海の見える丘にて −2−
真牙 様
(まったくもう、書類書くのに髪が邪魔になっても、気になって掻き上げることもできないじゃない・・・!)
次の日、事務所で提出用の最終書類を仕上げながら、ナミは苛々と右手を動かした。
ナミは右利きなので、ペンで書き込みをする際にはつい右耳に髪を掻き上げたくなる。
左は顔に触れていてもOKという融通が利くだけに、右はどうしても鬱陶しく気になって仕方がない。
ないのだが――。
(よりによって右側の、しかもこんな髪で隠れるかどうかのぎりぎりの位置に痕つけてくれるんだから、絶対根性悪いってぇのよッ! 狙い過ぎよ、意図的にも程があるわ!!)
羞恥心で頭が煮えているので、心の中でのゾロに対する悪口雑言は尽きることがない。
「・・・おいおいナミ、大丈夫か〜? 何か嫌なことがあったんなら、このキャプテン・ウソップ様が相談に乗るぞ? こう見えても俺様は、過去8千人のよろず相談を受けて見事解決したという、実に輝かしい過去を――」
「はいはい、大ボケはいいからさくっと書類を上げて頂だい。連休前で仕事押してるけど、今度の土曜は休みにしたいんでしょ?」
「おおお、実はそうなんだ。奮発して家族旅行を計画したんだが、どうしても出発が土曜になっちまってなぁ。俺がコケたらすべてはアウトってな状況なんだ。ここは一発ビシッと、父の貫禄を見せんとなッ!」
言うことはいちいち大袈裟だが、家族のために連休の休みを利用して旅行を計画したのは、このマイホームパパ独自の優しさだ。
何だかんだ言っても家族を第一に愛するこの男は、カヤや娘にとってなくてはならない大切な存在である。
「素晴らしいです、ウソップさん。やっぱり家族には“愛”ですよね。私も連休には旅行を計画してるから、ホント楽しみなんですよ。ナミさんも、どこかお出掛けしないんですか?」
「え? ああ、私は久し振りに実家の姉のとこにでも遊びに行こうと思ってね。姪っ子たちも大きくなったから、みんなに会うのが楽しみなのよ。女の子は特におませさんになるのが早いから」
「それを言うなら、ゾロんとこのチビ助だろ? たった半月前の花見ん時歩き始めてたが、もう結構歩くんじゃないのか?」
さすがは2歳児を育てている父親、娘の過去の成長記録と照らし合わせればすぐさま子供のすること、できることは察しがつくらしい。
「ん〜、そうね。まだ直線突撃で壁に当たると尻餅つくけど、まっすぐなとこなら数十歩は行けるかしらね」
「ああ、レンくん。子供って、あの歩き始めのお尻フリフリがぎゅうってしたくなるくらい可愛いんですよね〜」
デスクの傍らにお茶を置きながら、ビビは持っていた小さな盆で軽く肩を叩いた。
(・・・・?)
“それ”が目に入ったのは、ほんの偶然からのことだった。
忙しいあまりに、現実から少々逃避したかったのかもしれない。
それとも、普段の彼女らしからぬ動きに、無意識に反応したのかもしれない。
何気なく追う視線の中で、ビビは幾度となく腰や肩を叩きながらデスクや各種機材の間を縫うように歩いていた。
使った盆を簡易キッチンに戻しに行こうとしているのだが、その動きがいつものビビらしくなくて妙に気に掛かるのだ。
「昨日上げてもらった帳簿、そんなに腰に来るほど物凄かったかしら。歩き方も何か変だし・・・」
「まぁ事務職てのは、言わば座り仕事だかんなぁ。ある程度腰や身体に来ても不思議は――」
ナミが何を言わんとしているのか判ったのか、相槌を打ちながら同様に視線を追ったウソップは、いきなり含みかけたお茶を噴き出した。
「やだもう、ウソップったら何やってんのよ!」
「いやナミ! 問題はそこじゃなくてだな!」
急に声を潜めたウソップは、何を思ったのか座っていたナミをデスクの陰に引きずり込んだ。
「いきなり何すんのよ!」
「お前今ビビ見て、とんでもないこと言おうとしてなかったかッ!?」
「はぁ? とんでもないことって何よ? 昨日の仕事がそんなに大変だったのかって、ちょっと聞こうとしただけよ。それが何?」
ナミが当然のようにそう言うと、ウソップは長い鼻をピンクに染めてしどろもどろに口を開いた。
「その、あれはだな、つまり・・・もう、お前も大人の女なんだから、その辺察してやってもいいんじゃないかって言いたいんだよッ。って、何で男の俺様が、こんな女の裏事情関係のこと言わなきゃなんねーんだ? ああ、察しの良過ぎる男は辛いぜ〜」
暫くふたりの様子を交互に眺めていたナミは、ふとひとつの結論に辿り着き、一気に頬に朱が上るのを止められなかった。
「ちょっとまさか、あいつビビに――」
「だぁから、皆まで言うなって!! いいか、大人なら他言無用、余計なお世話! 当然だよな、ナミ?」
慌てたウソップの手で口を塞がれ、ナミは真っ赤になったまま頷くしかなかった。
(ちょっと、あいつら改めて紹介して引き合わせたの、つい数週間前じゃないのよ! あんの童顔男、顔に似合わず何て機動力なの!)
