海の見える丘にて −11−
真牙 様
(な・・・に?)
ゾロは自分の耳を疑った。
今、ナミは何と言った?
(抱いてもいい、だと? 今なら、何をしてもいい――だと!?)
片膝を立てた胡坐紛いの膝の上に身体を預け、身動ぎひとつせずにゾロの首を抱くようにナミが密着している。
今までどんなに関係を迫っても、いちいち理由をこじつけてまでゾロを躱し続けていた。
婚約までした男を拒む女の理由などゾロには知る由もなかったが、この豹変振りはあまりにも異様なものに見えた。
「ナミ・・・お前、何考えてる?」
どうしても問い詰めるような、詰問口調になってしまう。
ややあってナミはゆっくりとゾロの胸元で首を振り、口の中で小さく呟くように囁いた。
「何も・・・。どうしたの。抱かないの?」
「――――――――」
頭を撫でるように滑らせた指を髪に絡みつかせ、そのままわし掴んで上を向かせる。
薄闇に浮かんだヘイゼルの瞳は乾いていて、ここではないどこか虚空を見ているようだった。
もう片方の腕で驚くほど括れたウエストを捉え、ますます密着するように抱き寄せる。
ナミは一切抵抗せず、また反応もしなかった。
「なら・・・その、覚悟とやらを見せてもらおうか」
言うなりゾロは、微かに何か言いかけた唇を一気に塞いでいた。
想いが通じ合ってからはすることのなかった、ひどく荒々しい強引を通り越した獰猛さで。
「・・・・ッ」
唇を合わせた瞬間舌で強引に口を開かせ、一気に根元まで舌を差し込んで口内を荒らす。
突然の乱暴な口づけにナミは一瞬身を竦ませたが、まったく抵抗はしなかった。
(ナミ)
そのまま飢えた獣が瑞々しい獲物を貪るように、ゾロは思う存分ナミの吐息を味わった。
優しく扱うつもりなど毛頭なかった。
噛みつくような口づけにナミの身体が一瞬震えたが、否やの声は上がらない。
そのうち腰を捉えていた手が獲物を求めるように蠢き、ゆっくりと身体を這い上がる。
やがて一枚の布越しにたわわに実った果実を見つけた無骨な手は、愛撫と言うには程遠い無遠慮さでその片方をわし掴んだ。
突然もたらされた痛みにナミはやや表情を顰めたが、やはりそれだけだった。
(ナミ・・・)
節くれ立った指先がその突起を探り当て、押し潰すように弄ぶ。
唇が微かに震えたが、ゾロはそれも無視した。
胸元で遊んでいた手がゆっくりと襟元に掛かり、無造作に下へと引き下ろす。
きちんと合わせられていたはずのボタンは、勢いに耐え切れず3段目までの開放を許した。
肩から鎖骨、白い双丘が半ばゾロの眼下に晒され、男の中に押し込められている劣情を煽らずにはおかない。
思う存分唇を貪った男のそれが、今度は首筋へと降りて行く。
熱い吐息は時折きつい口づけをもたらし、所有者の烙印である緋色の花びらを刻みつける。
(ナミ・・・!)
しっかりと自己主張する豊満な胸元に、特に念入りに吐息を這わせ、ゾロは心地好い眩暈をもたらすナミの胸元に顔を埋めた。
香水などつけていないにも関わらず、ナミの肌からは彼女特有の甘い香りが漂っていた。
それを胸一杯に吸い込み、ゾロは無造作に鎖骨付近へと歯を立てた。
甘い痺れとは別の鋭い痛みに、思わずナミの身体がビクリと大きく跳ねる。
だが、ナミはそれでも拒否の言葉を一言も告げなかった。
(ナミ・・・!!)
