Fly to catch the moon −6−
高木樹里 様
剣道を捨ててからのゾロは、抜け殻同然だった。
ずっと追ってきた背中を失い、自分の歩んできた道を失ったのだ。
それは足を失うのと同じことだった。
現実感のない毎日。
砂時計のようにさらさらと一定に流れず、水飴みたいにボタボタと塊で時間が過ぎていくような昼間。
そして、眠れない夜――
とうに知っていた筈だった。
彼にとって剣道とは、生活の大部分を占める、自身の一部だったのだ。
捨てられる訳がない。
けれどもう、その道には戻れない。
無意味なだけの日々を、ただ過ごしていた。
そんなゾロを引き上げてくれたのは、他でもないルフィとナミだった。
生きる意味を見出せなくなっていた彼に、変わらない笑顔で、手を取って。
足を止めるなと導いてくれた。死にかけた感情に息吹を吹き込んでくれた。
だからゾロは、どれだけ2人に振り回されようと、結局、許してしまうのだ。
進む道をなくしたあの頃の自分を、受け止めてくれたから。
海のように、大きく、広く。
それでも。
彼の中で、まだあの記憶に向き合うことは、できないでいた。
ランニングから帰り、自室に戻る。
放り出した鞄や自主練習用に買ったボールと同じように、それはそこに、まだ在る。
部屋の一角に、立て掛けられたそれ。
分厚いカバーのてっぺんは、うっすら埃を被っていた。
ずっと使っていた、愛用の竹刀だ。
恐る恐る、取り出して手に取る。
数年ぶりの重みと感触に、胸がじんとした。
ゆっくり、確かめるように握り直してから、ゾロはスウェットのまま家を飛び出し、海岸へとひた走った。
かつては毎朝していた、この片瀬海岸での素振り。
1日置かずに積もっていった記憶は、これだけのブランクが空いてなお、昨日のことのように甦る。
思わず、ぶん、と勢いよく降ってみた。
突然、背後で声がした。
「久しぶりね、あんたが海岸で素振りしてるの」
反射的に、竹刀を背に隠した。
高いソプラノの声は、あの黒髪の姉弟子のもののように思えたのだ。
夕日に照らされているのは、空と同じオレンジ色の髪だった。
「・・・ナミか・・・」
「やっぱり剣道、再開してたんじゃない」
当然の言葉に、ゾロは慌てて首を振る。
「違う。これは・・・ちょっと出来心で・・・」
弁解めいた返答に、ナミは呆れ声になった。
「あんた、こんだけ経ってまだ責任感じてるって言うの?」
ゾロは、ぐっと唇を噛んだ。
「・・・時効だなんざ、言いたくねぇ」
ナミは、ふぅ、と溜め息をついた。
「いつになったら、解放されてくれるの」
ゾロは俯いたままで何も答えない。
「・・・見てられないのよ」
ナミの声は、どこか悲しそうだった。
「何も悪くないあんたが、苦しんでるのは」
「違う!!」
少年の低音の大声が海に響いた。
「違う!俺が殺した、俺が、俺のせいで死んだ!」
「・・・そんなこと言うのはあんただけよ、あの時から、ずっと」
「何でだ!!誰も恨まねぇ、誰も責めねぇ!俺があいつの未来を奪ったんだ!!あいつはもっと上に行けた、あいつの可能性を奪ったのは俺だ!!」
砂浜に膝をつき、ナミの上着の裾をつかんで悲痛な告白を叫ぶゾロ。
痛ましい声音は、未だ過去の傷跡から血が流れ続けていることをまざまざと示していて。
「・・・奪うつもりなんて欠片もなかったんでしょう」
「だから何だ!!俺が死なせたんだ!!落ちていくあいつを引き上げてもやれなかった!俺じゃなかったら何だって言うんだ!」
「・・・ねぇ、ゾロ」
ナミの囁きは、もの柔らかだった。
「くいなさんだって、きっとゾロにそんな風に思っていてほしくはない筈よ。・・・それじゃ、くいなさんも浮かばれないわ」
少年の拳が震える。
ナミを見上げるその表情は、痛々しく、情けなくて。
ゾロのこんな顔を、彼女は知っていた。
ずっと一緒だったのだ。物心つくそのまた前の、ずっとずっと幼い頃から。
いつの間にか大きく広くなった彼の背が、今はとても小さくて。
ナミは、翡翠の頭を、その胸に抱きしめた。
「ゾロはもう、いつ道場に戻ってもいいと思うよ」
「いや・・・まだ、行かねぇ」
ゾロはまだ、俯いたままではあったが。
その声は、どこか吹っ切れたように、しっかりしていた。
ひたむきに竹刀を振っていた頃の、ゾロの声だった。
「親父を倒すっていう目標は果たさないままだから、いずれは剣道を再開する。けど、まだ時期じゃねぇ」
「時期?」
「その前に、やるべきことがあるんだ」
翠色の両眼は、海の向こうをひたと見据えていた。
「お前らと、ハンドボールで勝つことだ」
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(2009.02.08)