桜の花の咲く頃に −14−
真牙 様
「はいゾロ、プレゼント」
「んあ? 何だこの紙切れ――と・・・」
その日の晩、ナミは食事を終えたゾロにさり気なく今日貰った写真を差し出した。
それを見たゾロは一瞬目を瞠ったが、肩の力を抜いて苦笑するように眺め、やがてテーブルの端に写真を押しやった。
「なぁに? せっかく貰ってあげたのに、写真いらないの?」
「ああ、いらねぇ」
あまりにあっさりと言い切るのでナミが頬を膨らませると、ゾロは少し困ったように薄く笑った。
「――こないだ師匠と話した時、散々耳に痛ェこと言われて来てんだよ。・・・師匠によると、生きてく上で関わった人間の記憶は全部そいつの中に堆積してくモンなんだと。俺はあいつを忘れねぇし、忘れようとも思わねぇ。俺が覚えてれば、多分それだけでいいんだと思う。だから――写真はいらねぇ」
どうやら3月に道場に行った時、師匠であるあの神主に現状を見透かされていろいろ諭されたらしい。
それによってわだかまりがなくなったのはいいことだが、ナミにはそれではどうしても納得できない部分があった。
「レンは・・・どうするの?」
「あぁ?」
「レンには、何て説明するの!?」
「説明も何も、あんなチビ相手に何をどうしろってんだよ。あん時レンは生後1ヶ月の新生児だったんだぜ? 覚えてるわけねぇだろうが。俺がその分覚えといてやるから、それで帳尻は合うだろ? それで充分じゃねぇか」
「駄目よ!」
思いがけず、ナミは自分でも驚くくらい強い調子で言い放っていた。ゾロも思わず言葉を失う。
「あんたはそれでいいかもしれないけど、レンにはくいなさんの記憶がないのよ? あんたが良くても、それじゃくいなさんが可哀想だわ。同じ女として私はいやよ。だから、いつか必ずレンに話してあげるの・・・そのためにも、これは絶対必要なの!」
ナミは写真を抱きしめるように胸に押し当て、呟くように言った。
せっかく望んで授かった命なのに。愛しくて堪らなかっただろうに。
その愛しい我が子に、せめて人伝にでも覚えておいて欲しい。ただの情報としてでもいいから、忘れてなど欲しくない。
忘れられてしまったら、その者にとってかの人は、存在すらしなかったことになってしまうから・・・。
「・・・しょーがねぇなぁ。まあ、お前の気の済むようにすればいいさ」
ゾロは苦笑混じりに言った。
だがそこには、諦めとか突き放そうとかする空気はなく、ただただ切ないほどの優しさが溢れていた。
ナミは慌てて目を逸らした。
(ああもう! 何でこう油断してる時に限って、こんないい表情見せるのよ。焦るじゃないッ)
そんなナミの動揺をよそに、ゾロはなおも淡々と続けた。
「ああ、師匠はこうも言ってたな。遺された連中が忘れない限り、死んだ奴はそこにちゃんと生きてたって証を得るんだと。それが――そいつらへの最高の手向けなんだと・・・」
一瞬――ナミはゾロの言霊と化した言葉そのもので、思い切り心臓をわし掴みにされたような気がした。
(ベルメールさん・・・!)
不意に脳裏に、今は亡き母の在りし日の姿が浮かぶ。
豪快な不良娘がそのまま大人になったような人だった。理不尽なことには決して屈するなと諭し、それでいて懐の深い女だった。
もう二度と、その姿を見ることも声を聞くこともできないが・・・。
「・・・・ッ」
ふと、共通点など何ひとつないのにゾロと神主の顔が重なり、その言葉があの穏やかな神主の口から聞こえたような錯覚を覚える。
その瞬間、ナミは不覚にも咄嗟に溢れる涙を堪えることができなかった。
突然目の前で泣き出したナミに、ゾロがぎょっとしておたおたと狼狽する。
「な、何だよいきなり。俺何も変なこと言ってねぇだろ? 何で泣くんだよ!?」
「ち、ちが・・・ごめん。ベルメールさんの・・・母のこと思い出したら、つい止まんな・・・」
「ま〜? マーンマ? あーう?」
這い寄って来たレンが膝へとかじりつき、ナミは泣きながら甘いミルクの匂いのする小さな身体を抱きしめた。
「・・・お袋さん、死んだのか?」
「うん。3年前に、事故で・・・一生懸命看病したけど、お医者の腕にも恵まれなくて、結局・・・」
「そうか・・・」
不意にゾロの大きな手がナミの背に回り、そっと撫でるように叩く。
泣いている子供をあやすように。
大切な者を愛しむように。
