海の見える丘にて      −7−
            

真牙 様




午後から丸々ノジコにこき使われた形になったゾロは、どこに身体を突っ込んだのか妙に埃塗れになっていた。
途中でそうなることを予測したのか、車の中に積んであったスペアの仕事着に着替え、準備は万端だったらしいのだが。

「ああもう、ゾロってば頭まで埃臭いわよ? 一体どこに身体突っ込んだの!?」

「いや、ちょっとエアコンと天井裏を――って、俺のせいじゃねぇだろ。それはお前の姉貴に言ってくれ」

「わははは、ごめんね〜。こんな機会なかなかないと思ったら、ついあちこちついでにお願いしたくなっちゃってさぁ」

ひらひらと手を振るノジコの罪のない笑顔に、ゾロは溜息を漏らしつつも沈黙するしかなかった。

女と子供は敵に回さないのが得策だ――それは、無骨を地で行くゾロにも充分判っているらしかった。
ただ完全に顎で使いまくられ、かなり憮然としてはいたのだが。

「悪かったとは思ってるんだって。後で夕飯の時に、とっておきの北海道の地酒出してあげるからさ〜。ああ、それとお風呂が沸いてるから、チビちゃんとお先にどうぞ。何ならナミも一緒に入って背中流してあげれば?」

「ノ、ノジコ!」

「何を今更照れてんのさ!? 別にちょっとくらいイイ声が聞こえたって、知らん振りするくらいの度量あたしにだってあるんだからね? んん、まだ娘たちが起きてるから気持〜ち抑え気味にしてもらえるとありがたいけどさ。まあ、気にしない気にしない♪」

あっさりとんでもないことを言ってのける姉の言葉に真っ赤になり、ナミはしどろもどろに言い訳した。

「私は気にするわよッッ! え、えーと・・・そ、そうよ、レンがいるんだから。レンを入れてもらって私はその着替えをしてあげなきゃならないんだから! だから外で待ってた方が都合がいいのよ、ねッ!?」

「だったら時間差にすればいいんだよ。ウチはいつもそうだよ? あたしが少し先に入って、その後ゲンさんと娘たちでね。んで、あたしが先に出て娘たちの着替えを出しといてやる、と」

(だから、マンションでだってやったことないのに、ここでイキナリできるわけないでしょッッ!?)

切実な叫びだったが、声にならない声は当然ノジコには届かない。
過激な台詞に即座に反応し、憤慨の声を上げたのはもちろんお堅い良識者のゲンゾウだった。

「こらこらノジコ、そういうことをわたしの目の前で煽る気か!? そういうことは段階踏まえて、わたしの目の届かないとこでやらんか! 少なくとも、ここでベタベタいちゃつくことは許さんぞ!!」

「へ〜え、目の届かないとこならいいんだ? だんだん寛大になってるじゃないの。いい傾向だね〜」

「「いい傾向っていいの〜?」」

娘たちの更なる追撃に父の威厳も心情も蜂の巣状態だ。
ナイーブなオヤジ心をぼろぼろに揶揄するノジコに、ゲンゾウは今世紀最大の情けない表情をしていた。

ナミが真っ赤になったまま髪をくしゃくしゃにしていると、それを見下ろす角度にいたゾロが不意に口の端をニヤリと上げた。

「俺は別にどっちでも構わねぇが?」

「・・・ここで私がいいって言うとでも思ってんの?」

「あー、もしかしたら姉貴の進言ってことで言うかなー、とちょっと期待してるが」

「言うか、このエロマリモ! セクハラオヤジ! 埃臭いんだからとっととお風呂に行って来―いッッ!!」

正に蹴り出す勢いのナミを、ゾロは豪快に笑い飛ばしてくれた。




(まったくもうまったくもうまったくも〜〜うッ!)

