りの草花や虫を狙って動いている。
それを見たナミは、レンの手におしぼりを持たせて腰を上げた。つられたようにレンもハイハイから2本足で立ち上がる。
最近は掴まり立ちから直立程度はできるようになっていた。もしかしたらという期待が頭を掠める。
「ほ〜らレン、2本のあんよでここまでおいで〜。ゴジラは2本足で歩かなきゃビル破壊もできないわよ〜?」
「いや、壊さなくていいし」
「ま〜?」
「お? 記念すべき第1歩か!? おう、決定的瞬間は任せろ!」
さり気なくツッコミを入れたウソップは嬉々としてファインダーを覗いた。
ゴジラ姿のレンはきょとんとしたまま、おしぼりを握り締めてナミを見ている。
ゾロも呆然とそれを見守っていた。
どうやら、我が子が既に歩いてもおかしくない月齢に達していたことなど、まったく思いもしなかったようだ。
「ほれ、お前もこっちに来て呼んでやれ。ほ〜れチビゴジラ、歩いて来〜い」
「おっでー、おっでー」
にこにこ顔の幼い娘が、「おいでおいで」と呼んでいる。それをじっと見つめるレンは、不思議そうに首を傾けた。
「あー? まー?」
「そうよレン。ここまで歩いておいで」
ナミも膝をつき、ほんの数メートル先で手を広げている。
おしぼりを齧っていたレンは、おずおずと記念すべき第1歩を踏み出し、1歩ごとに尻尾が揺れ――4歩目で顔から地面に突っ込んだ。
「ぶー」
「あはは、凄い凄い。初めてにしては上出来よ、レン。――なぁにゾロ、その幽霊でも見たような間抜け面は」
「いや・・・もう歩くなんて、思ってもみなかったんで」
「歩かなかったら困るでしょ? こうなるとますます目が離せないわよ〜? 今まで手が届かなかったところに届くし、バランス悪いからどこでも顔から突っ込んでくしね。正直言って痣と瘤の日々よ。でも、もしかしたら自爆じゃなくて怪獣ゾロゴンの虐待かもねー!?」
冗談めかしたナミの言葉に、ルフィが堂々と胸を叩いて豪語した。
「んん、その辺は俺に任しとけ! そんなことになったら、俺がゾロをギャクタイしてやっから!!」
「・・・やれるつもりでいんのかよ!?」
「やるかゾロゴン! 正義の味方モンキー・D・ルフィは怪獣なんかにゃ負けねーぞ?」
黒と翡翠の瞳の間に、一瞬剣呑とした空気が流れる。が、ルフィがいつも通りへらへら笑っているので、ゾロはあっさりと肩を竦めた。
「阿呆らしい・・・」
ふっと力を抜いて、ナミについて回る我が子を眺める。
ふと思う。
くいなが死んでから無我夢中で、がむしゃらに生きてきた1年だった。
自分はともかく、確実に子供は成長している。それだけの時が流れたのだと思うと、不思議な感慨が胸に湧いた。
来月には1周忌も来る。顔を合わせにくい者が近くにいるので行きたくはないが、今度こそそういうわけにもいかない。
(俺はともかく、向こうは会いたかねぇだろうが・・・)
視線の先には、何気なくナミが映っていた。
ふと、微妙な違和感を感じて片方の眉を顰める。
「・・・ナミ、お前先刻からあんま飲み食いしてねぇんじゃねぇか?」
「え? んんん、そんなことないわよ? レンが一緒だからそう感じるんじゃないの!?」
「――そうか? なら、いいんだが・・・」
(びっくりした。ゾロったら、変なとこ意外に見てんのね・・・)
内心の驚きを巧みに隠し、ナミはレンの頭を撫でた。
実のところ、朝方感じていた寒気がここに来て少々ひどくなっていたのだ。
そのせいかすっかり食欲も失せ、ビールではなくポカリのようなスポーツ飲料を身体が欲しがっているように感じられてならない。
少しぼうっとするので、もしかしたら熱もあるのかもしれない。――まあ、まだ切迫した状態ではないが。
ゾロはまだナミを見ている。何でもないとアピールするように笑って見せた。
じっと探るような視線がナミを包んでいたが、やがてふっと伏せるように翡翠色の瞳が逸らされた。内心ほっとする。
普段はじれったくなるほど鈍いくせに、こんな時に限って鋭いから困りものだ。
「ナミさん、胃に余力残しておいた方がいいですよ?」
ふと腕時計を見ながら、ビビがどこか含むもののある笑みを見せる。
「何? 何か他に持って来てたの?」