「・・・近いうちに、お袋さんの墓参り行ってやれよ?」
「――自分こそ行ってないくせに、全然説得力ない。そもそもくいなさんのお墓、どこにあるのよ? 来月1周忌のくせに」
「街の東外れにある、大寺の一角だよ。それも判ってんだがなぁ・・・」
お互い苦笑は深い。
それでもお互いの胸の奥に、場違いな、ときめきにも似た想いが宿っていた。
ナミは、弱っている者には切ないまでに慈しむ気持ちを見せてくれるゾロの優しさに。
ゾロは、順風満帆だとばかり思っていた生き様に、必死に翳りを押し殺して生きていたナミのいじらしさに。
ふとゾロの指がナミの顎に掛かる。そのままさり気なく持ち上げられ、ナミは泣き顔のまま上を向いた。
「・・・やだ、見ないでよ。私、泣くと不細工なんだから」
「んなこたねぇよ・・・」
ゆっくりと身を乗り出したゾロの唇が、そっとナミの右の目尻に触れる。同様に左へも。少し顔を傾け、最後に唇へと自分のそれを落とす。
それはナミの知る中で、もっとも優しい清廉な口づけだった。
敬虔な信者が自らのもっとも聖なる部分を差し出すかのように、それは切なる祈りにも似てナミの心を潤した。
欲望の立ち入る隙のない、それはまるで肉親へ送る情愛の口づけだった。
そして、週末土曜日――。
今週は仕事が一段落着いて暇だったので、ナミは事務所自体を休みにした。
基本的には一応週休2日を謳っているのだが、そこは申し訳ないと思いつつ仕事量によって臨機応変の体勢を取っている。
何気なく外を見ると、まだ雨の気配の遠い薄曇りといった程度だった。時折日が差し込んで、ぼんやりした春の陽気らしさが漂っている。
ナミはそれをじっと見上げていたが、やがてひとつの想いが胸の中にコトンと落ちた。
「――よし、決めた」
一度目を伏せ、胸に手をやって深呼吸する。再度目を開けた時、そこにはひとつの決意が浮かんでいた。
ナミは目的の場所へ行く前に大回りし、花屋の他にもう1件、ちょっとした寄り道を思い立った。
賑やかな子供の声が幾重にも響き渡り、園の庭は年長組らしき年頃の幼児たちが様々な遊具で遊んでいる。
「何か、御用ですか?」
昼日中から堂々と柵付近をうろつくナミに気づいた女性保育士が、何事かとやや眉目を寄せながら声を掛ける。
ナミは精一杯愛想のいい表情を浮かべ、ルフィを呼んでもらえるよう伝えた。
「おう、ナミか。どうした、こんな時間に」
女性保育士が中へ入るや否や、入れ替わるようにルフィが出て来る。今日のチューリップ柄のエプロンもまた良く似合っていた。
「んんん、急に思い立ってね。ちょっと、レンの顔を見せてもらおうと思って」
「チビ・マリモンか? おう、ちょっと待ってろな」
サンダルで通路の敷き砂を蹴立てて走って行き、ルフィはすぐにカメレオン姿のレンを抱えて戻って来た。
「まー! マーンマ〜」
「おはよう、レン。ちょおっと良く顔を見せて頂だい」
「んま〜?」
ルフィの手からレンを抱き取り、間近でふくふくした顔を覗き込む。柔らかな翡翠色の髪を撫で、感触を確かめるようにしっかりと抱きしめる。
「――うん、この感じよね。ん〜、OK、もう大丈夫、これで行けるわ」
「何だ、これから出掛けんのか。チビ・マリモンでそんなに奮ってドコ行くんだ?」
「ちょっとね・・・ひとつ、喧嘩を売って来ようと思って」
にっこりと物騒な台詞を吐くナミに、ルフィは歯を剥いて笑った。
「そっか、そりゃ凄ェ出入りだな。しっかり売りつけて勝利して来いよ!?」
「あら、私は負ける勝負はしないわよ? 喧嘩を売るなら当然勝つつもりだし、勝つに決まってるじゃない!」
「にしししッ! そーだな、お前なら死んだ奴にもきっと勝てんだろーよ。気張って行って来いや♪」
「・・・・・ッ!」
ナミは思わず目を見開いてルフィを見た。
どうして判ったのだろう。ナミが一言も言っていない、「どこの誰」に喧嘩を売りに行くのだということを。
「・・・何で、判ったの?」
「んー、そりゃまぁ何となくだ。けどお前、いい表情してっからな、きっと何もかも上手く行くぞ。俺が保障しちゃる」
この悪戯小僧のような黒い瞳には、一体何が見えているのだろう。
冗談とその場の勢いだけで生きているふざけた奴だと思っていたが、どうやらそれだけではない、深い何かをも兼ね備えているらしい。