ゾロがレンを連れて風呂に行ってしまってからも、ナミは赤面がなかなか収まらなくて苦労していた。

確かにこの家にゾロを連れて泊まりに来たのは、結婚を前提としてつき合っているのだと暗黙のうちに告げているからに他ならない。
だからこそ貰った指輪を嵌めて来たのだし、ゲンゾウよりもゾロの意見に賛同している態度を取らせてもらってもいる。

そこは、さすがのゲンゾウも少しは酌んでくれているようだが。

ナミとて年頃の娘だし、いつまでも独身でいても逆に心配を掛けてしまう。
そこも、きちんと解ってはいる。
要するにナミが“娘”である限り、“父親”であるゲンゾウの心配の種は尽きないということなのだ。

「ホント、困ったおじさんよね・・・」

小さく呟くようにぼやいてみるが、そこにはたくさんの愛情をくれた相手への感謝の念が溢れていた。

父の面影を覚えていない分、本当の父のように振舞ってくれた。
ベルメールが亡くなってからというもの、その傾向は更に強くなった。


誰よりも幸せであれ。
強く逞しく、世の不条理に負けない強さを秘めてあれ。

生きて生きて生き抜いて、多くの物を掴み取る力をつけられるように・・・。


(ベルメールさんやゲンさんが一杯愛してくれたから、私はまっすぐここに立っていられるよ。明日にはお墓に会いに行くから。そしたら、ゾロと一緒に少し文句も聞いてね・・・)

ずっと以前から言いたいことがあったが、今回はいい機会かもしれない。
本当は本人を前にして聞きたかったことだが、今更なので墓前で手を打つことにした。
かねがねゾロにも聞いて欲しいと思っていたので、まとめて好都合というところだろう。

ふっと肩を竦めて何気なく時計を見る。

「あら、もうこんなに時間過ぎてたの?」

見ればふたりが風呂に消えてから、悠に30分は経過している。
ゾロはともかく、小さなレンが茹だりきっているのではないかと心配になり、ナミはさっさと腰を上げた。

「ゾロー? レンは洗い終わったのー?」

何気なく手前の洗面所へのドアを引き、何気なく声を掛ける。
廊下から洗面所への引き戸を開けた瞬間、もうひとつのドアが開いた音が重なったのは、もう素晴らしい偶然としか言いようがなかった。

「―――――――・・・」

双方の扉から半歩踏み出した、翡翠とヘイゼルの瞳がぶつかり合う。
濡れそぼった短い翡翠色の髪から水滴が落ち、抱えられていたレンはむずがって身を捩った。

服を着たまま風呂に入るバカはどこにもいない。
当然ながら、ゾロとレンのふたりは風呂に入っていた。
そして、浴室から出て来た。
更に当然ながら、風呂に入っていたのだからふたりは当たり前のように一糸まとわぬ姿――つまりは、裸なわけで。
意識せずとも視床下部だか脳下垂体だか、いろいろな場所にいろいろな情報は伝達されて行くわけで。

首から胸に掛けて流れる男らしい優美な線だとか。
鍛え抜かれた肩や胸の筋肉だとか。
レンの身体の後ろに見え隠れする斜に走る大きな傷痕だとか。
見事に割れた腹筋だとか。

それから――それから・・・えーと・・・。(←もはや、天もツッコミきれず・・・)

――ナミが硬直していたのは、果たして一瞬だったのか数秒だったのか。


そして――唐突に硬直は解けた。ナミの大絶叫とともに。

「きゃああああああッッ!! このバカ、変態、露出狂ッッ!! 何てモノ見せるのよぉッッ!!!」

「おいこら、変態とは何だ! 露出狂ってな何なんだ! 見られたのは俺だろうがッッ!!」

「マーンマ〜?」

「バカァ、もうッ! レンを置いてさっさと中に入りなさいよ〜〜ッ!!」

慌てて引き戸を閉めるが、どう考えても以前の逆パターンに成り果てたこの状況に、脳みそは既にゾル化して考え事のできる状態ではなかった。



「どどど、どうしたんだ、ナミ! 一体何があった――ッ!?」

「ああ、ゲンさんは行かなくていいの。こういうことは本人たちに任せて。ふふん、若いっていいね〜♪」

「そういう問題じゃないだろう、ノジコ! 今『変態』とか『露出狂』とかって叫んでたぞ!」

「ん〜ん、それも本人たちの趣味の問題。外野がとやかく首を突っ込むことじゃないの。ゲンさんてば、そんなに馬に蹴られたいわけ?」

「わ〜い、パパの変態〜〜♪」

「へんた〜い、お馬に蹴られる〜〜♪」

「やめんか、お前ら――ッ!!」




(〜〜〜〜〜〜ッッ!)

