ファーストキス   −4−
            

ソイ 様




事の起こりは一月程前のことだった。
シーズンを迎えたある秋の日、筍狩りに出かけた村人の一人が、竹林の出口の川原で一人の男の死体を見つけた。村人ではない、見たこともない旅人の男だったという。その男の死体は獣に食い荒らされたように酷く、手にしていた猟銃を何か強い力でへし折られた痕があった。
その男のことは、村にあるただ1件の宿の女将が知っていた。数日前に自分の宿に滞在していた猟師だという。彼は貿易商の仕事もしているといい、人柄は下種な様子であまり好ましくなかったが、妙に羽振りがよかったのを覚えていた。
男の本当の正体は、死体とともに散乱していた大量の動物の毛皮で知られることとなる。
彼は密猟をした毛皮の密売買を生業とする闇商人だったのだ。おそらく、この竹林の大虎の噂を聞きつけて、その毛皮を狙い、返り討ちにあったのだろう。
これを知り、村人達は眉をひそめた。
あの大虎は、いわばこの竹林の主である。その力の強大さに村人達は畏敬の念を込め、むやみに手を出したりはしない。季節になるたびにそのテリトリーにお邪魔して筍を少々獲らせてもらうのみで、その神秘の存在に足を踏み入れようとはしていなかった。そして大虎自身も、自分に刃向かおうとしない村人達を襲うことはけしてなかったのだ。
馬鹿なことをしたもんだ、と、村人達はその密猟者に思いもしたが、それでもその酷い死に様を気の毒がって、村の共同墓地に丁寧に葬ってやった。

それで、終わりだった。
終わりのはずだった。

筍狩りに出た村の男たちが、急に戻ってこなくなったのはそのすぐ後のことだ。
日暮れまでに戻ると家族に言い残して竹林に入り、幾日も幾晩も戻ってくることはなかった。道に迷いでもしたのかと、捜索のためにまた幾人かの男たちが竹林に入ったが、その男たちもそのままぷつりと消息を絶った。
さすがにこの非常事態に慌てた村人は、一大事とばかりに十分な武装をして、再度大人数の捜索隊を編成したが、その部隊が出発する直前に、竹林の外れで命からがら逃げ出してきた先の捜索隊の一人が、半死半生の呈で発見された。その男は背と足に、動物の大きな牙と爪で引き裂かれたような手ひどい傷を負っていて、「大虎にやられた」と言い残し、そのまま力尽きた。


「・・みんな、あの大虎にって・・こと?」
猟師小屋を出て、竹林の奥に進むこと小半時。
歩いていく道すがら、黙ってゾロの話を聞いていたナミが小さな声で尋ねる。話の重さに、少々顔を青ざめさせながら。
「あいつは・・、その密猟者を喰って、人の味を覚えちまったんだ」
ゾロの表情も、また重く苦味を抱えていた。


人の味を知ってしまった獣は、人を好んで襲いたがる。
人にとって危険な存在であるならば、害獣として退治しなければならない。
村人達はこの事実を知って慄然とし、持てる限りの武装で、腕に覚えのあるものを選りすぐって討伐隊を組もうとした。が、大虎への恐怖にみな尻込みしてしまい、名乗りをあげるものはいない。それも無理からぬこと。その大虎の強さと恐怖を、村人は子供の時から寝物語に聞かされ、身に染み付いている。それ以上に、めったに人の目に触れることのない大虎の姿に、なかば神がかった怖れを感じているのだ。
とはいえ、大虎が人に飢え、人里に降りてくるようになってからでは遅い。困り果てた村の長は、隣山で剣術道場を開いているコウシロウに相談したのだ。


竹林の中の道なき道を、ゾロは大股で歩を進める。
「今、あいつは飢えてる。俺がこの竹林に入ってから10日あまり、なんどか対峙したけど、その様子はどんどん酷くなっていった。冬が近くなって食べる動物がいなくなっているのか、それとももう人の肉しか食べられなくなっているのかは分からないけど」
時折、刀で霧と生い茂る若竹を切り開きながら、わざと大きな音を立てた。大虎に、自分の位置を知らせているのだ。
「それに加えて、昨日の赤藪だ。肩を掠めただけの俺があれだけの有様だったから、おもいっきり中に突っ込んでたあいつの方がもっと毒が回っている。弱って、もう後がない。俺を喰おうと、今日こそあいつから来るだろう」


