海の見える丘にて      −3−
            

真牙 様




車で小一時間近く走ると、不意に目の前に広大な海原が飛び込んで来た。

穏やかな上天気に少し窓を開ければ、懐かしい潮の香りが優しくナミの鼻腔をくすぐった。

「うわー、久し振り。ここは今住んでる街に比べれば随分田舎だけど、それでも夏になると海水浴客で結構賑わうのよ」

「ほぉ。んじゃ泳ぎはお手の物か」

「当然じゃない。この界隈でカナヅチなんて言ったら笑われるわよ。ん、レンは私がきっちり鍛えてあげるからねッ」

そう言いながらゾロに視線を向ける。その意味を理解したのか、ゾロはやや眉目を顰めながら口の中で呟いた。

「・・・俺は、一応だが泳げるぞ? まあその、溺れねぇ程度ではあるが・・・」

「なら、あんたもまとめて面倒見てあげましょうか? コーチ代は――」

「心配すんな。いくらでも身体で払ってやるさ」

(も〜、このエロオヤジ、最近何かって言えばソッチにばかり話を持って行こうとするんだから〜)

途端に口の端を上げてニヤニヤ笑いを浮かべるので、ナミは慌ててあらぬ方向を向くしかなかった。


婚約までしたのだから、今更ゾロを拒む理由などない。
むしろどうしてそこまでこだわり、自分を受け入れないのかと詰るゾロの言い分の方が罷り通るのかもしれない。

(心のどこかで、まだ覚悟が足んないのかしら・・・)

もちろんゾロのことが嫌いなわけではない。
もしもそうだったなら、そもそもこの結婚話すら受け入れはしなかった。
今までいろいろなトラブルや心理状態を経て、ゾロやレンが心底愛おしいと思っている自覚は充分ある。

――それは、否定し難い事実だ。

ただ、自分の中にも、片づけたい問題や越えたい砦がいくつかあるように思われる。
それが解決しないことには、どうしてもゾロを受け入れる気にはなれないのだ。


今までの喧嘩調にも近いつき合いがなかなか心地好かったので、その状況が傾倒するのが怖いのかもしれなかったが。

(ごめんね、ゾロ。もう少しだけ、このままでいさせて。・・・って、ノジコんとこに行くのも、ひとつの試練かもしれないけど)

苦笑と溜息が入り混じる。

「ま〜?」

「んん? あんたにとっても試練かしらねぇ。賑やかなちぃ姉がふたりもいるし・・・こりゃ泣きを見るわね」

おませな双子の姪たちに、いいように玩具にされるか否か――ここは、レンにとっても踏ん張りどころかもしれない。




「なぁナミ、ひとつ思い出したんだが・・・訊いてもいいか?」

海辺の商店街を抜け、ノジコ宅までもう10分もしない辺りで、不意にゾロはやけに殊勝な質問を切り出した。

「なぁに、改まって?」

「・・・お前、3年前にお袋さん死んだって言ったよな? で、今向かってる姉貴ンとこが実質実家だって」

「ええ、確かに言ったわ。母――ベルメールさんは、3年前に交通事故で死んだの。それは変わらない事実だけど、それがどうかした?」

「親父さんのことを、全然聞いてなかったと思ってよ」

「・・・・ッ」

ナミは思わず言葉に詰まった。よりによってここまで来て、こんなタイミングで聞かれるとは思っていなかったので。

「もしかして・・・親父さんも、いねぇのか? ああ、そういやこっちに来るって話した時、確かそんなこと言ってたっけか」

訝るようなゾロの口調に隠し事はできないと、ナミは苦笑を濃くして口を開いた。

「父さんはねぇ・・・私が2歳の時に海の事故で死んだって聞いてるわ。ノジコはその時6歳だったから、ぼんやりと覚えてるみたいだけど。写真は一枚だけ残ってるんだけど、どうにも腕の悪いカメラマンだったらしくてね。ピンボケもいいとこで、ろくに顔も判りゃしないわ」