幾度となく心の中でその名を呼ぶ。
応えてくれと叫ぶ。
だが、その答えは空しいほど返らなかった。
目の前に――しかも、しっかりと抱きしめた腕の中にあれほど焦がれた女がいるというのに、ナミはまったくゾロを見ていない。
意識が完全にここではないどこかに飛んでいて、ここにいるのはただの抜け殻のようにも思えた。
ゾロの脳裏で、冷然と見つめるもうひとりの自分が囁く。
本当に、今のナミを抱くつもりなのか、と。
――ややあって。
長い吐息と共にゾロの動きがピタリと止まった。
それを訝しんだナミは、ひどく緩慢な動きできつく閉じていた瞳を開いた。
目の前に、苛烈なほどの怒りに身を焼いたゾロが、挑みかかるような目つきでナミを見下ろしていた。
「どう、したの、ゾロ・・・?」
「・・・ナミ、てめぇふざけんのも大概にしろよな」
押し殺された声は微かに震えていて、ゾロが大声で怒鳴りつけたいのを必死に堪えているのを知らしめていた。
「何で、ふざけてなんか・・・」
「語弊があるか? なら、俺をお前の記憶の蓋代わりに利用すんなって言やぁ解るか!?」
「・・・・ッ!」
ナミは息を呑み、唇を震わせてゾロの視線を正面から受け止めるしかなかった。
いっそ逸らしてしまえたら楽だっただろうに、ゾロは髪を掴んで自分の方を向かせ、顔を伏せることを許さなかった。
「役得じゃない。散々今まで抱きたいって言ってた私を抱けるのよ? なのに、何で――」
「俺をまったく見てねぇ、抜け殻みてぇな女抱いて何が面白ェんだよ!?」
「それは・・・」
ナミは言葉に詰まった。
それを見逃さないゾロは、畳み掛けるように言った。
「確かに、抱けば身体の欲求は満たされんのかもしれねぇ。身体だけでいいんなら、俺はとっくにお前を力ずくででも手に入れてただろうよ。けどな、それだけで本当に俺が満足するとでも思ってんのか!? だとしたら舐められたモンだぜ」
「それでも、いいじゃない。ゾロは、それで気が――」
「済まねぇから言ってんだよ。例えこのまま最後までお前を抱いたって、今日のことはおそらくこのオレンジ頭の隅にも残るまいよ。どうせ抱くなら、俺って奴を全身に刻みつけてやりてぇんだ。記憶や魂の奥の奥まで、俺で埋め尽くして一生忘れられねぇくらい鮮明にな」
どきりとする。
ゾロを見つめる睫毛が細かく震えた。涙が出そうだった。
(何で、この男はこんなことばかり見抜いてくれちゃうの。私自身ですら混乱してたのに・・・)
混迷する記憶と情報の海に溺れるナミにいち早く気づき、そして引き上げてくれた。
ゲンゾウの口から語られた真実は、自分でも思っていた以上にナミを打ちのめしていたらしかった。
解っていたはずだったのに。
どんな衝撃にも耐えられる強さを手に入れたと思っていたのに。
どうやらその辺りは、自分を買い被っていたらしい。
「ゾロ、ごめん・・・」
「そこで謝んな。何だか俺が間抜けみてぇに聞こえるじゃねぇか」
ゾロの手がそっとはだけていた襟元を戻す。刻みつけられた刻印が隠され、ゾロは大きく溜息をついた。
「ったく、正気でもなかったくせに、お手軽に本気ちらつかせて挑発すんじゃねぇよ。これでもかなり我慢してんだぞ?」
「・・・ごめん、判ってはいるの。ただ、不安だったの・・・」
はっきり言葉にならない、漠然とした不安。
自分という者の存在を根底から覆されそうになり、今立っている場所さえ見失いそうになる。
ゾロを好きだと自覚してからその想いは一層強くなり、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
いっそ、奔流のようなこの男にすべてを委ねてしまえば、何も考えずに楽になれるのかもしれない。
――ともすると、そんな打算が働いたのかもしれない。
(バカね。普段あんなに押しまくって来るくせに、変なとこで律儀に優しいんだから)
だが逆に、この男はひどい強欲なのだ、と思い直す。
身体だけでなく、一片たりとも残さぬナミの心のすべてまでもが欲しいのだと。
