辿る記憶の、先は底なし。
落ちる夢の中で、俺は繰り返し彼女を失う。
Fly to catch the moon −5−
高木樹里 様
ゾロは、ハンドを始める前は、剣道をたしなんでいた。
けれど、ある事故以来、一切止めてしまっていた。
通っていた剣道道場の娘である、くいなの死亡事故だ。
彼女は、男顔負けの実力者だった。
中学の時点で弐段の段位を得ており、兄弟子達をなぎ倒し続けてきたゾロが、唯一どうしても敵わない“姉弟子”だった。
もともと有段者で、かつて総体3連覇の偉業を成し遂げた父・ミホークの薦めで、彼の古くからの友人であるコウシロウ師範の道場に、ゾロは小学生の頃から通っていた。
『父を倒す』という目標に向け精進する中で、くいなの存在は、最初の大きな通過点であるとゾロは考えていたのだ。
道場の裏の空き地で、毎日のようにゾロはくいなに向かっていた。
その頃ゾロもすでに中学の剣道部で1年生ながら頭角を現し、その強さは県外にも聞こえていた。
しかし、彼女から1本も取れないまま全中に挑むのは、何としても納得がいかなかったのだ。
林の一角の、長い階段を上ったところにある、ごさっぱりとした広場。
そこが闘いの場だった。
いつものように防具だけ付けて、竹刀を交える。
ゾロの豪剣をかわしながら、くいなは打ち込むチャンスを伺っていた。
そして――事は起きた。
ゾロの竹刀が、ヒュッと風を切る音を立てたかと思うと、くいなの面に命中したのだ。
一瞬の隙をついた、見事な一撃だった。
面の下で、ゾロの顔が歓喜に綻ぶ。
とうとうやった、1本取ってやった――喜びに胸が膨らんで、言葉を吐き出すことができなかった。
痺れる手応えの余韻に浸っていた彼は、その時の異変に、気が付かなかった。
一撃をくらったくいなが、そのままふらふらと後ろへよろける。
おぼつかない足取りで、ずるずると後退していく。
「・・・?オイ、どうし――」
そして、くいなの足が階段を踏み外し、仰向けに倒れていくのを、彼はひどくゆっくりと見た。
危険を察知した時には、既に遅く。
ゾロの声にならない叫びは、堕ちていく彼女を引き止めてはくれなかった。
くいなの、何かにすがるように突き出した手が、生々しく脳裏に焼きつく。
階下で鈍い音が立て続けにして、少女の落下を知らせた。
両足が震え凍りつき、階段を下りるどころか、下を覗き込むこともできなかった。
脳震盪を起こしたのではないか、というのが、後に大人達が出した結論だった。
くいなの防具は、ずいぶん昔から使い込んでおり、それ故に薄く磨り減っていたり壊れかけていたりする箇所がいくつもあった。
しかし、愛着のあるそれらを捨てられない彼女は、買い換えろと口を酸っぱくして言う人々に、まるで取り合わなかったのだ。
ゾロの一打は、まさにその薄い部分に入った。それによって防具が衝撃を抑えきれず、そのショックが脳にまで達してしまったらしい。
コウシロウ師範は、「君のせいじゃない」と繰り返し優しく言ってくれた。
確かに、ゾロがわざと狙った訳でもないし、階段へ追い込んだつもりもない。
けれど、彼は我が師匠の慰めに、一度として言葉を返さなかった。
そして、通夜と葬儀を終えた後。
ゾロは、竹刀を置いた。
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(2009.02.08)