「でも、さ」
二歩ほど後を歩くナミは、無造作に突き進むゾロの進路を覚えるように、何度も方位磁石で方向を確認している。明確な目的地がないゾロの歩みを放っておけば、またあの小屋に戻れなくなってしまうこと請け合いだった。
「私が付いて行ってもいいの? 邪魔じゃない?」
今日こそ決戦という、その大事な時に。
その言葉に、ゾロがぴくりと耳を動かす。
「・・俺と一緒にいないと、おまえが襲われるぞ・・」
顔を進路に向けたまま少々口篭もった言いように、ナミが首をかしげる。理解していない様子のナミに、ゾロはさらに小声になる。
「・・いままでの何度かの接触で、あいつは完全に俺の匂いを覚えている。俺の匂いを頼りに、狙ってくるんだ」
「うん。それは分かるわよ」
「・・だから、俺から離れて、おまえが一人になったら、おまえのところに来るかもしれねえ・・」
「なんでよ。あんたの匂いを目標に来るんでしょ」
「・・だから!」
くるっと振り向いた顔は、またしても赤い。
「多分、おまえに俺の匂いがいっぱい付いてるんだよ。・・あんな寝方したら当たり前だろ!」
それくらい分かれ! と言外に言い放ち、再び大股で前に進んでいく。これにはナミも少し赤面した。


今朝のことをゾロは思い出す。
毛布をかぶって服を着替えている間、背後で煮込まれている粥の美味そうな匂いも気になったが、それ以上に、毛布から漂う甘酸っぱい柑橘系の匂いが、ゾロの全身に取り付いたように漂って離れなかった。考えなくとも、それが一晩自分を抱きしめて眠っていた女の香りだということが分かる。
その香りに触発されるように、昨夜の出来事がおぼろげながらも記憶によみがえってきた。
肌のぬくもりや額をくすぐる吐息、とろけそうな位柔らかな胸元などの感触を一つ一つ思い出すごとに、徐々に頭の上に向かってあがってくる血の気に、鼻血が出そうだと慌てながら、ぶんぶんと頭を振った。

が、それと同時に、彼の頭と背をずっと擦ってくれていた、細い指の流れるような動きにひどく安堵したことも思い出す。

そっと、気づかれないように背後のナミの様子を窺った。ナミはへたくそな鼻歌を歌いながら、少々荒っぽく鍋をかき混ぜている。布の小袋から勢いよく塩を掴んで粥の中に放りこむ様に、あれじゃ多分しょっぺえよなあ、と喉の奥で笑いをこらえた。
だがその音程の外れたメロディよりも、乱暴な味付けの粥よりも、ゾロが意識を集中させたのは、その細い腕。Tシャツの袖から伸びる、長く白いその腕の細さを見るにつけ、ゾロは自分の心臓が少しずつ耳に近づいてくるような錯覚を覚えた。

自分を沢から引きずりあげたと言った。この小屋まで背負ってきたとも言った。今はあたたかい飯を用意してくれるその腕が、一晩中、ともすれば暗く寒い闇の中に引きずり込まれそうになっていた自分の身体を、ここに繋ぎとめておいてくれた。
そう考えるにつけ、どんどん落ち着かない気分になっていくのが分かる。

