桜の花の咲く頃に −2−
真牙 様
3月は地獄の忙しさだったが、それも喉元過ぎれば何とやら――事務所は平和な時間を取り戻していた。
「ふ〜、こないだまでの忙しさが嘘のようだなぁ」
「本当ですね。忙しいのもたまにはいいけれど、いつもだとさすがにしんどいですもの」
「そーねぇ。でもあの忙しさあっての経理事務所だし? ま、今月は大した仕事もないから、土曜を休みにしてもいいわよ!?」
「お、そりゃありがてぇな。いや、たまには家族を旅行にでも連れてってやりたいと、常々思ってたんだよなぁ」
今日の仕事も順調に片づき、ビビに淹れてもらったお茶で一服する。ふと時計を見れば丁度定時だ。
「お疲れ様、今日はもう上がりにしましょ。私もこれから急ぎの用があるし」
「はい、お疲れ様でした、ナミさん」
「おう、お疲れ。今日もこのキャプテンの旗印の下、良く頑張ってくれた! 君たちの健闘を讃える! そして〜、グッジョブ俺様ッ!」
「さ、帰りましょうかビビ」
「ええ、ナミさん」
「・・・もしも〜し!?」
意味不明の台詞に酔うウソップをさらりと流し、ナミは昼に連絡を入れておいた『ブルー・オール・ブルー』へと向かった。
ものの10分で着いた店先は、帰宅途中のサラリーマンやOL、子供連れの買い物客などで見事に混雑していた。
今月に入って新商品が続け様に店頭に並んだので、その集客力たるや凄まじいものがあった。
「さすが新商品が出ると、混雑振りが半端じゃないわね」
ナミは口の中で呟き、カウンターの端にいた店員に声を掛けた。
「忙しいとこ悪いんだけど、サンジくんいるかしら? ちょっと頼んだ物を取りに来たんだけど」
「はい、店長ですね。少々お待ち下さい」
何気なく店内を見回す。ティールームになっているラウンジの方も満席で、仕事帰りの一時を楽しんでいる様子が見て取れた。
ふと、カウンターの中央に目が止まる。大きな白い皿に、爪楊枝を刺した一口大の物体がさり気なく置かれている。
何かお試し品の試食らしい。ナミも何気なくひとつ摘んでみる。
「あれ? これって・・・」
ほろ苦い味が口一杯に広がり、飲み込む瞬間にほんのりカカオの香りが鼻に抜ける。
極限まで甘みを抑え、それでいて本来の味わいを際立たせる香り高いスペシャル・ビターのケーキ。
間違いない。それはナミがサンジに依頼して作ってもらった、ゾロ用のガトーショコラだった。
「俺に客って・・・ああっ、んナミすわぁ〜〜ん! どうしたんです、もしかしてわざわざ俺に会いに〜〜?」
「ううん、全然」
「ああ、そのきっぱりした潔さも素敵だ〜〜。今日の昼に電話で言ってた物を取りに来たんですか?」
「ああ、そうね。それもあるんでけど・・・」
ナミの視線に気づき、サンジはカウンター越しに皿を指差して苦笑した。
「ああ、あれですか? いや、正直どうしようかとも思ったんですけどね。ナミさんの依頼で試作したモンだから、一般受けするかどうかね。ってことで、今お試ししてんスよ。本来の物と比べて、お客がどう反応するかってね」
「さすがは商売人、ちゃっかりしてるわ。まああれだけ苦労させたんだから、お店として当然の権利と言えば権利よね、うん。でも、商業ベースに乗せるなら、私としては一応著作権料を請求するわよ?」
「もちろん何なりと〜。いや、俺自身を請求してくれても全然OKですよぉ!?」
ナミの悪戯っぽい表情にサンジの顔は緩みきり、いつもの奇妙な踊りを披露してくれた。
「ううん、いらない。ところで、お昼に頼んどいた物できてるかしら?」
「容赦なく切り返す、その素早さも素敵だ〜。ええ、これとこれ・・・ふたつでしたね。蝋燭はこれで――」