ナミの脳裏に、歯を剥いて天真爛漫の笑みを浮かべる童顔男の顔が浮かぶ。
だが同時に、あの行動力をもってすればビビを陥落するのも時間の問題だと思ったのも、またひとつの事実として納得できる。
見立てが間違っていなかったと自分を誇るべきなのか、さっさとかれらの状況を追い込んだ作為を申し訳なく思うべきなのか――。
「・・・さすが結婚してる男は見るところが違うわね」
「おいこら、人をセクハラ野郎みたいに言うな! これは以前、同じ状況をカヤで見て――って、あああ、今のなしだ! これはどーでもいいんだッ! 今の失言は忘れてくれ、いや、忘れて下さいッッ!!」
「・・・何を忘れるんですか、ウソップさん。というより、ふたりでこんなとこに座り込んで何してるんです?」
(あんたに言われたくないことよ!!)
「ち、ちょおっとねー、しっかり仕事して、土曜をきちんと休みたいかなーって・・・」
何気なく笑ったつもりが、どうにも口許が変に引きつる。
それを訝しく思ったのかビビは暫く考えていたが、やがてナミを見下ろしていた視線がぱっと逸らされ、白磁の頬が薄紅色に染まるのが見えた。
「な、何だか春先は“虫”が多くて困りますよね〜」
「――――ッ!」
ファイルで隠してはいるが、ビビの愛らしい口許がにんまり微笑んでいるのは一目瞭然だった。
(ちょっとビビ、せっかく言わないでおいてあげたのに、そのあんたがそれを言うの!?)
一瞬ちらりとウソップに視線を振ったが、既に彼は関わり合いになるのを避けようと半ば耳を塞いでいた。
懸命な判断だった。
ならば(?)遠慮はいらない。ナミは立ち上がってにっこり微笑みながら口を開いた。
「そーねぇ、昨日の“お仕事”は身体にガタが来るほどハードだったみたいだから、私も一事業主として申し訳なく思ってるのよ?」
擦れ違い様にポンとビビの臀部を叩き、肩越しに手を振って見せる。
それだけでナミの言わんとしていることを察したビビは、顔から火が出そうなほど真っ赤になった。
「な、ななな、ナミさん!?」
「ん〜ん、言わぬが華、言わぬが華」
艶然とした表情で唇に人差し指を立て、綺麗に片目を瞑って見せる。ここは大人になって、お互い詮索しない方が得策というものだった。
「あ、あははは。春だものねぇ・・・」
「ふふ、ふふふふ。そうですね、春ですものねぇ・・・」
渇いた笑いが、激しい照れを隠してふたりの間を流れ去る。
(おいおいお〜い、春でも夏でも何でもいいから、とにかく早いとこふたりとも落ち着くとこに落ち着いてくれ〜〜)
ウソップはいち早くデスクに戻り、「じゅげむじゅげむ・・・」と意味不明の呪文を繰り返しながら、黒一点としての苦しいツッコミを入れた。
そうして全員一丸になって仕事をこなしたのが良かったのか、連休はどうにかまとめて取れる算段になった。
最後に残業を交えて激しく追い込みをしたのが良かったらしい。
例年通りの大型連休に行楽地はどこも一杯の様相を呈していたが、実家でのんびりしようというナミにはあまり関係がなかった。
秋になるとみかんの収穫があるので、その時期ばかりは猫の手も借りたいほどの大忙しになる。
実際去年の秋は、週末は事務所を休みにしてノジコのところへ手伝いに行ったのだ。
双子の姪たちも足元にまとわりつき、かなり賑やかな収穫作業になった。
逆に言えば、この時期は花芽と水分の管理だけになるので、泊まりで遊びに行くには迷惑にならない都合のいい季節だった。
「なぁに? これから出掛けるっていうのに、まだ覚悟決まんないの?」
荷物をワゴンの後部座席に入れながらナミが笑うと、ゾロはブチ猫姿のレンを肩に乗せたまま苦虫を噛み潰したかのような表情で溜息をついていた。
「・・・緊張してんだよ、悪ィか」
「緊張? 傍若無人の塊みたいなあんたが!? ・・・今日の天気、『晴れのち槍』だったかしら」
「あーい」
そこへレンの絶妙の合いの手が入り、ナミは弾けるように笑い出した。
「ほーら、レンにも見抜かれてるじゃないのよ、ゾロの性格。子供から見ても判りやすいってことよね、いいことだわ」
「褒められてる気はしねぇが?」
「当然ね、褒めてないもの」
