筍の里   −4−
            

ソイ 様




「なんでダメなんだよ!」
道場の片隅で、ゾロの怒声が今日も響く。鍛錬中の門下生が「またか」と視線を送る中、私もいい加減言い慣れた言葉を繰り返した。
「ダメだといったらダメだ。まだ早すぎる。三刀流も完璧じゃない。師匠として、私は君の旅立ちを許可することはできないね」
「大丈夫、もう歯も生えた!」
口の端を指で引っ張って、綺麗に生えそろった永久歯をにっと見せる。その隙に上段から竹刀で打ち込むと、ゾロは慌てて後方に飛び退った。
「ほら、油断大敵だ」
「先生の卑怯者!」
「いかなる時にも剣士は隙をみせること無かれ・・・・、うちの訓示の一つだろう。さあ、鍛錬を続けなさい」
そう言い捨てると、ゾロは悔しい顔を隠そうとせずに、そのまま庭に駆け出して外の門下生の乱取りに飛び込んだ。ようやく静かになったかと思えば、今度はその門下生達から苦情が出る。ゾロの技量から見れば、その相手はもう誰も務まらないのだ。ましてや苛立ったゾロの相手をさせられる彼らにしてみればたまったものではない。
やれやれ、と私は大きな溜息をついた。
ゾロが開け放していったままの扉から外を眺める。降り積もった雪はまだしつこく地面を凍りつかせていたが、日差しは大分温かみを増してきた。冬の間、村の息吹すら押し潰していたような厚い雪雲は去り、あと数日もすれば雪に閉じ込められていた時も動き出すだろう。木々の芽吹きも、次第に目に付くようになっていた。

春が、来たのだ。
そしてそれは、おそらくゾロが待ち望んでいた春なのだろう。

庭先で、ゾロは逃げていった門下生には見切りをつけたのか、鍛錬用の丸太に対峙していた。三本の木刀を持ち、自己流の三刀流の型を繰り返し打ち込んでいる。流れるように、とは行かないが、正月に見せた「三本目は口に咥える」という方法も次第になじんできた。まだ慣れた二刀流の方が楽そうではあるものの、戦いに集中すればするほどその技の冴えが光るようになる。
そう、技量は上がった。が、しかし。
まだだ、と思う。まだ、彼は海に行けるほど強くなってはいない。

だが、ゾロはすでに旅立ちを決意してしまっていた。
この冬に、彼は、とうとうあの名を耳にしてしまったのだ。

この世界の海のどこかに、「鷹の目」と呼ばれる世界最強の剣士がいるという。
冬の間、旅の武者がうちの道場に逗留することは少なくない。彼らは雪に閉ざされたこの地で無理に歩を進めることを避け、春になるまで道場の門下生やあるいは師範役として、この道場の一員となる。
ゾロに「鷹の目」の話をしたのは、そんな武者の一人だった。世界最強を口癖にするゾロに、本当の世界最強というものを、その名とともに初めてゾロに意識させたのだ。

具体的な目標を見つけてしまったゾロを押さえ込むのは大変な苦労だった。ともすれば一人、しかもまったくの別方向へ駆けていってしまいそうになるのを抑え、まだ早い、まだそれだけの力量がないと懇々と説得する。しかしまたゾロにとって、この村にいることの意義を見失いかけていた時期でもあった。
「先生、旅立ってからすぐにその『鷹の目』に会えるとは、俺も思ってないよ」
何度目かの説得の後、拗ねたような、しかし冷静な瞳でゾロは言った。
「もしかしたら何年もかかるかもしれない。でも、その年月も俺は欲しいんだ。先生だって若い時は武者修行したんだろ? 俺も、その何年間か、この村にただいるんじゃなく、世界の強い奴と戦ってみたいんだよ」
この村にもうゾロの相手になる者がいない。もっと強い奴と戦いたい。その思いは傍からでも見て取れたし、その焦燥も私自身が何より理解できた。木や岩にいくら打ち込んでも、数人の門下生を一度に相手にしても、そんなことでは強くなる実感を得られないのだ。ゾロの技量は、すでにそんなレベルをはるかに超えていた。

