物書き騒動記   −8−
            

真牙 様



結局つらつらと考え事をしているうちに朝になり、ナミは諦めて起きることにした。

雨上がりの上天気に目を細め、庭の緑の輝きに頬を緩めながら水でも飲もうとキッチンへと降りる。

そこには当然ながら、朝食の準備をしているゾロが忙しく動いていた。

「お・・・おはよ、ゾロ」

「・・・・っ! お、おまっ・・今朝に限って何でこんなに早いんだよ・・・っ」

ゾロの狼狽振りがあまりにも激しいので、ふたりの間に昨夜の出来事が一瞬にしてフラッシュバックする。

「・・・・・」
「・・・・・」

お互い何と言って声を掛ければこの場に相応しいのか、どうにもタイムリーな言葉が出て来ない。
それでもこの状況はまずいと、意を決して口火を切ったのはゾロだった。

「あ、あの、な! その・・昨夜のコトなんだが・・・」

「な、何?」

「――悪かった。最初に自分で言った筈なのにあんなことをしでかしちまって・・・家政夫失格だな。あんたの弱みにつけ込んだのは俺の方だ。だから、あんたが今ここで改めて解雇宣言するんなら、それは正当な権利になるわけだ」

ゾロはやや視線を逸らしながら、まくしたてるように一気に告げた。

「協会への報告も、もちろんしてくれていい。これは、自業自得だ・・・」

「話を要約すると――ナミちゃんの魅力に翻弄されそうだから、これ以上バカやらかす前に蹴り出してくれってこと?」

端的に要所を押さえて告げたナミの言葉に、ゾロは今更ながら全身を強張らせた。
ナミの言葉にはいつもの明るい抑揚がまったくなく、渡された台本を棒読みしているようだったからだ。

「その・・・あんたにしてみりゃ、俺は時限爆弾みてぇな存在になっちまったわけだからよ。ここに置いとくと、またどうなるか保障はできんし。いや! もちろんすぐにどうにかなるって意味じゃなくて、やっぱ若い女のひとり暮らしだから――」

ナミは感情を押し殺したヘイゼルの瞳で、じっとゾロを正面から見つめていた。

(・・・何か、痛い言い訳してるバカが目の前にいるわ。それとも、殆ど寝ないで考え過ぎてた私がバカなの?)

深い溜息が漏れる。
そのままテーブルを回避し、ゾロの目の前まで移動する。
ゾロは何かに気圧されたかのように、表情を引き攣らせて後退りした。

「――逃げるんだ!?」

「・・・あ?」

「自分が何かしでかしたことで私が傷つくんじゃなく、自分の評判が傷つくことが怖いんでしょ? 女の覚悟を何だと思ってるの!? こんなことくらい予想の範疇内よ。私はちゃんとあんたの人格と能力をきっちり評価して、その上で正式に雇ったのよ? 誰が勝手に辞めていいって言ったの! あんたもプロの端くれなら、自分のしでかしたことに責任持ってちゃんと名誉挽回しなさいよねっ!」

いつしかナミは、ゾロのシャツの胸倉を掴み、真っ向から睨み上げるように轟然と言い放った。
興奮しているのか瞳が潤みを帯びて揺れ、柔らかな頬が淡く紅潮している。

それに目を奪われながら、ゾロはようやく弁明の言葉を吐いた。

「・・・それで、いいのか? 俺が最初に言った協会のルールからしたら、俺は既に思い切り規約を蹴倒しちまってるんだぞ? 力に物を言わせた無礼を働いたって、本来クビになっても文句は言えねぇのに。そんな甘い点つけてていいのかよ?」

「もちろん、ただで許すなんて一言も言ってないわ」

ナミはゾロの眼鏡の鼻先をひょいと下げ、素の瞳を見つめて軽くウィンクした。

「当面の間、毎食ごとにプチ・デザートをつけること。もちろん、とびっきり美味しいやつじゃなきゃ納得しないからね?」

悪戯っぽく舌を出して柔らかく微笑んで見せると、ゾロは今更ながら顔に朱を散らして後ろを向いてしまった。

「んんん〜? 何で後ろなんて向いちゃうのかな〜? それじゃ仕度の続きができないでしょうに♪」

「誰のせいだと思ってんだ・・・っ」

呟きは小さかったが、ナミにはしっかり聞こえていた。
辛うじて噴き出しそうになるのを何とか堪える。

(ヤバイな、可愛いかもしんないじゃないっ)