「――だから、くいなの写真のことをあんなにこだわったのか」

「ううん、もちろんそれだけじゃないんだけど・・・ああ、そうなのかな。ん〜、やっぱりちょっと複雑かも」

聞けば、漁師を生業としていたらしい。専ら遠洋に出るのが主流でなかなか家にも帰らず、終いにはその遠洋で時化に遭い、そのまま遭難したという。

一縷の望みを託して7年待ったが、結局彼はこの町へ戻ることはなかった。
だからナミとノジコには、戸籍上でも両親は既にいないのだ。

その代わりに、近所の人々はよくベルメールを助け、残されたふたりの娘にも何かと世話を焼いてくれた。
特に当時から交番勤務だったゲンゾウがその筆頭となり、学校の授業参観などに来てくれたこともあったほどだった。

「みんな、私たちを一杯愛してくれたわ。だから父さんがいなくても寂しくはなかった。それはホントよ、強がりじゃないわ。正直あんまり裕福ではなかったけど、愛情の量ならどこの家庭にも負けてなかったと自負してる。これ、負け惜しみじゃない本音よ?」

「そうか・・・」

ゾロは慰めを口にするでもなく謝罪するでもなく、ただ一言納得したようだった。
柔らかな横顔は凪の海原のようで、ナミの置かれている状況をありのまま受け入れたようにも見えた。


「じゃあ、逆に訊いてもいい? ゾロの両親の話って今までちらっとも出て来なかったけど、もしかして・・・あんたもいないの?」

恐る恐る口にした言葉に、ゾロは丁度信号待ちでナミの方を向いた。

「いや、俺んとこはふたりともちゃんと生きてるが」

「そうなの? それにしては今まで話題に出なかったし、両親に会ってくれとも言われなかったから、私てっきり・・・」

「あー、そりゃ仕方ねぇな。今日本にいねぇからよ」

あっさり奇妙なことを言うので、ナミは眉間に皺を寄せて頓狂な声を上げた。

「――はい?」

「俺が二十歳になった時にな。いきなり『親としての責任は果たした』なんつって、ふたりで外国に行っちまったんだ。親父が大学の助教授やってるからな、その絡みの研究とかでアメリカの大学に招かれて、身の回りの世話すんのにお袋までついてっちまってな。たま〜に『元気だから心配すんな』って、一方的に手紙が来るくらいだ」

「一方的って・・・じゃあ、ゾロの現状まったく知らせてないの?」

「今更親に手紙なんざ、気恥ずかしくて書けるかよ。とりあえず生きてるし、何とかやってっからいいんじゃねぇかと思ってよ」

ナミは軽い眩暈を感じてこめかみに手を当てた。

「もしかして、くいなさんと結婚してレンが生まれたことも、くいなさんが亡くなったことも知らせてないんだ!?」

「あぁ、知らせてねぇ」

「おーう?」

半眼になったナミは、きょとんとするレンを尻目に拳を固めて一気にゾロの頭を殴りつけてやった。

「痛ぇ! いきなり何しやがんだよ!?」

「すっとぼけんのもいい加減にしなさいよねッ! そんな調子じゃ届いた手紙はさっさと処分しちゃってるんでしょ!? 今度何らかの形で連絡が来たら、必ずそれに応えるのよ? いいわねッ!? これだけはちゃんと約束してもらうからね!」

「何でそんな面倒臭ェこと・・・」

「ゾーロ? いなくなってからでは遅いってこと、私同様あんたも良〜く理解してると思ってたんだけど、気のせいだったのかしら!?」

じっと見つめるヘイゼルの瞳は、まったく笑っていなかった。
真摯な眼差しにゾロが怯み、口を閉ざしたまま唸っているのでナミは畳み掛けるように続けた。

「いつでも必ず会えるなんて慢心しないで。帰ると思ってた人が突然帰って来なくなる痛み、充分解ってるんでしょう?」

遠い近いは関係ない。大切な人なら尚更だ。

それを解っているからこそ、互いの痛みを思いやれると感じたことを勘違いだと思いたくはない。

「まー?」

「ねえレン、このマリモ親父ってば失礼よねぇ? こんな可愛い息子が生まれたっていうのに、じーじとばーばに知らせてないんだって。薄情だとは思ってたけど、よもやここまでとはねぇ・・・」