すっぱり袈裟懸けに言い切ってくれるナミの容赦のなさに、ゾロはナミの髪をぐしゃぐしゃにすることで応酬した。
「ちょっとぉ! 何子供みたいなことしてんのよッ!」
憤慨して見せたが、ゾロは既に運転席に座ってしまい、逆にナミに「さっさと乗れ」と促していた。
「あー、そういやナミ。お前の姉貴たちの好物って何だ? やっぱ酒か?」
マンションを出てすぐ、ふとゾロはそんなことを言い出した。
珍しいものでも見るような顔でまじまじとゾロを見るナミに舌打ちし、同じ言葉をもう一度繰り返す。
「だから、実家の連中何が好きなんだよ? 酒か? 珍味か?」
「へ〜え、あんたでも訪問先に手土産持って行こうなんて殊勝なこと考えるんだ。これも意外かも」
「俺をおちょくってんのか? そういったことは、本意じゃねぇが一通りやってんだよ、面倒だったがな」
なるほど、面倒でも形式上のこととくいなの時に学習していたらしい。
憮然とした態度を崩してはいないが、意外に義理堅く真面目な一面を持っていることも知っていたので、とりあえずそれ以上笑うのだけはやめた。
「そーねぇ・・・この場合、一番砦の高い人の好みに合わせるのが妥当よね?」
「まぁ、一般的にはそうだな」
「じゃあ決定。手土産は美味しい生ケーキの詰め合わせってことで。ここは当然『ブルー・オール・ブルー』へ直行よねッ♪」
「・・・背に腹は代えられねぇってことかよ」
信号待ちの折、がっくりしてそのままハンドルに突っ伏す。
ゾロ自身、この界隈でサンジの店以上に美味しい洋菓子を売る店を知らなかったので、これはこれで仕方のない選択だった。
連休の初日だというのに、『ブルー・オール・ブルー』の店内は朝から大賑わいだった。
どうやら他の客たちも、考えることはあまり変わらなかったらしい。
遠近関係なく友人宅に訪れようとするなら、手土産は美味しい物に限る。
サンジの性格性癖はいざ知らず、その腕だけは賞賛に値することをゾロも認めて憚らないからだ。
「んーま? マーンマ〜?」
「んん? レンも食べたいの? そうねぇ、あんたには小振りのパフ・ケーキをひとつ買ってあげよっか」
今回もナミの姿を見た途端チャイルド・シートに座るのを大嫌がりしたので、レンは仕方なくナミの膝という特等席に収まっていた。
運転しているゾロは溜息ばかりついていたが、ノジコの家に着くまで大泣きされ続けては堪ったものではない。
警察の検問にだけは引っ掛かりませんようにと、およそドライバーらしからぬ不心得者になりながら一旦サンジの店で降りた。
「はいはい、お財布持った大蔵省さん、とっとと降りて」
「へえへえ」
ナミはレンを抱いたまま、ゾロがついて来るのを確認して店内へと入った。
さすがに今日はカウンターのバイトも多く、様子と在庫を確認しているのかサンジも店頭と厨房を往復していた。
「こんにちは、サンジくん。盛況で何よりね」
「ああッ、んナミすわぁ〜ん! 今日はわざわざ俺の応援に駆けつけてくれたんですか〜?」
腕に抱かれたレンを半ば無視し、サンジは目をハート模様にしてカウンターに張りついた。
「ううん、関係ないし。サンジくんとこのケーキ美味しいから、これから行くところへの手土産にしたいのよ」
「鋭い切り返しのナミさんも素敵だ〜。光栄ですね、俺のケーキを手土産にしてくれるなんて。これからお出掛けですか? その・・・」
不意に視線がレンへと注がれる。ナミが出掛けるのに、どうしてゾロの息子であるレンが一緒なのか不思議らしい。
「よう、クソコック。大事な出先への土産だ、変なモン入れんじゃねぇぞ?」
「げッ、クソマリモ! 何でてめぇが麗しのナミさんと一緒なんだよ?」
ナミの背後にいたゾロに今更気づいたかのように、サンジの態度はあからさまに苦々しい。
それを充分解っていて、ゾロはナミの肩をポンポンと馴れ馴れしく叩いた。
「これからちょっと、ナミの姉貴んとこにな」
「ああ? 何でてめぇが俺を差し置いて、ナミさんのお姉様に会いに行かなきゃなんねぇんだよ! 第一そんな贅沢が許されると思ってんのか!?」
「許されるに決まってんだろ、挨拶に行くんだからよ」
「挨拶・・・?」
あまりにあっさり言い切るので、サンジは咄嗟に二の句が継げなかった。