ナミは半ば思考停止した状態のまま、タオルに包んだレンをがしがしと無造作に拭っていた。

「へ〜え、手馴れたモンだね〜」

「ノ、ノノノ、ノジコッ! いきなり後ろから声掛けないでよッ!」

「いきなりも何も、先刻からいたじゃないのさ。ぼ〜っとしてるのはあんただけだって。そんなに見惚れるほどセクシーな裸だったわけ?」

不意に切り込まれ、ナミは危うくレンをタオルごと張り倒してしまうところだった。

飾り気のないストレートな正直さが売りの姉だったが、ここまで真正面から来られるとさすがのナミも狼狽を隠せなかった。

「べ、別にそんなこと考えてないわよ! は、早くレンを着せてやんないと風邪引いちゃうし・・・」

「おお、男の子の裸ってのも可愛いね〜」

「ぶー」

「ほら、セクハラ女はいやですってよ。あっち行った行った!」

さっさと追い払おうとしたものの、ノジコはにやにやした笑みを浮かべたままナミの後ろから動こうとしない。
訝しげに振り返ると、案の定ノジコは何か言いたそうな含みのある顔をしていた。

「・・・なぁに、言いたいことがあるならはっきり言えば? ノジコには黙ってられる方が却って気持ち悪いもの」

「別にそんなつもりはないけどさぁ。ただ、ちょっと思ったんだよね。あいつかなり手ェ早そうなのに、何でナミには何もしないのかなーって。それともあんた、判ってておあずけ喰らわせてんの?」

一瞬トラの着ぐるみを着せていた手を締め上げてしまい、レンは「むぎゅっ」と変な声を上げた。
慌てて頭を撫でて抱き締める。

「・・・・ッ!!」

「何で判ったのかって顔だねー。そりゃ判るってぇの。あたしが何年あんたの姉ちゃんとゲンさんの人妻やってると思ってんの? そんなん、あんたの肌見りゃ一発で判るんだよ。男に可愛がられてる女ってのは、こう・・・匂いたつ色香みたいなモンがあんだから」

(そんなの判られたって嬉しくも何ともないわよッ!)

収まりかけた赤面が一気にぶり返す。
それを見たノジコは、弾けるように笑い出した。

「あっははは! まったく初心なモンなんだねぇ、あんたって。ほんの少し勇気出して誘えば、あの男なら待ってましたって飛びついて来んだろうに」

どこかで言われたような言葉をあっさりなぞられ、ナミはますます返事に窮した。

ここでどう言い訳しても、ノジコに掛かればどれも一笑のうちに粉砕されてしまいそうだ。
それが判っているので、ナミはますます言葉が口から出なかった。

「わ、私にだっていろいろ都合があるのよ・・・」

ようやくそれだけ呟くように言うと、ノジコはトラ着ぐるみのレンとナミの頭を無造作に撫でた。

「ん〜ん、あんたにはあんたのこだわりがあるんだろうからね。いいんじゃない? あの仏頂面をもう少し生殺しにしとくのも面白いしね。そのこだわりとやらが、さっさと片づくことを祈ってるよ」

ポンポンと頭を撫でる仕草が優しい。
こだわりが何であれ、ナミがそうしたいのであればそうしろとのノジコの無言のエールらしい。

「ノジコ、ベルメールさんみたい」

「そりゃそうだろ? あたしたち、あの人の娘なんだから」

「うん・・・そうだね」

そう。4歳違いのこの姉とは、小さい頃からよく喧嘩もしたが、誰よりナミを解ってくれる良き理解者だった。
肉親だからと奢らずに、変わらぬ愛を注ぎ続けてくれるノジコに、ナミは今更ながら溢れんばかりの愛情と感謝の想いを抱いた。

「ありがと、ノジコ。大好きよ」

「そんなの当たり前。あたしはあんたの、たったひとりの姉ちゃんなんだからね? 遠慮なんてしたらぶっ飛ばすよ!?」

「うん、そうする。だからデバガメはやめてね?」

「あー・・・それは別問題かも」

舌の根も乾かないうちに意見を翻そうとする姉に、ナミはやれやれと苦笑するしかなかった。




着替えの済んだレンに麦茶を飲ませていると、ようやく頭にタオルを被ったゾロが風呂から上がって来た。
スウェットの下にタンクトップのゾロは、ナミと視線が合うと慌てたように口を開いた。