「ぶー。マーンマ〜」

ふたりにきっちり詰られてしまっては堪らない。ゾロは天井を仰ぎ、長い溜息を吐き出して渋々頷いた。

「・・・わぁったよ、今度手紙が来たらちゃんと報告する――それでいいんだろ?」

「判ればいいのよ。でも、情報はきちんと正確にね? 私にしたら初対面の相手なんだから、変な印象づける描写しないでよ?」

「それも判ってる。こう書きゃいいんだろ? 『黒髪の女猛者と結婚して、俺にそっくりの息子が生まれた。事故で彼女が死んでバツイチになった。その後オレンジ髪の守銭奴と再婚した』――正確だろ!?」

「却下!!」

思わず即答したナミの右手がしなり、再度ゾロの後頭部にヒットした。





そんなことをやっているうちに車は高台への坂道を登りきり、いつしか海を臨む斜面に広がるみかん畑の前に出ていた。

更に行くと、その葉陰から古びた民家が見えて来た。
一昔前に戻ったような造りのそこは、どこか昔懐かしい雰囲気を醸し出す温かさが漂っているように感じられた。

「そうそう、あの一番手前の家よ。うん、車はそこの庭の端に寄せとけば大丈夫だから」

「おう」

玄関に近づくと、中からいい香りが漂って来た。丁度昼時になったので、ノジコが何か用意してくれているのだろう。

「さて、レンはちょっとゾロに抱っこしてもらってね。私はケーキを取って来るから」

「しっかし20個ものケーキとは・・・砦の高い奴ってのは、姉貴かその双子の娘らなのか?」

ゾロのもっともらしい質問にナミは微笑みで答え、軽く片目を瞑って見せた。

「それは言わぬが花よ。あっと、ひとつ注意しておくけど、ノジコの旦那のゲンさんは強面の怒りんぼだから頑張ってね」

「面構えならこっちだって負けてねぇだろうが」

「こらこら、何を張り合おうとしてんのよ。父親って言っても遜色ない歳の人だから、あんまり失礼のないようにしてよ? あんた何気にとんでもないこと言いそうで怖いわ」

一応なけなしの常識はありそうだが、状況によってはあっさり捨ててくれそうで怖い。

しかも、今回の相手はこの界隈でも有名な堅物のゲンゾウだ。変な展開にならないことを祈るばかりである。

「任せろ。んなオヤジにいちいち負けてらんねぇ」

「だから、張り合わなくていいのッ!」

どうやら状況は、始まる前から前途多難のようだった。




「こんにちはー、ノジコいるー?」

「「は〜い、いらっしゃ〜〜い!!」」

玄関の引き戸を開けて真っ先に聞こえたのは、先を争うように走って来る足音と重なる甲高い歓声だった。
奥から転がるような勢いで出て来たのは、黒髪の5歳前後の少女たちだった。

「ナッちゃんママ、おかえんなさ〜い! あんまり来ないから、エルたちのこと忘れちゃったのかと思ったー」

「ママがね、今日はナッちゃんママが来るから楽しみにしてなって言ってくれたの! メルもいい子で待ってたよー」

「ただいまー、エル、メル。う〜ん、少し見ないうちにまた大きくなったんじゃない?」

「こらー、玄関先でじゃれてないで、さっさと上がってもらいなよ」

「「は〜〜い」」

はしゃぐ娘たちの様子に痺れを切らしたのか、奥からノジコの声がする。何か用意をしていて手が離せないのだろう。

「じゃあお邪魔するわね。ゾロも入って」

「・・・うす」

「「わぁ! にゃんこの赤ちゃんだー!!」」

ゾロの腕に抱かれたブチ猫姿のレンを見た途端、エルたちは見事にステレオで更なる歓声を上げた。
そのことによりレンは瞬時に固まったが、彼女たちはそんな機微には当然のように疎く、物珍しさも手伝ってきゃあきゃあとまとわりついた。

手前の座敷に入ると、そこにはもてなしの料理の並べられた座卓を前にするゲンゾウが座っていた。

「ただいま、ゲンさん。暫く顔見せないでごめんね」

「おお、お帰りナミ。ちょっと見ないうちに少し痩せたんじゃないか? 仕事はきつくないのか?」

「え、そ〜お? 実は少しダイエットしたの。もうゲンさんてばエッチなんだから、どこ見て言ってんのよ」

「そそ、そんなわたしは別に、お前の身体のことを心配してだな! 決していやらしい気持ちで言ったんではなくて・・・」

ナミの軽い冗談にも目一杯反応するゲンゾウは、強面の顔をうっすら赤く染めてしどろもどろになっている。

その様子をひとしきりくすくす笑い、ナミはすぐ後ろにいたゾロを室内へと促した。

軽く会釈をするように座敷へ入ろうとしたゾロは、その長身が災いしてあろうことか鴨居に頭をぶつけてしまった。
昔の採寸で造られた家なので、飛び抜けて背の高いゾロには少々手狭ならしかった。