「うふふ〜、実はもうすぐデザートのデリバリーが来るんです。ただ、その〜・・・ナミさんの名前出しちゃったもので、そこら辺を酌んでもらえると助かるんですけど」
照れ笑いを浮かべるビビだが、ナミの名前を使って一体何を注文したというのだろう。
ナミの名前で即座に注文に応じてくれるところなど、かなり限られて来るのだが。
いくつかの店を思案し、ふとこの間見たチラシと今日の日付が合致する。
「あ・・・もしかして、今日発売開始の『ブルー・オール・ブルー』限定物の“三色トリオのチーズスフレ”? デリバリーってまさか・・・」
「はい、多分・・・店長さん自ら来ると思います。だって、ナミさんの名前出さないと予約割り込みできないと思ったし、その、美味しそうだからどうしても今日みんなで食べたかったんです! いけませんかッ!?」
(みんなってのは、思いっ切り建前だわね・・・)
いい根性している、とさすがのナミも苦笑する。
さすがは『美味しい物をゲットするためには親でも使う』ビビの本領発揮といったところか。
ナミも気になってはいたので、デリバリーまでしてくれるというならありがたいとは思っても迷惑ではない。
「店長っていうとサンジくんね。定休日じゃないから、昼休みに抜けて来るんでしょ?」
「ええ、だからもうそろそろ・・・って言ってたら来たみたいですよ?」
「は〜い、んナミすわぁ〜〜ん、ビビちゅわ〜〜ん。愛のデザート、春風に乗ってお届けに上がりましたよ〜〜♪」
噂をすれば何とやら、見れば丁度階段のところでサンジが大きく手を振っているのが見えた。
「いや〜、今日はこんな花見の席に呼んで頂けるなんて、俺ァ世界一の幸せモンですよー。しかも、こんな美女たちに囲まれて」
サンジの視界は意図的にゾロたち3人を強制排除している。
今日発売の新作デザートが届き、その美味しさに女性陣の反応はすこぶる良かったが、残る男性陣の反応はまちまちだった。
「うを、何て噂通りのエロコックなんだ! カヤは俺の女房だぞ、手ェ触んな、握んな、撫で回すなッ!」
と、涙で訴えモードのウソップ。
「・・・グル眉エロコックが・・・ッ!」
と、剣呑な瞳に恐ろしいくらいの殺気を漲らせているゾロ。ウソップの涙は、半分はこの男のせいかもしれない。
「そっかぁ? うめぇモン持って来てくれたんだし、手ェくらい――おいこら、ビビに触んなッ! それ寄越せ、俺が食ってやる!!」
と、言動と行動がちぐはぐなルフィ。
「きゃあ! ルフィさん、それ私の分ですよ!?」
「欲しいかー? ししし、こっち来なきゃ食っちまうぞー」
「ひどいですそんな! 今日のこの日をずっと楽しみにしてたのに、そんなことしたら絶交ですよ!!」
「えぇ〜、そんなぁ! ほ、ほれ、まだ食ってねぇよ。半分やっからさー、機嫌直してくれよー」
聞いてる方が恥ずかしくなるような子供じみた会話を展開し、ビビは脱兎の勢いで逃げるルフィを追って走って行く。
その最中、ルフィは一瞬サンジの方に顔を向け、してやったりの笑顔を残して逃げて行った。
手にはしっかり、チーズスフレを掴んで。
「あンのクソ猿が・・・ッ!!」
サンジのこめかみにひとつ、くっきりと青筋が浮かんだ。
だがさすがは愛と食の伝道師、切り替えも素早く今度はナミへと標的を変える。
「ビビちゃんから聞いて驚きましたよ。眠れなくなるほど、今回の新作を楽しみにしててくれたなんて、俺感激してんスよ」
「あーそう、それはありがと。美味しいデリバリーにこっちも感激だわ」
感謝の言葉にはまるで重みがなく、いかにも薄っぺらい謝意は風が吹いたら飛ばされそうだ。
店からここまで届けた労力ではなく、あくまで届いた物の方に重きを置いた発言に、ウソップは少なからずサンジに同情した。
(そうだ、コイツはこういう女だった。魔女だしな、アクマだしな・・・)
ウソップの心の呟きを聞く者はいない。
「あー! まー!」
何を思ったのか、ナミの手を撫でさすっていたサンジの手に、目の前で見ていたレンがいきなり思い切り噛みつく。
「あだだだ! いいい、いい匂いでもした、か、な・・・うぎゃ〜〜〜ッッ!!」
(でかした、我が息子!)