自分のもたらす感覚を逐一漏らさずその身に刻みつけ、何ひとつ忘れて欲しくないのだと。
今更ながら頬が紅潮し、あたたかな血の通った感情がようやく胸に湧き上がる。
くすぐったい気分に酔わされ、普段ならば絶対言わないような言葉がするりと唇から零れ出る。
「じゃあ、ついでにひとつ甘えてもいい? 今日は、このまま抱きしめて眠って。添い寝、してくれるんでしょ?」
軽く頬を寄せた厚い胸板がびくりと震える。それが判っていて、ナミは更に悪戯っぽく言い足した。
「もちろん、子守唄もつけてね」
「・・・聞くに耐えなくても知らねぇぞ」
肺の空気をすべて絞り出しそうな長い溜息を漏らし、ゾロは横になって自分の頭を支えるように腕を枕にした。
「おら、もう寝ろ」
ポンポンと自分の横のスペースを叩く。
ナミは座ったまま静かにゾロを見下ろし、そっと上体を屈めた。何事かと目を瞠ったゾロの唇に、柔らかく自分のそれを重ねる。
驚いて思わず言葉を漏らしかけた隙間を埋めるように、ナミの舌がさり気なくゾロの歯列をするりとなぞった。
「・・・ありがと、ゾロ」
唇を離し、そっとその隣に身体を滑り込ませる。
枕を寄せてゾロの胸元に額を押しつけ、何度か身動ぎして最良の姿勢を確保する。
先程よりひどく長い溜息を漏らした口が、囁くようなハミングで子守唄を刻み始めた。
確かにお世辞にも上手いとは言えなかったが、錆の利いた低い声は身体に心地好く響き、胸の灯火を包んでくれるような安心感を抱かせてくれた。
程なく眠りに落ちるナミを眺めながら、ゾロは心底情けない気持ちで自分を見つめていた。
(・・・畜生、俺は大バカか。やっぱ下手にカッコつけねぇで、思いっ切りつけ込んどきゃ良かったぜ・・・)
今更そんなことを思っても、状況的にもう遅いのだが。
もちろん、ゾロのそんな理性ぎりぎりの叫びなど、規則正しい寝息に変わったナミの耳に届くことはなかった――。
次の朝、ナミは洗面所で顔を洗った際に鏡で自分の姿を顧み、思わず息を呑んで一気に真っ赤になった。
(うっわ! そうだった、また痕つけられたんだった。しかも・・何コレ、歯型!? 信じらんない、こんなトコに噛みつくなんて〜)
着替えに持って来たキャミソールのアンサンブルでは、どう考えても隠しきれない部分が出てくる。
かといって、今回の訪問で持って来た荷物の中にはハイネックのシャツなど入れてはいない。
化粧用のコンシーラーでも塗ればキスマークの方は何とかなりそうだが、如何せん歯形だけはどうにもならない。
(痣じゃなくて、凹凸の痕跡だもんなぁ・・・)
半ば正気ではなかったとはいえ、ゾロもとんでもない土産をくれたものである。
かといって、ナミに文句を言う権利はまったくないのだが。
(う〜ん、アンサンブルのボタンを留めてぎりぎりかしら? 微妙か〜?)
「ああ、おはよナミ。そのくらい気にしないから、堂々としてれば? しっかし、あの男も意外なとこでやってくれるモンだねぇ。ふっふっふ、ノジコさん見直しちゃうよ♪」
「ノノノ、ノジコッ!? いい、いつからそこにッッ!!」
不意に鏡ににやにや顔のノジコが映り、ナミは更に首まで赤くなって飛び上がった。
慌ててパジャマの襟を合わせるが、既にしっかり見られた後なのでごまかしようがない。
「ふふ〜ん、たった今だけどさ。若いっていいねぇ、ナ・ミ♪ で、首尾はどうだったのさ!?」
がばっと肩に腕を回し、にんまりした笑顔のまま間近に迫る。ナミは悲鳴紛いの声を上げて必死に否定した。
「な、何にもないの、ホントよ! これはほんの少しふざけただけで、そんなノジコの期待するようなことは別に何も――」
「バッカねぇ、ナミ。そういう時はハッタリでもいいから、『昨夜は楽しかったわ』の一言くらい、余裕でかましてみなさいってぇの。ホンット、バカ正直なんだから。ま、そういうとこが可愛いんだけどね」
見透かされている――がっくりと脱力するナミに、ノジコは手を振ってケラケラと笑った。
そう。ベルメールもこの話を聞いたら、きっとこんな反応をしてくれるに違いない。