大の男を捉まえてその形容もないだろうが、彼女の言葉にいちいち反応するゾロが可笑しくも本当に可愛らしく思えて仕方がなかった。


――ゾロは気づいていただろうか。

ナミが、家政夫としての彼以上に男としての彼を拒絶しなかったのだということに。



そしてまた、大きく揺れた天秤は微妙なバランスを保って均衡を取り戻す。

すぐ後に訪れる、更なる揺れの存在を知りもせずに――。





その日の午前中、ナミの携帯に1本の電話が入った。

相手は、ゾロの所属する家政婦協会の本部事務所だった。
何でも込み入った話があるというので、こちらへ訪問してもいいかとの打診だった。

「・・・あんた、私のこと何かチクったの?」

「何で俺がっっ!!」

「だって家政夫って、よく言うじゃない。『私、実は見たんです』ってどこぞのお偉いさんに」

「んなこと言って、あんたチクられるようなこと何かやったのかよっ!」

「するわけないじゃないの、あんたじゃあるまいし!」

「・・・ハイ」

あまりの間の良さに、言い合いをしていた筈のナミが思い切り噴き出す。
認めるところは渋々でも認める潔さに、ナミはプラスの点を加算してやることにした。




それから1時間後――ナミの家のベルを鳴らしたのは、やや初老に差し掛かった威風堂々な雰囲気の男と、中年輩の恰幅のいい女だった。

出迎えたゾロはふたりの顔を見て大きく目を瞠り、遅れてそこにやって来たナミに怪訝な思いを抱かせた。

「やあゾロ、やはり君がここに派遣されていたんだね」

「あ、あの、社長・・・?」

「社長? って家政婦協会の? な、何でそんな人がこんなとこまでわざわざ・・・」

3人が3人様々な反応をする中、最後尾に控えていた女が厚い肩を揺すりながらそれぞれを促した。

「はいはい、とりあえず中に入ってお話をしましょう。事態は複雑なようで、至極簡単なんですから」

「はあ・・・」

ゾロの誘導で応接室に通された彼らは、お茶が入るまでそれぞれをさり気なく観察していた。

「お嬢さん初めまして。私は家政婦協会の代表で、ネフェルタリ・コブラと申します。今回は大変な手違いのお詫びにお伺いしたんですよ」

「は? 手違い、ですか?」

言っている意味が良く解らない。
その説明を求めるように、ナミは隣に掛けた母親ほどの年齢の女性に目を向けた。

「こんにちは、素敵なお嬢さん。初めまして、家政婦のテラコッタです」

「はあ、家政婦さん、ですか。あの――うちでは依頼した家政夫さん、ひとり来て頂いてますけど?」

それを聞いてふたりが苦笑を濃くしたのと、ゾロが盆にティーセットを乗せて運んで来たのはほぼ同時だった。

「――どうぞ」

ゾロは3人にそれぞれ茶を振舞い、自分はナミの横に立って話の成り行きを見守る位置に着いた。
それを見計らい、コブラは柔和な顔に苦渋の色を滲ませながら、いきなりナミに深々と頭を下げた。

「10日以上もこんな異常事態に気づかずにいたことを、協会の代表として恥ずかしく思っています。どうも、申し訳ありません。さぞやご不便を掛けたことと思います」

「あ、あの、何のことでしょう?」

社会的に立場のある男に無造作に頭を下げられ、ナミは激しく戸惑いながら顔を上げるように説得した。

「どういった偶然の悪戯で書類と稟議と検印を擦り抜けたのか・・・こちらのミスで、本来伺わせるべき者を取り違えていたんです」

「――はい?」

「ですから、本来あなたの家に派遣される筈だったのは、このテラコッタなんですよ。ゾロは、もっと年配の男性の家に行く筈でした。こんなミスは協会始まって以来です。本当に申し訳ありませんでした」

「じゃあ俺が一番最初に、依頼人がいい歳した親父だと思ってたのは間違いじゃなかったんだ・・・」

変な得心の仕方だったが、それが今回の珍騒動のすべてを物語っていた。

(・・・間違いだったの? 本来ここに来る筈だったのはこのテラコッタさんて女の人で、ゾロはその男の人んちに行く予定だったの?)

