海の見える丘にて      −9−
            

真牙 様




ゲンゾウに促されるまま鬱蒼と茂った木立の中をついて行くと、不意に緑のベールが途切れ、一気に視界が広がった。

いつの間に斜面を登りきったのか、目の前には整然と区切られた墓地が並んでいた。

「あー?」

「こっちだ」

レンの疑問に答えるように、ぼそりとゲンゾウが先を促す。ゾロは黙ってその背中に従った。

ふと視線を巡らせれば、眼下には曇り空の下灰色にうねる海原が白波を立てて荒れているのが見える。
昨日のような上天気ならば、鮮やかな紺碧の海が一望でき、さぞや見事な眺望を楽しむことができただろうに。

それを少し残念に思いつつ、黙々と歩いて行くゲンゾウの背中を追った。

ここまで来れば目的地はひとつしかない。
ベルメール――ナミとノジコの母親の墓前を目指しているのだ。

(さて、このおっさんは何を目論んでいるのか・・・)

いくつか推測を立ててはみるものの、やはり直接ゲンゾウの口から聞かないことには対処のしようもない。

それでも、言われそうな事柄はおのずと限られては来るのだが。

妻に先立たれたやもめ男はやはり認めたくないと、今更ながらに詰るだろうか。
無愛想で無骨な自分を、単に気に入らないと拒絶するだろうか。
子供の存在にかこつけて、ナミの厚意につけ込んでいると怒号を発するだろうか。

どれも事実には違いないので、そこを突かれるとかなり痛い思いはせねばなるまい。

(仕方ねぇ。これは、俺が選んだことだ。ここをクリアしなきゃ、わだかまりなしのナミは手に入らねぇんだから・・・)

奥に進むとやや高低差があり、階段も随所に設けられている。
段階地に設けられた墓地の、ありがちな形状だった。

その奥まった一角――確かに他より一段上がっていて見晴らしの良い場所に、かの人の墓碑は黙して鎮座していた。
墓誌を見れば、確かに40歳そこそこで亡くなったベルメールの名が刻まれていた。

ふと、仏壇にあった写真を思い出す。

真っ赤な髪に挑むような生気に溢れた瞳は、おそらく曲がったことの嫌いな信念を貫くタイプの女だったろうと思わせるに充分だった。
雰囲気はどことなく似ているようにも感じられたが、面差しには何ひとつ共通点を見出すことができない。

よほど父親似だったのだろうか。
それにしては、ナミとノジコの容姿にもまったくと言っていいほど似ているところはないのだが。



「・・・ナミは」

「は?」

「ナミは、貴様に随分気を許しているんだな」

プロポーズを受け入れたのだから当然だ、と言おうとしたが、ゲンゾウの真意はそこではないらしい。
墓石を見つめ、ゾロに背を向けたままゲンゾウは呟くように続ける。

「あれは賢い娘だ。人の機微に聡くて勘が良くて、いつも物事を先回りして考えるから、特に人間関係の損得勘定には敏感だった」

「まあ、それは・・・」

自分も散々覚えがあるのだが、今は軽く相槌を打つに止める。

「あれだけの器量の娘だ。望めばどんな玉の輿でも狙えただろうに、何でよりにもよってこんなバツイチ男を選ぶのか・・・」

「あー、すんません」

必死の思いで結婚を申し込んだが、正直断られた後のことなどまったく考えていなかった。

あの時ゾロが言ったように、ナミが指輪を捨てる判断を下していたなら、今まで培って来た自分たちの関係は根底から崩壊しただろう。
それだけは、確信めいて解る。

だが、果たしてそれで自分が諦めただろうかと問われると、かなりの割合で疑問が残った。

(同情でもいいから最初のきっかけが欲しかった。一歩近づいたら触れたくなった。触れたら抱きしめたくなった。抱きしめたら、あいつのすべてが欲しくなった・・・)

欲望は際限なく膨らみ、今ではその想いに翻弄される情けない男がひとりいるのみだ。

「わたしは、バツイチが大嫌いだ」

「はあ」

「バツイチなんぞ、この世の女たちを不幸にする根性なし共にのしつける唾棄すべき称号だ!」

「・・・・・」

その言葉は、くいなを亡くした自分に向けられているはずだった。
唾棄すべき最低男のことだと、罵られているはずだった。

だが――ゾロはゲンゾウの気持ちが、どこか自分を素通りしているように感じられてならなかった。

(何だ? おっさんは俺を、ナミを攫う極悪人と思ってるはずなのに。なのに、何でその気持ちが俺を擦り抜けてくように感じるんだ?)