と、ナミがふと鍋から顔を上げた。
ゾロは慌てて視線をそらし、ぎこちなく、まだ服を着ている最中の振りを続ける。

もう一度、毛布に顔を埋めてみた。
みずみずしい爽やかなその香りとまだ残る温かみが、ゾロの一番深い場所に、じわりと、染み込む。



二人の歩みはゆっくりであるが、徐々に竹林の奥へ奥へと入り込んでいった。
進むほどに霧が深くなり、視界が徐々に狭まってくる。これ以上進めば、隣にいるお互いの顔も見えなくなるのではないかというところで、ゾロはようやく立ち止まった。
「襲ってきても、これじゃ分からないんじゃないの?」
刀の峰で傍らの竹をコーン、コーンと叩きつづけるゾロに、ナミが尋ねる。ゾロの回答は簡潔だった。
「分かる」
「・・あんたの顔も、たまに見えなくなるくらいよ?」
「目で見るわけじゃねえよ。気配で察するんだ。・・視覚に頼ったら、また間違えて襲っちまう」
その誤りを恥じるように、少しゾロの声が小さくなった。昨日、一番初めに出会ったとき。ナミに飛び掛った時のことだ。
「あの時、最初は気配を探っていたはずなのに、見つけたそのオレンジ色を虎の色と間違えた。・・刀まで突きつけて、悪かったな」
意外にも殊勝なその態度に、ナミのほうが戸惑って言葉を失ってしまった。ゾロはなおも続ける。
「・・それと、いろいろ礼も言ってない」
「礼?」
「傷の手当てと、小屋まで運んでくれた事。朝飯も」
「ああ・・」
「あと・・昨夜のこと」
その言葉に、もう一度ナミは笑って問いかける。
「・・あったかかった?」
ゾロも笑った。
「あったかかった」

不意に、風が変わった。
霧の流れるさらさらとした音色に、荒々しい、獰猛な息遣いが混ざるのをナミも感じ取った。

生臭い気配が、近くにいる。

ゾロがもう一本の刀を鞘から抜いた。

「それに昨日、助けてもらったことも」
だが口調は、何の変化も感じさせずに語を続けていた。
「あら。あんたあの時怒ってたじゃない。邪魔するなって」
ナミも同じく、その言葉に動揺は見られない。顔色を変えず、五歩ほど後ずさりしてゾロの振るう刀の邪魔にならない位置に立った。太腿のホルダーを外して素早く天候棒を組み立てる。
「おまえは邪魔をしたわけじゃない。俺がやられそうだったから、おまえは助けてくれただけだ」
ゾロの瞳は、一点に集中している。真正面。一際大きく太い竹の、霧に隠れたさらに向こう。

「諌められるべきは、俺の弱さだ」

白いベールの中で、赤い瞳が二つ光った。





地を這うような唸り声が耳を打つ。
白い視界が一瞬で大虎の黄に染まった。

ガツ!

その荒々しい体当たりをクロスさせた二本の刀で受けたゾロは、勢い後方にそのまま吹き飛ばされる。
だが生い茂った竹藪に背を止められると、自らを喰らおうと巨大な牙を見せた大虎の腹に、蹴りの一撃を叩きこんだ。

「てめえ、だいぶ辛そうだな・・!」

蹴り飛ばされた大虎は空中で一度回転し、ゾロから数歩離れた距離にどさりと着地する。
その目は、赤い。
いや目だけではない。
その毛皮が茹ったように赤黒く染まり、皮膚は焼け爛れて腫れあがっている。
赤藪の毒が大虎の全身を燃したかのように。

しゅう、しゅうと酷く荒い呼吸の合間に、牙をつたって瘴毒のような涎がぼたぼたとこぼれる。
もう一度、大虎はその牙をゾロに向けた。

「すぐに、楽にしてやる」

再度飛び掛ってきたその巨体を、今度は右の刀一本で横に流し、背後を取ろうとした。
が、その重量に見合わぬ軽い足取りで大虎も身を翻す。

巨大な爪がゾロの頭上に迫った。それを峰で受け、目の前の腹に左の刀を突き刺す。
かわされる。
空中で半身をひねった大虎の、落下してくる身体に危うく潰されそうになるのを、ゾロは地面に身を這わして避けた。

飛び退り、お互い距離を置く。



ナミは大虎の突撃とともに身を翻して、この刹那の攻防を、距離を置きつつ見守っていた。
確かに離れれば霧で視野をふさがれるが、ゾロと獣の荒ぶる魂の縁はけして見失うことなどない。
赤い巨体に、小柄ながらも黒い精悍な影。
ぶつかり合う、牙と爪と鋼の鋭い音がナミの耳を打つ。

大丈夫。

心の中で呟く。

大丈夫。ゾロは、強い。必ず、勝つ。

自分から手を出すつもりは毛頭ないが、ゾロの集中の妨げにならないために、自分の身に降りかかる牙は自分で払う心積もりでいる。
息をごくりと飲み込んで、天候棒を構える手に力を込めた。