だが私は、けして首を縦に振らなかった。 ゾロが騒ぎ立てる度に一つ一つ条件を出す。三刀流の型ができたら。全ての永久歯が生えそろったら。三月になれば。雪が解けて本当の春が来たら。だがそれもそろそろ限界だろう。このままでは業を煮やしたゾロが、勝手に黙って出て行くかもしれない。だが私はまだ、彼を旅立たせるわけにいかなかった。

まだ、私は彼に、教えきれていないことが、一つあるのだ。



「ゾロが駄々をこねておるそうじゃのお」
寺の住職を見舞ったのはそんな折だった。住職は去年の夏の終わりに倒れ、そのまま一日の半分を寝たきりで過ごすようになっていた。最初は軽い風邪だったらしいが、今年の冬の寒さが身にこたえたらしい。それでも寝具の中から、少々痩せたかに見える顔をほころばせて、自分が見守り育ててきた愛児の名前を出した。
「コウシロウ殿にえらく反対されたと、先だってしょげた様子でやってきおった。まあだからといって、わしが口を利いてやる、というわけではないがな」
「ご住職にも、何か言っておりましたか」
「そなたのことを、『わからずや』とか『頑固者』とかの。その場でシバに説教をくらっておったが、まあ反抗期みたいなものじゃろう。大きくなった身の丈と、成長したいという心の均衡が取れておらんのじゃ。一つのことしか見えず、それに近づけぬ己に焦っておる」
「私の指導が行き届いておりませんもので」
笑って言うと、住職も微笑んだ。
「いやいや、わしが甘やかしすぎたのじゃろうの。くいなの言う通りじゃて。・・・・まあ、その話はよい。今日そなたを呼んだのも、そのことではないのだ」
ほっほっほっと笑って、布団の上に出した白く長い髭を揺らす。その穏やかな様子に、私の頬も緩む。
「なんでしょう?」
「・・・・密猟者の話を、聞いたかの?」
住職が言う密猟者とは、冬の間に村で一騒動を起こした男の死体の話だ。 村の西にある広大な竹林の虎の毛皮を狙って、返り討ちにあったのだと、人づてに聞いていた。

その話は、私の心の深い影を引きずり出す。その影を見透かしたように、住職は息を飲んだ私の目をじっと見つめた。

「・・・・覚えておろう? そなたが若い時に仕留めた、あの大虎」
「・・・・はい」
「その時そなたが言っておったな。仕留めた虎には子がいたと。・・・・今度の大虎は、それじゃ」

ぐさり、と、胸に杭を打たれた気がした。

「そなたの言に従い、けしてあの虎が人の目に触れぬよう、人の目にあの虎が触れぬよう、竹林の奥へ入り込むのは禁忌として村の衆に言いつけていたが・・・・。どうやらその密猟者の件で、再びあの虎は人肉の味を覚えてしまったようじゃ」

・・・・もう二十年も前の、私の古傷の一つだ。住職の言葉を聞きながら、それと同時に、その話を以前ゾロに話したことを思い出していた。村人のほとんどがもう覚えていない、人喰い虎の話。今では神秘の存在として畏れられている竹林の大虎を、いたずらに怖がらせまいとゾロにもまるで別の土地の事のように話してたが。
あの子虎。サルナシの実を食べて陽気に浮かれていたあの子虎は、常に私の心の片隅であの切なげな声を上げて鳴いている。血を流して絶命した母虎に甘えるように鳴いていたあの声。その光景に耐えられず逃げ出した私の背中に響いていたあの声。
忘れようと思ってもできるわけがなく、今でも私の心を責め苛む。

あの後村に戻った私は、せめてあの子虎が母虎と同じ運命をたどらぬよう、人を近づけぬよう、人が近づかぬように当時の村人に頼み込んだ。 人と離れた存在として、その成長を、生を、人が遮ることがないように。
だが、それも。
「すでに村人の幾人かが死んだ」
住職の声が重く響く。
「筍狩りに出た者と、それを探しに出た者。昨日の朝、大怪我を負いながらも川べりまで逃げ延びた者が『大虎にやられた』とはっきり言っておったそうじゃ。・・・・その者もすぐに死んだがの」
深い深い住職の溜息は、私を責めぬかずにそのまま通り過ぎる。そのまましばらくの無言が続いた。やがて、耐え切れずに口を開いたのは私のほうだ。
「・・・・退治せねば、なりませんな」
搾り出したような声に、喉がかすれる。住職はうつむいたままそう呟いた私を見やって、「ほほ」と笑い声とも溜息ともつかぬ声を出した。
「誰がじゃ? 通常の三倍はあろうかという大虎じゃ。なまじっかな者では近づくだけで一飲みにされようぞ」
「・・・・私が」
「それこそ無理な話じゃろうて」
はっとなって顔を上げると、色素が薄い住職の瞳がまっすぐに私を捉えていた。