ゾロの心の叫びを聞く者もいない。
そのうちレンが顔を擦り始めたので、ナミはその背を叩きながら立ち上がった。
「はいはい、もうおねむなのね!? ゾロ、車のキー貸して。ちょっと寝かせて来るから」
「おぅ、頼む」
ゾロの手から空中に放られたキーを器用に受け取り、ナミはサンジには目もくれず駐車場へと去って行った。
サンジの特徴のある眉がハの字に下がり、滝の涙がその頬を濡らした。
しかし――ここでメゲては愛の戦士の面子が立たない。サンジは気を取り直し、とうとう人妻カヤにまでアピールし始めた。
「いや〜、こちらも可憐でお美しい。こんな方に食して頂けるなんて、料理人冥利に尽きるってモンですよ〜」
「おいこら、カヤは俺の女房なんだぞ? そこんとこ、声を大にしてよろしくなッ」
「うるせぇ、長っ鼻! そんな理不尽なこと、神が許しても俺が許さねぇぜ! 俺は愛と食の伝道師サンジ様だ。ささ、俺の愛のたっぷり籠もったデザートをどうぞ召し上がれ♪」
「は、はあ・・・」
苦笑するカヤを必死にウソップがガードしている。そこに幼い娘が入り込むので、サンジの表情も七変化だ。
「おお、こちら未来のレディにも差し上げなくちゃだな。さあ、どうぞ」
「あーがとー」
「う〜ん、可愛いな〜。お兄ちゃんに感謝のちゅーしてくれてもいいんだよ〜?」
2歳児の手を取って鼻の下を伸ばすラブコックに心底恐怖し、ウソップは本気で涙ながらに訴えた。
「うわ――ッ、やめてくれェェッ! これ以上娘の無垢な魂を、輝かしい未来を汚さないでくれ〜〜〜ッッ!!」
正に阿鼻叫喚の地獄絵図――穏やかな春の宴は、どこか微妙にその様相を変えつつあった。
「あ〜・・・ちょっとヤバいかなー・・・」
ぼんやりする頭に変な耳鳴りが聞こえる。首筋辺りが変に熱いので、熱が上がっているのかもしれない。
「ま〜?」
「ん〜、まだ大丈夫よ〜、多分。あんたにかこつけて、少し休めば何とかね〜・・・」
ワゴンの後部ドアを開放し、シートを全部フラットに直す。最後尾にあったタオルケットを引っ張り出し、レンと自分とに掛ける。
「さ、少しおねむしよっか」
「マーンマ〜・・・」
添い寝しながら、レンの小さな肩をゆっくりしたリズムで叩く。
陽射しは暖かで風もなく、絶好の上天気のはずなのに背筋が寒くて仕方がない。
本格的な体調不良をどうすることもできず、ナミはいつしか浅い眠りの中を彷徨いつつあった。
いつまでもサンジがカヤにちょっかい出し続けようとしているので、ウソップは必死に打開策を考えていた。
今までの会話を反芻し、ようやく世間的にも誰の目から見ても納得のできる退去方法を思いつく。
「おい、愛と食の伝道師サンジとやら。店長自らデリバリーとは恐れ入ったが、抜けて来たならもう昼休みは終わりじゃないのか? 店長がそんなルーズなことやったら、店員にも示しがつかんだろうが」
「ぐっ・・・長鼻のくせに理路整然としやがって。ふん、今日のところはこれで引き上げてやるが・・・次を見てやがれ。今度こそ、この愛の伝道師の真骨頂を思う存分思い知らせてやるぜッ」
「いや、真骨頂も愚の骨頂もいらねーし」
ウソップのツッコミを綺麗に聞き流し、サンジは渋々といった様子で桜山を後にした。
「ふい〜、ようやく帰ったかー。カヤ、大丈夫か? 後で消毒した方がいいんじゃないか?」