下世話なセクハラすれすれの話題ではあったが、そこには親身になればこその愛情が多分に含まれていた。
不意に愛おしさが溢れ、ナミは思わずノジコの首に腕を回してその身体を抱きしめていた。
「何やってんのさ、この甘えんぼッ」
「うん。ホント大好きよ、ノジコ姉ちゃん」
「ふぅ〜ん? あたしの方が大好きかもよ〜?」
豪快に笑いながら、ノジコも二の腕でぎゅっとナミを抱きしめ返す。
久し振りに間近に触れた姉の身体からは、どこか懐かしくも優しい“母”の香りがした。
「・・・お前ら、朝から何やってんだ?」
レンを抱えて廊下を通りかかったゾロが、奇異な光景を目の当たりにしてそのまま固まっている。
「おはよう、色男。慣れてるだろうけど、あんたもやる? 愛の抱擁♪」
「あーい、マーンマ〜」
「・・・・・」
ゾロは見なかったことにして、静かにその場を去って行った。
そして、その後の朝食の席で。
案の定と思われたメガトン級の爆弾は、さり気なく意外な伏兵からもたらされた。
「あれー? ナッちゃんママ、レンくんに齧られたの? その、お首の下のとこ」
一同会した食卓でエルが何気に言った瞬間、吸い物を飲んでいたゾロとゲンゾウがほぼ同時に噴き出した。
「ああもう、いい大人がふたりして何やってんのさ!」
にやつきながらもノジコは素早くタオルを渡し、さっさとテーブルの汚れた部分を拭き取る。
当然のことながら気づいていなかったゲンゾウは改めてナミとゾロを睨みつけ、ゾロは冷や汗をかきながら挙動不審にあらぬ方を向いた。
「あ、ホントだ。がぶってやった痕がある。レンくんて凄い力なんだね〜、くっきり残ってるよー?」
(いや、歯形のサイズが違うだろ!?)
5歳児の意見に訂正がてらのツッコミを入れることもできず、ゾロは咳き込みながらもゲンゾウを見ることができない。
痛い視線を全身に浴びながら、それでもその手でしでかしてしまったことは取り消されるはずもなく、ゾロは黙って耐えるしかなかった。
ある意味これは役得で、その上の自業自得なのだから。
(何で子供って、こんな変なトコばかり見てるんだろう・・・)
ナミは苦笑混じりに思ったが、自分がかつてそんな子供であったことはしっかり記憶の隅に押しやっていた。
食事が終わって雰囲気にいたたまれなくなり、先に根を上げたのは、あろうことかゲンゾウの方だった。
ゲンゾウは今日の分の新聞を取り、座卓の出してある和室へと移動してしまう。
「あー?」
それを見ていたレンが何気なく廊下をついて行き、穴の開いた障子越しにゲンゾウと目が合った。
「うーあ?」
「何だ、チビ助。ここにはおやつも玩具もないぞ?」
「あー」
そういったことに関心があったわけではないのか、レンは何ら気にする様子もなく、無造作にゲンゾウへと近づいて行った。
「ぶー。だーう?」
「ああ、新聞が面白そうなのか。これはちょっとやれんが、こっちの広告なら破ってもいいぞ?」
まんまと大振りの広告をせしめ、レンは嬉しそうにそれを齧りながらぼろぼろにし始めた。
足の下に端が引っ掛かり、抜こうと踏ん張って勢いでひっくり返る。畳で頭を打ったが、驚いただけで泣きはしなかった。
「あーぶ」
もっと何かを横取りするつもりなのか、持っていた広告を放り出して再度ゲンゾウに迫って行く。
無邪気に笑いながら歩いて来る幼児に苦笑し、ゲンゾウはさり気なく上体を捻って無言のまま膝を叩いて見せた。
「あー」
レンは、それを待っていたかのように一気に近づき、そのままゲンゾウの膝へと上がり込んだ。
当然目の前の新聞も自分の物と思ったのか、豪快な悪戯は留まるところを知らない。
双子の娘たちの幼い日々を思い出し、知らずゲンゾウの頬はやんわりと微笑んでいた。
「おーいレン、どこ行ったー?」
不意にゾロの声が廊下の方で響く。
暫くあちこち右往左往する気配がし、ほどなく翡翠色の髪をした男が和室に顔を出した。
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