「おーう?」

大きな翡翠色の瞳がじっとゾロを見上げる。
何気なく首筋の辺りを整えてやると、レンはその無骨な指を握り締めて満面の笑みを浮かべた。

くいなの思い出がない分、レンは渇いたスポンジが水を吸い上げるようにナミを求めた。
子供にあっと言う間に懐かれる長所を生かし、保育士として各段に扱いの上手さを誇るルフィでさえ退けるほどに。
もしかしたら、レンの中ではナミは既に『母親』になっているのかもしれない。

だが――。

ゾロはそれ以上の想いで、いつしかナミのすべてを貪欲に求めるようになっていた。

同じマンションに住む、ただの住人同士だった。それが劇的に変化したのは一体いつだったのだろう。

(いや・・・はっきりしたきっかけなんざなかったのかもしれねぇ・・)

気がつけばナミは、ゾロの心の片隅にちょこんと居座っていた。
意識しないうちにそれはどんどん居場所を拡大し、改めて認識した時にはもう手遅れになるほど心の大部分を奪われていた。


人目を引く美人にも関わらず、性格の悪さに敬遠さえしていたというのに。


ずかずかと無遠慮に踏み込んで来るそれを甘受し、いつしか心地好いとすら感じてしまうほどに・・・。


そうして何気なく思考をなぞり、ふとある事柄に辿り着いた。

「――おっさん」

「だ、誰がおっさんだ! 貴様には年長者を敬うという気持ちがないのか!」

「いや、そういうわけじゃ・・・なら、兄貴とか兄さんとか、それともナミのように名前で呼んだ方がいいか?」

そう言うと少し考え、ゲンゾウは苦虫を噛み潰したような渋面で「おっさんでいい」とぼそりと呟いた。

「・・・で、何だ」

「思ったんだが・・・もしかして、あいつらの母親ってのはバツイチなのか? それとも・・・ああ、逆で親父の方か?」

「・・・どうして、そう思う?」

未だ探るようなゲンゾウの視線にまったく動じることなく、ゾロはふと湧いた疑問を淡々と口に乗せた。

「あいつら姉妹と母親の顔立ちが全然似てねぇし、おっさんの、その意固地なまでにバツイチを嫌ってるとこから、だな。それにおっさんの目が、俺を通して別の誰かを見てるような気がしてならねぇし。――違ったか?」

「まー?」

ゲンゾウは肩越しに振り返り、横目でゾロの目を見た。
嘘も衒いも、冗談すらも差し挟む余地のない真摯な瞳に、ゲンゾウはふっと肩で溜息を漏らした。


長いこと沈黙した後、ゲンゾウはようやく意を決したように「そうだ」と言った。



「思えば、ベルメールも若かったからな。昔からやんちゃと無茶の過ぎる娘だった。それがいきなり、子供がふたりもいる男と結婚するなんぞと抜かしおってな。当然わたしは反対したが、あれも頑固で聞くような女じゃなかった」

「ああ・・・写真だけでも、そんな風に見えたな」

ゲンゾウはたっぷりとした髭に包まれた口許を歪めた。苦笑したらしい。

「それが、ベルメールが23の時だ」

「・・・ってえと、ナミは1歳か。今のこいつと同じだな」

ゾロもつられたように苦笑する。
いずれ、このことをレンに告げる日が来るのだろうか。
ナミはそのつもりらしいが、その時大きくなったレンは一体どんな反応を見せるのだろう。


泣くだろうか。
悩んで葛藤するだろうか。
どうして今更そんなことを言うのだと、恨んで詰るだろうか。


未来のことなど誰にも判らないが、そんな懸念がどうしても拭い去れない。

血の繋がりがすべてではないが、やわらかな思考を持つ子供にとってそれは、自らの根底を揺るがしかねない大問題にならないとも限らない。

それを、ナミは解っていたのか否か――。

「じゃあ、当然ナミはそのことを知らねぇんだろうな。死んだその母親が、実の母じゃなかったってことは」

「ああ、知らんはずだ」

「だが、もしかしてノジコは――姉貴の方は知ってるんじゃないのか? 5歳にもなりゃ、おぼろげにでも記憶が残るだろう」

「・・・ああ、ノジコは知っとる。だが、あいつが知っとることもナミには告げとらん」

おぼろげに残る幼子の記憶と、真っ白な幼児の記憶。
果たして覚えていることが幸せなのか、覚えていないまっさらな心が哀しいのか――。

心のどこかに微かな違和感が残る。それをねじ伏せ、ゾロはゲンゾウの話を促した。


「女にだらしない男だった。そんな若い娘にふたりもの子供を押しつけて、自分はさっさと海で死におったわ。時化で遺体は上がらんかったがな。当時2歳のナミと6歳のノジコを抱え、わたしらに与えられた選択肢はふたつしかなかった」

「施設に預けるか、そのまま育てるか――か?」

「ああ。だが、あの娘らがここにいることから、ベルメールがどっちを選んだかは明白だろう?」

成さぬ仲に悩み、上の娘が下手に覚えていることに怯えつつも、彼女は人生何度目かの大きな決断をしたのだろう。
手元に残されたふたりの娘たちを、精一杯の想いを込めて育てるのだ、と。