「そなたには出来まい。かつて出来なかったことが、時を経たからといって出来るものではなかろう」

子虎の顔が、目の前にちらついた。あの鳴き声が耳を打つ。あの声を聞きながら、震えていた私の腕。その光景からとっさに逸らした目。逃げるように駆け抜けた足。
「そなたには、な。だが責めているわけではない。それも一つの生き様。そなたの信念によるところであろう。だからこそ、今の、その姿がある」
今の、私の姿。
剣術道場の師範として子供達に剣を教え、人里離れた山奥でしかし愛するもの達と共に幸福を味わう平凡な、男の姿。かつては功名心から世界の名だたる剣豪となることを夢見、自らの力を過信して生まれ育った村を飛び出し、世界の各地をさ迷い歩いたというのに。
「しかし、そうでない道を選ぶ者もおろう」
と、廊下に面した障子に、小さく人の気配が映った。姿が見えずとも分かる。ゾロだ。
「慈悲によって虎を逃がす者もがあれば、村人の為に虎を討つ者もおろう。どちらも護るものは『生』。そして犠牲にするものも『生』。あとは選ぶだけじゃ。己が信念の道を、の」
ほほ、と住職は笑った。廊下のゾロがこちらを伺っているのが感じ取れる。私はその方向に視線を向けた。まだ幼いばかりの人影がじっと障子の向こうに控えている。
世界一の剣豪になると誓った少年。母との約束、くいなとの約束、そして私との約束を魂に刻み、海の向こうに出て行くことを望んでいる彼は、どちらを自分の道に選ぶのだろう。そして私と同じ歳になった時に、はたしてどこでどのような男の姿となっているのだろうか。
「ゾロは・・・・」
私の言葉に、ぴくりと動くゾロの気配。
「ではゾロならば果たしてどちらを選ぶでしょうか」
「うん?」
「二年程前に、私はこの子虎の母を討った話をゾロにしました。その時ゾロは、母を失った子を思って泣いておりましたよ。己の身に重ね合わせ、涙を見せず、態度も隠して泣いておりました。・・・・あの子は優しい子です。命を奪うということを、まだ知らない。強くなると言葉では言っていても、そのために多くを傷つけなければならないことを、まだ実感として持っていない。その運命に哀れみを感じ涙を流したあのゾロは、・・・・討つでしょうか。護るでしょうか。あの大虎を」
「それは、そなたが最後にゾロに教えることとなろうの」
住職は寝具の中から手を出し、ゆっくりと白い顎髭を撫でた。
「命を奪うということ。命を守るということ。あの子がこれから望んで進むべき道は、そのどちらも混在する修羅の道じゃ。奪うだけではいつか自分の身を滅ぼす。守るだけでは前に進むことが出来ん。旅立ち、一人になった時に、いざ直面するその問題に悔いなく決断できるよう、そのどちらも、教えねておかねばなるまい」
「教える・・・・」

言葉ではなく。竹刀ではなく。その試練を課すことで、私がどうしてもゾロに伝えきれていない「命のやり取り」を、教える。
彼が、本当に望むべき道へ進めるように。

住職の言葉に、私はなかなか次の句を告げなかった。それはつまり、ゾロに。
「ゾロに、大虎を討たせよ、ということですか」
住職はふいに口をつぐんだ。だがその代わりに優しげな光を灯した目で、障子の向こうで必死に聞き耳を立てているであろうゾロを見やる。その表情に、甘い甘いと言われながら彼を愛しみ育てた住職の愛情がにじみ出ていた。
「さすればそなたも安心して、あやつを海に行かせることができよう」
そして笑う。
障子の向こうで、一瞬の動揺が見て取れた。