「あ、蝋燭はね、こっちのでお願いしたいんだけど」
「そっちで、ですか? ちょっと・・・凄い眺めになりますよ?」
「い・い・のっ♪」
躊躇いがちに言ったサンジに、ナミは綺麗に片目を瞑って見せた。腰砕けになったサンジは、目をハート型にしてあっさり魅了された。
軽い悪戯を目論むナミは、いつも以上にきらきらと目を輝かせて綺麗に見えるから始末に負えなかった。
昨日の今日では、プレゼントが間に合わないのは仕方がない。
その分メニューをやや豪華にして、祝いの席らしく盛り立てようとナミは考えていた。
誕生日なので、当然のようにケーキもテーブルに並んでいる。
「ひいふうみい・・・よし、OK!」
後は主賓の登場を待つだけだ。仕事を終えてから買い物し、家に戻ってから急いで料理をしたが何とか間に合ったようだ。
チェストの隣に移動した観葉植物を眺めつつ、掛けていたエプロンを外す。
時計を見ると7時少し前――大丈夫かなと思案しかけたところで、タイミング良く玄関のベルが鳴った。
ドアを開けると、珍しく仕事着ではなく部屋着に着替えたゾロとレンが立っていた。
「よしよし、ちゃんと約束守ってくれたのね。あら、もしかしてもうお風呂も入って来たの?」
「まぁな。昨夜みてぇに寝られ際に慌てんのも面倒だし、今日は極力近場の仕事でまとめたからな」
「マーンマ〜、あーう」
「はいはい、いらっしゃい子ゾロ。美味しい物一杯作ったからねー、みんなで食べよ」
「あ〜」
ナミにしがみついたレンはにっこり笑ってナミの胸に顔を伏せ、そのまま豊かな双丘に頭を擦りつけた。くすぐったさにナミは首を竦める。
「まったく、この親にしてこの子ありだわ。あんたも父さんに似て、とことんセクハラ小僧よね〜」
そうは言っても相手は幼児、レンに対する扱いは口とは正反対にかなり甘い。
大人の男であるゾロへの態度とは大違いだ。まあ当然と言えば当然だが。
それでも――。
室内に移動するナミの背後で、ゾロの瞳に怜悧な光がぎらついていたことに、幸いなことにナミは気づいていなかった。
室内に入ると、途端に食べ物のいい匂いが鼻腔をくすぐって空腹を刺激する。
ナミ宅でいつも食事をするテーブルには、通常の倍の勢いで美味しそうな料理が所狭しと並べられていた。
「は〜い、お誕生日ということで、当然のようにケーキなども用意してみましたっ」
いろいろ並んだ料理の中央に、小さなホール型のケーキがちょこんとふたつ並んでいる。
ひとつは、たっぷりの生クリームに真っ赤なイチゴがトッピングされている、レン用のケーキ。蝋燭は、やや太めのが1本。
プレートには『おめでとう、レンくん』と達筆な文字。
もうひとつは、カカオ生地ベースのゾロ用のガトーショコラ。蝋燭は――律儀に28本・・・。
「・・・何だこりゃ」
「うん、バースディ・ケーキ」
「・・・名入りのプレート以外、蝋燭で表面が見えねぇんだが!?」
「そうね、10の位の太い蝋燭入れてもらわなかったから」
「・・・ご丁寧に、歳の数か!?」
「うん、そう。きっちり28本」
「・・・・・・」
「せっかく用意したんだから、ちゃんと残らず吹き消して食べてよ?」
「・・・信じらんねぇことする女だな」
声は低かったが、何気なく手で押さえた口許が微妙に笑っている。吹き出すのを堪えているようだった。
「で、このプレートの文字を書いたのは・・・あのクソコックなんだろうな」
チョコレートで作られたプレートには、大きく『祝、クソマリモ』と書かれている。
ただ、どんな心理状態で書いたのか、その書体は俗に言うおどろ文字――古書体のように微妙な引き攣れ方をしていた。