ナミは認識を改め、苦笑して重ねの忠告をした。
「――私、ルフィにひとつ謝らなきゃ。今私の事務所に、デザート片手に毎日サンジくんが来てるの。ちょっとした件の顛末でね。で、ビビがまんまと餌に食いつきそうだから、ちょっと気をつけといた方がいいかな〜、なんて思ってね」
「うお〜、ナミ! お前ホントに実行しちまったのかよ! そりゃねぇよ〜、俺謝ったじゃんよ〜」
「だからごめんって。ほら、こういうのって障害があった方が燃えるし、最終的には結束が固くなるっていうし、あんたならきっと大丈夫よッ! 後はあんたの努力次第ってね。あの娘って美味しい物と強引な押しに弱いから、あんたにだってチャンスはあるわよ」
唸って頭を抱えるルフィを、精一杯励ましながらフォローする。思わず座り込んだルフィは、上目遣いにナミを見上げた。
「お前ってホント、容赦ねぇんだな〜。魔女みてぇだ」
「そうね、粗雑に扱ったら末代まで祟るかもよ?」
冗談めかして言った言葉に、ルフィは大きく頷いてぽんと手を叩いた。
「おう、そうか! だからゾロはあっさりとっ捕まったんだな! そーか、納得だ、当然だよなそりゃ!」
「捕まって・・・いるのかな・・・」
進展しそうでしない関係に、思わずナミは呟いてしまう。ルフィは今更、といった顔で笑った。
「いねぇわけねーだろー? でなきゃ俺がちょちょっと触ったり、サンジの態度にあんなにむきになって怒るわけねぇじゃん。相変わらず言葉足んねぇしよー」
それこそ今更か。ナミはくすっと笑って、肩の力を抜いた。
「何だったら、ナミから目一杯アピールして押し倒しちまったらどーだ? 今のご時世、女がそうしたって全然OKありありじゃん。それにあの超鈍感野郎のこった、案外待ってましたって思いっ切りヨロコぶんじゃねぇ?」
「それこそ何てこと言うのよッ。それを目論んでるのは私じゃなくて、実はあんたの方なんじゃないの?」
「おうとも。俺はまどろっこしいこと考えんのは苦手だかんな、正々堂々真正面からガンガン行くぜッ。競争だぞ、ナミ!」
天真爛漫なお日様の笑みに、ナミはつられたように笑った。
そう。今更建前も体裁もいらないのだ。必要なのは、自分のもっとも深い部分が何を望んでいるかということだけなのだから。
(そうよ、今更じゃない。たったそれだけのことだったのに・・・)
ナミは改めてルフィを見た。ナミより少し背が高いだけの細身の男が、今はやけに大きく感じられた。
「ねぇルフィ・・・今更かもしれないけど、私あんたのこと好きだわ」
「そっかぁ? 何だ、ホントに今更だなー。俺は前からナミのことが大好きだったぞ? もちろん、ゾロもな。だから、お前らがまとめて幸せになってくれっと、俺はもっともっと嬉しいぞ!」
その笑顔を見たナミは心の底から安堵し、そしておかしくなった。
この調子なら、遠からずビビはあっさりとルフィの前に陥落するだろう。
それはおそらく、今彼女につき合っている男がいたとしても瑣末な問題にしかならないはずだ。
この男に正面から挑まれてなお、その圧倒的な存在感に惹かれずにいられる者はまずいないだろうから。
(もう大丈夫――)
ナミはもう一度だけレンをぎゅっと抱きしめ、再びルフィへと抱き渡した。
「ありがと。じゃあ私、もう行くから」
「おう! 世紀の大啖呵ブチかまして来いや、にしししッ!」
「ぎゃ〜〜〜〜ッ! マーンマ〜〜〜〜〜ッッ!!」
肩越しに振り向き、ナミはやっぱりと苦笑する。
ナミの人生最大の出入りへのエールは、レンのこれ以上ないほどの大絶叫だった。
それは、泣いて叫んでいるはずなのに、ナミを愛し求めて止まない本能からの愛情に溢れていた。
そして――。
ナミの車が見えなくなるまで見送ったルフィは、未だ泣き続けるレンの頭を撫でてにっと笑った。
「なぁチビ・マリモン、ここでする援護射撃ってのは余計な世話じゃねぇよな?」
「ぶ〜、うあ〜〜〜〜〜ッッ!」
「そっか。んん、よおっく判ったぞッ!」
にっこり笑ったルフィはおもむろにポケットから携帯を取り出し、アドレスからひとつのメモリーを呼び出した。
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(2004.04.23)Copyright(C)真牙,All rights reserved.