「・・・・やはり、ご住職はゾロに甘い。結局、彼の味方をなさっていらっしゃる」
言葉に笑みを含ませて、溜息とともに私は呟いた。
「そうじゃのお。孫というものがいればあのような存在だったかもしれん。他からなんと言われようと、わしはあやつの望みならなんでも叶えてやりたい。それに、止められるものでないのなら、このまま黙って出て行かせることなく、せめて『行ってこい』と互いに笑いあって見送りたかったしの」
ふと、その表情が陰った。疲れたように目を閉じるその顔に、私は何も言うことが出来なかった。
「『お帰り』と迎えてやれるまで、おそらくわしは待ってやることができんじゃろうしのお」



住職の部屋を辞した時、廊下の奥にゾロが一人立っていた。腰には三本の真剣。うち一本はくいなの和道一文字だ。
ゾロは黙って、部屋から出てきた私をじっと見つめていた。
「ご住職は休まれたよ」
その言葉に小さく頷くが、ゾロは何も言わず、身動き一つする素振りを見せない。
「聞いていたね?」
もう一度、ゾロは頷いた。私は笑いながら溜息を一つつく。
「ここでは何だ。道場に行こうか」

今日の稽古は、全ての門下生に休みを与えていた。無人の道場に私とゾロの二人で入る。正座をして向き合い、木刀をお互いの傍らに置いた。私が一本、ゾロが三本。
張り詰めた空気の中、ただ視線を合わせ、その意思の光を探ろうとする。
「虎を、討てるかい」
私の声はひどく重く、腹の底からの心地を代弁しているかのようだった。
「はい」
そしてゾロの応えもまた重い。
「以前、話した虎だ。強い、虎だよ。だがそれを討てぬようでは、どこに旅立ったとして、剣士として世界一を目指せるものでもないだろう。・・・・技量でも、覚悟でも」
「はい。討ちます」
「・・・・命を、取れるかい」
「・・・・はい」
「・・・・取れなかった私が、言うことではないかもしれないけどね」
自嘲的な独白を笑って呟き、私はそっと傍らの木刀を手に取った。それを見取って。ゾロも三本の木刀を手に取る。二人同時に、立ち上がった。
「鍛錬や稽古でなく、君とこうやって真剣に・・・・まあ木刀だが、向かい合うのは久しぶりな気がするね」
「俺は強くなりました」
にかりと、ゾロは笑う。
「もう海にも、その先にも一人で行ける。誰でも、連れて行ける」
右手に一本、左手に一本、そして、口に一本。その構えは、自己流ながらも隙が無い。
ゾロの踏み込みを合図に、私は一刀を叩き込んだ。


一瞬だった。


痺れた私の右手から、木刀が乾いた音を立てて落ちる。

「・・・・見事なものだ」
ゾロが私の後ろで、口から柄を外した。その技、その力、そのスピード。あとは心だ。何事にも動じない、強い心。しかしそれはもう私が教えられることではない。
分かっていた。分かっていたのだ。

「・・・・雪が解けたら、竹林に行きなさい。支度を整えておこう。見事、虎を討った暁には、そのまま東の港に向かうといい」
ゆっくりと腰をかがめて、落ちた木刀を拾う。後ろを見ずに、そのまま歩を進め、道場の奥の扉を開けた。
「育てていただいたご住職と、寺の方と、村の人々への感謝を忘れずに。・・・・そしていつの日か、一度はここに戻ってきなさい」
ゾロが私を見ている。しかし私は振り向けなかった。あの強い瞳を、優しい心を、もう一度見る勇気が無い。・・・・自分の女々しさに滅入る。手塩に掛けて育てた少年の旅立ちを、きちんと見送れぬなど。もう手の届かないところへ行ってしまった教え子へ、これほどまでの寂しさを感じるなど。
最後の私の言葉は、震えを抑えるので精一杯で。
「・・・・世界一の、剣豪になりなさい」
私が望んで、届かなかったその夢に、君の母と、くいなを連れて、行きなさい。

「先生!」

怒鳴り声のようなその声に、私は反射的に振り向いた。

「ありがとうございました!!」

深々と頭を下げて叫んだ、そのゾロの声も震えている。
そして頭を上げるやいなや、風のように外に飛んでいった。



「礼を言うのは、私のほうだろう・・・・」
君が私にもたらしてくれた多くのもの。驚かされ、戸惑わされ、困らされ、そして癒されて、救われた。

行きなさい、ゾロ。春が来たのだ。君が待ち望んでいた春が。
海へ。そしてさらにその向こうへ。




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(2005.05.11)

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