思考が空回りして、次に考えるべき段階に移行してくれない。

では、これの打開策は一体どうなるのか?
ようやくそこに思考が辿り着き、ナミははっとなって傍らのゾロを見上げた。

ゾロは何を思ったのか、眉間に皺を寄せた表情のままじっとコブラを見つめていた。

「ですので・・・もしも今回の件をご不快だとおっしゃるのであれば、契約自体を破棄して下さっても結構です。もちろんその際の違約金も不要です。ですが、再契約して頂けるのであれば、向こう3ヶ月間の契約金は無料ということにさせて頂きます。いかが致しますか?」

「・・家政婦さんにいなくなられるのは、正直困ります。私、家事が本当に苦手なもので、その・・・」

「では、契約は続行ということでよろしいのですか? ありがとうございます。では、担当はこのテラコッタでよろしいでしょうか」

「あ、の・・・」

混乱した思考にいきなり結論を迫られ、ナミは返事に窮した。

常識的に考えれば、そもそもナミのような若い娘のところに男の家政夫が来たこと自体が間違いだったのだ。
だから協会のミスだというならば、最高の違約条件を迫って改善させるのが本来望ましい結末というものだった。
そしてそれが、あるべき本当の構図だった。

だが――。

(・・・待って。ちょっと待って。思考が今追いつかないの。考えてるけど、考えが現実に追いついていないの。待って、まだ結論は出さないで――・・・!)

そこに、無情にも決断の刃を振り下ろしたのは、あろうことか傍らに立つ男だった。

「じゃあ、引き継ぎはどういった手順で? ここの段取りは概ね整ってますが」

「そうね。あたしの方で、ロロノアさんの手順を伺います。もう一方の方は明日にでも案内しますけど、それでいいかしらねぇ?」

「判りました。段取りを説明しますんで、まずこっちに来て下さい」

(ゾロ、あんた一体何を言い出すの――!?)

ナミは冷や汗の噴き出しそうになるのを辛うじて堪え、応接室を出て行くふたりの背を黙って見送るしかなかった。

(そりゃ、常識ではこんなこと自体があり得なかったんでしょうけど、ここまで根づいたのはあんたでしょ? それを、あっさり手放すの? ――って、何で私がこんなことで思考を煩わされなきゃなんないのよ! これが本来の姿でしょ! これで万事解決なんでしょ!? それでいいじゃない、ナミ・・・)

よくよく考えれば、この手違いがなかったらゾロとは出会うことすらなかったのだ。
男の家政夫にかなり面喰らったが、それなりに楽しい思いもした。

それで、いいではないか・・・。

「――という期間を設けたいのですが、それでよろしいでしょうか?」

ぼんやりと半ば意識が飛んでいたので、コブラの話が半分以上耳に入っていなかった。
が、振り切れた感情のゲージが自棄の位置に止まっていたので半ばどうでも良く、ナミは曖昧に頷いた。

「ではそうですね、とりあえず一週間で設定しておきますので。それ以前に気づくことがあったら、こちらまで何なりとご連絡下さい」

「はあ・・・」

そう言うとコブラは名刺入れから名刺を差し出し、にっこりと微笑んだ。

(何が一週間ですって? ああ・・もう、何でもいいわ・・・)

「ところで――ゾロはこちらで失礼はありませんでしたか?」

「え・・? あ、えと、別に・・・」

ようやく混乱が落ち着き、ナミは改めてコブラの方を見た。

堂々とした居住まいの中にありながら、ゾロのことを語るコブラの瞳は終始穏やかだった。
そこには、協会の一家政夫を監督する者としてではなく、どこか親愛の情のようなものが漂っていた。

それを不思議に思いながら、ナミは反芻するようにゾロの仕事振りを思い返した。

「――男の人ってことで最初は面喰らいましたけど、何か必死でしたから。男性で家政夫って職業選ぶのも珍しいと思いましたけど、協会の方には結構いらっしゃるんですか?」

「まあ数えるほどですがね。中でもゾロは一番若いので、顧客の方々に馴染んで頂くまで時間がかかるのですが」

「そう・・なんですか?」

あんなにぞんざいな態度を見せていたというのに、どこが馴染むまで時間がかかるというのか。

「おや、こちらでは違っていましたか?」

思わずナミは力いっぱい頷いてしまった。

「最初に慇懃な態度にしようかとも言ってましたけど、私の性格上それはいやでしたし。しかも、あの外見の人にですよ? だから、どちらかというと友人か面倒見のいい兄のように接してもらってました。彼には言ってませんけど、仕事振りは優秀でしたよ。現代の秘境なんてからかわれてたこの家を、ここまで磨いてくれたんですから」