どうやらゾロの言葉と、今目の前にいるナミたちの状況がどうにも結びつかないらしい。
「んん? いつものてめぇらしくなく、察し悪ィじゃねぇか。――こういうこったよ」
言うなり、ゾロはおもむろにナミの左手を取ってサンジの目の前に差し出した。
その白く華奢な薬指には、つい半月前手渡された深い緋色の指輪が嵌められていた。
「な・・・薬指・・・? て、あの、ナミさん・・・?」
信じられないものでも見たような、硬直して上手く言葉が出ないサンジに、ゾロはとどめの一言を投げつけた。
「悪ィな。俺ら、今度結婚すんだ」
「け、結婚〜〜〜ッッ!? だ、だ、誰とナミさんがぁぁッ!!」
「目の前にいんのに、何懸命に無視してんだよ。俺とナミに決まってんだろ?」
普段ならそんな気恥ずかしいことなど絶対言わないゾロだが、サンジに見せつけるためならば多少のことには目を瞑れるらしい。
案の定サンジは激しく狼狽し、否定して欲しさに縋るようにナミの顔を見つめた。
「んナミさ〜ん、嘘ですよね? こいつの悪ふざけですよね!? 後生だから悪い冗談だと言って下さい!!」
「んもうゾロのくせに、何で今日に限って人の指先なんて細かいとこ見てんのよ。絶対気づいてないと思ってたのに」
半泣きのサンジを横目で見つつ、ナミは半ば照れ隠しをするようにやや乱暴にその手を払った。
だがその仕草すら、どういった感情からもたらされたものか判っているようで、ゾロはいつもの余裕めいた態度を崩さない。
「ん〜ん、笑っちゃうけどホントのことなのよね。ま、ゾロが泣いて頼むしこんな野獣野放しにしとけないし、私としても苦渋の決断だったわけなのよ」
「嘘言うな。泣いてたのはお前だろうが」
「あ・・・あれは、ノリよッ」
「ノリかよッッ」
目の前で繰り広げられる茶番に、いつしかサンジはまったく無反応になっていた。目を見開いたまま硬直しているようにも見える。
「どしたの、サンジくん? ・・・疲れてんのね、この人出じゃ無理ないわ。いいわ、そこのキミ、ここからここの20種類、1個ずつ頂ける? あ、それと別包装でバニラ味のパフ・ケーキもひとつお願いね」
「は、はい、只今・・・」
サンジはナミが注文し、会計して商品を受け取ったゾロが店を出て行く直前まで直立不動で硬直していた。
だが3人の背中を見てはっと我に返り、サンジはカウンターに張りついて滂沱の涙を流した。
「やいこのクソマリモ! この俺様が華の独身やってんのに、何でてめぇみてぇな筋肉バカが2度も結婚しようとしてんだよッッ! 嘘だ、これは何かの間違いだ! ナミさんのような聡明な方が、こんなケダモノに引っ掛かるなんて絶対に騙されてるんですよ!!」
「人徳と、心意気だろ」
「ンなわけあるか――ッッ!!」
「て、店長、店長落ち着いて下さい! 今は仕事中ですよ? 『いつでもにっこり、笑顔でサービス』のモットーはどうしたんですか!」
あまりの取り乱し様に、見兼ねた古株の店員がサンジを抑えにかかる。
「この非常事態にそんな悠長なこと言ってられるかー! 今日の営業が終わったら目に物見せてやっから、首洗って待ってやがれ!!」
「あー、そりゃ無理だわ。今日はナミの姉貴んとこに泊めてもらう予定だからよ」
その一言にサンジは床に着かんばかりに顎を落とし、金髪のパティシエは今度こそその場に卒倒した。
店外に出たナミは、してやったり風に肩を揺らしているゾロの後ろ姿にぼそりと呟いた。
「あんたって、サンジくんからかうためなら、普段なら絶対言わないことでも平気で言えちゃうのね」
「今後変なちょっかい出されねぇために、きっちり先制攻撃したまでだ。俺の立場からすりゃあ正当な権利だろ?」
ナミに背中を向けたまま、ゾロは20個ものケーキを崩さないようにそっと車に乗せている。
「それで、今になって私に聞かれたことに照れててもねぇ?」
ゾロは振り返らなかったが、ナミはしっかり気づいていて可笑しかった。
あれだけの啖呵をきっちり切ったはずのゾロは、今になって耳元まで真っ赤になっていたのだから。
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