「ウソップさんたら。せっかく美味しい物を届けてくれた人に、そんなことを言うものじゃないわ」
「いい、いや、あいつのレベルはそんな生易しいモンじゃなくてだな・・・あ〜・・・そういや、ナミ遅いなー。どうしたんだ? チビ助と一緒に寝ちまってんのかな?」
言われてゾロは改めて腕時計を見た。ナミがレンを連れ出して、既に40分以上経っている。
寝つきはかなりいい方なので、そんなに手間取るとは思えないのだが。
「・・・ちょっと見て来る」
「おぅ、そうしてやってくれや」
強面の外見の割に、細やかな一面も持っているようだ。ゾロの広い背中を見送り、ウソップは結構いい奴かもしれないと思った。
「ま〜ったく、今日も今日とて時間の神が恨めしいぜ。せっかくのレディたちとの有意義なティータイムが――」
ぶつぶつと咥え煙草で詰りながら、車に戻るべく駐車場へと足を運ぶ。
ふと、視界の端に綺麗なオレンジ色が見えたような気がして足を止める。
(あれは・・・ナミさん?)
大型ワゴンの後部ドアが開放されたままで、そのシートに見紛うはずのないオレンジ色の髪の美女――ナミが眠っていた。
ゴジラの着ぐるみを着た子供が隣に転がっているので、添い寝のつもりがつい一緒に眠ってしまったらしかった。
「ナミさん? こんなところで無用心ですよ? 不心得者のオオカミが通り掛っても知りませんよ!?」
苦笑しながら声を掛ける。やや深めに眠っているのか、ナミはサンジの呼び掛けに反応しない。
「ナミさ――」
はだけていたタオルケットを直しかけ、サンジは不意に彼女の艶かしい姿に目を奪われた。
陽射しに晒された半身が熱かったのか頬がほんのり上気し、頬が薄紅色に染まっている。
長い睫毛が白い肌にくっきりと陰を落とし、すんなり通った鼻梁と甘い果実のような唇と見事なコントラストを織りなしている。
掛け値なしの美女だった。男として悪戯心を起こし、思わず触れたくなるほどに。
「・・・ナミさん?」
もう一度声を掛ける。反応しないのをいいことに、サンジはひとつ息を呑んで手を伸ばした。
そっと頬に触れる。絹のようなしっとりした手触りに、男として更なる欲望が目を覚ます。
壊れ物を扱うかのように、あくまで優しくオレンジ色の髪を梳き上げる。そのまま顎のラインをなぞるが、ナミは一向に目を開けない。
もう少しなら大丈夫かと、サンジの指先がゆっくりと首筋から鎖骨へと滑る。
一瞬、横になってもその存在を主張する豊かな双丘に目が行ったが、そこに触れるのは何とか理性で踏み止まった。
「ナミさん・・・早く起きないと、キスしちゃうよ・・・?」
寝込みを襲えば犯罪だ。それ以前に苛烈なナミの性格を思えば、目覚めてバレた時の仕打ちの方が怖い。
迫るなら、起きている時正面から堂々と。
かなり惜しいと思いつつ、サンジはナミの吐息の感じられる距離で、小さく溜息をついた。唇まで、あと数ミリという際どい距離だ。
だが、その瞬間――不意にナミの両腕が上がり、サンジの頭を抱くようにその首へとしなやかな腕が巻きついた。
「・・・ろ・・」
ナミが小さく何か呟く。
「ナミさ――!」
確かめる間もなく、サンジはナミの唇で言葉も思考も封じられていた――。
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(2004.04.15)Copyright(C)真牙,All rights reserved.