「――そうですか。息子はここで、可愛がってもらっていたんですね」

「・・・はい?」

面妖な言葉を聞いた気がして、ナミは思わず話の腰を折るように聞いてしまう。

「ああ、言ってませんでしたか。彼は、私の息子なんです。まあ・・義理の、ですが」

「そんなこと一言も・・・だって、この職業選んだ理由だって教えてくれなかったし・・・」

呟くように言ったナミの言葉を聞くと、コブラは苦笑するように表情を緩めた。
貫禄があり過ぎて気迫負けしてしまいそうな人物だったが、こうした顔を見せられると本当の懐の深さも感じることができた。

「で、でもそれって言っていいんですか? この業界は秘密厳守だって」

「もちろん相手によりますよ。いや、あなたには知っていて欲しかった――それが正しいでしょう。細かい事情も、いずれ彼の口から聞くこともあるでしょう。だからこの話は、今は内密にお願いしますね」

そう言うとコブラは、ちょっと悪戯っぽく口の端を上げた。
その表情はどこかゾロの笑い方に似ていて、ナミの胸の奥にちくりと小さな痛みを呼び起こした。

(そんなわけ、ないじゃない。ゾロは今日、ここから出て行くのよ? もう、会えないのよ? そんな話、聞ける筈ないじゃない・・・)

そんなナミの思いを見透かしたように、コブラの微笑みはすべてを包むように深かった。




そうして4人は、見送る側と見送られる側の立場で玄関に立った。

「あーと、世話になったな――って世話したのは俺だけどな」

玄関の大扉を開けて振り返り、ゾロは軽く眼鏡を押し上げて右手を差し出した。ここに来た時と同様に淡いグレーのシャツを着て、ボストン・バッグを提げている。

「あ、あのね、ゾロ――!」

「ん?」

「あの・・・」

「そんな心配そうな顔すんなよ。今度はベテランの、しかも女の家政婦だからな。思う存分甘えられんだろ。だからって、あんま無茶言うなよ? テラコッタは躾には厳しいからな」