「不安が拭いきれないわたしに、ベルメールは笑ってこう言った。『私の腕がどうして2本あるのか判る? 片腕にひとりずつ、この娘たちを抱きしめるためよ』――その言葉に、ノジコは堪えていたものを吐き出すように泣きおったわ」


“私の腕がどうして2本あるのか判る? 片腕にひとりずつ、この娘たちを抱きしめるためよ――。”


ゾロはその言葉を噛み締め、当時二十歳そこそこだった女の覚悟を心底見事だと思った。

可愛いだけで、人が人を育てることはできない。
犬や猫のように、いらなくなったからと言って気軽に捨てることなどできはしないのに。

たくさんの障害もあっただろうに、彼女はどんな想いで幼い娘たちを抱きしめたのか。

でき得ることなら彼女に会ってみたかった。
会って、そこに至るまでの想いと覚悟の重さに触れてみたかった。
こんなに見事な潔さを持つ者など、ゾロは今までの人生の中でほんの数人しか思い浮かべることができない。

しかし――彼女はもう、3年も前に大地へと還ってしまった。
後に残ったのは、黙して語らない墓石とナミたちの中に生きる記憶という名の思い出だけだ。

「そうやって・・・姉貴が知ってることを、何でナミには教えなかった?」

「知らんならそれに越したことはない。知らない方が幸せなこともある。知ったところで、今更我々の関係が崩れるわけではないがな。いろいろ苦労しているのを見て来たから、これ以上余計な悩みを増やさせたくないんだ」

「おっさん・・・ホントに“親父”なんだな」

ふっと綻んだゾロの苦笑は温かく、普段の無愛想さからは思いもよらない優しさが垣間見られた。
ゲンゾウは不意に見せられたその表情に焦り、しどろもどろになりつつ慌てて憮然とした顔を作った。
軽く咳払いをする。

「さあ、ここまで聞いたんだ。覚悟とやらはあるんだろうな、この若造が。今までナミは散々苦労しながら生きて来た。あの娘はノジコ同様幸せにならなきゃならんのだ。貴様にはこの秘密を押し沈めて、それらを全部背負いきる覚悟があるのか?」

被った帽子に翳る鋭い眼光にも怯むことなく、ゾロは真っ向からその視線を受け止めた。
翡翠色の瞳は静かだった。
とうに覚悟を決めていたゾロにとって、ゲンゾウの言葉は今更ながらの決意表明だった。

「・・・見ての通り、俺にはもうガキがいる」

「ああ、それは見れば判る」

「その分、独り身の奴よりは責任が重いと思ってる。だから、半端な気持ちじゃ滅多な女にゃ近づけやしねぇ」

「当然だ」

「ナミとは、その場限りの恋人になりてぇんじゃねぇ。夫婦として家族として、これからの人生をずっと一緒に生きてぇと思ってる。それが、俺の覚悟だ。俺を何よりも大事なここに連れて来たのがあいつの覚悟なら、俺はただそれにこの身を以って応えるだけだ」

「・・・言うじゃないか、若造のくせに」

渋面に憮然とした言葉が吐き出される。
それでも、そこには最初の頃のような刺々しさは殆ど感じられなくなっていた。

「ではわたしは、ナミに翻意させるように仕向けるとするか」

「できるモンならやってみろよ。ナミはもう、おっさんにも誰にもくれてやらねぇがな」

自意識過剰とも思える啖呵に、ゲンゾウはそのまま言葉を呑むしかなかった。

無愛想で言葉も足りないゾロが、こんなにも本音を吐露するとは想像だにしなかったのだろう。
不意を突かれて逆にやり込められ、ゲンゾウは口をへの字に曲げたまま半ば照れたようにあらぬ方を向いてしまった。


ゲンゾウの話はそれで全部だったのか、そこまで言い終わると先に帰る旨を伝え、ベルメールの墓前から去って行った。

今まで大切に慈しんで来た“娘”だからこそ、中途半端なスタンスにいる男が許せなかった。
特に彼女らの養母のベルメールに散々苦労をさせた、本物のバツイチ男の存在があったからこそ。

(大切にしてくれ。幸せにしてくれ。あれは、それだけの価値のある娘なんだ・・・)

無言でいながらそんなことを語る背中を見送り、ゾロはレンの頭を撫でながら溜息を漏らし、墓石を囲む石枠の向こうに向かって声を投げた。


「で――いるんだろ、ナミ? いつまでも隠れてねぇで出て来いよ」



少しの間沈黙が流れる。

「おっさんはもう行っちまったよ。ここには俺とレンしかいねぇから、さっさと出て来やがれ」

そうして――石枠の向こうで息を潜めていたオレンジ色の頭が立ち上がり、そこにばつの悪そうな顔をしたナミが現れた。


俯いたナミは苦笑したいのか困惑しているのか、複雑な表情がその花の顔に交錯し、震える唇が痛々しい憂いを帯びていた。




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(2004.05.31)

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