振り下ろす。弾かれる。
喰らいつく。身をかわす。

ゾロの刃は後一歩というところで傷つけられず、大虎の牙はむなしく宙を彷徨う。

鋭い爪が右の刀に食い込んだ。それを素早く振り払いさらに左から突こうとすれば、大虎の渾身の力を込めた体当たりに、小さな身体が舞いあがる。
吹き飛ばされた刹那、叩きつけられた竹のしなやかな反動を利用して、一気に刀ごと大虎を貫こうとした。
かわされるのは予測済み。
地に降り立ち膝を使ってそのまま首を狙う。

ギャウンッ!

掠めた!
そのついでにと側頭部に膝蹴りをくれてやると、大虎はもんどりうって横っ腹を晒す。
好機とばかりに一気に刀を突きたてようとした。

ドカッ!

その一瞬。
刀を振り上げたその一瞬の隙を晒したゾロは、脇腹に鋭い爪をのばした右足の一撃を喰らった。

「ぐっ・・!」

打撃による衝撃。引き裂かれた皮膚から流れ落ちる血。どちらを先に感じたか分からない。
両膝を突くと、目の前に大虎の濁った瞳があった。
鋭い牙が霧に溶けた陽に煌めいた。

「ゾロ!!」

霧の向こうからの叫び声。
飛び出してくるナミの姿。
とっさにそちらに反応した大虎の口に、ゾロは反射的に右の刀を食ませて渾身の力で頭を押さえ込んだ。

「・・てめえの相手は俺だろ」
力の均衡がお互いを震わす。
「あいつに指一本触れるんじゃねえよ・・」

あの細い腕で、自分を抱きしめてくれた女に。

駆けて来ようとするナミに、先制して怒鳴り声を飛ばした。
「来るな!」

左の刀の柄を渾身の力を込めて振り下ろす。頭を強打された大虎はとっさに牙を離し後ずさるが、そこから視線を逸らさず、ゾロはゆっくり立ち上がった。
地面に、脇腹からの出血がぼたりと垂れる。

「そっから、こっちには来るな。・・まだ、平気だ」
背後に感じるナミの気配に、静かにそう言う。ナミも、黙ってそれに従った。

頭部への一撃が裂傷を誘ったのだろうか。大虎の顔回りは激しい流血で真っ赤に染まり、その興奮でさらに呼吸を荒くしている。

「行くぞ・・」
ゾロは三本目の刀を抜いた。その白い柄を、口に咥える。

ゆっくりと、大虎は歩を進めてきた。
一歩、二歩。

手にしていた二本の刀を一振りし、ついた血のりを吹き飛ばす。
刃の触れ合う金属音。
ゾロは、両手の刀を振りかぶり、口にした和同一文字の刃に直角に沿わせた。

大虎が、近づいてくる。
三歩、四歩。

一息の静寂。
そして咆哮。

大虎の巨体が、ゾロに飛び掛った。



・・ドゥン・・。

血しぶきと、衝撃音。
時が止まったかのような一瞬の攻防の後、鞘に収める鍔の音でナミは我に返った。

大虎が、三本の大きな傷痕から血しぶきをあげ、地面に腹を見せて横たわっている。

「虎狩り・・」
見慣れた技の名を呟くが、ゾロの耳にそれは入らない。

両手の刀を鞘に収め、食んでいた白い刀を右手に持ち変える。
ゆっくりと振り返り、大虎の傍らに歩を進めた。
大虎は、まだ息があった。苦しそうに身をよじり、びくびくとその巨体を痙攣させて、白い目を剥いている。
「苦しいか」
その苦しみは、ゾロが負わせた傷の痛みなのか、赤藪の毒による熱なのか、はたまた激しい飢えのせいなのか。
答える術は、大虎には無い。

霧の中に、最後の白刃が煌めいた。
「ごめんな」
とどめの一撃。

ばたりと全ての力を失った四肢が地面に投げ出され、流れ出た血が霧を赤く染め上げる。

その大虎の瞳は、安らぐような黒。

人によって崇められながら、人によって狂わされたその運命に、ゾロは詫びた。




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(2005.03.28)

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