レン触りたさにその足元にまとわりついていた双子は、それを見た瞬間弾けるように笑い出した。

「お兄ちゃんのドジー。そんなに背が高いんだから、注意しなくちゃ駄目だよ」

「そうそう、あたしたちはそんなドジしないもんねー」

「ゾロってば何やってんのよ。ちゃんと前見て歩いてんの?」

「見てたが・・・今一瞬レンが目隠ししやがって・・・」

「ぶー」

あくまで自分のせいではないと言い張るようにレンが抗議すると、ゾロは憮然としたまま小さな鼻を摘んだ。

「ゲンさん、紹介するわ。こいつがこの間連絡した時に話したゾロよ。それと、こっちはレン」

「あー、初めまして。ロロノア・ゾロです」

「あーう?」

「・・・・?」

ゲンゾウはあからさまに、訝しがるように顔を顰めた。
それもそのはずで、ゲンゾウの視線はゾロではなくレンで止まっていたのだから。

「で、ゾロ、こっちが姉の旦那のゲンゾウさん。戸籍上は義兄さんだけど、今までそう呼んでたから名前で呼ばせてもらってるの。この黒髪のおませさんたちがエルとメル。幼稚園の年長さんだったわよね」

「「はーい、来年一年生だよー」」

「ああほら、みんなしてこんな入り口に立ってないで座ったらどうなのさ。ナミ、そっちに案内してやって」

背後で声がし、水色のショート・ヘアをバンダナで押さえた気風の良さそうな女が大きな盆を持って立っていた。

「ええと、ロロノアさん? あたしはナミの姉のノジコ、お宅の話はかねがねナミから聞いてるわ」

「か、かねがねなんて言うほど話してないわよッ!」

どんな言われ方をしたのかは容易に想像がつくが、さして変な描写はされなかったらしいことは、彼女らの温かな雰囲気から充分感じ取れた。

「あっと、ゾロでいいっす」

「んん、ゾロね。じゃあ遠慮なくそう呼ばせてもらうわ」

ノジコはナミたちに座るように促し、運んで来た料理を座卓の上に並べ始めた。

「あんたたちいいタイミングで来たね。丁度お昼御飯にできるよ。えーと、このおチビちゃんには・・・」

「ん〜、大丈夫。この辺りの物が食べられるから」

「まー? マーンマ〜」

勝手に進行する会話をよそに、ゲンゾウの表情は心なしか硬直したかのように固まっていた。

「ナミ・・・お前、いつの間に子供を生んだんだ?」

「え? ああ、レンのこと? やだ、ゲンさんたら。去年の夏までこっちにいたのに、どうやってこんな1歳児生むのよ? この子はゾロの息子で、残念ながら私が生んだわけじゃないわ」

「すんません、俺バツイチなモンで・・・」

こういうところがゾロなのだ、と後悔する間もなく、ゾロはまんまともっとも言って欲しくない言い回しを使ってくれた。

やはり前以て“バツイチ”と“やもめ”の違いを説明しておくべきだったと自分を詰ったが、飛び出してしまった言葉を今更引っ込めることはできない。

(だからぁ、バツイチとやもめでは意味が天と地ほども違うんだってば!!)

ナミの心の中の叫びをよそに、硬直していたゲンゾウの手が微かに震えていた。

「・・・バ・・・」

「ば? 何、ゲンさん」

「バツイチだとぉぉッッ!? 駄目だ駄目だ、わたしは絶対許さんぞ、こんな男を認めるわけにはいか〜〜ん!!」 

「はあ・・・」

(こンのバカマリモ! 『はあ』じゃないでしょ、『はあ』じゃ!!)

早速始まったゾロの天然ぶりに、ナミは前途多難も極まるものだと溜息をつくしかなかった。




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(2004.05.25)

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