「ロロノアさん、余計な先入観を抱かせないで頂だいな。ナミさんが怯えるじゃないの」

言いたいことは山ほどあった。
だが、あんまり山ほどあり過ぎて、どれもこの場に相応しくないように思えて結局何も言えなかった。

だからせめて、負け惜しみくらい言わせてもらおう。
ナミは俯いていた顔に懸命に笑顔を作り、あまつさえ捨て台詞のような口調でゾロの手を握った。

「今度の依頼主はホントのおじさんよね? 多趣味が暴走してその人にセクハラしいようにねっ」

「するかっ!」

大きな手は温かく、ナミのひんやりとした手をすっぽりと包んだ。

その傍らでコブラとテラコッタはさり気なく目配せし、やがてゾロと超然とした社長は新たな依頼主の元へと去って行った。



車が植え込みの陰に消えるまで見送り、ナミは気合いを入れるように小気味良い音をたてて両頬を叩いた。

「ええと、テラコッタさん? 私免許は持ってるけど、運転はできないんです。大型の四駆があるけど乗れるかしら?」

「ええ、任せて下さいな。バイクはスクーターしか乗れませんけど、車なら軽からトラック、4トン車までイケますよ!」

「いや、ソコまでいかなくてもいいから・・・」


そうしてナミは、テラコッタとの生活を始める。





さすが同じ女性のサポートなだけあって、テラコッタの家政婦振りは完璧なまでに快適だった。

掃除洗濯はお手の物で、料理も正に素朴な“お袋の味”だ。
仕事で夜更かしをするとやはり同様につき合ってくれ、あんまり無理はするなと重ねて言われた。


優しい時間が流れていた。
それが本来、この家で展開されるべき光景だった。

実際そうやって順調に物事が進んでいるというのに、進まないものがひとつだけあった。

「も〜、何でよ〜〜・・・」

ナミはプロット用のノートとパソコンを目の前にし、一行たりとも進まない体たらく振りを恨めしく思った。

締め切り自体にはまだ余裕がある。
先週鬼のような勢いで短期集中連載をすべて上げてしまったので、その時間はありがたい猶予となっていた。

それでも、ナミの抱える連載や読み切り、エッセイに近いものまで入れると、とてものんびり休息を取ろうという状況ではないのだ。

それがさすがに4日も続けば、事態を憂えたロビンが訪れるのも当然の帰結だった。

「一体どうしたの、ナミさん。先週はあんなに調子よく原稿を上げてくれて、うちの編集長を喜ばせたというのに」

「判ってるわよ、判ってるんだけど・・・何か気が乗らないっていうか、頭の中がもやもやするっていうか・・新手の病気かしら」

「――まあ」

ロビンは目を丸くして、ソファの上にだらしなく伸びるナミを見つめた。

「ホント、一体全体どうしたんでしょうねぇ。あたしが来てからというもの、仕事に関してはずっとこの調子なんですよ?」

「ふふ、困ったコね。テラコッタさんに心配掛けては駄目よ? 心配事があるのなら、彼女をお母さんだと思って打ち明けてみれば?」

旧知の仲らしいふたりは、大きく頷き合いながら顔を見合わせた。

「・・・ロビンは、ここでゾロを見た時気づいてたんでしょ? ホントは誰がここに来る筈だったのか」

どこか恨めしげな声音にロビンは何ら臆することはなく、首を振って淡々と告げた。

「ええ、まあ。でもあくまでも私の希望だったから、先に彼女がどこかに派遣されてしまえばそれまでのことだったし。おそらくそうだと思ったから、言うまでもないと勝手に判断してしまったのよ。気を悪くしたのならごめんなさいね。私が言うのも変かもしれないけれど、テラコッタさんはベテラン中のベテランで人気があるから予定が入ってしまったのだと思ったのよ」

「・・・うん。それは、良く判るわ」

実際この4日間彼女のサポートを受け、ナミはゆったりとくつろいではいた。
ゾロがいた時のように、根底に沈められた緊張感の糸のようなものはまったく存在していない。
これが、本来家政婦に望まれる関係であり、心理状態なのだとナミは思う――段取りを重視する理性の部分では。

(だけど、いつまでもこんなことやってたら、予定は詰まるばかりで何にもなんないのよ? 少しは打開しようと思わないの?)

感情は苛々と足踏みをし、心の片隅でクマのように行ったり来たりしている。

「無慈悲なことを言うようだけど、最終的に待てるのは来週末ね。短編の予定だから、この間のような勢いなら楽勝でしょうけど」

「それも、判ってるわよ。今度落としたら、私の信用は地の底まで失墜するってね。前科者の耳には痛い言葉だわっ」

「・・・本当に解っているの?」

「判ってるってば! 何よロビン、今日はやけに絡むじゃない。そんなに私のこと信用できないの?」

苛ついていたせいか、思わず口をついて出た言葉は思いの他きつい口調になっていた。
ロビンが微かに眉目を寄せたことに気づき、ナミははっとなって慌てて弁明した。

「ご、ごめんロビン! ちょっと言い過ぎた・・・」

「いいえ、いいのよ。私も、少し言葉が足りなかったわ」

ロビンはそっと目を伏せ、そのまま帰る旨を伝えた。
テラコッタが見送りに玄関まで行き、そのまま何か話している気配がする。
広い家は防音設備も整っていて、とても玄関の様子を窺い知ることなどできなかった。


「――ということなのだけれど。こんなこと、あなたに言うのはひどく失礼だとは判っているわ。それでも、ナミさんのためなの。そのためなら、私が代わりにいくらでも矢面に立つ覚悟はあるわ」

「・・・ホント、愛されてるんですねぇ、彼女は。ええ、その件に関しては、社長からも直々に伝言を頂いてますから安心なさって下さい。いずれ、事態が動くこともありましょうよ」

玄関で交わされた意味深なふたりの会話を、もちろんナミは知らない。

事態は、表層と水面下でゆっくりと収穫の時を待っている――。




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(2004.07.25)

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