「さ、ふたりとも蝋燭吹き消して・・・って、あ――ッッ!!」
「まー! んま、んまーッ!」
ほんの少し目を離した隙に、レンは何を思ったのかケーキ目掛けて思い切り手を突っ込んでいた。
「いや〜、手ェクリームだらけ〜。もお、何てことすんのよぉ・・・」
「旨そうだから、わし掴みにしてでも食いたかったんだろ」
蝋燭を吹き消す暇もなく、哀れケーキは無残に崩壊していた。
レンはべたべたになりながらもご満悦で、顔中クリームに塗れながら手を舐め回した。
「ん〜ま〜」
「・・・ねえゾロ、これお風呂に入れた意味なかったんじゃない?」
「あー・・・かもしんねぇな。うお、こりゃ着替えんと駄目か。こんな甘ったるい匂い振り撒かれちゃ、胸焼けしておちおち一緒に寝れやしねぇ」
首に赤の蝶ネクタイをつけた黒ウサギの着ぐるみは、クリームのせいでまだらなブチウサギと化していた。
「あー。マーンマ〜」
喜色満面、満足なのは本人ばかりである。
「はいはい・・・もう好きにして。カーペット染みにしたらゾロに利子つけて請求するからもういいわ・・・」
「おい、一応誕生祝いだってぇのに、俺の方に請求すんのかよ!? 普通こっちが貰うんだろ?」
軽く眉目を寄せながらゾロが文句を言う。それをナミは平然と右から左へ受け流した。
「あ〜ら、普段私があんたにどれだけ貸しがあるか、そっちこそ判ってんの? 忘れたら師匠さんに言いつけるわよ!?」
くすくす笑うナミを見て、ゾロはあからさまに渋面になった。
確かにゾロ自身多少面倒を掛けている自覚はあるので、それを「一括支払いしろ」などと言われたら怖い考えにはなりそうだ。
「ま〜?」
「でも、そうねー。何かプレゼント用意したいとは思ってたんだけど、何せ昨日の今日じゃない? 料理で精一杯で間に合わなかったのよ。埋め合わせは今度ってことにして・・・子ゾロ、今日のトコはこれで勘弁してね」
「あー?」
ナミは膝に上がろうとしていたレンを抱き上げると、そっとその頬に唇を寄せた。次いで、反対側にも同様にする。近づいた呼吸がくすぐったかったのか、レンは手足をばたつかせてけたけたと笑った。
それを見ていたゾロはあんぐりと口を開け、すぐに面白くなさそうに表情を顰めた。
「何ゾロ、変な顔して」
「・・・随分安上がりなプレゼントくれてんじゃねぇかよ」
「あら、失礼ねぇ。私はそんなにお安くないわよ? 相手はちゃんと選んでるもの。ねー、子ゾロ?」
「ぶー」
「だったら俺には、もっと別の物を用意してんのか?」
瞬間、ナミは言われた意味を理解しそこね、鳩が豆鉄砲を喰らったかのようにきょとんとした。
次いで、ゾロの口許がニヤリと上がるのを見て、込められた意味に一気に頬に朱が上る。
「な、ナニを期待してんのよッ! どこまでセクハラオヤジ発言すれば気が済むわけッッ!?」
「何のことだ? 俺は別に何も変なことは言ってねぇぜ? お前の方こそ何考えたんだ、ナミ?」
翡翠色の瞳がまっすぐナミを捉え、嬲るような視線が身体中に絡みつく。どきりと心臓が跳ね上がり、ナミは硬直した。
「な、何も考えてないわよ、このエロマリモッ!」
「何も考えてないって割には、どうしてそんなに顔真っ赤になってんだかなぁ、んん?」
半ば伏せれらた視線がちらりとナミを見つめる。あの、艶っぽい瞳で。
「大体・・・そう言うなら、こうすりゃ問題解決だろうが」
何を思ったのか、ゾロはテーブルの脇にあったリボンを拾い上げ、ナミの頭上でくるりと一回転させた。
ケーキのラッピングに使われていたリボンは、ふわりとナミの首に巻きついた。
「ほれ、これでプレゼントの一丁上がりだ」