「言っとくが、今回見られたのは俺の方なんだからな? 前みてぇに、慰謝料何倍とか言うなよな!?」

「い、いきなり思い出させないでよ! 出る時はタオルの一枚も巻くくらいのデリカシー持ちなさいよねッ」

「そんな余裕がどこにあったってんだよ・・・」

どこか論点がずれているような気がしたが、照れの方が先に立ってしまいどうにも憎まれ口が先行してしまう。
思い出さないようにと思うほど、ナミの脳裏には鮮烈にゾロの逞しい筋肉質の身体の線が思い起こされてしまった。

(ああもう、これじゃまるで私が欲求不満みたいじゃないッ)

「あー」

傍に来たゾロの足元に、遊んで欲しさにレンが齧り上がろうとする。
それを抱えようと上半身を屈めたゾロの胸元に大きく斜に走る傷痕を認め、ナミは何気なく問い掛けた。

「ゾロ・・・その、胸の大きな傷なぁに? 随分大きな――まるで手術痕みたいな傷ね」

「ああ、これか」

ゾロは思い出したように、自分の胸を見下ろした。

「不名誉な勲章だが、これは10年前に真剣で居合いの型を練習してて一歩退き損ねてつけちまった傷だ。ヤブ医者に『全治2年』だなんてほざかれたが、それももう時効だろ。丁度左の鎖骨んとこから、こっちの右の脇腹にかけてな」

言いながらゾロは、自分の身体のその位置を指先でざっとなぞった。
ちらりとしか見えなかったが、かなり大きい鉤裂き状の傷痕だったように見えた。
全治2年とは一体どんな斬られ方をしたのか、ナミは10年も昔のことだというのに血の気が引きそうになった。

「・・・痛かった?」

レンのカップを置き、そっとその傷の辺りに触れてみる。
下手をせずとも命に関わる大傷だったろうに、当人であるゾロがもっとも平然としていたのかもしれないと思いつつ。

「こんなモンは大したこたぁねぇ。それよりも堪えて痛ェことを、俺は2度も味わったからな・・・」

1度目は、レンの宮参りの際のくいなの事故で。
2度目はその約1年後、神社でナミと喧嘩をした弾みでのトラブルで。

大切な者を亡くし、再度亡くすかと思った痛みは、ゾロにとって心臓を掴み取られる以上の衝撃だったに違いない。

「だから、お前は絶対に俺の前からいなくなるなよ? もし消えでもしたら、地の果てまで追っかけても探し出してやるからな」

「バカね・・・」

そっと頬に触れる熱い掌に、思わず愛しさが溢れる。
ゾロの手がそのままナミの耳朶に添えられ、伏せ目がちな顔が下りて来る。ナミはふわりと目を閉じた。
場所が場所なので少しは遠慮したのか、そっと触れたそれは唇を甘噛みする優しい口づけだった。

「あーうッ」

何が不満なのか、いきなりそれを邪魔するようにレンがゾロの顎を押し上げる。

「ナッちゃんママ、お兄ちゃん、御飯だよー。って、あれぇ、チューしてるー♪」

「あ、ホントだぁ。ナッちゃんママとお兄ちゃん、チューしてる♪」

「ななな、なんだとぉぉッッ!?」

デバガメ軍団には、意外にもこんな伏兵までいたようだった。



そして夕飯時。
ノジコは何気に、またもメガトン級の爆弾を投下してくれた。

「ああ、後でそっちの和室にお布団出したげるけど、ウチではお客さん用のってシングルしかなくてねー。今度あんたたちが来るまでにはダブルのを用意しとくから、今日のところはそれで我慢しといてね」

「だから、そんな余計な気を回さなくてもいいんだってばッッ!!」

「そうだぞ、ノジコ! わたしの目の黒いうちはそんなこと許さ〜ん!!」

息巻くゲンゾウを尻目に、ゾロは溜息混じりに心底残念そうな表情をし、ノジコはそれを見て噴き出しそうになるのを必死に堪えなければならなかった。




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(2004.05.29)

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