「いやーッ! 何がプレゼントよ、一丁上がりよ! 大体私をプレゼントにしてどうするつもりよッッ!!」
「どうもこうもねぇ、今日のところはとりあえずキスひとつで勘弁しといてやるよ。何度もしてんだし、今更だろ」
何が今更か。
確かに何度も交わした口づけだが、その大半は強引にゾロが仕掛けたものばかりだ。
唯一の例外は、あの石段から落ちた時のものくらいか。
ナミは赤くなったまま髪をくしゃくしゃにし、ようやく渋々といった具合に口を開いた。
「・・・いいわよ、貸しに追加しとくから。でも、い〜い? あんたはじっとしててよ!? ちょっとでも動いたらコロスからね!!」
「おぉおっかねぇ! ったく、色気もへったくれもありゃしねぇな」
ゾロは胡坐をかき、腿の上に肘を預けて動きを止める。視線だけがナミに固定され、気恥ずかしさからナミは身動きが取れない。
「・・・目ェくらい閉じてなさいよ」
「注文の多い奴」
言われて素直に目を閉じる。意外に長い睫毛に少しどきっとし、ナミはおずおずと顔を近づけた。
(えーと・・・)
はたと気づく。この場合、どこに触れれば一番無難なのだろう。
レンと同じ頬だと、また子供と同じなのかと厭味を言われそうな気もする。
かといって、自分から堂々と唇に触れるのも正直如何なものかと躊躇われた。
「・・・お〜い、まだかぁ?」
「ううう、うるさい! 黙って待ってなさいよッッ!!」
散々逡巡し、ようやく覚悟を決めて唇を寄せる。
ナミが触れたのは、口角の少し横だった。啄ばむように、軽く、ほんの少し。
「――はい、誕生日おめでと、ゾロ」
素早く身を引こうとした腕を、薄く目を開けたゾロが掴み取る。その表情は、落胆からか憮然としていた。
「何だ、こんなモンかよ。ったく・・・全然足んねぇな」
「い、いいじゃない、1回は1回よ! 約束はちゃんと果たしたわ!」
「こんなん1回のうちに入るかよ」
言ったが早いか、ゾロは掴んでいたナミの腕を強引に引き寄せ、そのまま身体ごと腕の中に収めてしまった。
「ち、ちょっとゾ――!」
聞く耳持たず、何か叫ぼうとした愛らしい唇を一気に塞ぐ。
甘い果実のような感触をもたらす口づけに、ゾロは夢中になって強引に侵入したその口内を貪った。
並んだ歯列を丁寧になぞり、押し戻そうとする舌を絡め取って熱い吐息を吸い上げる。
不意にゾロの中で昏い欲望が頭を擡げ、意識せずして手がナミの身体をゆっくりと這う。
焦ったナミが足をばたつかせてもお構いなしで、ゾロは思う存分ナミの吐息を味わった。
ふと、ゾロの手がキャミソールの裾で止まる。
一瞬の躊躇に、ぎょっとしたのはナミも一緒だった。
(ちちち、ちょっとタンマ――ッッ!!)
慌てて身を捩る――が、逞しい男の身体は、ナミ程度の力ではびくともしない。
「んんん、ん―――ッッ!!」
躊躇いながらもゾロの手が蠢き、キャミソールをはだけて滑らかな腹部に直に触れる。
ぞくりと背筋を這い上がる感覚にナミは全身総毛立ち、本気で殴ってやろうと拳を固めた――その瞬間。
「あー! まー!!」
「がっ!!」
ごすっと鈍い音がして、ナミに覆い被さるように抱きしめていたゾロが思わず仰け反る。
どうやら、レンが背後から思い切りゾロに頭突きをお見舞いしたらしかった。
「な・・・何しやがる、こんのクソガキがぁッッ!!」
「――それはこっちの台詞だ、調子に乗るな、エロマリモッッ!!!」
間髪入れず、ナミの拳が見事にゾロの顎に決まっていた。
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(2004.04.08)Copyright(C)真牙,All rights reserved.